J.E.ミレーの『オフィーリア』が与えた影響、J.W.ウォーターハウス、1855年パリ万国博

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英国テート・ブリテンにあるミレーの『オフィーリア』。

モデルとなったリジー・シダルは1855年のパリ万博でこの絵を観ました。

後世の画家に大きな影響を与えた入水するオフィーリアの姿と、レッドグレイヴ、ドラクロワ、ヒューズ、ウォーターハウスの絵画を掲載しました。

『オフィーリア』 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー テート・ブリテン蔵
『オフィーリア』 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー テート・ブリテン蔵

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目次

『オフィーリア』( Ophelia ) 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー

『オフィーリア』 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー テート・ブリテン蔵
『オフィーリア』 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー テート・ブリテン蔵

引用元:『オフィーリア』

顔の横に、首の回りに、彼女自身を飾るように花が水面に浮かんでいます。

バラは“若さ、美貌”を、
忘れな草は“思い出”を、
ひな菊は”純潔”を、
パンジーは“叶わぬ恋”を、
ケシは“死”を、
スミレは“誠実、早死”を

オフィーリアに相応しい花言葉が散りばめられています。 

萌え出た草の新鮮な緑と春のアネモネは、オフィーリアの頭部に不気味に覆いかぶさる朽ちた柳の幹と対照的に描かれる。胸毛の赤さゆえに受難のキリストの血を象徴する、といわれるコマドリが一羽、木の枝に止まっているのは、死せる乙女に救済が約束されていることを示している。

(『水の女』 トレヴィル(発行)リブロポート(発売))

 コマドリは絵の左端の枝に止まっています。

『オフィーリア』 1851年頃 ジョン・エヴァレット・ミレー テート・ブリテン蔵
『オフィーリア』 ジョン・エヴァレット・ミレー

引用元:オフィーリア(頭部を拡大) Sailko CC-BY-3.0

『オフィーリア』の制作

イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレーのために、リジーことエリザベス・シダル (シッダルとも表記)がモデルを務めた唯一の作品が、この『オフィーリア』です。

リジーはレスター・スクウェアの婦人帽子店に勤めているとき、ウォルター・ハウエル・デヴェレル(デヴァレルとも表記)にスカウトされ、デヴェレルやロセッティらのモデルとなりました。

結核性の病気のため、いつも青白い肌に、うっすらと赤味をさした繊細な美女であった。

(『宿命の女 愛と美のイメジャリー』 松浦暢(著) 平凡社 P189)

ミレーはリジーに古着屋で買ってきた衣裳を着せ、湯を張ったバスタブに浸からせました。

そしてバスタブの下からランプで湯を温めていたのですが、絵に夢中になるあまり火が消えたことに気付かず、リジーはひどい風邪を引いてしまいました。

リジーの父親はミレーの元に怒鳴り込み、治療費を払わないと裁判に訴えると言ったそうです。

『ハムレット』の第四幕七場で王妃は、一本の柳が鏡のような流れに垂れかかる処に、きんぽうげ、いら草、雛菊などの花環を持ったオフィーリアがやって来て、枝に花環を掛け損ねて小川に落ち、衣裳が拡がって人魚のように浮き、古い唄を口ずさみ、やがて沈んで泥にまみれて死んでしまった、と告げる。

ミレーの絵はまさにこの通りで、水に浮く乙女、樹木や草花の細部まで入念に描かれている。彼はこの情景を求めテムズの上流に出かけ、傘をさし僅かな日陰で11時間も描く。「風に煽られて川に落ちかかり、泥まみれで沈んだオフィーリアの気持ちが通じたよ」と述懐している。ひどい目にあったのはモデルのリジー・シッダル、後のロセッティの妻で、着衣のまま浴槽につからされ、肺炎を起こしかけた。どこか能面のようなオフィーリアの表情は、リジーを見殺しにしかけて描いたわけで、その頭部のスケッチも残っている。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P27)

1992年の「西洋絵画のなかのシェイクスピア展(1992-93)」ではこの習作が来日しています。

オフィーリア頭部・習作 バーミンガム市立美術館蔵
オフィーリア頭部・習作 バーミンガム市立美術館蔵

引用元:オフィーリア頭部・習作

しかしこの習作は明らかに苦痛の少ない状況で描かれている。モデルはおそらく寝椅子に横たわっているのだろう。これは1851年12月6日から1852年3月6日の間に描かれたにちがいない。すなわち、ミレーがユーエル(サリー州)のウースター・パーク・ファームで本作の背景を描き終え、そこから戻ったときから、油彩の頭部を完成したときの間である。

「西洋絵画のなかのシェイクスピア展(1992-93)」

「オフィーリアの死」の場面

オフィーリアの死は、王妃の台詞によってのみ語られ、舞台で演じられることはありませんでした。

それだけに画家たちは自由に想像を働かせることができ、

画家の想像の余地はそれだけ大きいわけで、19世紀にはフランスのドラクロワを含む多くの画家が、さまざまなオフィーリアを描いた。その中でミレイの作品がとくに強烈な印象を与えるのは、オフィーリアが「川面をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の迫るのも知らぬげに」(福田恆存訳)という情景を、映画的リアリズムで表現したことによる。

(『イギリス美術』 高橋裕子(著) 岩波新書 P132)

『花環を編むオフィーリア』( Ophelia Weaving Her Garlands ) 1842年 リチャード・レッドグレイヴ

リチャード・レッドグレイヴ(レッドグリーブとも表記、Richard Redgrave, 1804年4月30日-1888年12月14日)

『花環を編むオフィーリア』 リチャード・レッドグレイヴ ヴィクトリア&アルバート美術館蔵
『花環を編むオフィーリア』 リチャード・レッドグレイヴ ヴィクトリア&アルバート美術館蔵

引用元:『花環を編むオフィーリア』 ヴィクトリア&アルバート美術館蔵

頭には花環の冠を、手にはケシ(死)などの、彼女を表す花言葉を持った花を持ち、更に左手の薬指には葉で作られた指輪をしています。

イギリスの画家リチャード・レッドグレイヴのオフィーリアは、白いドレスを着て、何処か別の世界を見ているようです。

ヴィクトリア女王がこの絵を絶賛した2年後(1859年)、『美術ジャーナル紙』は、

「その姿は詩人の産んだ人物の驚く具現化であり、また風物も細部への洗練された配慮をもって描かれており、昨今ならさしずめ『ラファエル前派的』とよばれることであろう」と論評した。

(「西洋絵画のなかのシェイクスピア展」(1992-93)) 

『オフィーリア』( Ophelia ) 1852年 アーサー・ヒューズ

アーサー・ヒューズ(Arthur Hughes, 1831年1月27日-1915年12月23日)

『オフィーリア』 68.7 cm×123.8 cm 1852年 アーサー・ヒューズ マンチェスター市立美術館蔵
『オフィーリア』 1852年 アーサー・ヒューズ マンチェスター市立美術館蔵

引用元:WIKIART Ophelia(Public domain)

鳥海久義氏は 著書『ラファエル前派と世紀末』の中で、ミレーの絵には「狂気が欠けている」とし、狂女となったオフィーリアを描いたアーサー・ヒューズの作品を挙げています。

淀んだ水面に花を散らす、頭に被った冠と青白い肌色がとても印象的です。

ヒューズの絵もミレーの作品と同じ1852年のロイヤル・アカデミー展に出品されました。

『西洋美術101鑑賞ガイドブック』(三元社)では、P114-P115に、ミレーとヒューズの『オフィーリア』が掲載されています。

また、『水の女』(トレヴィル(発行)リブロポート(発売))も美しい「オフィーリア」がいっぱいです。

残念ながら一点一点の絵に対する説明はありませんが、水に棲む女の美の世界に浸ることができる一冊です。 

『オフィーリアの死』( The death of Ophelia ) 1853年 ウジェーヌ・ドラクロワ

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ ( Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日-1863年8月13日)

『オフィーリアの死』 1853年 ウジェーヌ・ドラクロワ ルーヴル美術館蔵
『オフィーリアの死』 1853年 ウジェーヌ・ドラクロワ ルーヴル美術館蔵

引用元:『オフィーリアの死』

シェイクスピア好きのドラクロワは他にも、『ハムレット』や他のシェイクスピア作品に関する絵画を描いています。

ミレーの『オフィーリア』の影響

 狂気は別としてミレーの《オフィーリア》は二つの功績を生み出した。一つは花に囲まれた乙女の眩い描出法、もう一つは水死の場面である。ミレーやハントは色を濁らさず光沢を得るために苦心した。白の下地をのばし、乾かぬうちに七宝焼きのように明確な輪郭を決め、固有の色を塗りこめる。修正すれば光を失うし、乾いた時の色彩効果を計算しておかねばならない。一度に描ける範囲は限られ、完成に時間を要し大作には向いていない。しかし出来あがると下地が鏡のような役を果たし画面に眩い光沢を与えることが出来た。その色彩の明るさこそがラファエル前派を印象づけた。

もう一つの点、オフィーリアの水死の場面というのはミレーが最初らしい。意表をついた主題はヴァリエーションを生み、アーサー王伝説のアストロットの乙女エレインや、テニスンの『シャロットの乙女』の、小舟に乗った水葬の乙女像が数多く描かれて今世紀に及ぶ。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P27)

『イレイン』( Elaine ) 1867年 ギュスターヴ・ドレ

『イレイン』 1867年 ギュスターヴ・ドレ
『イレイン』 1867年 ギュスターヴ・ドレ

引用元:イレイン

『赤毛のアン』で、アンが真似るのがこの女性。

イレイン他、エレーン、エレインとも表記されます。

『シャロットの乙女』( The Lady of Shalott ) 1888年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス( John William Waterhouse, 1849年4月6日-1917年2月10日) 

『シャロットの乙女』 1888年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス テート・ブリテン蔵
『シャロットの乙女』 1888年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス テート・ブリテン蔵

引用元:『シャロットの乙女』

中世の趣を纏う『シャロットの女(乙女)』です。

1886年に開催されたミレーの回顧展で『オフィーリア』を目にしたウォーターハウス。

その影響を受けて描かれたのが、『シャロットの乙女』でした。

『シャロットの乙女』はウォーターハウスの代表作とも言える作品で、ミレーの『オフィーリア』と同じ、ロンドンのテート・ブリテンで観ることが出来ます。 

乙女は自分の運命に抗うようにひとり小船に乗り、恋しいランスロット卿の元に遺骸となって辿り着く、という結末を迎えます。

また、ウォーターハウスは『オフィーリア』も描いています。

『オフィーリア』 1889年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 個人蔵
『オフィーリア』 1889年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 個人蔵

引用元:『オフィーリア』(1889年)

『オフィーリア』 1894年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 個人蔵
『オフィーリア』 1894年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 個人蔵

引用元:『オフィーリア』(1894年)

『オフィーリア』 1910年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス Andrew Lloyd Webber Collection蔵
『オフィーリア』 1910年 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス Andrew Lloyd Webber Collection蔵

引用元:『オフィーリア』(1910年)

 1886年にジョン・エヴァレット・ミレー(1829~1896年)の名作《オフィーリア》(1851~1852年)がロンドンのグローブナー・ギャラリーで展示されたのをウォーターハウスが見て、19世紀半ばにラファエル前派の画家たちが目指した絵画の革新運動の意義に遅ればせながら目覚めたといえるだろう。終生ロイヤル・アカデミーに所属した画家でありながら、「ラファエル前派第三世代」と称されるウォーターハウスの特徴がこの頃から目立ってくる。40歳代を目前に控えての新たな展開であった。

川端康雄(監修・著). 加藤明子(著). 2015-3-31. 『ウォーターハウス 夢幻絵画館』. 東京美術. p.37.

1855年9月のパリ万国博覧会

ミレーは、自身の恩人ジョン・ラスキンの妻エフィと恋に落ち、エフィは1854年にラスキンと離婚します。

ミレーとエフィは翌年の1855年に結婚しました。

その少し前の1853年暮れのこと。

ロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれたことで、ミレーはラファエル前派から距離を置いていました。

ジョン・エヴァレット・ミレー(1854年)
ジョン・エヴァレット・ミレー(1854年)

引用元:ミレー 1854年頃の写真

評論家ジョン・ラスキン(1819年-1900年) 1850年代の写真
評論家ジョン・ラスキン(1819年-1900年) 1850年代の写真

引用元:評論家ジョン・ラスキン

エフィー・グレイ(Effie Gray, 1828年-1897年) 1853年 ミレー画
エフィー・グレイ(Effie Gray, 1828年-1897年) 1853年 ミレー画

引用元:エフィー・グレイ

ミレーに妻を奪われたラスキンはロセッティに関心を移します。

「ベアトリーチェ」に傾倒するロセッティの絵画を買い上げ、追加注文を出して生活の苦しいロセッティを助けます。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ (1828年-1882年) 1860年代 メトロポリタン美術館蔵
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ (1828年-1882年) 1860年代 メトロポリタン美術館蔵

引用元:ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

ロセッティの内縁の妻だったリジーは既に結核に侵されていましたが、絵の才能のあったリジーの作品を買い上げ、芸術家として暮らせるようにと金銭的な援助をしました。

エリザベス(リジー)・シダル(1829年-1862年) 1860年頃の写真
エリザベス(リジー)・シダル(1829年-1862年) 1860年頃の写真

引用元:エリザベス(リジー)・シダル(1829年-1862年)

リジーの自画像 1853年と1854年の間 個人蔵
リジーの自画像 1853年と1854年の間 個人蔵

引用元:リジーの自画像 1853年と1854年の間 個人蔵

さてラスキンは、リジーを静養と絵の勉強を兼ねてパリ、南仏へ行かせる。ラスキンが出した費用の一部を着服したロセッティも、パリまでついて行く。1855年9月、パリ万国博にミレーやハントの絵が展示されていた。リジーは自分がモデルの《オフィーリア》を、どういう気持ちで眺めただろうか。師ロセッティの絵はない。

(『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社 P50)

ミレーだけでなく、ロセッティの友人でもあったハントの絵もあるのに、ロセッティの絵はありません。

画中には、小川に横たわる若く美しい自分がいます。

本当にどんな思いで、リジーは飾られた『オフィーリア』を観たのでしょうか。

ミレーの『オフィーリア』は後世の画家たちに大きな影響を与え、リジーの姿は人びとの記憶に永遠に刻まれました。

主な参考文献
  • 『水の女』 トレヴィル(発行)リブロポート(発売)
  • 『ラファエル前派と世紀末』 鳥海久義(著) 評論社
  • 『宿命の女 愛と美のイメジャリー』 松浦暢(著) 平凡社
  • 『イギリス美術』 高橋裕子(著) 岩波新書
  • 「西洋絵画のなかのシェイクスピア展」(1992-93)
  • 川端康雄(監修・著). 加藤明子(著). 2015-3-31. 『ウォーターハウス 夢幻絵画館』. 東京美術.
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コメント

コメント一覧 (8件)

  • こんにちはー。
    いやいやいやいや、全然ですよ(汗だくだく)!
    いつも書き足りないけど、これ以上広げては超長くなるし全く収拾がつかなくなるなと思い、テーマを小さく絞っていますが、やっぱり絞り切れず、これだと説明不足かな、と思っています。でも、気分だけでもそう仰っていただくと、超嬉しいです。有難うございます(涙)。
    連載ではないので、どの記事から見ていただいてもいいようにしているつもりです。不足している説明分についてはまた改めて載せます。
    またお付き合いいただけると嬉しいです。
    有難うございました。

  • こんにちはー。
    昔は、いろんな話の場面を自由な解釈で描けていたんですね。だから、同じ主題でもかなり違った趣の絵をたくさん見ることが出来るんですね。見ていて楽しいです。
    ハンナさんの説明も、絵が描かれた背景などが分かりやすくて『美の巨人たち』を見ている気分です。(^^)/

  • yoro-schon様
    こちらこそいつも有難うございます。
    19世紀後半のパリ万博に行ってみたい、といつも思います。
    きっと多くのひとが、この絵に切ないものを感じているのでしょうね。

  • おはようございます。ヨロシャンです。いつもコメントありがとうございます。個人的にはパリ万博には何かと縁があるようです。この絵画はせつない気持ちになりますね。

  • schun様
    コメント有難うございます。恐縮です。
    少しでも「面白い」と感じてくださるなら、記事を書いた甲斐があるというものです。
    1855年のパリ万博でも『オフィーリア』は好評だったと言いますし、当時ドラクロワ以外にも多くのフランスの画家がオフィーリアを描いています。
    ドラローシュの『殉教者』を観たひとはミレーの「オフィーリア」を連想したのではないでしょうか。思い入れのあるオフィーリアと殉教者ですが、一つの記事には載せきれないため、分けてみました。
    またどうぞよろしくお願い致します。

  • こんばんは!!
    ミレーは、落ち穂拾いや種をまく人を描かれたジャン=フランソワ・ミレーしか知らなかったです。この絵の存在感はすごいですね。
    この絵が与えた影響などがわかりやすく絵も交えながらまとめられていてとっても勉強になりました!!

  • まーたる様
    私の中でオフィーリアといえば、やはりこの絵が浮かびます。
    20代の頃、どうしてもナマでこの絵を観たくて、ロンドンに行きました。現地で実際に観た時は本当に感激でした。
    その後何度か足を運ぶ機会があり、遊学先から日本に帰って来る時もちゃっかりロンドン経由にして、オフィーリアとシャロット姫を堪能してきました。
    ヒューズやウォーターハウスの絵も大好きですが、この絵にはいろいろな思い出もあって別格なのですね。
    まーたる様もこの絵をお好きだと知って嬉しいです。

  • こんばんは❗️
    ミレーのオフィーリアの絵が完成するまでにいろんなことがあったのですね。
    初めて知ることばかりで、ますますこの絵が好きになりました。
    そのことを思い出しながら観るとまた違ったオフィーリアを感じることができます。
    作者によってオフィーリア像がずいぶん違うんだなぁと思います。
    ミレー自身の話も初めて知りました(´⊙ω⊙`)
    ハンナさん、ロンドンまで観に行かれたんですよね(*´꒳`*)
    本物を観たら息を飲んで観てしまいそうです(*´∀`*)

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