1559年、祝賀行事中に起きたフランス王アンリ2世の悲劇的な事故死。かつて、「ノストラダムスが予言した」ともいわれた事件ですが、今回はその騎馬槍試合とその後に行われた治療の様子についてです。

フランス王アンリ2世(Henri II de France, 1519年3月31日 – 1559年7月10日)

引用元:アンリ2世
フランス国立図書館Henri II
アンリ2世は、フランス王フランソワ1世と、ルイ12世王女クロード・ド・フランスの次男として生まれました。
妻はイタリアのメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスです。

引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
父フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世は、イタリアの地を巡り、幾度も干戈(かんか)を交えました。
1525年のパヴィアの戦いではフランソワ1世自身が捕虜となり、翌年にマドリッド条約が結ばれます。

引用元:フランソワ1世
ルーヴル美術館François 1er (1494-1547), roi de France.
条約に基づき、フランソワ1世とフランソワの幼い王子たちの身柄が交換されます。
自由の身になった父親フランソワに代わり、アンリ2世と兄はスペイン側で数年に及ぶ人質生活を送りました。
このマドリッド条約には和解の印として、フランソワが「カール5世の姉・レオノールと結婚する」というものもありました。
当時フランソワ1世は王妃を亡くし、レオノールは夫だったポルトガル王と死別していました。
この結婚は1530年に実現します。

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
アルテ・ピナコテークBildnis Kaiser Karls V. im Lehnstuhl, 1548

引用元:レオノール・デ・アウストリア
美術史美術館Königin Eleonore von Österreich (1498-1558)
1559年 カトー・カンブレジ条約( Traités du Cateau-Cambrésis )
カトー・カンブレジ条約とは
「カトー・カンブレジ条約」は、ヴァロワ朝第7代のフランス王シャルル8世が、1494年にイタリアに侵攻して以来のイタリア戦争の講和条約です。

引用元:『カトー・カンブレジ条約を結ぶアンリ2世とフェリペ2世』
このカトー・カンブレジ条約に関連し、アンリ2世の娘と妹の結婚が決まりました。
アンリ2世の娘エリザベートはスペイン王フェリペ2世に、妹マルグリットはサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトに嫁ぐことになりました。
二組の結婚
アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚

引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
美術史美術館:Isabel von Valois (1545-1568)

引用元:フェリペ2世
プラド美術館Felipe II
スペイン王フェリペ2世は、神聖ローマ皇帝カール5世の息子です。
エリザベートはもともとフェリペの息子の婚約者でしたが、前妻メアリーと死別していたフェリペの三人目の妻となりました。
ヴェルディ『ドン・カルロ』ヒロインのモデル、エリザベート・ド・ヴァロワ
アンリ2世の妹マルグリットと サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトの婚約

引用元:マルグリット・ド・フランス
クリスティーズPortrait of Margaret of France, Duchess of Berry, later Savoie, half- length, in a white dress
※アンリ2世の娘のひとりに、小説『王妃マルゴ』のモデルとなったマルグリット・ド・フランスという女性がいますが、こちらのマルグリットとは別人です。

サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトの伯母(父の異母姉)はルイーザ・ディ・サヴォイア(フランス名ルイーズ・ド・サヴォワ)といいます。
ルイーザはアンリ2世とマルグリットにとっては祖母に当たります。

引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ
祝賀行事
その頃、カトリックのフランス国内では、有力貴族の中にもプロテスタントを公言する人びとが増えてきました。
アンリ2世は国内の宗教問題に全力で当たる必要があり、そのためには休戦による平和を必要としていました。
長らく続いていたイタリア戦争が、今ようやくこの時を以て終わりを告げようとしているのです。
この条約の締結で、国内はお祭り騒ぎとなりました。
1559年6月22日 フェリペとエリザベートの結婚式
アンリ2世はフェリペ2世に、花嫁を迎えに来てはどうかと誘ってみましたが、フェリペは断りました。
フェリペ2世は代理にアルバ公を立て、エリザベートと代理結婚します。

アルバ公は神聖ローマ皇帝カール5世に仕え、その後はフェリペ2世に仕えました。
1559年のカトー・カンブレジ条約後、1567年から属領ネーデルラントの総督となり、多くのプロテスタントを迫害、弾圧しました。
最初にとり行われたのは、六月二二日のエリザベートとフェリペ二世の結婚式であった。ノートルダム寺院の内部は列席者であふれかえり、正面広場も黒山のひとだかりであった。一四か月前に行われた王太子とメアリ・スチュアートとの結婚式とすべての点で同じであったが、これは画期的なできごとであった。それ以前は、フランス王家では結婚式ミサには内輪しか列席しないのが慣例であって、外国人にはめずらしかられていたのだ。今回は、舞踏会や祝宴を初めとするさまざまな祝祭行事が、マルグリット・ド・ヴァロワとサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトの結婚式が行われる七月一〇まで続く予定だった。こうした行事の一環として、アンリ二世はフランスおよび欧州のもっともすぐれた若者を集めた盛大な馬上槍試合を開催することにした。これは六月二八日から三〇日まで三日間続く予定で、国王自身も参加するとの意向も表明した。サンタントワーヌ通りの、トゥルネル城館のすぐ近くに競技場が設けられた。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.151.
1558年4月24日 王太子フランソワとスコットランド女王メアリー・スチュアートの結婚
カトー・カンブレジ条約の14ヶ月前、アンリ2世の後継者となる王太子フランソワ(ヴァロワ朝第11代のフランス王フランソワ2世)と、スコットランド女王メアリー・スチュアートが挙式しました。

引用元:フランソワ2世
フランス国立図書館:François II, dauphin de France, à seize ans

引用元:メアリー・スチュアート
メアリーの生母はメアリー・オブ・ギーズといい、フランスの大貴族フランソワ・ギーズの姉です。
スコットランド王家に嫁ぎ、メアリーを産みました。
幼い頃から美貌で知られたメアリー・スチュアートはフランスで育てられ、フランソワ2世と結婚しました。
6月30日金曜日午後 騎馬槍試合
パリのサン・タントワーヌ通りの特設会場では、結婚祝いの余興として騎馬槍試合が行われることになりました。
これにアンリ二世は自分も出ると言い出した。王の出場が珍しいわけではない。槍の穂先の鋼も外されているので、さほど危険なわけでもない。午後三時。最初の対戦相手はサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベールだった。スペイン王軍を率いて、サン・カンタンの戦いに勝利した名将である。王は試合に先がけて言ったという。
「朕の膝を抱き、許しを請うなら、今のうちですぞ。ひとたび試合が始まれば、同盟も、兄弟愛もない。朕は貴公をこてんぱんにやっつけるつもりでおりますからな」
もちろん、冗談である。が、槍で突き、サヴォイア公を落馬させ、快心の勝利を収めれば、やはりアンリ二世は満面の笑みだったろう。次の対戦相手はギーズ公フランソワで、これまたカレー奪還の壮挙を遂げた先の戦争の英雄である。勝負は引き分けになった。アンリ二世の槍は見事に敵を捉えたが、ギーズ公は落馬せずに堪えたのだ。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.285.
サン・カンタンの戦い( the Battle of St. Quentin )とは、スペイン・ハプスブルク対フランスの戦いです。
フェリペ2世が即位した直後の1557年、スペイン・ハプスブルク軍はサン・カンタンでフランス軍を破ります。
当時フェリペはイングランド女王メアリ1世(フェリペの2番目の妻)と結婚しており、イングランドにも出兵を要請。
カレーは大陸におけるイングランドの重要拠点でしたが、イングランド軍はフランス軍に敗北し、翌1558年にカレーを失いました。

引用元:ギーズ公フランソワ
ルーヴル美術館:François de Lorraine, duc de Guise (1519-1563).
王の安全、万一の場合を考えて、王妃カトリーヌ・ド・メディシスや側近たちは出場を止めるよう言いましたが、アンリ2世は聞き入れませんでした。
既に出場した6月28日、29日は見事な腕前を見せて勝利したアンリは、6月30日、最後の一戦に出場することを望みます。
三回目の試合前、サヴォイア公が王に自分の愛馬を貸しました。
この馬の名は「不幸」。縁起の良くない名前でしたが、アンリ2世は喜んで借り受けます。
対戦相手に指名されたのは、フランス王に仕えるスコットランド百人隊の隊長(代理?)モンゴメリー伯(モンゴムリ伯爵ガブリエル・ド・ロルジュ、当時29歳くらい)でした。

落馬させることができなかったギーズ公に続き、モンゴメリー伯とも引き分けに終わったアンリ2世は、モンゴメリー伯との再戦を希望します。
周囲から作法に反すると言われても、「自分を揺るがせたあやつに復讐したい」と言い張りました。
この時、王妃カトリーヌ・ド・メディシスは胸騒ぎがしたのか、観覧していた席から砂場の王に言伝をしたようです。
カトリーヌは占星術に熱心で、医師であり占星術師でもあるノストラダムスからも多くの助言を受けていました。
「ノストラダムスの予言」
ミシェル・ドゥ・ノストラダムスはかつて王宮に仕えていた占星術師で、この四年前に『諸世紀』という書物を出版していた。その詩集第一の三十五に、こうあるのだ。
「若き獅子、老いた獅子を打倒さん
戦いの場にて、一騎討ちの勝負により
金色の囲いのなか、男は目を破られる
ふたつがひとつに、それから死が訪れる
残酷な死」
アンリ二世は王妃に答えたという。
「高貴なる者の名誉にかけて誓う。朕は王妃に寄せる愛のゆえに、これを最後の試合とする」
やはり、止めない。執着の仕方は尋常でない。王は無念のイタリア戦争に区切りをつけるため、この騎馬槍試合で心の整理をつけようとしていたのかもしれない。あるいは寵姫のために肩身を狭くさせてきた王妃のためと打ち上げて、疑似家族のトライアングルから脱け出そうとしていたのか。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. p.286.
実際には、アンリ2世は20歳年上の寵姫、ディアーヌ・ド・ポワチエとずっと愛人関係を続け、同い年で14歳で結婚したカトリーヌを顧みることはほとんど無かったといいます。

引用元:ディアーヌ・ド・ポワチエ
コンデ美術館Diane de Poitiers

ルーヴル美術館Diane chasseresse
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】
愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエの姿『狩りの女神ディアナ』(フォンテーヌブロー派)
1559年6月30日夕方 事故

上の絵はアンリ2世とモンゴメリー伯( Gabriel de Lorges, Comte de Montgommery )の騎馬槍試合の様子です。
柵の向こう側、中央に Lorges の名が見えますね。
モンゴメリー伯は、試合が終わったら次の任地に赴くよう予め命令を受けていました。
観客は既に帰りかけ、サヴォイア公と王妃カトリーヌは再戦の中止をアンリに促します。
モンゴメリー伯も乗り気ではありませんでした。
しかしアンリはモンゴメリー伯に選択の余地を与えず、ふたりは再び槍を交えます。
モンゴメリー伯が突いた槍はアンリ2世の喉もとに当たりました。
衝撃で槍が砕け、アンリ2世は体勢を崩します。
思いがけない再戦に、最初の試合で傷んだ槍の穂先を交換しないまま臨んだせいだったのかもしれません。
木片は弾け飛んで宙を舞い、面頬を下から滑り、アンリ2世の兜の中に飛び込みました。
ぐったりとくずおれ、落馬しそうになったアンリ2世。
国王の異変に気付いた控えの者たちが駆け寄ります。
王の兜を取り払うと、顔には大量の血が流れていました。
それを見た王太子フランソワは失神。
冷水、薔薇のエッセンス、酢などを用いた最初の手当てを受け、アンリ2世は意識を取り戻しました。
目の前に跪き、「私の手と頭を斬り落としてください」と懇願するモンゴメリー伯に、「自分の命令に従っただけなので、そなたにはなんの非もない」と穏やかに伝えます。
貴族たちは大急ぎで重症のアンリ2世をトゥルネル城館に運び込みました。
サンセール殿下が頭を支え、モンモランシー大元帥が片方の腕を、もう一方はギーズ公がもっていた。コンデとマルティーグは足を一本ずつかかえていた。私室へと通じる階段の下まで来ると、アンリ二世は自分で歩くことを望んだ。腕と胴と頭を支えられたまま、おぼつかない足どりで王は自室の入り口までたどり着いた。いまだに気絶したままの王太子を運ぶ一隊が後ろに続いた。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.153.

引用元:アンヌ・ド・モンモランシー

引用元:コンデ公ルイ1世
フランソワ1世のいとこと結婚したアンヌ・ド・モンモランシー大元帥。
フランソワ1世に仕えたモンモランシー大元帥は、アンリ2世にとっては父親代わりのような存在でした。
1552年のメス包囲戦ではギーズ公フランソワと共に、神聖ローマ皇帝カール5世の軍と戦ったコンデ公ルイ1世。
このモンモランシー家とコンデ家は1600年代に入り、孫同士が結婚します。
ヴァロワ家、ハプスブルク家、コンデ家、エステ家なども掲載
王の治療が始まりました。
アンリ2世の顔の右側は一面にトゲが刺さっている状態でした。
王家の筆頭侍医ジャン・シャブランは必死に治療にあたります。
いくつかの大きなトゲが取り除かれますが、そのうちの一本は指ほどの長さで、右の眉の上に刺さっていました。
その場にいたフェラーラ公国のアルフォンソ・デステは、この棘の深さに衝撃を受け、その夜に父親宛に書いた手紙のなかにスケッチをそえた。こうした棘の一つを不用意に引き抜いたところ、アンリ二世が空気を引き裂くような悲鳴を上げたため、医師たちはこれ以上苦しめることをおそれて作業を中止させることにした。そのため、開いた傷のなかには木のかけらが数多く残ってしまった。手当といっても、顔を軽くぬぐい、癒合を促進するために卵の白身をベースとする薬を傷口のまわりにぬっただけだった。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.154.
他に瀉血、下剤、食事制限といった治療が続けられます。
瀉血とは、「悪い血」を抜いて体外に出す「医療行為」で、この当時はよく行われていました。

引用元:アルフォンソ2世・デステ
プラド美術館:Portrait of a Gentleman
アルフォンソ(2世)・デステが手紙を書いた父親というのが、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世との間に生まれたエルコレ・デステです。
エルコレの妻(アルフォンソの母親)はルイ12世王女ルネ・ド・フランス。
アンリ2世の母クロードの妹にあたり、アルフォンソ2世とアンリ2世は従兄弟ということになります。

引用元:ルネ・ド・フランス
6月30日夜 付き添っていた人びと
昏睡状態のアンリ2世の側には、カトリーヌ・ド・メディシス、サヴォイア公、ロレーヌ枢機卿が朝の3時まで見守り、その後アルフォンソ・デステとギーズ公が朝まで付いていました。
ロレーヌ枢機卿はギーズ公フランソワの弟・シャルル・ド・ロレーヌです。

引用元:シャルル・ド・ロレーヌ
ギーズ公フランソワの妻は、アルフォンソの姉アンナ・デステ。
アルフォンソ・デステとギーズ公フランソワは義理の兄弟ということですね。

引用元:アンナ・デステ
7月3日 フェリペ2世の筆頭侍医アンドレアス・ヴェサリウス到着
意識が戻り、苦痛に苦しむアンリ2世のために、名医として知られたアンブロワーズ・パレが招聘されます。
頭蓋骨と脳膜がかなり傷ついて露出している点に注目し、脳の外傷性障害、さらには静脈破裂の可能性を口にする医師もいた。だが、大多数の医師はこの診立てに納得せず、おそれ多くも国王の頭部になんらかの処置をほどこす前に、ほかの同業者の意見を聴くべきだと考えた。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. pp.154-155..
そこでパレがよばれたのですが、パレが実際に駆けつけたのかは不明ということです。

引用元:アンブロワーズ・パレ
パレとは別に、サヴォイア公がスペイン王フェリペ2世に、解剖学者でフェリペの筆頭侍医でもあるアンドレアス・ヴェサリウスの派遣を要請しました。
フェリペはそれに応じ、7月3日に到着したヴェサリウスはアンリ2世の治療に参加します。

引用元:アンドレアス・ヴェサリウス
ヴェサリウスは「脳損傷」であると診断し、早急な頭蓋骨穿孔手術を提案しました。
即位以来、アンリ2世に対して多大な影響力を持っていたモンモランシー大元帥は、
自分の庇護者である王の命を救うために何ができるのかをヴェサリウスに実演してもらうため、殺された人間の死体を調達するよう求めた。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.156.
ギーズ公側では、一族の血を引くメアリー・スチュアートが次のフランス王妃になることで、自分たちが大きな権力を握ることができると考えていました。
既に宮廷では彼らの周りに人々が集まってきており、モンモランシー大元帥はアンリ2世の生死だけでなく自分の未来に関しても気を揉んでいました。
一時はもち直したと思われたアンリ2世でしたが、容態がまた悪化します。
この悪化を、「常日頃からアンリの側にいた」という医師たちは、「静脈系のなかの悪性の腐敗」の結果であると考えました。
結局ヴェサリウスの提案は受け入れられず、再び瀉血、浣腸の治療がアンリに施されます。
7月9日深夜 結婚式
苦しみのなか意識を取り戻した時、アンリ2世は妹マルグリットとサヴォイア公との結婚を命じます。
まだ「婚約中」だったサヴォイア公が、アンリの死を口実に、婚約を破棄することを危惧したためといわれています。
結婚式は予定されていたノートルダム大聖堂ではなく、ロレーヌ枢機卿のもと、トゥルネル城館に近いサン=ポール=デ=シャン教会( Ancienne église Saint-Paul-des-Champs )で執り行われました。
ヴィエイユヴィル卿(後のシャルル9世の時代のフランス元帥)の回想録によると、この結婚式は涙と悲しみに満ちたものだったようです。(参考:Wikipedia( Marguerite de France (1523-1574) )

引用元:ヴィエイユヴィル卿
7月10日午後 アンリ2世崩御
昏睡状態だったアンリ2世が亡くなりました。
その最期は痙攣と拘縮を伴う、大変悲惨なものでした。
王の侍医たちとすでに険悪な仲となっていたアンドレアス・ヴェサリウスは後日、セージと「そのほかの体を熱くする物質」をくわえた葡萄酒を何人かの「佞臣」があたえたために、アンリ二世の死は早まった、と述べている。この飲み物には、深く呼吸する必要性を高める作用しかなく、このために国王の衰弱は早まった、との理屈である。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.157.
解剖した結果、ヴェサリウスの診断が正しかったことが判りました。
頭蓋骨を開いた医師たちは、硬膜に張りついている膜の黄変を認めた。左側は、化膿性の液体で満たされていて、壊疽の初期症状がみられた。すなわち、最初の衝撃で脳は「頭蓋骨と衝突」していた。ゆえに、アンリは顔の傷ではなく、脳震盪の予後が悪くて亡くなったと思われる。治療がほどこされなかった顔の傷が数日間のうちに感染を起こしたことは確かであろうが。
パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. pp.157-158.
アンリ2世の死で、王太子フランソワがフランソワ2世として即位します。
病弱で政治経験も無いフランソワ2世の「助言者」となったのは、新王妃メアリー・スチュアートの叔父たちであるギーズ公の一族でした。
夫アンリを突然失って悲しみに沈むカトリーヌでしたが、アンリ2世が愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに贈った品々を返還させます。
葬儀にも彼女をよばず、アンリ2世が与えたシュノンソー城からも追放しました。
アンリ2世が負傷してからはカトリーヌがその場を仕切ることになり、アンリへの接見も制限していたという話があります。
病床でアンリはディアーヌの名を呼んでいた、といいますが、それは本当っぽい、ような。(書籍が見つかりましたら追記します)
モンゴメリー伯はアンリ2世からは赦しを与えられていましたが、カトリーヌは彼を許さなかったといわれています。
モンゴメリー伯はアンリの死後一時拘束され、釈放後は国外に逃亡。
彼の逃亡はカトリーヌの怒りを恐れたためなのでしょうか…。
夫の死以降、カトリーヌは常に黒の喪服を纏いました。

「アンリ2世の死を予言した」といわれたノストラダムスの予言。
後世の学者からは、史実とは異なる点が多くあると指摘されています。
もちろん和訳しか見たことがありませんが、抽象的で、どうとでも解釈できそうですし、どれにでも当てはまりそうです。
予言通りの死を遂げた、というのは何かの因縁話や物語としては面白いものですが、実際には…どうなんでしょうねえ。
この後、フランスはカトリックとプロテスタントの宗教対立への道へと進んでいくことになります。
- 佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書.
- パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房.
- 八幡和郎(著). 2020-5-15. 『日本人のための英仏独三国志』. さくら舎.








コメント
コメント一覧 (2件)
ハンナさん、こんにちは。
アンリ2世の負傷の話までは良かったのですが、その後の治療の様子が結構リアルで怖かったです。
ところで、アンリ2世って、王の器ではありませんね。
だって、王様にとって、どうすることが一番大切か認識していませんから。
奥さんのカトリーヌ・ド・メディシスって、幸せだったのでしょうか?
尊重されているみたいだけど、アンリ2世には、寵姫がいたし。
アンリ2世が、死ねば喪服で過ごす。
いたわしいです。そこそこに、幸せだったら嬉しいです。
今回も、興味深い記事をありがとうございました。
暑いと思ったら、台風がきたりと目まぐるしいですね。
ちょっと涼しくなるころに、疲れもドッと出ます。
ハードな毎日と推察いたしますが、どうぞ、取れるときは休息をしっかりとってくださいね。
コロナも3回目のワクチン接種云々との、話が出てくるくらいですので。
どうぞ、くれぐれもご自愛くださいませ。
ぴーちゃん様
コメント有難うございました。
歴史上の人物で、誰かひとりだけ興味ある人物(女性)を挙げるとしたら、私はカトリーヌ・ド・メディシスです。仰るように、彼女は果たして幸せかだったのかなと思うからです。
孤児の女の子が、14歳でフランス王家に嫁ぐなんて、シンデレラストーリーっぽいですよね。
そして彼女の産んだ男子三人がフランス王です。母后として、揺るぎない権力が手に入ったことでしょう。
アンリ2世は次男だったので、長男が王位を継ぐのだから次男の嫁は王族でなくてもいいかなと思われていたようです。
アンリはアンリで、母を早くに亡くし、スペインで人質生活を送り、20歳年上の女性にずっと愛を捧げていました。これはこれで純愛っぽい。
カトリーヌはアンリを好きだったようですが、夫は年上の愛人に夢中でした。
書籍が探せなかったので書きませんでしたが、瀕死のアンリの命令で義妹マルグリットとサヴォイア公がひっそりと結婚式を挙げたとき、出席していたカトリーヌは泣いていたそうです。
また、長男フランソワの嫁メアリーは愛人ディアーヌの影響を強く受けていました。
既にスコットランド女王を継承していたメアリーは、カトリーヌを「商人の娘」と馬鹿にしていたようです。
現代日本の私なら耐えられませんが、夫の死後は「夫が愛人に渡したものリスト」に基づいて品々を返却させて「復讐」します。
カトリーヌはかなり頭の良い女性だったので、美女スパイ集団を組織して情報網を張り巡らせ、各家の情報を入手。
長男の死後、嫁のメアリーはスコットランドに帰国し、再婚問題、幽閉の後エリザベス1世処刑されてしまいます。
もし、メアリーとカトリーヌの嫁姑関係が良いものであれば、結果は少し違ったかも、とする書籍もあります。
権力を手にしたカトリーヌの状況は好転したのでしょうか?
でもこの後はサン・バルテルミの虐殺事件が起こります。
イタリアのお菓子文化やテーブルマナーをフランスに持ち込んだ人物、またはサン・バルテルミの首謀者といわれる人物。
どちらとしても後世に名が残りましたが、彼女の人生は非常に壮絶なものだったと想像します。
そして、未亡人として喪服で通したことに、彼女の夫への愛を見る思いがします。(これが何かの演出や芝居だったら戦慄ものですが)
今回も読んでくださって有難うございました。
猛暑のあとは急に気温が下がったり、体調を崩しやすくなっています。
どうかご無理なさらず、ご自愛くださいませ。