19世紀の歴史画に描かれたカスティーリャ「狂女王」フアナ

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神聖ローマ皇帝カール5世の生母、15~16世紀のカスティーリャ女王フアナを描いた19世紀の絵画で、その人生を辿ります。

『狂女王フアナ』 1877年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
『狂女王フアナ』 1877年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
目次

カスティーリャ女王フアナ( Juana, 1479年11月6日-1555年4月12日) 

フアナ(1479年11月6日-1555年4月12日) 1495-1496年頃 美術史美術館蔵
カスティーリャ女王フアナ 1495年-1496年頃 美術史美術館蔵

引用元:カスティーリャ女王フアナ

「狂女フアナ」(Juana la Loca)としても知られ、その狂気が後世の画家によってドラマティックに描かれている女性です。

1500年頃に描かれたフアナ フアン・デ・フランデス画 美術史美術館蔵
1500年頃に描かれたフアナ フアン・デ・フランデス画 美術史美術館蔵

引用元:フアナ

フアナの家族

フアナは1479年11月6日、コロンブスの支援者だった「カトリック両王」の3番目の子どもとして、カスティーリャ王国で生まれました。

母はカスティーリャ女王イサベル1世、父はアラゴン王フェルディナンド2世です。

カスティーリャ女王イサベル1世(1451年4月22日-1504年11月26日) 1490年頃 プラド美術館蔵
カスティーリャ女王イサベル1世(1451年4月22日-1504年11月26日) 1490年頃 プラド美術館蔵

引用元:カスティーリャ女王イサベル1世

アラゴン王フェルナンド2世(1452年3月10日-1516年6月23日) 15世紀末-16世紀初頭 ミケル・シトウ 美術史美術館蔵
アラゴン王フェルナンド2世(1452年3月10日-1516年6月23日) 15世紀末-16世紀初頭 ミケル・シトウ 美術史美術館蔵

引用元: アラゴン王フェルナンド2世

イサベル1世は大変聡明な女性、難攻不落なグラナダを落としたフェルナンド2世は「アラゴンの狐」と呼ばれるほど知恵の回る男性です。

レコンキスタ(国土回復運動)達成により、ふたりは教皇アレクサンデル6世から「カトリック両王」の称号を授けられました。

アレクサンデル6世 クリストファノ・デル・アルティッシモ画 ヴァザーリの回廊
アレクサンデル6世 クリストファノ・デル・アルティッシモ画 ヴァザーリの回廊

引用元:アレクサンデル6世

フアナの妹に、ヘンリー8世の最初の妃となったキャサリン(スペイン語名はカタリーナ)がいます。 

王女時代のカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン) 1496年頃 フアン・デ・フランデス ティッセン=ボルネミッサ美術館蔵
王女時代のカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン) 1496年頃 フアン・デ・フランデス ティッセン=ボルネミッサ美術館蔵

引用元:王女時代のカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)

母イサベルは娘たちに音楽や踊りは勿論、糸紡ぎ、機織り、パン焼きなどの家事も教えました。

読書好きでおとなしいフアナはラテン語や踊りに秀で、姿も美しく、

「まだ、十六歳だというのに大人の女性の気配を漂わせている。整った姿の持ち主であり、顔は卵型で額ははっきりしている。髪はうなじのところでまとめて三つ編みにしている。首は優雅に細く、胸はふくよかだがそれを衣服で包み隠していた。それが、きちんと教育された女性には、当然のことだったからだ」

西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. p.45.

と評されました。

兄妹たちの二重結婚(フアナとフィリップ、フアンとマルグリット)

1496年10月20日、フアナはブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公、 1478年7月22日-1506年9月25日)と結婚します。

ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公、Philippe le Beau, 1478年7月22日-1506年9月25日)

フィリップ美公 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵
フィリップ美公 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵

引用元:フィリップ美公

フィリップ美公は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男で、母譲りの美貌を持つ青年でした。

フアナの兄フアンの結婚相手は、そのフィリップ美公の妹マルグリット(ドイツ語名はマルガレーテ)。

対フランス政策のための、スペインとオーストリアを結ぶ二重結婚でした。

マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d’Autriche, 1480年1月10日-1530年12月1日)

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ 

嫁入り先であるフランドルの地に到着したフアナを待っていたのは、マルグリットでした。

この頃、幼い頃からのフランスでの人質生活を終えたマルグリットは故郷に戻っていたのです。

新郎のフィリップが姿を見せなかったことにフアナはがっかりしましたが、マルグリットは習得したスペイン語で義姉を温かく出迎えます。

マルグリット自身、この艦隊で新郎フアンの待つスペインに渡ることになっていたのです。 

アストゥリアス公フアン  15世紀
アストゥリアス公フアン  15世紀

引用元:フアン

マルグリットの結婚

健康的で愛らしいマルグリットにフアンは夢中になり、義理の両親となったイサベルやフェルナンドは彼女を実の娘のように可愛がります。

しかし、病弱だったフアンは結婚から半年後に19歳という若さで亡くなり、マルグリットのお腹の子どもは死産でした。

イサベルはマルグリットにスペインに留まるように勧めますが、夫も子どもも失ったマルグリットには留まる理由が無くなってしまいました。

イサベルの誘いを断り、神聖ローマ皇帝である父マクシミリアンの元へ帰ります。 

フィリップと対面

フランドルに着いたフアナはイサベルの言いつけ通り、女子修道院に腰を落ち着けました。

7日経ち、待ちに待ったフィリップがやって来ます。

父マクシミリアンの代理で主催していた議会が終わると同時に、花嫁会いたさに馬を飛ばして来たのです。

異国から来た美しい花嫁を気に入ったフィリップは対面して数時間後、もう今日結婚式を挙げると言い出しました。

「司祭を呼んで来い」と言うフィリップに、女子修道院長は慌てます。

この結婚は、王家と王家、国と国との結びつきなのです。

しかし、フィリップに魅せられたフアナも同意し、寝ていた司祭が起こされて連れて来られ、結婚式が執り行われました。

フアナ16歳、フィリップ17歳でした。

語学が堪能で美しいフアナはフィリップの自慢でした。

1498年に最初の子レオノールが生まれ、フアナは乳母に任せることはせず、自ら母乳を飲ませます。

1500年には待望の長男カール(ドイツ語読みでカール、フランス語読みでシャルル、スペイン語読みでカルロス)が誕生しました。

激しい恋に落ちたふたりでしたが、フィリップは元々傲慢で享楽的な遊び人。

フアナの父フェルナンドは浮気性でも、妻であるイサベルを深く愛していました。

フィリップも最初のうちは良かったのですが、次第にフアナに飽きてしまうのです。

カスティーリャ王位をめぐり夫と父が対立

1497年、フアナの兄フアンが亡くなります。

懐妊していたマルグリットも男児を死産。

翌1498年には、フアンの姉でポルトガル王マヌエル1世妃イサベルも死去。

更に1500年にはその子どもであるミゲルも、2歳になる直前に亡くなってしまいます。

王国の後継者を次々に失って悲しみに暮れるカトリック両王は、次のカスティーリャの王位継承者としてフアナを呼び戻すことにしました。

喜んだのはフィリップです。

現在のブルゴーニュ公の称号に加え、「カスティーリャ王位」も手に入りそうなのです。

しかし、フィリップが実は「親フランス派」であること、勝手にスペインの後継者を名乗ったことがアラゴン王フェルナンド2世の耳に入り、大いにその顰蹙を買ってしまいました。

フアナの出産も重なり、ハプスブルク家の宿敵であるフランスを通過してフアナとフィリップがスペインの地を踏んだのは1502年のことでした。

既にフアナにはカスティーリャ女王になる決心がついていました。

3人の子の母となっても彼女はフィリップを熱愛していましたが、故国も両親のことも愛していたのです。

体調のすぐれなかった母イサベルは喪服を脱ぎ、親子が再会した宮廷には久しぶりに明るさが戻ってきました。

しかし、そこにまた新たな訃報がもたらされます。

ヘンリー7世の王子で、イングランドに嫁いだカタリナの夫、アーサーが15歳で急死したのです。

イングランドでは後継者を失ったヘンリー7世夫妻も悲しみの底にありました。(カタリナは後に、アーサーの弟ヘンリーと婚約、結婚します。) 

カスティーリャに残されるフアナ

カトリック両王は娘の夫であるフィリップの軽薄な性格を見抜いていました。

一方、辛気臭いスペイン宮廷に嫌気が差していたフィリップ。

父や舅たちと異なりフランスと結びたい彼は、妊娠中のフアナを置いて、ひとりフランドルに帰ってしまいます。

(ブルゴーニュといえば現在はフランスですが、この当時はハプスブルク領です。

しかし、気候も陽気な雰囲気もフランスと通じるものがありました。

禁欲的なスペインの宮廷とは大きく違っていたようです。)

「女がいるのではないか」「浮気しているのではないか」

フアナは激しい猜疑心に苛まれるようになっていきます。

「歩いてでもフランドルへ帰る」と狂ったように叫ぶ娘を母イサベルは「妊娠中だから気が立っているのですよ」と宥めますが、実はその姿に自分の母親を重ねていました。

幽閉先の地名を取って「アレバロの狂女王」と呼ばれるほど、常軌を逸した行動を取るイサベルの母。 

イサベル自身に狂気は出ませんでしたが、その芽は娘のフアナに受け継がれていたのです。 

この先ご覧いただく絵画は、「歴史画」と呼ばれるジャンルの、後世の画家が描いた歴史上の出来事の絵です。 

『イサベルの母の狂気』 1855年 ペレグリ・クラベ・ロケ 

『イサベルの母の狂気』 1855年 ペレグリ・クラベ・ロケ
『イサベルの母の狂気』 1855年 ペレグリ・クラベ・ロケ

引用元:『イサベルの母の狂気』

母に寄り添う子ども時代のイサベル女王とその弟を描いた歴史画です。 

夫を追ってフランドルへ戻る

1503年3月、フアナは次男のフェルナンド(ドイツ語名はフェルディナンド)を無事出産します。 

次女王としてここに留まって欲しいというイサベルの願いには耳を貸さず、生まれたばかりのフェルナンドも置いて、彼女はフランドルに戻って行きました。

そこで彼女はフィリップの浮気の相手を見てしまいます。

フアナは手にした鋏で彼女の髪を切り落とし、それだけでは足らず、その頬にも切り付けて傷を負わせたのです。

小部屋に監禁されたフアナは頭を壁に打ち続け、フィリップは彼女を部屋から出さないよう指示を出します。

「もうお前とは寝てやらぬ!」という彼の言葉にフアナは泣き続けました。

『イサベル女王の遺言』 1864年 エドゥアルド・ロサレス

『イサベル女王の遺言』 1864年 エドゥアルド・ロサレス  プラド美術館蔵
『イサベル女王の遺言』 1864年 エドゥアルド・ロサレス  プラド美術館蔵

引用元:『イサベル女王の遺言』

1504年、ついにイサベル女王の命が尽きるときが来ました。

イサベルの遺言は、

「王位はフアナに継承する。

フアナの夫フィリップは、フアナの配偶者としての地位を有する。

フアナがスペインに不在のとき、または、健康上の理由でスペインの統治が不可能なとき、カルロス(シャルル、カール)が20歳に達するまで、フェルナンドが摂政としてカスティーリャを統治する」

というものでした。

外国人であるフィリップは「フアナの夫」に過ぎず、カスティーリャ王位に就くことはできません。

父フェルナンドも「カスティーリャ王」にはなれません。

彼はアラゴンの王ではありますが、カスティーリャはイサベルの王国です。

カスティーリャで多くの時を過ごし、法を整備し、国力を大きくしたのは彼の功績ではありましたが、イサベルが彼を後継者に指名しなかった以上、彼が王位を有するのはアラゴンだけなのです。

中央に白い衣服でベッドにもたれ掛かっているのが、この絵の主役のイサベル女王、ここはメディ―ナ・デル・カンポのモタ城です。以前には、イサベル女王はモタ城で亡くなったとされていました。だから、この絵の舞台はモタ城なのです。今まさに死なんとしている女王の横たわるベッドには、天蓋がかかっており、その端には、カスティーリャの国を表す盾が縫いつけられています。二つの背の高い枕にもたれ掛かり、彼女特有のヴェールが胸まで覆っています。そして胸の上には、巡礼者の印である貝殻と、サンティアゴ騎士団の十字架をかけています。今、彼女の最後の意志を伝えようと右手を伸ばして指図をしようとしています。ベッドのこちら側で、斜めになった机の前に座り、イサベル女王の言葉を書き留めようとしているのが、女王付きの公証人です。絵の左端に、小さなオイル・ランプが灯を灯している、小さな祈祷室があり、そこに背を向けて座っているのが、フェルナンド王。心はかき乱され、その姿は後悔しているように見えます。視線はぼんやりと宙を見つめ、その自分の腕の重みをすべて椅子の腕に投げかけ、足はビロードの絨毯の上に投げ出しています。その横に、手を合わせて視線を下に向けて立っているのが、娘のフアナ。ベッドの足下には、イサベル女王に仕える宮廷の貴族たちがいます。先頭にいるのが、トレドの枢機卿であるシスネーロ、彼は常に身に纏っている権威ある服装をしています。ベッドの後ろにも人影があり、天蓋の陰には、彼女が最も信頼していたモヤ侯爵がいます。そしてベッドの向こうの薄暗い背景にある時計は女王の臨終の時を正確に刻んでいるのです。

西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. pp.129-130.

 ※文中「シスネーロ」となっていますが、恐らく後で出て来る「シスネーロス」だと思われます。

Francisco, Cardinal Jiménez de Cisneros( 1436年カスティーリャ生まれ-1517年11月8日死亡) 

本書では画家ロサレス自身の言葉も紹介されていますが、ここではその一部をご紹介します。

「(略)

 シスネーロスの横顔は天蓋のカーテンから見事に切り取られ、その痩せた様子から彼の年齢が伺え、そのことが、誰もが知っている、彼の性格である意志の強さ、現在覇権の中央に位置していること、洞察力のある抜け目のない政治家であることを、表している。

 最後に、カーテンの向こうの深いところに、小心そうに顔を覗かせているのがモヤ侯爵で、彼が身分の低い、女王の使用人であることを表している。しかも大胆にぼやけた顔立ちは、誠実な人柄と女王に傾倒していることを表している」

西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. p. 131.

ところで、この絵にはおかしい箇所があります。

そう、フアナがいることです。

フアナはフランドルの宮廷にいて、母の臨終には立ち会えませんでした。

不在だったフアナを敢えて配置することで、彼女の王位継承を示唆し、彼女の戸惑い、フェルナンドの失望を表現したようです。 

夫フィリップと父フェルナンドの思惑

「ずる賢いアラゴンの狐」フェルナンド王はカスティーリャの貴族には不人気でした。

彼らの中には、頭の良いフェルナンドと違い、軽薄なフィリップなら容易く懐柔でき、自分たちの思い通りにできるのではないかと考え、フィリップ支持に回る者も出始めました。

父フェルナンドからの「カスティーリャの統治権を譲って欲しい」という密書に、フアナは考えます。

「本当の統治者は自分だが、現在自分はフランドルにいる。

フィリップはカスティーリャを統治したいと言い出すだろうが、彼よりはお父様に任せる方がいい。

お父様の方が信頼できる」

フアナの送った密書は、不運にもフィリップの手に渡ってしまいます。

フィリップは、フアナがスペインから連れてきた従者を遠ざけ、監禁。

暴れるフアナの狂気を喧伝し始めました。

その頃フェルナンドはフィリップに対抗するためフランスと組み、 フランス貴族の娘を妻にしますが、カスティーリャ貴族からは大変な不評を買ってしまいます。

このあたりのことを『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』(光文社新書)では、

 面白くないのは夫のフィリップで、彼は女王の夫ではなく、自分が王位につきたがり、その支援をたのむべく敵国フランスに接近。怒ったフアナの父フェルナンドが、それなら自分がカスティーリャ王を兼ね、若い後添えをもらって、その女性との間の子を世継ぎにしようと謀(はか)る。

 間に立たされたフアナの苦しみは想像するにあまりある。どちらにとっても自分は邪魔者なのだ。こうなれば何としても女王の冠だけは手渡すまい、と必死になる…。

(『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』 中野京子(著) 光文社新書 P44)

1506年、王位継承のためフアナはフィリップと共に海路でスペインに向かいます。

その後のフェルナンドとフィリップによる交渉の結果、フェルナンドはアラゴンに退くことになりました。

フェルナンドの頭には、いずれフィリップは統治に失敗するだろうという考えがあったようですが、この会見を知らなかったフアナは父を追おうとしてフィリップ側に阻止されます。

夫フィリップの死

勝利に酔うフィリップ。

1506年9月の猛暑の日。

祝賀行事に続く騎馬試合、球技と、その日たくさんの汗をかいたフィリップは大量の水を飲み干しました。

何かのウイルスにかかったような症状が出ていたとのことですが、急いで医者が呼ばれました。

悪寒と嘔吐に襲われ、浮腫、発疹の出たフィリップは幽閉されているフアナの元へ運び込まれます。

この当時宮廷のあったブルゴス周辺ではペストが忍び寄っていました。

その時また妊娠中であったフアナはつきっきりで看病をします。

祈り、彼の今までの行いの全てを許しました。

病床のフィリップはフアナを片時も離さなかったそうです。

フアナは寝ずに看病を続け、フィリップも彼女だけを呼ぶのです。

しかし、9月25日にフィリップは亡くなりました。

『狂女王フアナ』 1836年 シャルル・ド・スチューベン

『狂女王フアナ』 1836年 シャルル・ド・スチューベン プラド美術館蔵
『狂女王フアナ』 1836年 シャルル・ド・スチューベン プラド美術館蔵

引用元:『狂女王フアナ』

転がり落ちた冠はカスティーリャの王位を示すものなのでしょう。

フィリップには毒殺説もありますが、即死ではなかったので、「死の瞬間」を描いたものであればこのような衣装を着けてはいなかったと思います。

しばらくの間は誰も彼女を、息の絶えたフィリップの傍らから離れさせることはできなかった。それからのフアナは何日もの間、正気を失い、ぼんやりと物思いに耽っているように見えた。彼女はすでに完全に理性を喪失しているようだった。

(『ハプスブルク家の女たち』 江村洋(著) 講談社現代新書 P46)

『ドニャ・フアナの精神錯乱』 1866年 ロレンソ・バリェス 

『ドニャ・フアナの精神錯乱』 1866年 ロレンソ・バリェス プラド美術館蔵
『ドニャ・フアナの精神錯乱』 1866年 ロレンソ・バリェス プラド美術館蔵

引用元:『ドニャ・フアナの精神錯乱』 

 「ドニャ」は女性に対する尊称です。

フィリップの死を受け入れていないファナの仕草と、ふたりの宮廷貴族と高位聖職者の表情が印象的です。

困惑。諦め。床に散らばった花は萎れ、登場人物の絶望を暗示しているようです。

 ロレンソ・バリェスという画家の描いた「ドニャ・フアナの精神錯乱」と題した絵で、こう説明されています。

「女王は、墓から夫フェリペの遺骸を掘り起こさせ、部屋の豪華なベッドの上に寝かせた。フアナは以前にカルトゥッハのある司祭の話したことを思い出していた。それは、ある王が、死後十四年間大切に見守られ、ついに生き返った、という話で、彼女はその話を思い出しながら、一時もフェリペの遺骸の側を離れずに、彼が生き返るであろうその素晴らしい時を待ち望んでいた。宮廷のもっとも信頼されて尊敬されている人たちが、フアナの振る舞いをやめさようと箴言しても、彼女はいつもこう答えるのだった。静かにしなさい、そして、祈りなさい。フェリペが目を覚ますのを、十四年間、待ちましょう」

西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社. pp. 162-163.

『狂女王フアナ』 1877年 フランシスコ・プラディーリャ  

『狂女王フアナ』 1877年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
『狂女王フアナ』 1877年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵

引用元:『狂女王フアナ』 

 夫の死を認めようとしないフアナは、フェリペ1世の遺体を豪奢(ごうしゃ)な柩(ひつぎ)に収め、昼間は明るさを嫌って部屋に閉じ籠もり、夜ともなれば村から村、修道院から修道院へと柩を運ばせてカスティーリャの荒野をさまよい歩いたとの逸話が残されている。狂気の例証としては格好の話であるが、実はペストを避けて移動したのだともいわれる。

(『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』 岩根國和(著) 中公新書 P38)

文中「フェリペ」または「フェリペ1世」とありますが、これはフィリップ美公のことで、スペイン語読みをしています。

「フェリペ1世」とあるのは「カスティーリャ王」としてのフィリップのことです。 

12月10日。

滞在していたブルゴスにペストの恐怖が近付きます。

かつてフィリップが自身の埋葬場所として指定したグラナダへ向けて、彼女の旅が始まりました。

 立派な黒塗りの寝棺ねかんは、金で装飾された双頭の鷲の紋章入り。死者はハプスブルク家の人間なのだ。さらに柩の敷き布にはブルゴーニュの紋章もあることから、これがマクシミリアン1世の息子フィリップ(スペイン語読みではフェリペ)とわかる。ということは、尋常ならざる様子のこの女性が、未亡人フアナだ。「フアナ・ラ・ロカ(狂女フアナ)」と呼ばれるようになったきっかけが、実はこうした常人に理解しがたい行動による。

  フィリップが突然死したとき、カスティーリャ女王の座にあったフアナは6人目の子を身ごもっていた。以前から精神的に不安定だったこともあり、夫の死を受け入れねばという気持ちと、まだ死んでいない、必ず復活する、との願望に心を引き裂かれたらしく、防腐処理をほどこした遺体とともに、長期間にわたってスペインの野を彷徨ほうこうした。

(『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』 P39)

足元に落ちたままの膝掛け。大きなお腹で、瞳に狂気を宿すフアナの姿。 

ミサを上げていますが、冬の荒野のなか従者たちは皆疲れ切ってしまっています。 

背景の右上に見えるのは女子修道院で、女性問題が絶えなかったフィリップには例え修道女でも近付けまいとするフアナの心情が見えるようです。(参考:『カール5世とハプスブルク帝国』 創元社 P35)

旅の途中、1507年1月14日、フアナは6番目の子どもであるカタリナを出産しました。

その後父フェルナンドと再会を果たしますが、フェルナンドはフアナをトルデシリャス(トルデシーリャスとも表記)へ幽閉します。

フアナはそこで、76歳で亡くなるまでの46年間を過ごします。

フランドルからやって来た息子のカルロスが、バリャドリッドへ向かう途中に挨拶に寄ったときも顔の見分けがつかず、自分はカスティーリャ女王であると主張してどうしてもカルロスへの譲位に同意しなかった。したがって、フアナと共同統治のかたちをとって実質上の職務を遂行していたカルロスが、正式にスペイン王として即位できるのは母親が亡くなった1555年だった。

(『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』 岩根國和(著) 中公新書 P38)
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:カール5世

フアナとフィリップの息子です。

『トルデシリャスの宮殿に幽閉中のフアナ』 1907年 フランシスコ・プラディーリャ

『トルデシリャスの宮殿に幽閉中のフアナ』 1907年 フランシスコ・プラディーリャ サラゴサ美術館蔵
『トルデシリャスの宮殿に幽閉中のフアナ』 1907年 フランシスコ・プラディーリャ サラゴサ美術館蔵

引用元:『トルデシリャスの宮殿に幽閉中のフアナ』

この絵を描いた19世紀の画家フランシスコ・プラディーリャは、夫の浮気に耐えられず、愛に狂い、トルデシリャスの城塞に幽閉された女王フアナの姿に心をとらえられたのであろう。

 しかし、フアナは政治的な陰謀の犠牲者だという説もある。最初は夫のフィリップ美公が、次に父のフェルナンドが、彼女を権力の座から引き離すために仕組んだことだというのだが、この説に客観的な根拠はまったくない。

(『カール5世とハプスブルク帝国』 P34)

『幽閉中のフアナ』 1906年 フランシスコ・プラディーリャ

『幽閉中のフアナ』 1906年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵
『幽閉中のフアナ』 1906年 フランシスコ・プラディーリャ プラド美術館蔵

引用元:『幽閉中のフアナ』

後にいとこであるポルトガル王ジョアン3世の王妃となります。

一緒にいる女の子は最後に生まれたカタリナ(1507年1月14日-1578年2月12日)です。

カールが17歳、姉レオノールが19歳のとき、ふたりは母フアナと対面します。

レオノールは輿入れのためポルトガルへ向かう途中でした。

フランドルで生まれ育ったカールはスペイン語ができず、母親にフランス語で話しかけました。

カールはフアナに会う目的以外に、父フィリップの葬儀をあげるためにトルデシリャスへ来たのですが、そこでみすぼらしい身なりの妹とも対面します。

レオノールもカールと同じように可哀想な妹のことが気掛かりでした。

ふたりはカタリナを母から引き離す計画を立て、臣下が迎えに行き、連れて帰ってきます。

しかし、もうカタリナしか残されていなかったフアナの絶望は深く、フアナの状態を考えたカールはやむなくカタリナをフアナの元に戻します。

その後約8年を母と過ごしたカタリナは、18歳になる前に、ポルトガル王ジョアン3世の妃になるため、嫁いでいきました。

カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン) 1552年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵
カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン) 1552年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵

引用元:カタリナ

神聖ローマ皇帝となったカール5世はその後何度も母を訪ねています。

1536年には自分の子どもたちを連れてきました。フアナは大喜びしたそうです。

次には孫のフェリペ(フェリペ2世)自身が妃マリア・マヌエラを連れてやってきました。

スペイン王フェリペ2世(1527年5月21日 - 1598年9月13日)ティツィアーノ プラド美術館蔵
後のスペイン王フェリペ2世(1527年5月21日-1598年9月13日)ティツィアーノ画 プラド美術館蔵

引用元:スペイン王フェリペ2世

マリア・マヌエラはフェリペの最初の妃で、彼女はフアナの娘カタリナの産んだ王女でした。

ポルトガル王女マリア・マヌエラ 画家不詳 プラド美術館蔵
ポルトガル王女マリア・マヌエラ 1500年代 画家不詳 プラド美術館蔵

引用元:マリア・マヌエラ

1550年代になると、 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が妻を伴ってやってきます。

マクシミリアン2世はフアナの産んだフェルナンド(フェルディナンド。カール5世の弟で後の神聖ローマ皇帝)の息子で、その妻マリアはカール5世の娘です。

こちらもフアナの孫同士の結婚でした。

マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝) 1566年頃 Nicolas Neufchatel 美術史美術館蔵
マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝。フェリペ2世、マリアのいとこ) 1566年頃 Nicolas Neufchatel 美術史美術館蔵

引用元:マクシミリアン2世

マリア・フォン・シュパーニエン(カール5世の娘。フェリペ2世の妹) 1557年 美術史美術館蔵
マリア・フォン・シュパーニエン(カール5世の娘。フェリペ2世の妹) 1557年 美術史美術館蔵

引用元:カール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス

子どもも孫たちもフアナのことを忘れていなかったのです。

1555年4月12日、フアナはその人生を終えました。  

マルグリット・ドートリッシュとフアナの4人の子どもたち

マルグリットは、少女時代を過ごしたフランスではアンヌ・ド・ボージューを、嫁ぎ先のスペインでは姑イサベル1世の政治を間近で見ていました。

再婚した夫とも死別し、子どももいなかった彼女はその後「政治家」として手腕を発揮して父を助けます。

そして、フアナとフィリップの子どものうち4人を引き取って養育し、立派に育て上げます。

長男カール(シャルル、カルロス)は祖父マクシミリアンの後を継ぎ、神聖ローマ皇帝カール5世となりました。

(次男フェルナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)は同名の祖父アラゴン王フェルナンド2世の元で養育され、末娘のカタリナは母フアナと共にトルデシリャスにいました。) 

このマルグリットの宮廷の文化水準は非常に高く、後のヘンリー8世妃となるアン・ブーリンも留学しました。

また、マルグリットは芸術も大いに愛好しており、フランドル地方の絵画なども収集。

スペインのプラド美術館にフランドル絵画が多いのは、マルグリットや甥のカール5世の影響とされています。

詳しくは、

ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(前)

ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(後)~1529年「貴婦人の和約」締結

アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学

フアナの孫とひ孫に当たる人びとについては、

狂女王フアナの子供たち、と孫娘『デンマークのクリスティーナ』

フランソワ・クルーエの肖像画で見る1500年代後半のフランス宮廷

ヴェルディの『ドン・カルロ』ヒロインのモデル、エリザベート・ド・ヴァロワ

イングランド王ヘンリー7世

イングランド王ヘンリー7世(1457年1月28日-1509年4月21日) ミケル・シトウ? 1505年 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
イングランド王ヘンリー7世(1457年1月28日-1509年4月21日) 1505年 ミケル・シトウ? ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:ヘンリー7世

かつて結婚のためにスペインから海を渡ったフアナの艦隊は途中嵐に遭い、予定外にイングランドに上陸します。

ちょうどイングランド王ヘンリー7世のところでも、息子アーサーとカトリック両王の娘カタリナ(フアナの妹)との結婚話が進んでおり、ヘンリー7世は美しいと評判になっているフアナを密かに見に行きました。

1506年、海路でフィリップと共にスペインに向かったフアナは再びイングランドに上陸し、歓迎を受けます。

イングランドの宮廷でフアナは妹カタリナと再会しました。

肖像画のヘンリー7世の首にかかる金羊毛勲章を贈ったのは、フィリップ美公です。

ヘンリー7世は他国の大使も驚くほど経済的に豊かで、フィリップ美公にも金を貸しており、フィリップとフアナが海上でスペインに向かう際の費用も出していたようです。

1503年に最愛の王妃を亡くしたヘンリー7世は一時、夫を亡くしたフアナに求婚することも検討していました。

この肖像画は「お見合い肖像画」で、同じく寡婦となったフィリップの妹マルグリット・ドートリッシュに贈られましたが返却され(つまり破談)、現在の英国のナショナル・ポートレート・ギャラリーにあります。

この時代、アラゴン王フェルナンド2世、ヘンリー7世、ローマ教皇アレクサンデル6世と好きなキャラ(?)がばんばん出てきます。

アレクサンデル6世の子ども、チェーザレ・ボルジア、ルクレツィア・ボルジアもいいですね。

始まりが政略結婚であっても、お互いに尊敬し愛し合える伴侶に恵まれた例として、フィリップとマルグリットの両親である「神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世夫妻」、ヘンリー8世の両親である「ヘンリー7世夫妻」、フアナとカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)の両親である「カトリック両王」が挙げられると思いますが、その子どもたちの組み合わせとなると今ひとつ上手く行かないようです。

しかし三組の夫婦の孫たちの代になると、また歴史上の有名人がぞろぞろ出てきます。 

フィリップ美公とフアナの子どものカール5世、その子どものフェリペ2世。

ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの子どもはイングランド女王「血まみれメアリ」で、フェリペ2世と結婚します。

登場する人びとの名前が同じなので混乱しますが(-ω-)、実に興味深い時代です。

主な参考文献
  • 西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ スペイン王家の伝統を訪ねて』. 彩流社.
  • 『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』 岩根國和(著) 中公新書
  • 『ハプスブルク家の女たち』 江村洋(著) 講談社現代新書  
  • 『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』 中野京子(著) 光文社新書 
  • 『カール5世とハプスブルク帝国』 ジョセフ・ペレ(著) 塚本哲也(監修) 遠藤ゆかり(訳) 創元社
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コメント

コメント一覧 (23件)

  • 私には、ファナは正常な人のように見えます。精神病院で死んだ私の母は、日ごろ父に威圧されて、最後に大爆発した母は、私の人格を否定し、雨の日に、「こんなものは要らない!!」と蒲団を窓からそとに投げ捨て、面識のない人のお宅に上がり込んで強談。最後は精神病院に入れられ、死ぬまで病院で過ごしました。ファナなんて、可愛いものです。

  • id:kagenogori様
    コメント有難うございます。
    いつもながら鋭くていらっしゃる。
    全くその通りだと思います。フアナは女王として何かを成し遂げたのではありませんでしたが、彼女の子孫はその後のヨーロッパを支配しました。これはかなりすごいことではないかと思います。
    マクシミリアン1世、フェルナンド2世、ヘンリー7世は、自分の王国を守るため自分たちの子どもを結婚させましたが、彼ら自身も奥様が亡くなった後進んで再婚しようとします。
    皆それぞれ最初の奥様を愛していたという話ですが、この三人のうちのひとりは若い奥さんを貰い、怪しげな強壮剤を飲んで命を縮めています。
    ほんとにこの時代、興味が尽きません。

  • スイマー (id:jun_111230)様
    ご丁寧に有難うございます!

  • フアナは狂女として歴史に名を残してしまったけど、それだけ自分の人生を縛り付けられ、翻弄されれば、ね……。
    彼女のことを本当に分かっていたのは、彼女の子供、そして孫だけなのかも。
    フアナを狂女というなら、ヨーロッパ史そのものが狂気なのでは?と思うのはワタシだけ?

  • こんにちは!
    再び投稿です。
    一人旅貴女へコメントしましたが、ハンナさんの名前を書き忘れていました。ごめんなさいね。
    時々忘れます。年のせいですね!
    身体をできるだけ鍛えているつもりだけど、やはり長期間水泳休んでいるからかもしれません。

  • ko-todo (id:ko-todo)様
    有難うございます。かたじけない。
    最初の1行で噴いたww。
    待ってた甲斐があった(笑)。(あ、でもほんとにお気遣いなくお願い致します(^^)。いただけば嬉しいけど)
    フィリップねえ。現代の私なら、慰謝料いただいて離婚だな。彼女はほんとに彼に恋していたんだろうなあと思いますが、彼女の愛を与えるのに相応しい人物だったとは思えません。
    フアナの狂気も、実際のところはそんなでもなくて、それを皆で大袈裟に声高に言った、のかもしれませんねえ。
    最後のお見合い肖像画ですね。
    ヘンリーは期待の長男を亡くし、最愛の妻を出産の際に亡くして激やせしたらしい。
    スペインとの関係を保ったままでいたい彼は、キャサリンを貰おうとしたり、夫を亡くしたフアナとの縁談を考えたり、神聖ローマ皇帝の皇女マルグリットとのお見合いを希望したり、自分の王国の生き残りを賭けたのね。
    私はこのヘンリー7世とアラゴンのフェルナンド王が好きなので、つい彼らの肩を持ちたくなってしまいます(笑)。
    記事に書いたことがあるのですが、彼の首の勲章はマルグリットの兄フィリップ美公が贈ったものなんですって。皆あちこちで繋がっているんですね。
    読んで下さって有難うございました。

  • スイマー (id:jun_111230)様
    ごちらこそご丁寧なコメントいただきまして有難うございます。
    ほんとにね、新型コロナのおかげで人生設計狂っちゃったひとたちが世界中でどれほどいることか。腹立たしい限りです。
    スイマー様もどうぞお気をつけて。熱中症にもね。

  • だるころ9216 (id:darucoro9216kun)様
    コメント有難うございます。
    もー、だるころさんてば律儀なんだからあ(≧◇≦)もぉもぉ🐮
    ほんとにお気遣いはいいですからね。
    本も音楽も映画も絵も、どれも見る時々の心持ちに左右されると思うのです。若い頃に観て、その時は何も思わなくても、後で何年も経って観た時に胸に迫るものがあると言いますか。だから感想なんて、無理せず思いついた時でいいのだよ。
    フアナの場合、母方の祖母にもう狂気が出ていたのです。でもはっきり「出た」のは彼女だけなのかな。姉妹にも、自分の子どもには出ていない筈です。元々真面目で信仰篤いところに、真逆の亭主があれだから、心が休まるときがなかったのかもですね。
    マルグリットは世界史にも出てきます。さらっとですが。こちらも激動の人生ですが、私には終わり良ければ総て良しで、カッコよく映ります(^^)
    ほんとにわざわざコメント有難うございました。どうか、ご自愛くださいね。きっと好転するから。

  • どSの変態の後が狂女…。
    ヨーロッパの貴族って…。
    一握りの貴族が婚姻を繰り返した結果かしら…と、思えなくも無いけれど…。
    幽閉中のフアナの目が常軌を逸してる感じが凄いね。
    ってか…
    フィリップのどこがそんなに好きだったんだろう…。
    知性と教養・美貌を兼ね備えた女性の意地かしら…とも。
    エキセントリックな女性だったかも?だけれど、狂気は仕組まれた陰謀説に1票かな…。
    それにしても、沢山の肖像画…。
    芸術家の意欲をそそるモチーフだったのでしょうね。
    最後の送り返された「お見合い肖像画」
    後の世までの語り草になるなど、ご本人は思っても居なかったでしょうね。

  • こんにちは!私のブログにコメント有難うございます。
    間違ってすみません。ぎりしゃでなく古代ヨーロッパでしたね。エジプトも、
    もうこれは現代の人々がりかいできないようなこともあったのでしょう。
    これからは現世の人々が苦難「コロナ」を乗り越えましょうの合図ですよね。コロナクワバラクワバラですね!

  • 狂女狂女フアナはお顔を拝見しただけで、その狂女ぶりがうかがえますね。
    顔は卵型「うんうん!」言われる前に思ったから凄い卵型です。
    マルグリットは可哀そうな人生ですね。
    やっぱりフアナは怖いお人ですね。
    居ないはずのフアナが絵に描かれてるってのも意味があるんですね。
    フィリップを最後まで看病した感じも執着心が凄かったんでしょうね。
    やっとコメント出来ました。
    読み応え十分でした。

  • ことぶ㐂(ことぶき) (id:lunarcarrier)様
    読んで下さって有難うございます。
    確かに、「彼女は本当に気がふれていたのだろうか?王冠が欲しいひとたちがそういう噂を流したのでは」と書いてある本もあります。
    ただその根拠は…?となるとハッキリしませんので、その可能性は無くは無いのかもねということだと思います。今のところは。
    この先新発見があるかもしれませんね。
    コメントも有難うございました。

  • schun (id:schunchi2007)様
    今回も長いの読んで下さって有難うございますう(ノД`)・゜・。
    高貴な方々の国を背負っての結婚、当事者たちはほんとに大変だったと思います。嫁いで子どもが出来ないと心労の日々、または、ある程度まで育って安心していたら、成人前に亡くなってしまうとか。
    今はまた別のところで苦労されているのかもしれませんね。
    コメントも有難うございました。

  • 子供はともかく孫までもが会いに行く人が、ほんとに狂女だったのかな、なんて思ったりしながら読ませていただきました。

  • おはようございます。
    この女性も波瀾万丈ですね。
    ご自身が破天荒というよりかは、
    いろんなしがらみの中で、大変な思いをされた感じでしょうか。
    これだけハイクラスの方ゆえの当時の生活の大変さというものを拝読しながら感じました。
    今の時代は、さすがにこういうことはないかもしれませんが、
    想像ができないところで苦労されている方もいるのかなぁ~なんて
    つい考えちゃいました(笑)。

  • Pちゃん (id:hukunekox)様
    ご来店有難うございます。
    この時代の王女様たちは両家の結び付きのため、跡継ぎを産むことが最大の務めでした。
    うまく行けばそこそこ幸せなのかもしれませんが(庶民と異なり生活の心配はない)、衆人環視のなか、国を背負うストレスやプレッシャーといったらかなりすごかったと思います。
    現代なら、「こんな浮気男なんて、慰謝料取って離婚だよ!離婚!」と思いますが、フアナの場合それでもフィリップを熱愛していたことが悲劇だったのかなとも思います。
    ほんとに王族には劇的な人生を送ったひとたちが多いですね。

  • ハンナさん☺️✨
    こんばんは☺️いつも奥深く興味がある内容なので繰り返し戻ったりして読ませて頂いてました💦読み終わった時お星様つけるもので遅くなって失礼しました
    しかしこの時代だからでしょうか、フアナは翻弄されて生きてきたように思えます、なんだか王族が一番激動の生涯のような気がしながら読ませて頂きました
    今日もありがとうございました😊

  • うり まさる (id:urimasaru)様
    あ、確かに!仰る通り!
    生まれた時からずっとひとの目にさらされていたんでしょうね。それってすごいストレスだと思います。
    今回も読んで下さって有難うございました(≧◇≦)。

  • こんな風に細かく後世にエピソードが残ってしまうなんてΣ(゚Д゚)
    恐いやら、スゴイやら💦
    有名人だから、かな(*´ω`*)

  • id:happy-ok3様
    読んで下さって有難うございます。
    遠い所にいる母親に会いに行く子どもに育ってくれて私も嬉しいです(笑)。

  • こんにちは。
    詳しく有難うございます。
    >「フアナとフィリップの子どものうち4人を引き取って養育し、立派に育て上げます。」
    素晴らしいですね。

  • まーたる (id:ma-taru)様
    今日も有難うございます。
    これほど画家ゴコロを刺激するフアナの話、まさに愛と狂気は紙一重ですね(ToT)。
    私はなぜか幽閉中のフアナの絵に惹かれます。父にまで幽閉され王位を奪われた、と考えると切ないものがありますが、マルグリットの教育が良かったのか、カールとレオノールが母を訪ねてきて、その後孫たちまでやってくるというところに救われました。
    私の好きなフェルナンド王、日本ともかかわりの深いフェリペ2世、また登場します。
    ぜひまたよろしくお願い致します。
    有難うございました。

  • こんばんは(о´∀`о)
    夫への愛に狂うフアナの瞳が怖ろしくもあり、でもすごく切なくもありました。
    いろんな人の思惑が入り混った結婚生活、フアナにとってはフィリップの愛こそが全てだったんだろうなぁ(´・_・`)
    フィリップの死後に狂気の淵に堕ちていくフアナの姿を見ていると、つらい結婚生活ではあったかもしれないけれど、心から愛する人に巡り逢えた幸せもあった激動の人生だったんでしょうね。
    シャルル・ド・スチューデンの『狂女王フアナ』が頭から離れずにいます。
    フアナの表情、転がった王冠、全てが計算されたかのように彼女の気持ちを表しているようです。
    ハンナさん、今日もとても勉強になりました。
    ハンナさんの見解は本当に素晴らしいし、なによりわかりやすく説明してくださるから、初心者にもすんなり頭に入ってきます(*´∀`*)
    ありがとうございますヽ(*^ω^*)ノ

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