イタリアの芸術作品、特にルネサンスやバロック時代の物を観る時、イタリアの名門「エステ家」の名前を目にすることがあります。今回は『イタリアの食卓 おいしい食材 どう食べるか、どんなワインと合わせるか』のアチェ―ト・バルサミコの話から、15世紀から16世紀に生きたエステ家の人々についてです。
『イタリアの食卓 おいしい食材 どう食べるか、どんなワインと合わせるか』
私の手元にあるのは「2001年」版ですが、2015年に新装版が出ています。
- 林 茂(著)
- 出版社 : 復刊ドットコム; 新装版 (2015/4/24)
- 発売日 : 2015/4/24
- 単行本(ソフトカバー) : 291ページ
- ISBN-10 : 4835451406
- ISBN-13 : 978-4835451404
- 林 茂(著)
- 出版社 : 講談社(講談社+α文庫)
- 発売日 : 2001/6/1
- 単行本 : 307ページ
- ISBN-10 : 4062565285
- ISBN-13 : 978-4062565288
著者の林 茂氏は、1995年に日本人として初めてイタリアでソムリエの資格を取得され、日本とイタリアの食文化交流に貢献した功績で、カテリーナ・ディ・メディチ賞をなどを受賞されています。
本書籍には、完全に和食党だと仰る方でも、今日の献立に気軽に取り入れることができる知恵がたくさん載っています。
チーズや生ハム、きのこ、パスタ、と、身近な食材も、これらの知識を知っていて食べると更に美味しく感じますよね。
どうせいただくなら、できるだけ相性の良いワインや飲み物を組み合わせていただきたいものです。
私は食の歴史や成り立ちにも興味が有るので、イタリアワインの歴史や、古代ローマ時代のパスタの話などを大変興味深く拝読しました。
この本の目次
- 序章 イタリアの豊かな食卓
- 第一章 食材のはなし
- パスタ
- オリーブオイル
- トマト
- チーズ
- 肉の加工品
- 魚の加工品
- アチェ―ト・バルサミコ(バルサミコ酢)
- 野菜
- フンギ(きのこ)
- 第二章 料理とワインの相性を知る
- パスタ料理とワイン
- リゾット、ピッツァとワイン
- 野菜料理とワイン
- きのこ料理とワイン
- チーズとワイン
- 肉加工品、肉料理とワイン
- 魚料理とワイン
- 第三章
- ドルチェ(デザート)
- デザートワイン
- ワイン以外の食前・食後酒
- 第四章 リストランテのはなし
- 資料編 地域別・主なイタリアワイン
- 文庫版あとがき
本書(2001年版)の裏表紙に、「バルサミコ酢づくりに欠かせない「樽移し」とは?」とあります。
アチェ―ト・バルサミコに使われるのは甘味の強いブドウ、くらいしか知らなかった私。
バルサモ(バルサム)とはもともと木から出る香油のことをさし、「この熟成度の高い酢が気品のある香りを持っていることから、アチェ―ト・バルサミコ(芳香のある熟成酢)呼ばれるようになったようだ」とのこと。
一時アイスクリームにかけて食べるのがマイブームだったこともありましたが、どのように作られるのかなんて考えたこともありませんでしたので、「樽移し」なんて知りませんでした。
読む内に、そんなに何回も(五回)樽を変えるんだーとか、樽の材質、移す順番、完成までの期間と、食べちゃえば一瞬で終わってしまうバルサミコ酢にもワインやチーズ、生ハムなどと同様に素晴らしい叡智が詰まっているように思えてきました。
早速アイスクリームのバルサミコ酢を再開することにしました。
アチェ―ト・バルサミコ(バルサミコ酢)「公爵の酢」
バルサミコ酢で有名な、エミリア・ロマーニャ州の町モデナ。
モデナといえば、名家であるエステ家が支配していた地域ですね。
アチェ―ト・バルサミコ( aceto balsamico )は、
これは「公爵の酢」とも呼ばれ、一一世紀、当時モデナ地方を支配していたエステ家の年代記にアチェ―ト・プレステイ―ジョ(高貴な酢)として記述が残されている。当時エステ家では、ほかの公国への贈り物にこの ‟高貴な酢” を用いたといわれている。また、公爵は自分の城に招いた客の労をねぎらうため、まず一杯のバルサミコをアペリティフ(食前酒)として飲ませたとも伝えられている。
彼らはこの ‟高貴な酢”を贈り物にしたものの売買はしなかったため、モデナを中心とする上流階級の中にしか広がらなかった。
林 茂(著). 2001-6-20. 『イタリアの食卓 おいしい食材 ーどう食べるか、どんなワインと合わせるか』. 講談社+α文庫. pp.124-125.
11世紀の年代記に載っているなんて、由緒あるお酢ですね。
で、どうせいただくのなら、素敵な絵画のラベルの付いたボトルも良いかなと。
ラベルの人物は、モデナ及びレッジョ公フランチェスコ1世・デステ。
スペイン出身の巨匠ベラスケスによる肖像画です。
引用元:フランチェスコ1世・デステ
エステ家、ゴンザーガ家、ボルジア家、スフォルツァ家も掲載
この後、モデナ公フランチェスコ1世・デステのご先祖様で、15世紀・16世紀頃の歴史や、芸術好きな方には大変馴染みのある方々が出てきます。
「フェラーラ、モデナおよびレッジョの公爵」(15世紀-16世紀のエステ家)
マントヴァ公妃イザベラ・デステ( Isabella d’Este, 1474年5月18日-1539年2月13日)
引用元:イザベラ・デステ
ルネサンス期を代表する才女、イザベラ・デステ。
マントヴァ公フランチェスコ2世・ゴンザーガの妃です。
美術品の愛好家、収集家であり、私の中では「エステ家一番の有名人」といえばこの方です。
イザベラ・デステの家族
父 モデナ=レッジョ公、フェラーラ公エルコレ1世・デステ
引用元:フェラーラ公エルコレ1世・デステ
フェラーラの宮廷に多くのフランス系フランドル人の音楽家を招いたエルコレ1世。
跡継ぎとなったアルフォンソもヴァイオリンの名手だったそうです。
妹 スフォルツァ公妃ベアトリーチェ・デステ
引用元:ベアトリーチェ・デステ
妹ベアトリーチェは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの妃となりました。
ベアトリーチェ自身もイタリア・ルネッサンス期を代表する女性として知られています。
弟 モデナ=レッジョ公、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステ
引用元:アルフォンソ1世・デステ
アルフォンソ1世は、チェーザレ・ボルジア、フランス国王ルイ12世からも高く評価された人物です。
アルフォンソは、教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアを妻に迎えます。
新郎アルフォンソは二度目、新婦ルクレツィアは三度目の結婚でした。
ルクレツィアはアルフォンソとの結婚後も、義姉イザベラの夫を始め、他の男性とも関係を持っていましたが、夫妻は離婚はしませんでした。
アルフォンソが不在の間は国政を見、慈善活動にも熱心で、「信心深いフェラーラ公妃」として尊敬を集めます。
ふたりは多くの子どもにも恵まれましたが、ルクレツィアは出産で命を落とします。
引用元:ルクレツィア・ボルジアの肖像
引用元:『神々の饗宴』
弟 枢機卿イッポーリト・デステ
引用元:イッポーリト・デステ(枢機卿)
フランス国王フランソワ1世が所有した黄金の塩入れは、もとはこのイッポーリト枢機卿のためのものでした。
イッポーリトはイザベラの弟のひとりで、アルフォンソとルクレツィアの結婚記念画『神々の饗宴』にも描かれています。
甥 フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ
引用元:フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ
アルフォンソ1世とルクレツィア・ボルジアの息子で、やはり芸術の庇護者でした。
1528年、エルコレは、フランス国王ルイ12世の次女であるルネ王女と結婚します。
ふたりの結婚式には父アルフォンソと、亡き母に代わりイザベラ・デステが出席しました。
引用元:ルネ・ド・フランス
引用元:アンナ・デステ
エルコレとルネの長女アンナ・デステは、前夫と死別後、フランスの貴族ギーズ公フランソワと再婚。
ふたりの息子ギーズ公アンリ1世はカトリック勢力側に立ち、「聖バルテルミーの虐殺」でユグノー虐殺に加わった人物です。
事件当時パリにいたルネは、幾人かのユグノーを助けています。
引用元:アルフォンソ2世・デステ
エルコレとルネの息子でアンナの弟、アルフォンソ2世です。
1559年6月30日に行われた騎馬試合で、アンリ2世の事故を目撃しています。
1597年にアルフォンソ2世が亡くなりますが、彼に子どもがいなかったため、アルフォンソ1世の庶子チェーザレが跡を継ぎます。
1598年、フェラーラは教皇領に組み込まれ、エステ家はフェラーラを失ってしまいました。
その後モデナ=レッジョ公国はアルフォンソ3世・デステに受け継がれ、息子のフランチェスコ1世・デステが次の当主となります。
「モデナおよびレッジョの公爵」フランチェスコ1世・デステ
フランチェスコの父方の曾祖父はアルフォンス1世。
母方の祖父母は、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世とスペイン王女カタリーナ・ミカエラ。
もう凄すぎの血筋ですね。
1648年3月のこと。
画家ベラスケスは、船でジェノヴァの港に到着しました。
その後はモデナ公フランチェスコ1世・デステに会うためにモデナに向かいます。
ベラスケスは十年前の1638年、西仏関係修復の外交使節としてマドリードを訪ねた際、フランチェスコ1世の肖像画を描いていました。
今回のベラスケスのモデナ訪問は、スペイン王フェリペ4世の命を受け、豊かな絵画コレクションで知られたモデナ公爵と会い、美術品蒐集への協力を取り付けるためでした。
引用元:『フランチェスコ1世・デステ』 Sailko CC-BY-SA-3.0
バロックの巨匠ベルニーニもフランチェスコ1世の胸像を制作しています。
一六五〇年八月、彼はベルニーニに大理石の胸像の制作を依頼した。その当時のモデナは、かつてルネサンス芸術の最大のパトロンだった栄光溢れるエステ家の本拠地だった。フランチェスコの一族は、より広大で富んだフェラーラの所領を一五九八年に没収されていた。その年、教皇庁はエステ家の正統な血統が途絶えたとしてフェラーラの町を没収し、教皇庁の所領とした。そのためエステ家は格下の都市であるモデナに居を移したが、大幅に減らされた所領を最大限に生かそうとした。だが彼らは教皇庁の仕打ちを許すことなく、復讐と所領の奪還の機会を狙っていた。「大志を抱き、だが政治面では背信行為に傾きがちだった」と言われるフランチェスコ一世の長く活発な統治(一六二九~五八年)の間、縮小された所領はいくばくか復活した。これはとりわけフランスとの数々の政治的同盟関係、そして一族の対外的なイメージを堂々たる建築や芸術作品を通じて高めたこと、つまり荘厳な建築物を建て、優れた芸術作品を注文したことの成果だった。それが教皇たちに成功をもたらしたのなら、エステ家にとっても同様になるはずであり、事実その通りになった。ベルニーニに対するフランチェスコ公爵の胸像の依頼は、貴顕による、野心的かつ成功をおさめたキャンペーンのほんの一環だったのである。
フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 2016-12-17.『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.265.
ベルニーニはフランチェスコ1世に会うことなく、肖像画をもとに胸像を制作。
1651年11月、ベルニーニから完成した胸像が送られてきました。
フランチェスコ1世は、胸像の報酬として「3000スクーディという大金」をベルニーニに支払いました。
『イタリアの食卓 おいしい食材 どう食べるか、どんなワインと合わせるか』は、「カトリーヌ・ド・メディシスとアイスクリームとジャム」( hanna_and_art’s blog ) でも参考にさせていただいています。
「カテリーナ・ディ・メディチがフランスのアンリ2世に輿入れした時にジェラートを伝えた」という話ですが、裏付けは無いとする説もあるようです。
一六世紀中頃、フィレンツェのメディチ家の中庭でクリーム状のジェラートがサービスされた。牛乳、ザバイオン(卵黄と砂糖で作るソースまたはデザート)、フルーツを使ったもので、客のスペイン人は朝から晩まで、このジェラートを食べていたという。メディチ家のカテリーナがフランス王アンリ二世に嫁いだとき、一緒にこのジェラートもフランスに持ち込んだ。やがてこれがヨーロッパ中に広まり、一八世紀には年間を通じてジェラートが食べられるようになった。
林 茂(著). 2001-6-20. 『イタリアの食卓 おいしい食材 ーどう食べるか、どんなワインと合わせるか』. 講談社+α文庫. p.212.
イタリアのお菓子や料理がフランス料理に大きな影響を与えた、というより、サーヴィスやテーブルマナーへの影響の方が大きかったという話もよく聞きますよね。
やはりこういう本って楽しいです。世界史や絵画・芸術専門の本も面白いですが、食(食文化)を通していろいろなことを知ることができます。
ジェラートの件、実際のところは私にはわかりませんが、それよりも私はこのスペイン人が気に入って食べていたというメディチ家のジェラートが見てみたい。いえ、それ以上に食べてみたい。
きっとすごく美味しかったんだろうなあ。