ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ(後)~1529年「貴婦人の和約」締結

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ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの最大の功績と称えられる「貴婦人の和約」に至る道のりを見て行きます。

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

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目次

神聖ローマ皇帝の娘マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche, 1480年1月10日-1530年12月1日)

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

フィリベルト2世・ディ・サヴォイアとの再婚

サヴォイア公国

サヴォイア公国 (Ducato di Savoia) は、現在のフランスの東南部から、現在のイタリアのピエモンテ地方を領有していた公国です。

イタリア語読みでは「サヴォイア」ですが、フランス語では「サヴォワ」公国 (Duché de Savoie)です。

下の地図では英語表記で「Savoy」となっています。

16世紀のサヴォイア公国。白線は現国境
16世紀のサヴォイア公国。白線は現国境

引用元:サヴォイア公国の地図

拡大図内の、公国の右上に「Switzerland」(スイス)。

向かって左側に「France」(フランス)。

公国の下、海沿いに「Monaco」(現在のモナコ公国)、左に「Nice」(ニース)の地名が見えます。

公国内の地名、「Chambéry」(シャンベリ)は現在のフランス、サヴォワ県の県庁所在地。

「Turin」(トリノ、イタリア語表記ではTorino)は、現在のイタリア共和国ピエモンテ州にある都市です。

トリノとアオスタ渓谷を含むサヴォイア公国は、フランスにとっても神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世にとっても、戦略上とても重要な地域でした。 

マクシミリアン1世(1459年3月22日-1519年1月12日) 1519年 アルブレヒト・デューラー 美術史美術館蔵
マクシミリアン1世(1459年3月22日-1519年1月12日) 1519年 アルブレヒト・デューラー 美術史美術館蔵

引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世

フィリベルト2世・ディ・サヴォイア(1480年4月10日-1504年9月10日)
サヴォイア公フィリベルト2世(1480年4月10日-1504年9月10日) Antoni Boys画

引用元:フィリベルト2

もし、サヴォイア公フィリベルトが娘のマルグリットとの結婚を承諾すれば、マクシミリアンはサヴォイア公家との縁ができ、フランスのルイ12世より優位に立つことができます。

ルイ12世(1462年6月27日-1515年1月1日) 1514年頃 ロイヤル・コレクション蔵
ルイ12世(1462年6月27日-1515年1月1日) 1514年頃 ロイヤル・コレクション蔵

引用元:ルイ12世

マクシミリアンがこの計画を長男のフィリップ美公に打ち明けると、フィリップもこれに大賛成。

フィリベルトはフィリップと並んでヨーロッパで最大の美男子と謳われ、2メートル近い高身長。力も強く、馬術やフェンシングの達人です。

フィリベルトの方も結婚相手が神聖ローマ皇帝の皇女となれば、断る理由がありませんでした。

フィリップ美公とマルグリット・ドートリッシュ 1494年頃 恐らくPieter van Coninxlooの作品 ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
フィリップ美公とマルグリット・ドートリッシュ 1494年頃 恐らくPieter van Coninxlooの作品 ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:フィリップ美公とマルグリット・ドートリッシュ(ディプティク)

ナショナル・ギャラリーの解説はこちらです。

マルグリット・ドートリッシュ 1500年頃 恐らくPieter van Coninxlooの作品 ハンプトン・コート宮殿蔵
マルグリット・ドートリッシュ 1500年頃 恐らくPieter van Coninxlooの作品 ハンプトン・コート宮殿蔵

引用元:1500年頃のマルグリット・ドートリッシュ

Pieter van Coninxloo(1460年頃-1513年頃)(ピーター・ファン・コニンクロと発音?)は、15世紀後半のブルゴーニュ宮廷で活躍したネーデルラントの画家とのことです。

フィリベルト2世・ディ・サヴォイア(Filiberto II di Savoia, 1480年4月10日-1504年9月10日)

サヴォイア公フィリベルト2世の胸像 1523年-1524年以前 コンラート・マイト作
サヴォイア公フィリベルト2世の胸像 1523年-1524年以前 コンラート・マイト作

引用元:サヴォイア公ルト2世の胸像 Daderot CC-Zero

フィリベルトの父の妹カルロッタ(フランス名シャルロット)はフランス王ルイ11世の妃です。

ルイ11世とカルロッタの子どもであるシャルル8世、アンヌ・ド・ボージュー、ジャンヌ・ド・フランス(最初のルイ12世妃)とは従兄妹に当たります。

ルイ11世妃シャルロット・ド・サヴォワ( 1441年-1483年12月1日)
ルイ11世妃シャルロット・ド・サヴォワ( 1441年-1483年12月1日)

引用元:ルイ11世妃シャルロット・ド・サヴォワ

フィリベルトは幼い頃、姉のルイーズと一緒にルイ11世の娘・アンヌ・ド・ボージューの宮廷に預けられ、シャルル8世と共に教育されました。

マルグリットとはこの時顔を合わせています。

ルイーズ・ド・サヴォワ(1476年9月11日 -1531年9月22日、イタリア名はルイーザ・ディ・サヴォイア) 16世紀 École De ジャン・クルーエ バンベルグ財団美術館
ルイーズ・ド・サヴォワ(1476年9月11日 -1531年9月22日、イタリア名はルイーザ・ディ・サヴォイア) 16世紀 École De ジャン・クルーエ バンベルグ財団美術館

引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ  Didier Descouens CC-BY-SA-4.0

アンヌ・ド・ボージュー(またはアンヌ・ド・フランス)(1461年4月3日-1522年11月14日) 1489年と1499年の間 ジャン・エイ ムーラン大聖堂
アンヌ・ド・ボージュー(またはアンヌ・ド・フランス)(1461年4月3日-1522年11月14日) 1489年と1499年の間 ジャン・エイ ムーラン大聖堂

引用元:アンヌ・ド・ボージュー 

1497年に17歳で即位したフィリベルトは狩猟が大好きで、政務は異母兄任せでした。 

マルグリットとの結婚に当たり、フィリベルトはフランス王ルイ12世の承認を取り付けます。

「マルガレーテに好意を抱いていた」(『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』.p.69. )ルイ12世に、フィリベルトは、フランスとマクシミリアン1世側に戦争が起きた時には、サヴォイア公国は中立を保つことを約束します。 

マルグリットにとって3度目の代理結婚が終了し、1501年12月2日、ふたりはロマンモティエの修道院で深夜に結婚式を挙げました。

子どもの頃会ったことがあるといっても、ほとんど話したこともなかったというマルグリットとフィリベルト。

しかし、ふたりはお互いに強く愛し合うようになります。

幸福のなかで、マルグリットは、フィリベルトが異母兄のルネ(フィリベルトの父の庶子)に政務を任せきりで、政治にまるで興味を持っていないことに気付きます。

サヴォイア公妃マルグリットの政治

マルグリットはそれまでに、摂政アンヌ・ド・ボージュー、カスティーリャ女王イサベル1世の政治を間近で見て来ました。

政治を良いようにしていたルネを国外に追放し、マルグリットがサヴォイア公国の政治に介入します。 

スペインの官僚制度を取り入れるなど、マルグリットの優れた政治能力をフィリベルトは歓迎し、彼女のしたいようにさせました。

マルグリットの政治が上手く行けば、自分は好きなだけ狩猟に打ち込めますから。

この公国で彼女は、これまでいくつかの国で体得してきた政治上の経験をすべて実行に移すことができた。破綻をきたした財政を立て直し、有能な人材を宮廷に招き、短期間のうちに、サヴォイ公国を模範的な国家に変貌させた。

ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.73.

マルグリットは、フィリベルトが大好きな祝い事や宴会を頻繁に催します。

豪華な祝宴ではワインがあふれるように注がれ、金貨と花束が庶民にばらまかれました。

ふたりは馬でサヴォイの町や村に遠出し、何処に行っても人々から大歓迎されました。

フィリベルトの死

しかし、その幸せな生活も終わる時が来ます。

1504年9月初旬、狩りに出たフィリベルトは、泉から冷たい水を飲みました。

夜になり、悪寒が彼を襲います。

その日政治上の重要な協議があり、夫に同行しなかったマルグリットは、直ちに医師たちを招集しました。

高熱が出たフィリベルトは瀉血しゃけつを施され、マルグリットは自ら湿布を巻くなど、懸命に看病します。

フィリベルトの高熱は下がらず、うわごとを言うようになった時、マルグリットは彼の死期が近いことを悟りました。

1週間後、フィリベルトはマルグリットに抱かれて息を引き取ります。マルグリットは泣き叫びながら、高い窓から飛び降りかねない様子だったそうです。 

24歳という若さで、2度も愛する夫を失ったマルグリット。

フィリベルトのための教会を建て、暫く後にネーデルラントに帰郷します。

人びとの死

1504年、カスティーリャ女王イサベル1世崩御

1497年10月マルグリットの夫でスペイン王子だったフアンが病死し、マルグリットのお腹にいた子どもは死産でした。

アストゥリアス公フアン  15世紀
アストゥリアス公フアン (フアン・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ、1478年6月28日-1497年10月4日)

引用元:アストゥリアス公フアン

1498年8月、フアンの死でカスティーリャ王位継承権者となった、カトリック両王の長女でポルトガル王妃イサベルが、ミゲルを産んだその日に産褥死します。

イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1470年10月2日-1498年8月23日)
カトリック両王の長女、イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1470年10月2日-1498年8月23日)

引用元:イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ

1498年11月、フアナと夫のフィリップ美公の間に、第一子レオノールが誕生。

レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵
レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) 1530年以降? ヨース・ファン・クレーフェ 美術史美術館蔵

引用元:レオノール・デ・アウストリア

1500年2月、第二子カール(後の神聖ローマ皇帝、スペイン国王)誕生。

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世

1500年7月、ポルトガル王妃イサベルの息子、ミゲルが幼くして亡くなりました。

フアン、マルグリットの男児、イサベル、ミゲルと、後継者たちの相次ぐ死で、カトリック両王の3番目の子どもであるフアナに王位継承権が回って来ます。

フアナ(1479年11月6日-1555年4月12日) 1495-1496年頃 美術史美術館蔵
フアナ(1479年11月6日-1555年4月12日) 1495-1496年頃 美術史美術館蔵

引用元:フアナ

フィリップは喜びました。

女王の夫である自分が「カスティーリャ王」になれると思ったのです。

フィリップは勝手に「カスティーリャ王」を名乗り、フアナの父・アラゴン王フェルナンド2世の怒りを買ってしまいました。

フィリップ美公 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵
フィリップ美公 1500年頃 フアン・デ・フランデス 美術史美術館蔵

引用元:ブルゴーニュ公フィリップ

カトリック両王は、フアナを次の王位の継承者としてスペインに呼び戻そうとします。 

1501年5月、ふたりの間に第三子イサベル(後のデンマーク王妃)が誕生します。

イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1861年 Poul Hagelstein コペンハーゲン国立美術館蔵
イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン) 1861年 Poul Hagelstein コペンハーゲン国立美術館蔵

引用元:イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)

出産を終えたフアナは、1502年、宿敵であるフランスの地を通過し、フィリップと共にスペインに帰郷しました。 

しかし、この後、フェルナンドとフィリップは対立を深めて行きます。

フィリップはスペインを発って帰国してしまいました。 

カスティーリャに残され、フィリップの女性関係に思い悩む妊娠中のフアナ。

嫉妬に苛まれ、夫を追って「歩いてでもフランドルへ帰る」と狂ったように叫ぶフアナの姿に、イサベル女王は狂気に陥った自分の母親の姿を重ねていました。 

カスティーリャ女王イサベル1世(1451年4月22日-1504年11月26日) 1490年頃 プラド美術館蔵
カスティーリャ女王イサベル1世(1451年4月22日-1504年11月26日) 1490年頃 プラド美術館蔵

引用元:カスティーリャ女王イサベル1世

1503年3月、フアナは第四子フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝。スペイン名はフェルナンド)を出産します。

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(1503年3月10日-1564年7月25日) 16世紀中頃 Hans Bocksberger der Ältere 美術史美術館蔵
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(1503年3月10日-1564年7月25日) 16世紀中頃 Hans Bocksberger der Ältere 美術史美術館蔵

引用元:神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世

このままスペインに留まって欲しいという母の願いには耳を貸さず、生まれたばかりのフェルディナントを置いて、フアナは愛する夫を追い、スペインを去ってしまいます。 

1504年11月26日、カスティーリャ女王イサベル1世は次の女王にフアナを指名し、亡くなりました。

外国人であるフィリップは王位には就けませんでした。フアナの「夫」「配偶者」の立場を有するのみです。

それはイサベル女王の夫であるアラゴン王フェルナンド2世も同じでした。

フェルナンドは自国のアラゴンでは国王ですが、フアナ不在時の摂政に任命されはしても、イサベルの王国であるカスティーリャの王にはなれなかったのです。

アラゴン王フェルナンド2世(1452年3月10日-1516年6月23日) 15世紀末-16世紀初頭 ミケル・シトウ 美術史美術館蔵
アラゴン王フェルナンド2世(1452年3月10日-1516年6月23日) 15世紀末-16世紀初頭 ミケル・シトウ 美術史美術館蔵

引用元:アラゴン王フェルナンド2世

フェルナンドはフアナに密書を送り、カスティーリャの統治権を譲って欲しいと伝えてきます。

フアナも夫よりは父の方がカスティーリャの統治に適していると考え、父に宛てて密書を送りますが、この密書はフィリップの手に渡ってしまいました。

暴れるフアナはフィリップの従者によって監禁され、フィリップはフアナの狂気を声高に喧伝し始めます。 

1505年9月、フアナはブリュッセルで第五子となるマリア(後のハンガリーとボヘミアの王妃)を出産します。

マリア・フォン・エスターライヒ(1505年9月17日-1558年10月17日) 16世紀前半 Jan Cornelisz Vermeyenにちなむ メトロポリタン美術館蔵
マリア・フォン・エスターライヒ(1505年9月17日-1558年10月17日) 16世紀前半 Jan Cornelisz Vermeyenにちなむ メトロポリタン美術館蔵

引用元:マリア・フォン・エスターライヒ

1506年、王位継承のため、フアナとフィリップは今度は海路でスペインに向かいます。

その後フェルナンドとフィリップは交渉。

フェルナンドが引いてアラゴンに戻ることになりましたが、「ずる賢いアラゴンの狐」と言われるほど知恵が回るフェルナンドの頭の中には、いずれフィリップが統治に失敗する姿が見えていました。

フィリップは女王となったフアナの共同統治者として「カスティーリャ王フェリペ1世」(フェリペ1世としては在位1504年~1506年)を名乗ります。

フェルナンドが思った通り、フィリップは親フランス路線を取ったりカスティーリャの貴族たちをないがしろにしたりしたため、彼らの反感を買い、支持を失うことになります。

1506年、フィリップ美公の死

1506年9月の猛暑の日のこと。

祝賀行事が続き、騎馬試合や球技が行われ、汗をかいたフィリップは渇きを癒そうと大量の水を飲み干しました。

その後悪寒と嘔吐に見舞われ、幽閉中のフアナの元へ運び込まれます。

フアナはその時また妊娠中でしたが、つきっきりでフィリップを看病しました。

フィリップも病床からフアナだけを呼び続けます。

しかしフアナの祈りは届かず、9月25日、フィリップは亡くなりました。

正気を失ったフアナはフィリップの復活を信じ、柩と共にスペインの荒野を彷徨います。

1507年1月、フアナは六番目の子どもであるカタリナ(後のポルトガル王妃)を旅の途中のトルケマダで出産。

カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン) 1552年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵
カタリナ・デ・アウストリア(カタリーナ・フォン・シュパーニエン) 1552年頃 アントニス・モル プラド美術館蔵

引用元:カタリナ・デ・アウストリア

その後フアナは父フェルナンドと再会しますが、

そこで、娘の身を案じた父フェルナンドは彼女をトルデシリャスの城館にかくまい、門外不出の処置をとった。要するに監禁状態にしたのである。彼女は突然正気に返ったように見えることもあったが、それも長続きせず、たちまち元の精神の闇に沈んでしまった。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.27.

フアナは子どもたちの養育ができる状態ではありませんでした。

スペインにいたフェルディナントとカタリナはアラゴン王フェルナンド2世が引き取り、ブルゴーニュに残された4人の子どもたちは、マルグリットが引き取って養育することになりました。

イングランド王ヘンリー7世からマルグリットに向けたお見合い肖像画

イングランド王ヘンリー7世(1457年1月28日-1509年4月21日) ミケル・シトウ? 1505年 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
イングランド王ヘンリー7世(1457年1月28日-1509年4月21日) 1505年 ミケル・シトウ? ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:ヘンリー7

こちらは、アラゴン王フェルナンド2世、デンマーク王クリスチャン2世の肖像画を描いたミケル・シトウの作ではないかといわれている、イングランド王ヘンリー7世の肖像画です。

この絵は、当時、最初の妻エリザベスに死別していた四十八歳のヘンリー七世が、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの娘に求婚するための「見合い肖像画」として、一五〇五年に制作されたものであるが、皇帝父娘もこの容貌に信用ならぬものを感じたのか、縁談はまとまらなかった。

高橋裕子(著). 『イギリス美術』. 岩波新書. p.30.

ランカスター朝の流れを汲むヘンリー・テューダーは薔薇戦争に勝利し、テューダー王朝最初の王となります。

絵の中で彼が持つ花はランカスター家を象徴する赤バラですが、首に掛かる頸飾(けいしょく。飾り)は、フィリップ美公から贈られた金羊毛勲章です。 

わざわざ金羊毛勲章まで着けて描かせたのにこの肖像画は返却され、現在ロンドンにあります。

相手が受け取ってくれていたら、そのまま相手の国に在ったりするんですけどね。

この場合は「破談」ということですね。

トマス・ペン氏の『冬の王』では、1505年夏、イングランドを訪れたブルゴーニュ大使が、キャサリン・オブ・アラゴンを表敬訪問する場面があります。

キャサリン・オブ・アラゴンは、カトリック両王の末娘でヘンリー8世の最初の妃です。

その時大使が、「王のご覧に入れるためマルグリット・ドートリッシュの肖像画を持参している」と話すと、キャサリンはぜひ見てみたいとねだり、覆いを外して絵を見ます。

絵を見たキャサリンは、(なかなかの絵ではあるけれど)ミケル・シトウであればもっと巧く描くだろうに、という感想だったようです。

カトリック両王の娘キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵
カトリック両王の娘、フアナの妹キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日-1536年1月7日) ミケル・シトウ 1514年頃 美術史美術館蔵

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン

1506年、

 この年の夏、イングランド、ブルゴーニュ両国間の協定が破綻の兆しを見せ始めていた。サヴォイ公の未亡人マルグリット・ドートリッシュが、イングランド王の財力に目が眩んだ親兄弟の勧めにも耳を貸さず、ヘンリーとの再婚話を撥ねつけたのである。フィリップ大公が凱歌を上げて入国したカスティーリャでは、大公とその義父フェルナンドの間で王位継承をめぐる止む気配のない諍いが続いていた。そして九月二十五日、大公は突然に変死を遂げたのである。あるイタリア人大使によれば「何かを食べた」後急逝したという。

トマス・ペン(著). 陶山昇平(訳). 『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』. 彩流社. p.259.

次代のヘンリー王子(ヘンリー8世)に莫大な財産を遺したヘンリーは、マクシミリアン1世やフィリップ美公に巨額の資金を貸すこともしていました。

この神聖ローマ皇帝父子は彼の財産に目が眩み、マルグリットにヘンリーとの再婚を勧めますが、マルグリットは「もう誰とも再婚しない」ことを宣言し、その後実際に再婚しませんでした。

1507年12月、

神聖ローマ皇帝マクシミリアンとの「永続的平和」を謳う新条約を引っ提げたリチャード・フォックスが、カレーから帰国した。ほぼ二年前、ウィンザーで署名された両国間の相互防衛協定を追認したこの条約の核となるのは、マクシミリアンの嫡孫で九歳になるシャルルとメアリー王女の婚約で、翌年のイースターに代理結婚式が挙げられる運びとなっていた。負債で首が回らないマクシミリアンは、必要な書類の処理を遅らせていた。娘のマルグリットに打ち明けていたように、シャルルとイングランド王女の婚約を皇帝が認めたのは、姻族となるイングランド国王から「十分な金」を得るためだった。(ちなみに皇帝はシャルルの世話をマルグリットに委ねるとともに、ヘンリーからの結婚申し入れを受けるよういまだに説得を続けていた。)

トマス・ペン(著). 陶山昇平(訳). 『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』. 彩流社. p.350.

この後の1508年でもまだマルグリットが渋っている様子が出てきます。

さて、先程「シャルル」(Charles)という名前が出てきました。

シャルルのドイツ語読みはカール(Karl)です。

スペイン語読みではカルロス(Carlos)。

マクシミリアンの孫に当たる男の子、後の神聖ローマ皇帝、スペイン王のことです。(彼は1500年生まれなので、「1507年に9歳」だと計算が合いませんが、ここは置いておきます。)

最終的には実現しませんでしたが、このカールと、ヘンリー7世の娘のメアリー王女には縁談が持ち上がっていました。

マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー) 16世紀 Jean Perréal 画
マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー) 16世紀 Jean Perréal 画

引用元;マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー)

メアリー王女(フランス名はマリー・ダングルテール)は、王妃アンヌ・ド・ブルターニュと死別したフランス国王ルイ12世と結婚します。

結婚後3ヵ月でルイ12世が亡くなったため、イングランドに帰国。

その後元恋人と再婚します。

メアリー王女とこの恋人の孫が、後にロンドン塔で斬首される「9日間女王・レディ・ジェーン・グレイ」です。

(関連記事:1553年、9日間女王「レディ・ジェーン・グレイ」(前)

ヘンリーは自分の娘をカールに嫁がせ、自分はハプスブルク家からマルグリットという嫁を迎えようとしていたのです。

1507年、マルグリットのネーデルラント総督就任

1507年、父の命でネーデルラント総督に就任したマルグリット。

兄フィリップの遺児たちを引き取ったマルグリットは、4人の子どもたちのために「学校」を設けました。

 (略)、幼い頃から両親の庇護を受けられなかったこと自体は、子どもたちの成長にとって、必ずしも悲しむべきことではなかったかもしれない。スペインで生まれ育った次男フェルディナントと末娘カタリーナを除く四人の兄弟姉妹たちは、叔母にあたるマルガレーテ大公妃のもとにひきとられて、ブラバントの小さな、しかし美しい町メッヘルンで、夢多くも甘美な少年少女時代を過ごすことができたからである。

 マルガレーテ大公妃はルネサンス期の才媛たちの一人で、古典の教養も深く、フランス語の詩を書き、ラテン語に堪能だった。美公といわれた兄フィリップの夭折ののちネーデルラント総督の総督になった彼女は、甥カールと三人の姪に囲まれた楽しい家庭生活を味わうことができた。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.16.

このメヘレン(Mechelen メヘルン、メッヘルンとも表記)は、幼いフィリップとマルグリットが祖母のマーガレット・オブ・ヨークに愛情込めて養育された場所でした。

マルグリットの4人の甥姪たちのうち、この地を最初に離れていったのは、当時9歳の三女マリアでした。

この陽気で茶目っ気のあるしっかり者の娘は、祖父マクシミリアン帝がハンガリー王ウラディスラフとの間に結んだ「ウィーン条約」(一五一五年)に従って、ハンガリー王ラヨシュの妃となるべく、はるばるウィーンへ旅立っていった。その頃には、二人の姉の嫁入り先もすでに決まっていた。いずれも祖父の結婚政策に従って、王女エレオノーレはポルトガル王マヌエル一世のもとへ、次女イザベラはデンマーク王クリスティアン二世のもとへと嫁ぐことが決定されていた。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.18.

当時のヨーロッパで最も文化水準が高いといわれたマルグリットの宮廷に、1513年、イングランドの外交官の娘が留学してきます。

当時10~13歳くらいのこの女の子(正確な生年不明)が、アン・ブーリン。

後にヘンリー8世妃となり、エリザベス1世の生母となる人物です。

"Portrait of a Lady, called Anne Boleyn" 1532年-1535年頃 ハンス・ホルバイン画
アン・ブーリン(1501年頃-1536年5月19日) 1532年から1533年の間 ハンス・ホルバイン(子) 大英博物館蔵

引用元:アン・ブーリン

カンブレー同盟戦争とその後 

1508年から1516年にかけて、イタリア半島における権益を巡り、フランス、ヴェネツィア他各国が争います。

スペイン、神聖ローマ帝国、イングランド、スコットランド、イタリア諸邦も巻き込み、大きな戦争となりました(カンブレ―同盟戦争)。

ネーデルラント総督に就任していたマルグリットは、外交や政治の才能を発揮し、政治家として父を助けます。

父、甥のカールの側に立ち、オーストリアの対フランス、イタリア政策を支援しました。

1508年には、対ヴェネツィア問題で苦境に陥っていた父を助けるため各国領主に働きかけ、マクシミリアンは危機を脱します。

各国で世代交代が起こる

1515年、カールはブルゴーニュ公を継承します。

イングランド王ヘンリー7世は1509年に世を去っており、ヘンリー8世が父の跡を継いでいました。

イングランド王ヘンリー8世(1491年-1547年) 1540年 ハンス・ホルバイン(子) ローマ、国立絵画館蔵
イングランド王ヘンリー8世(1491年-1547年) 1540年 ハンス・ホルバイン(子) ローマ、国立絵画館蔵

引用元:ヘンリー8世

1515年1月1日にフランスのルイ12世が死去し、娘婿のフランソワ1世が次の王となります。

翌1516年にはアラゴン王フェルナンド2世が亡くなりました。

ほぼ同じ時期に、各国で世代交代が起こっていました。

フアナとカールの再会

1517年、カールと姉レオノールは、トルデシリャスに幽閉中のフアナと再会します。

レオノールは結婚のためポルトガルへ赴くところでした。

その後初めて、カールは、スペインで生まれ育った弟フェルディナントと妹カタリナと対面します。

祖父アラゴン王フェルナンド2世が溺愛し、手塩に掛けて育てたフェルディナント(ドイツ語名はフェルディナント(Ferdinand)、スペイン語名はフェルナンド(Fernando))。

スペインの人びとはフェルディナントが国王になることを望んでいましたが、マクシミリアンとマルグリットの意向で、兄のカールがブルゴーニュを離れてスペイン王となり、弟フェルディナントはスペインを離れてオーストリア大公となります。

それは本人たちの意志に反した成り行きだったにちがいない。しかし二人は黙々としてそれに従った。

 この兄弟はそれぞれまったく別々の環境のもとで少年期を過ごし、また性格も正反対だったにもかかわらず、生涯にわたってよく協力し合い、対立することは稀だった。時として意見が合わないことがあっても、それが元で骨肉相食むような醜い争いに発展することは決してなかった。兄弟は四人の姉妹ともども、力を合わせてハプスブルク家の繁栄に努めた。父フィリップは早く他界し、母フアナは子供たちのことなど念頭になしといった逆境が、かえって彼らの結束を固くし、祖父マクシミリアンと叔母マルガレーテの強い感化のもと、ハプスブルクの黄金時代を築くのである。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.30.

神聖ローマ皇帝選挙戦にフランス国王が立候補

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が崩御し、次の神聖ローマ皇帝を選ぶことになりました。

その選挙に、ルイ12世の次のフランス王であるフランソワ1世が立候補。

カールの最大のライバルとして、猛烈な買収工作を展開します。

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

この選挙戦の参謀はマルグリットが務めました。

フランソワ1世を上回る資金を以て対抗するため、彼女はハプスブルク家と馴染みの深かった豪商フッガー家とヴェルザー家の協力を取り付けます。

6月28日、カールはドイツの選帝侯たちの満票で神聖ローマ皇帝に推挙され、「カール5世」を名乗ります。

1521年。フランソワ1世は、ブルゴーニュを武力で攻撃。さらにナポリ王国を侵略しようとします。

しかし、カール5世の皇帝軍はフランス軍を破り、ミラノ、ブルゴーニュ西部のトゥルネを奪回しました。

1525年「パヴィアの戦い」

1525年の「パヴィアの戦い」において、フランソワ1世率いるフランス軍と、カール5世率いる皇帝軍が激突します。

先のトゥルネの戦いでフランス軍側で戦ったシャルル3世・ド・ブルボンは、遺産相続問題でフランソワ1世と不仲になり、カール5世の側についてしまいます。

シャルル3世・ド・ブルボン(1490年2月17日-1527年5月6日) 1520年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵
シャルル3世・ド・ブルボン(1490年2月17日-1527年5月6日) 1520年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵

引用元:シャルル3世・ド・ブルボン

この戦いで、ブルボン公はフランソワ1世を捕虜にするという戦果をあげました。

さらに、モンモランシー将軍や大貴族など、多くの将官たちが皇帝軍側の捕虜になってしまいます。

フランス王自身が捕虜となったこの出来事に、フランス国民は驚愕しました。

フランソワ1世の母「母后ルイーズ」

ルイーズ・ド・サヴォワ(1476年9月11日 -1531年9月22日、イタリア名はルイーザ・ディ・サヴォイア) 16世紀 École De ジャン・クルーエ バンベルグ財団美術館
母后ルイーズ

フランソワ1世とマルグリット・ド・ナヴァルの母親で、王をも凌ぐフランスの実力者といわれた「母后ルイーズ」です。

ルイーズは11歳頃に、ルイ12世の従兄であるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと結婚し、後に死別しています。

子どもの頃共に学んだマルグリット・ドートリッシュの友人で、亡くなったフィリベルトの実の姉でもありました。

母后ルイーズは、

男勝りの女性で、息子フランソワを陰で動かしていたともいわれるほど、政治にも容喙ようかいした遣手やりての母后だった。世のありきたりの母とは違って、彼女は思いもよらぬ災難にあってもびくともせず、国家の再建めざして奮闘する。やっと自分の出番が回ってきたかというように、天下に号令する。

 まず貴族たちをリヨンに招集して彼らに、

「国を守るために死力を尽くせ」

と、声高く激励する。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.82.

前出のブルボン公がカール5世側に走ったのも、ルイーズが原因だったそうです。

ブルボン公の妻は、ルイーズの従姉であるアンヌ・ド・ボージューの娘でした。

この女性が亡くなったとき、ブルボン家の遺産をめぐってルイーズとブルボン公と対立したのです。(息子のフランソワは当然母親の味方) 

下の女性はフランソワ1世の姉に当たる、マルグリット・ド・ナヴァル。

文芸作品『エプタメロン』の作者で、後の国王アンリ4世の祖母に当たります。

才色兼備のマルグリットも弟フランソワに大きな影響を与えました。

マルグリット・ド・ナヴァル(1492年4月11日-1549年12月21日) 1527年 ジャン・クルーエ ウォーカー・アート・ギャラリー蔵
マルグリット・ド・ナヴァル(1492年4月11日-1549年12月21日) 1527年 ジャン・クルーエ ウォーカー・アート・ギャラリー蔵

引用元:マルグリット・ド・ナヴァル

母后ルイーズ、マルグリット・ド・ナヴァルとブルボン公について書かれた『戦国明暗二人妃』(渡辺 一夫(著) 中公文庫)という書籍も出ています。ちょっと古い本ですが、もう少し詳しく知りたいと思われた方はこちらをどうぞ。

1526年マドリッド条約、コニャック同盟戦争

1526年、スペインで捕虜生活を送るフランソワ1世。

カール5世と交渉の末、和解の印として、「カール5世の姉・レオノールと結婚する」「自分の身代わりに、自分の王子ふたりを人質として差し出す」ことを決め、「ブルゴーニュ公領とイタリアのフランス領の放棄」を骨子とする「マドリッド条約」が成立します(1月)。

レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵
カールの姉レオノール。1521年にポルトガル王と死別。
ルイ12世王女、フランソワ1世妃クロード(1499年10月13日 - 1524年7月20日) school of ジャン・クルーエ 1520年頃 コンデ美術館蔵 
ルイ12世の長女でフランソワ1世妃だったクロード。1524年に死亡。

引用元:クロード

3月、フランソワ1世とふたりの王子たちが交換されます。

フランソワ1世は自由の身になった途端、聖書に手を置いて誓ったことを忘れ、可愛いふたりの王子のことも忘れ、「万歳!」を唱え、「余はまだフランス王だ!」「マドリッド条約などなんだ。あんなものは一枚の紙切れの価値もない!」と叫んだそうです。(さいてーだな(-_-メ))

アンリ2世 1553年頃 フランソワ・クルーエ フランス国立図書館蔵
人質になった王子(後のアンリ2世) 1553年 フランソワ・クルーエ フランス国立図書簡

引用元:アンリ2世

カール5世はフランソワ1世に対し、早くマドリッド条約の批准をフランスでも済ませるように申し入れますが、フランソワ1世からは一向に返事がありません。

業を煮やしたカール5世が派遣した使者に向かって、フランソワ1世はこう言いました。

「あの条約は身柄を拘束されていたときに、半ば強制的に押し付けられたものだから、守るつもりはさらさらないし、その必要もない」 

再び戦火が上がります。

そして、コニャック同盟戦争(1526年~1530年)のさなか、1527年5月、後に「ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ Sacco di Roma)」と呼ばれることになる大きな事件が起きます。

満足の行く給料を払って貰えず、食料も不足したカール5世軍の傭兵たちは近隣の都市や町、村を襲って物資を奪い始めました。

その後ローマに侵攻した傭兵たちは暴徒と化し、殺戮、強盗、強姦と非道の行いを繰り返し、美しかったローマは廃墟のようになってしまいます。

1529年「貴婦人の和約」

1529年、カール5世とフランソワ1世のなかに、「もう、そろそろ休戦に」との考えが浮かびますが、自分たちの立場上、先に相手に切り出すことはできません。

彼らに代わって交渉の席に着いたのは、マルグリットとルイーズでした。

40年以上前、フランスに人質同然に連れて行かれたマルグリットでしたが、

その頃マルガレーテは、サヴォイの公女ルイーズとよく遊んだものだった。彼女たちは、これから入ってゆかねばならない虚偽に満ちた大人の世界のことなど何も知らずに、美しいロワール渓谷に臨むアンボワーズの雅やかな城館で、無邪気な少女時代をともに過ごした。

 歳月は矢のごとくに過ぎ、二人の少女はまったく別の人生の道を歩んだ。マルガレーテは皇帝カール五世の総督としてネーデルラントの治世にあたり、ルイーズはフランソワ王を陰で操る実力者となった。

 しかしいかに男勝りとはいえ、ルイーズもやはり女性である。三年前に息子がマドリッドの牢獄に収監されたと聞いた時には胸を痛めたが、いま気がかりなのはフランソワの身代わりとなってスペインに留置されている二人の孫のことである。目の中に入れても痛くない、かわいい盛りの愛孫たちが、けなげにも、

「行ってまいります」

と別れの挨拶をしに来た時のことをまぶたに思い浮かべると、しっかり者の祖母もつい目頭が熱くなるのを禁じ得ない。息子の場合とは違って、何の罪もないのに異国で不自由な生活を強いられているのかと思うと、この豪胆な母后にも人並みに憐憫の情がそくそくとして湧き起こってくる。

 ちょうどそこへ、幼友達のマルガレーテから、

「カールとフランソワを仲直りさせてはどうでしょうか」

という申し出があった。ルイーズにとっては、願ったりかなったりだった。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.115.

ふたりはカンブレーで、使者を介してひそかに協議を重ねます。

そしてついに、1529年8月、「貴婦人の和」(「貴婦人の和約」、「カンブレーの和約」ともいわれます)締結に至りました。

 この「カンブレの和」は原則的にいえば、先のマドリッド条約の再確認といっても大差ないであろう。しかし皇帝は、あれほど固執していたブルゴーニュ公領(ブザンソンを州都とするフランシュ・コンテ)の宗主権については譲歩することとした。フランス王はイタリアにおける全権益を放棄し、スペインに留置中の二人の王子釈放の代償として二〇〇万ターラーを支払うことが定められた。

 「カンブレの和」全体の掉尾ちょうびを飾るものとして、また皇帝と王の友好のしるしとして、フランソワ一世はカールの姉エレオノーレを王妃として迎えることが決定された。二人の結婚はすでにマドリッド条約の定めるところだったが、王の契約不履行のために反古にされたも同然で、うやむやになっていたのだった。

江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.116.

1530年、レオノールはフランソワ1世と結婚し、フランス王妃となります。

ふたりの間に子どもは生まれず、レオノールは政治には関わりませんでしたが、フランソワ1世とカール5世の橋渡し役を務めました。(後にカール5世とフランソワ1世はまた戦います。)

『貴婦人の和約』 1871年 フランシスコ・ホベール・イー・カサノヴァ  プラド美術館蔵
『貴婦人の和約』 1871年 フランシスコ・ホベール・イー・カサノヴァ  プラド美術館蔵

引用元:『貴婦人の和約』

スペインの画家 Francisco Jover y Casanova(フランシスコ・ホベール・イー・カサノヴァと表記? 1836年-1890年)による歴史画です。 

実際にこんな感じだったのでしょうかね。

翌年の1530年冬、マルグリットはその生涯を終えます。

遺体はフィリベルトと同じブール=カン=ブレス( Bourg-en-Bresse )の霊廟に埋葬されました。

次代のネーデルラント総督には、夫と死別し未亡人となっていた姪のマリアが就任します。

マリアもその後再婚することなく、1555年まで務めました。

マリア・フォン・エスターライヒ(1505年9月17日-1558年10月17日) 16世紀前半 Jan Cornelisz Vermeyenにちなむ メトロポリタン美術館蔵
カール5世の妹マリア。1530年ネーデルラント総督に就任、1555年まで在職。

その他マルグリット・ドートリッシュ関連

コンラート・マイトによるマルグリットの像

マルグリット・ドートリッシュの肖像 1550年頃 コンラート・マイト
マルグリット・ドートリッシュの肖像 1550年頃 コンラート・マイト

引用元:マルグリット・ドートリッシュの肖像 AnatolyPm    CC-BY-SA-4.0

マルグリット・ドートリッシュ 1518年頃 コンラート・マイト バイエルン州立博物館蔵
マルグリット・ドートリッシュ 1518年頃 コンラート・マイト バイエルン州立博物館蔵

引用元:マルグリット・ドートリッシュ胸像

前出のフィリベルトの胸像と、マルグリットの肖像、胸像の3点はドイツ生まれの彫刻家、Conrad Meit(Conrat Meitとも表記、1480年代-1550/1551年頃)による作品です。

ドイツ名はコンラート・マイトと発音・表記して良いと思いますが、コンラッド・メイト(英語?)とされているかもしれません。

彼の後期の作品の多くはブリュッセルやアントワープで制作されているようで、マイトはアントワープで亡くなっています。 

マルグリットはどちらも未亡人の姿で彫られていますね。

下の作品だけがマルグリットの存命中に作られていす。(マルグリットは1530年没)

2点とも、鼻に目が行きませんか?

絵画だとあまり気になりませんよね。

絵画では控えめに描かれる部分も、彫刻はそのひとの姿を割りと正確に写し取っていると言われます。

ハプスブルク家の顔の特徴に、「鷲鼻」というのがありますが、父親のマクシミリアン1世も大きめの鼻をしています。

もしこの彫刻家が本物のマルグリットを見たことがあるのなら、この胸像はかなり実物に近い…と思っていたのですが、Wikipediaでこのような記述を見つけました。

書籍紹介ブログとしては、自分で書籍を確認することなくネット上の情報をお手軽に載せるのは不本意ではありますが、もしかしたら読みたい方もいらっしゃるかもしれないと思い、一応参考までに。

From surviving letters, Margaret had initially sought out Meit for his reputation as a portraitist, and he produced a range of portraits of her and her many relations.[21] A terracotta bust of her nephew Charles V is now kept at the Gruuthuse Museum, Bruges.[22] He produced a great quantity of small sculptures in bronze and boxwood, with some of the nudes, such as Adam and Eve (there are a number of pairs) and Judith with the Head of Holophernes, often similar in style to the paintings of Cranach.[23] A striking wood Lucretia in the Metropolitan Museum of Art, New York, is in a more expressive style.[24] There is also an early Falconer in Vienna, and a wood Entombment in Munich. Together, these works look forward to later small-scale sculpture in the German Renaissance.[25]Meit’s portraits of Margaret varied between those showing her at the age when her husband was still alive, before Meit knew her, and those showing her at her age when they were made, and also reflect her different roles as Regent, archduchess, widow and family member. Some remain in the main Habsburg collections in Vienna.[26] There are also small boxwood busts of Philibert and Margaret in the Waddesdon Bequest in the British Museum, with similar ones in Berlin and Munich; a larger pair in marble, for her library, are now lost.[27] An alabaster head, perhaps representing Cicero, is in the Getty Museum.[28] There are bronzes, which are probably designed by Meit but with others doing the casting.[29] 

 Conrad Meit – Wikipedia

最初、コンラート・マイトの肖像彫刻家としての評判を聞いたマルグリットが彼を探したようです。

マイトは、マルグリットの甥である神聖ローマ皇帝カール5世のテラコッタ製胸像や、『アダムとイヴ』のようなヌードもの、クラナッハの絵画に見られるような『ユディットとホロフェルネス』、メトロポリタン美術館にある『ルクレツィア』など、多くの作品を制作しました。

マルグリットは自分の胸像やフィリベルトの胸像も複数作らせているようですから、やはりこの作家とは「会っていた」のかと思います。

この辺の話、書いてある書籍を探してみたいです。 邦訳は見つかるかな?

フィリベルトの異母兄・ルネ( René of Savoy, 1473 – 1525年3月31日)

フランス名 René de Savoie

イタリア名 Renato di Savoia-Villars

通称は、

フランス語で「ルネ・バタール」(Grand Bâtard de Savoie)、

イタリア語では「レナート・イル・バスタルド」(Bastardo di Savoia」。

バタール、バスタルドは「庶子」「私生児」の意味で、英語の「bastard」に当たります。

ルネはフィリベルトやルイーズの父の庶子です。

フィリベルトとマルグリットの代理結婚では、このルネが花婿の代役を務めました。

ルネの娘はマドレーヌ・ド・サヴォワといい、長じてアンヌ・ド・モンモランシー(フランスの将軍、元帥)と結婚します。

若い頃のアンヌ・ド・モンモランシー(1493年-1567年) 1530年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵
アンヌ・ド・モンモランシー(1493年-1567年) 1530年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵

引用元:アンヌ・ド・モンモランシー

パヴィアの戦いでは捕虜になりましたが身代金を払って解放され、その後のマドリッド条約ではカール5世との交渉に当たりました。

アンヌ・ド・モンモランシーは国王フランソワ1世のいとこと結婚したことになり、モンモランシーは、フランソワ1世、アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世ら歴代の国王に仕え、アンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシスの腹心としても働きました。

アンヌ・ド・モンモランシー元帥の孫娘が、シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー。

国王アンリ4世に追いかけ回された、コンデ公アンリ2世妃です。 

ヘンリー8世妃アン・ブーリン

1513年、マルグリッの宮廷に留学したアン。

「賢い娘さんを預かることになって嬉しい」「年齢の割に立ち居振る舞いが立派」とマルグリットはアンの父に書いています。

中野京子氏の『残酷な王と悲しみの王妃』では、

アンはブルゴーニュにおいて、女性ながらトップの座に君臨し、優れた政治手腕をふるうマルガレーテの姿を間近に見てきた。さらにフランソワ一世の宮廷では、陰で王や権力者に強い影響を与える女性たちの力を知った。その力の効果的使い方、その力の拠ってきたる男殺しのテクニックを学んだ。

中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.208.

とあります。

アンはマルグリットの宮廷を離れたあとはフランスで学び、フランスに輿入れしたメアリー王女(マリー・ダングルテール)が去った後も、フランソワ1世妃クロードの宮廷に留まります。

アンは、政治家としてのマルグリット・ドートリッシュ、国王フランソワ1世やその宮廷に大きな影響を与える母后ルイーズやマルグリット・ド・ナヴァルを間近で見てきました。

かつて、マルグリットとルイーズはアンボワーズ城で摂政アンヌ・ド・ボージューを、マルグリットは嫁ぎ先のスペインでカスティーリャ女王イサベル1世の政治を見ていました。

こうやって先代の影響を受け、「歴史」というのは次代へと紡がれて行くのだなと思います。

それをどのような形で活かすかはそのひと次第、でしょうか。 

お見合い肖像画『デンマークのクリスティーナ』(1538年)

『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』 ハンス・ホルバイン画 1538年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』 ハンス・ホルバイン画 1538年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』

デンマークの王女・クリスティーナの「お見合い肖像画」です。

1523年、父・クリスチャン2世(クリスティアン2世)が廃位され、一家でネーデルラントへ亡命。

母のイサベルはカトリック両王の娘のひとりで、幼い頃はマルグリットに養育されていました。 

困窮した一家を見かねたマルグリットはクリスティーナら子供たちを引き取り、養育します。

クリスティーナは1534年にミラノ公と結婚しますが死別し、ブリュッセルの宮廷に戻ってきていました。

イングランドのヘンリー8世が次の妃を探し始め、妃候補の肖像画を描くために、ヘンリーに派遣された画家ホルバインが宮廷にやってきます。

喪服姿のクリスティーナは3時間だけモデルになりました。

クリスティーナはその後1541年に、バール公フランソワと結婚しました。

表記、言い方に関するハナシ 

「サヴォイア」「サヴォワ」「サヴォイ」は、何となく「同じもん?」と想像できそうですが、

英語でオーストリア「Austria 」が、ドイツ語では「Österreich 」(エスターライヒ)。なんだか別物に思えますね。  

ここでは混乱(私のね)を避けるため、引用以外は「マルグリット・ドートリッシュ」にしましたが、

フランス語では、マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d’Autriche)

スペイン語では、マルガリータ・デ・アウストリア(Margarita de Austria)

イタリア語では、マルゲリータ・ダウストリア(Margherita d’Austria) 

オランダ語では、マルハレータ・ファン・オーステンレイク(Margaretha van Oostenrijk)

ドイツ語では、マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(Margarete von Österreich) 

英語ではマーガレット・オブ・オーストリア(Margaret of Austria)

です。

私は昔、イタリア語圏スイス人とドイツ語で喋っていて、「ミラノに行ってみたい」という話のなかで、思い切り「ミラノ Milano」と言ったら、友人からは「うん、マイランドは良い所だよ。実家から近いから、私のうちに泊まって、そこから行くといいよ」と返ってきました。

「?マイランド?聞いたことないな。何処だろ。じゃあマイランドにも行ってみたい。何処にあるの」と言うと、「…えーとね、マイランドはねえ、ミラノのドイツ語名なんだよね…」。

…。

ああ、わざわざドイツ語の言い方に直して言ってくれたのね…。

ごめん、全然わかんなかった…。

「ミラノ」を「マイランド」っていうの、そのとき初めて知った。

ミラノがミラノじゃないなんて、思ってもみなかったよ。

「ミラノ」「マイランド」と耳で聞くと「同じもん」には到底思えませんでしたが、書くと「Mailand」で、なんとなーく「同じもん」ぽい、ような。

いや、でも別にもう「Milano」で良くないですか?と思います。

そして、日本語では「ウィーン」と書くべきか「ヴィーン」と書くべきなのか、私は毎回迷いまくります。

今回は激長の記事になってしまいました。

最後まで読んで下さって本当に有難うございました。お疲れ様でした。

主な参考文献
  • ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林.
  • 江村洋(著). 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房.
  • 高橋裕子(著). 『イギリス美術』. 岩波新書.
  • トマス・ペン(著). 陶山昇平(訳). 『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』. 彩流社.
  • 中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫.
  • 西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ』. 彩流社.
  • 阿河雄二郎・嶋中博章(編). 2017-7-25. 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂.
  • 江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書. 講談社.
  • 岩崎周一(著).2017.『ハプスブルク帝国』.講談社現代新書. 講談社.
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コメント

コメント一覧 (18件)

  • hannaさん マルグリットさん後半も波瀾万丈な人生が続きましたね。
    1518年マイト作の胸像の明るく、意思の強い人柄に彼女の本質を見られた気がしました。同年に描かれたオルレイ作の肖像画にも、柔和で知的なネーデルランド総督としての自信が満ち溢れていますね。婚礼用に描かれたであろうこれ以前の肖像画の神経質で無表情な印象からは大きく変化しています。過酷な人生前半と、サボイア以降の女性宰相としての充実した生活が見てとれますね。没後は愛する伴侶と同じ教会に葬られたとの事、短い結婚生活ながらも家族との暮らしに平安を感じていたのでしょうか。
    それにしてもこの時代は優秀な女性達の活躍なくして進展は無かった様ですね。今回もありがとうございました。楽しく空想の海で遊びました。

    • YUSAN様

      読んでくださってどうも有難うございました。

      もし、どちらかの夫と愛のある生活が長く続いていたら、後の神聖ローマ皇帝カール5世は無かったのではないか。そうしたら歴史はまた変わっていたのかと思います。
      「狂女王フアナ」や「ヘンリー7世」の人生の中にも「マルグリット・ドートリッシュ」の名は出てきますし、間違いなくこの時代の女傑のひとりなのに、なんだか我が国ではそんなに有名ではない?
      だとしたらとても残念なのですが、この記事がYUSAN様のお目に留まって良かったです。

      またどうぞよろしくお願い致します。

  • schun (id:schunchi2007)様
    コメント有難うございました。
    どちらも細菌なんでしょうねえ。
    フィリップには毒殺説がありますが、フィリベルトはわかりません。フィリップの時はペストが近くまで来ていたようです。
    2メートルは盛っているような気がしますが、私のドイツ語の先生をしてくれた同い年の男性はかなりの高身長でした。日本だと入り口を必ずくぐるので、「北ドイツのひとは大きいな」と思った記憶がありますが、この当時のイタリア人男性の栄養状態はどうだったんでしょうね。気になります。
    お忙しいなか来て下さって有難うございました。

  • おはようございます。
    どーでもいい話で恐縮ですが、お水を飲んでお亡くなりになるって
    最近がたまたまいたか、毒殺されたかって
    感じなんですかね。
    幸せが突然壊される。いつの時代もそういうことがあるんだなって
    拝見しながら感じました。
    それにしても2メートルの身長って、西洋の方は昔から大柄な方が
    いらっしゃったんですねo(^o^)o

  • だるころ9216 (id:darucoro9216kun)様
    いつも細かく丁寧に見て下さって有難うございます。
    コメントも有難うございます。雑なんてことないです。有難うございました。
    私も詳しいことはわかりませんが、肖像画の真正面向きというのは確かイエス・キリストの向きなので、同じでは恐れ多い?ので斜め向き、だと思います。
    お肌、身長はやはり美化・誇張盛り盛りだと思ってみてます。マルグリットもよく「美貌」と書かれていますが、胸像を見ると、わかり易い美人というより、「可愛い」タイプだったかと。ルイーズやフアナは美人だったみたいです。
    わかりました。次はどれにしようかと思っていましたが、瀉血を施された王様にします。
    昔は他に治療のやりようが無くて、医師たちはとにかく何でもいいからやっちゃえ的な感じですね。
    医療の歴史と処刑の歴史はセットで見ていくと実に面白いものです。
    今日も有難うございました。

  • マルグリット・ドートリッシュの肌が綺麗ですね。
    でも、独特の表情です。
    仮面様顔貌と言うか…..脂漏性顔貌って感じです。
    サヴォイア公フィリベルトが娘のマルグリットとの結婚を承諾とかもうすべては国の為ですね。
    フィリベルトは2mって高すぎない??
    顔の向きとか女性の描ける表情とか?
    決まりがあるのかなぁ~??
    とっても不思議な構図ですね。
    瀉血(しゃけつ)この時代から行ってたんですね。
    でも…体全体の熱を下げる瀉血(しゃけつ)は危険ですね。基本は関節の熱や筋肉の熱を清熱するために用いるものなのに….。
    きっと、感染症だったんですね。疫病が流行る時代?なんでしょうか??
    すいません。ついつい瀉血の事が気になってしましました。この場合は瀉法と言いますが、病態としては補法が必要だったと感じました。
    コメントが雑ですいません。

  • ko-todo (id:ko-todo)様
    コメントかたじけない。
    今日も有難うございます。
    今回の話は「結局女性陣の方が有能だった」というのが裏テーマですかね。
    マルグリットなんて、父親や兄の美公よりだいぶ優秀じゃないですか。
    カールもフランソワも戦争ばっかり。いや、実際やるのは下々なんだけどね。
    ここでは書き切れなかったけど、実は、ブルボン公はフランソワの姉マルグリットに掘れ、母后ルイーズは息子ほどの年齢のブルボン公に秋波を送った…などというハナシもあるんですよー。
    ホントかああ?と思うけど、「ソデにされたことを怨みに思ったルイーズがブルボン公に報復したに違いない」というね。
    もうほんとに、善人だと生き残れない。

  • 石山藤子 (id:genjienjoy)様
    コメント有難うございます。
    この時代の女性は強かった、というより、権力にやられないためには、男女ともそれ以上に強く、したたかにならざる得なかったのだろうなと思って見ています。
    それに、王女様たちは国を背負って異国に嫁ぎますからねえ。タイヘンですよね。
    こうしたひとたちは名前、肖像画など資料が残っていますから後世にも伝わっていますが、仰るように、歴史に埋もれていった名もなき女性はすごくたくさんいたんだろうなと思います。
    そういうのってすごく興味深いですよね。
    今回も読んで下さって有難うございました。

  • id:happy-ok3様
    お忙しいなか今回もコメント有難うございます。
    運命の皮肉、といいますか、フアナは夫を熱愛し、6人の子どもを授かりますが、マルグリットには1人も子どもはいませんでした。
    スペイン王の後継者だったイサベルは産褥死。フランソワの母后ルイーズは若くして寡婦になりましたが、息子が王になり、彼女は陰で息子を操ると言われる実力者となる。
    このマルグリットがいたからこそ、神聖ローマ皇帝カール5世は誕生したといっても過言ではないと思うのですが、世界史の教科書などには「貴婦人の和約が結ばれた」くらいしか書かれていません。
    歴史が興味深いと思えるようになるにはこうした背景を知ることも大事なのにと感じます。
    今回も読んで下さって有難うございました。

  • くろいぬ (id:suburikuroinu)様
    コメント有難うございます。
    会わずに作ることも、会わずに描くこともあります。
    ベラスケスが描いたフェリペ3世とか、ベルニーニのチャールズ1世の胸像とか(現存せず)。
    『狩場のチャールズ1世』の記事でも少し書いたのですが、ヴァン・ダイクのチャールズ1世の三面像はローマにいるベルニーニに「見本」として送られ、それを基にベルニーニは胸像を作って送ってきたのだそうです。
    ですので、専門家でもない私が気にして見るのは、取りあえず制作年代(本人が存命中かどうか)です(笑)。
    モデルが生きていたからといって実際会って制作したかわかりませんので、「モデルになった」とか、そんなことが書いてある書籍を探します。
    ハイ、私も一瞬「My land」を疑いました。
    出来ればシャルルとか、「同じ名前」攻撃も止めて欲しいと思います。

  • まーたる (id:ma-taru)様
    今回もコメント有難うございます。
    そう、あれですね、バートレット。彼女の父方の祖母、エレオノーレも身に着けた姿を絵に描かれてましたね。薄いんですよね、布。
    私が興味あるのは、ほんとはこうした服飾関連なんですよね(*’▽’)気にしてくださって嬉しいです~!!
    マルグリットの胸像、たぶんかなり実物に近いんじゃないかなと思っています。ぜひ本物が観てみたいですねえ。
    ヘンリー8世妃関連はまた出したいと思います。またお付き合いいただけると嬉しいです。
    まーたるさんもご自愛を。
    有難うございました。

  • 森下礼 (id:iirei)様
    今回もコメント有難うございます。
    きょうだい、いとこ、またいとこ…。取りあえず、ざっくり「親戚」と言っておけばほぼ間違いないくらいの勢いですもんね。
    私は最初ルイーズ母后の方を知っていました。マルグリットは、読んでいたプラド美術館やカール五世関連の書籍によく名前が出て来たので興味を持ちました。そしたら、彼女はルイーズの弟と結婚していて、女性ふたりは幼馴染だというじゃありませんか!えっ、じゃあこのふたりが「貴婦人の和約」のひとたちなんだ、とようやく繋がった。と、こんな順番でしたね。
    マルグリットの方がルイーズより劇的な人生では…と思いました。
    ルイーズ以上に比べてしまうのが、兄嫁にして義妹のフアナです。マルグリットには子どもがいませんでしたが、フアナには6人もいて、しかも皆成人している。
    夫はどちらも同じような亡くなり方をしている。
    フアナは70代まで生きたけど、マルグリットは50くらいで亡くなっている…。仰るように、和睦を結んだ翌年に、この世での役目を終えたように。不思議ですね。
    あ、そうですね、瀉血は寿命をさらに縮めますね。やってはダメですよ。

  • 悲しみのも癒えぬうちに次から次へと…。
    ってか…
    殿方に統治を任さない方が良いんじゃない?
    ロクな事を考えないww
    ご紹介の肖像画も、どことなく、不機嫌な顔が多いような…。
    さもありなん…。

  • 男どもはプライドや国民への示しがつかんということで
    休戦の話ができない…
    そこで女が動く。
    歴史の表舞台で活躍した女性もいるけど
    裏で頑張っていた名のない女性もいっぱいいたんだろうなぁ。

  • こんばんは。
    今日も、詳しく有難うございます。
    「マルグリット」は、悲しかったでしょうね。
    仰るよう、歴史は先代の影響を受け、さらに次代へ受け継がれていきますね。
    次代を担う人によって、様々な事が、決まってきますね。
    人と言うのは、責任がありますね。
    歴史は興味深いです。
    戦争も宗教に関する責任も、どこかの「欲」のようなものが、大きくなってくるのでしょうね。
    今日も有難うございます。

  • 彫刻家ならより正確に作ろうとするでしょうね。会わずに作る事もあるのかな。
    「マイランド」は、私有地かと思いました。

  • こんにちは(о´∀`о)
    最初の絵でマルグリットの胸元のレースでしょうか、その透け感というか絵画でこれほどの透け感を出せるのが本当にすごい技術だ❗️と目を見張りました❗️(´⊙ω⊙`)
    当時のファッションもそうですが、ハンナさんの記事は芸術溢れる歴史書そのものですね✨
    世界史はあまり詳しくないですが、アン・ブーリンが出てくると食いついてしまうまーたるです(*≧∀≦*)
    ヘンリー8世とそのお妃たちの話はめちゃくちゃ波乱万丈で目が釘付けになります。
    マルグリットの胸像、迫力がありますね❗️
    実際見たらグッと迫るものがあるんだろうなと思いながら拝見しました。
    だんだんと秋めいてきましたが体調はいかがですか❓
    季節の変わり目、お身体ご自愛くださいね🍀

  • まあ、ヨーロッパ諸国の王室は、複雑な婚姻関係でつながっていて、どの国も、支配者階級はほぼ親戚同士であったわけですね。
    それにしても、前半生で女性ひとりに対しての超過酷な運命にもてあそばれたわけですが、サボイ公と結婚してから、夫の政治的無能、あるいは無関心という状況で、政治の場に登場したわけですね。これは彼女に運命の転機をもたらしたわけで、それからの彼女は政治の世界の重鎮になっていく・・・ドラマチックで興味深い後半生ですね。「貴婦人の和約」、ともに政治的手腕のある女性同士の盟約に、アホな男性たちも従うという・・・現代でも、世界を見渡すと、優れた能力を持った女性政治家が多数いることを思うと、マルグリットたちはその魁といった観を持ちます。その和約の成立した翌年、亡くなるというのは、彼女に神が与えた歴史的役割を終え、天に召されたのだと思われます。
    それにしても、「瀉血」という治療法は、誤った医学の産物のように思われます。

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