興味が有るのはミイラの作り方ですか?包み方?埋葬の仕方?ミイラ本体?私はその人物がミイラになる前、どのような生活を送っていたかに興味が有ります。
引用元:ラムセス3世葬祭殿(ラムセス3記念殿) https://www.flickr.com/photos/37174512@N03/52228985350/ CC-BY-SA-2.0
『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』
- ジョン・H・テーラー(著)
- 鈴木八司(監修)
- 鈴木麻穂(訳)
- 出版社 : 學藝書林
- 発売日 : 1999/2/1
- 単行本 : 147ページ
- ISBN-10 : 4875170483
- ISBN-13 : 978-4875170488
ミイラを包む布を取り去る。そうするとどんな形のモノが出てくるんだろう。
と好奇心でわくわくします。
しかし、ある博物館で「ミイラ」本体を見た時のことです。
もし自分が死んで、再生を望んでミイラになって…なのに、数千年後にこんなに人の目に晒される。
毎日毎日ジロジロ眺め回されて、記念写真を撮られる。
そう考えたらちょっとどころでなくイヤになりました。
かつて薬として飲まれたミイラも、燃料として燃やされたミイラも、絵の具にされたミイラもいます。
死者に対する敬意はあまり感じられず、単なる昔の「モノ」扱いです。
でもこのひとたちも生きて、働いて、結婚して、人生を終えたんだよね。
私とは宗教も文化も違うけれど、彼らは何に喜んで、どんなことを悩んでいたのだろう?
本の帯にあった文章、「一体の男性ミイラの解体を通して、ミイラ作製の手順や防腐処理技術のみならず、古代エジプトの神官でもあった職人長の生活・仕事・信仰を再現し、生前の人物像に迫る。」にとても興味をそそられます。
この本の目次
- 日本語版監修者のことば
- 謝辞
- 序文
- 第1章 ホルエムケニシの発見
- 第2章 第21王朝時代のエジプト
- 第3章 テーベの役人の生活と仕事
- 第4章 信仰と葬儀
- 第5章 ホルエムケニシのミイラの解体と研究
- 第6章 ホルエムケニシのミイラ作製
- 第7章 調査結果:ホルエムケニシという人物の復元
- 年表
- 参考文献
- 図版所蔵先一覧
- 訳者あとがき
- 索引
1904~5年、テーベ西岸にあるデイル・エル・バハリの岩窟墓の中で、彩色された木棺が発見されました。
木簡には「ホルエムケニシ」( Horemkenesi )の名が付けられていて、テーベの墓地域の岩面には同じ名前と地位をもつ人物の名前が刻まれているのが見つかっています。
木簡に書かれた名前と、岩に刻まれた名前の人物は同一人物と推測されていますが、一体なぜこの人物のミイラが解体されることになったのでしょうか。
ブリストルに到着する以前から、ミイラの保存状態は良くなかったようです。
1976年の猛暑の夏、高い湿度のせいで滲み出てきたナトリウム化合物によって、ミイラを覆う布や包帯が侵蝕されました。
布がぼろぼろになってもその侵蝕を止めることはできず、ミイラの保存の見込みは悲観的に。
1978年、X線検査が行われます。
その結果ミイラは調査に値するような興味をひく点が多いことがわかり、1981年3月に解体作業が開始されました。
1981年4月1日、ブリストル大学解剖学科の解剖室のテーブル囲み、科学者の一団が集合した。彼らの前には3千年前に古代エジプトで生きていた人物のミイラ化された遺体が横たわっていた。彼らが集まった目的は、風化による破損が進む前に、ミイラを解体し、できる限り多くの情報を得ることであった。包布まで無傷のミイラはきわめて少ないために、このような試みは現在ではめずらしいものであった。ブリストル大学の解体計画は、ミイラの悪化した状態のため廃棄処分を招くこともありうるので慎重に考慮したうえで実施された。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.10.
本書は前半と後半に分かれています。
序文に、前半はホルエムケニシの生きていた背景を再現し、後半はミイラ本体、調査結果から浮かびあがるホルエムケニシの人物像に迫るとありますが、内容はどちらも大変面白いものです。
木簡のデザイン、ミイラの状態、死因、ミイラの包み方…と、最新の機器を用いて、一体のミイラから得られる情報は多く、貴重。私もとっても興味が有ります。
引用元:ブリストル美術館の木簡 NotFromUtrecht CC-BY-SA-3.0
上の画像はブリストル美術館収蔵品の木簡です。詳しい説明が無かった為誰のものかよく判りませんが、日本版の表紙のものと似ていると思い、掲載しました。
『ミイラ解体』は写真も豊富です。
載っていた写真を参考に、ホルエムケニシさんの生前の生活を少しなぞってみたいと思います。
ホルエムケニシ氏という人物
外見、年齢
ミイラから判ったホルエムケニシという人物は、「体格がよく毛髪をきちんと剃った中年男性」でした。
ホルエムケニシはすでに歴史的にその名を知られており、彼の生前の生活を読み解く鍵もいくつか見つかっている。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.18.
歴代のファラオやその王妃、王女なら名前も功績もたくさん残っていることはわかります。
しかし、職業を持ち、職場で働いていた古代人の生活がわかるって、非常に面白いことではありませんか。
単なる「古代のミイラ」だったものが、急に身近な人間に思えてきます。
ホルエムケニシさんは紀元前1040年から1030年の間に亡くなったそうです。享年60歳ぐらい。
ホルエムケニシさんの棺は第21王朝の様式(襟飾りの上に手を置く表現、内面や足元に装飾を施している)であり、木棺に使われた木材の実年代の検査結果から絞り込まれたとのこと。
もうこの話だけでも超時空の彼方に吹っ飛ばされそう。
ちなみに、ホルエムケニシさんを納めていた棺は「既製品」でした。
名前の部分だけを空白にして標準的な装飾を施し、購入後に名前を書き入れるものだったとか。
それは突然の死だったから?既製品を使うって当たり前のことだったの?と次なる疑問が湧いてきます。
本書に書いていなければ、この時代のことについて書かれている本をまた読んでみればいい。
本の旅はいつも楽しいですよね。
職業
ホルエムケニシさんの名が記されたテキストから、彼が書記であり、神官としては「マディーナト・ハーブとナイル東岸にあるカルナックのアメン神の主神殿の双方の儀式にかかわっていた」そうです。
本書では「マディーナト・ハーブ」( Medinet Habu )となっていますが、メディネト・ハブとなっているものもあります。
書記になるには読み書きが必須だったので、多くの子どもたちは学校や親族、村の長老たちから学びました。
熟達した書き言葉の能力があったおかげで、ホルエムケニシは特別な地位につくことができたのだと思われる。当時読み書きができたのはエジプトの人口の1%以下であったといわれる。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.59.
『ミイラ解体』に掲載されているパレットは「後期王朝時代(?)」のものですが、下はメトロポリタン美術館蔵の書記のパレットです。(後期王朝時代:紀元前727年頃~332年)
引用元:書記のパレット
私の中で古代エジプトの書記といえば、この方。
引用元:書記座像 Ivo Jansch CC-BY-SA-2.0
職場
引用元:ラムセス3世葬祭殿(ラムセス3記念殿) https://www.flickr.com/photos/37174512@N03/52228985350/ CC-BY-SA-2.0
お勤め先はラムセス3世葬祭殿。大手ですね。
引用元:メディネト・ハブ葬祭殿航空写真 ThomasSD at de.wikipedia
『ミイラ解体』によると、「中心の神殿複合はそのまわりをさらに二重の壁」で囲まれたマディーナト・ハーブ(メディネト・ハブ)は行政の中心地であり、異民族からの襲撃を受けた住民の避難所でもありました。
神殿内には事務所や倉庫群、兵舎も完備。
この神殿の内部には、墓地域や神殿の収入源を管理する役人の役所や住居が設けられていた。また彼らは西岸の治安を保つ警察隊や、周壁内の神殿で働く神官たちと混在していたらしい(大周壁内には「永遠との結合」と呼ばれたラメセス3世の記念殿のほかに、特別に神聖であると信じられていた地点にハトシェプスト女王とトトメス3世が建てたアメン・レー神の小神殿があり、ホルエムケニシの時代には「ジェメの聖なる丘」と呼ばれていた)。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.61.
今すぐには海外の世界遺産を見に行けなくても、オンラインでなら。
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同僚プテフアメン氏の住居
今は失われてしまった西の大門を通り、墓地域の谷の仕事を終えたホルエムケニシさんは帰宅したのかもしれません。
西大門から入ったすぐ右手には彼の同僚、墓地域の書記プテフアメンの住居兼事務所があった。発掘の際、その住居跡の柱の表面にはプテフアメンの名前がまだ読みとることができた。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.63.
ホルエムケニシさんの住まいが何処にあったかはっきり判っていません。
しかし、この辺りにあったのではないかと思われるとのこと。
本書62ページに足場の無い写真が掲載されていますが、下の画像が、ホルエムケニシさんの同僚、書記プテフアメンさんの住居跡です。
引用元:メディネト・ハブ葬祭殿 Panegyrics of Granovetter https://www.flickr.com/photos/37174512@N03/52237099863/
今では柱だけが残っている状態ですが、かつてはここに人が住んでいたんですね。
彼らは一体どんな日常生活を送っていたのでしょうか。
ホルエムケニシ氏の称号
聖職者としてのホルエムケニシさんはワープ神官( wab priest, 「清められた神官」)でした。
最も低いランク「清められた神官」の上の等級は「神の父」、その上が「神の召使い」。
「神の召使い」の最高位の四名は更に四つの等級に分けられるそうです。
ホルエムケニシさんの棺のひとつから発見されたテキストによると、ホルエムケニシさんの称号は「ワーブ・エン・ハト」(先頭のワープ神官)とありました。出世されたようです。
ワープ・エン・ハトについて、
この称号は新王国時代には銀のサンダルの使用を許され、聖櫃をかかえて神の船の前を歩く役目をもった特別のワープ神官を指すことが多かった。しかし同時に「先頭のワープ神官」とは船を支える棹の先頭部を担ぐ神官たちを指していた可能性も高い。ラメセス時代の碑文や壁画には一般的にはこの用法がみられ、同様に後部を担ぐ人々が「後部のワープ神官」と呼ばれていた。おそらくホルエムケニシの称号の場合もこのような解釈が当てはまるであろう。
ジョン・H・テーラー(著). 鈴木麻穂(訳). 1999-2-28. 『大英博物館双書 1 古代エジプトを知る ミイラ解体 「王家の谷」造営職人長ホルエムケニシの生涯と死』. 學藝書林. p.69.
とありました。
ミイラやピラミッドについて書かれた書籍はよく見かけますが、神官についての本はそれに比べれば少ない気がします。
神官としての身だしなみ、職務内容など少しでもいいから知りたい、興味があるという方、ちょっと見てみて欲しい。
ホルエムケニシさんの人生をおおまかにつかんだ後は、後半を読み進めていきましょう。
もちろん、ホルエムケニシさんのミイラ姿が出てきます。
解体シーンの画像を気持ち悪いと感じるひともいるかもしれません。
後半部で私が一番惹かれたのは、ホルエムケニシさんの頭部の復元でした。
ああ、こんな顔をしていたのね、と思いました。
ミイラは単なるモノじゃない。数千年前、実際に生きていた人間なんだなあと実感します。
30ページ程の薄い絵本ですが、結構濃い内容。
ミイラについてもっと知りたい人に。
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