16世紀スペインの国王フェリペ2世は生涯に四度結婚しています。三番目の妻はフランス王女、四番目の妻は神聖ローマ皇帝皇女でした。この妻たちとフェリペの結婚生活は幸せだったのでしょうか。
スペイン王フェリペ2世( Felipe II, 1527年5月21日-1598年9月13日)
引用元:フェリペ2世
フェリペは、1527年、神聖ローマ皇帝カール5世とポルトガル王女イザベルとの間に生まれました。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
引用元:イサベル・デ・ポルトゥガル
両親はいとこ同士でしたが、フェリペ自身も1543年の最初の結婚で、同い年のいとこ、ポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚しています。
1545年に息子カルロスを出産後、マリア・マヌエラは産褥で亡くなりました。
独身に戻ったフェリペは、父の意向を受け、イングランド女王メアリー1世と1554年7月に結婚します。
メアリーは父の従妹であり、フェリペより年齢も上でしたが、メアリーは送られてきた肖像画のフェリペに恋をしていました。
引用元:イングランド女王メアリー1世
引用元:スペイン王フェリペ2世
しかしこの結婚で子どもはできず、フェリペは帰国。
1558年11月17日、メアリー1世は失意のうちに病死します。
メアリーが妊娠したと思っていたのは想像妊娠。
お腹にあったのは胎児ではなく、子宮にできた腫瘍でした。
三番目の妻 フランス王女エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de Valois, 1545年4月2日-1568年10月3日)
フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘
エリザベート・ド・ヴァロワ、スペイン名はイサベル・デ・バロイスです。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
生まれたばかりのエリザベートを最初に抱き上げたのは、当時のフランス王妃だったエレオノール・ドートリッシュ。
フェリペが生まれた時の洗礼で、小さな彼を腕に抱いたのも、父カールの姉であるエレオノールでした。
引用元:レオノール・デ・アウストリア
エレオノールはカトリック両王の長女として生まれ、ポルトガル王に嫁ぎましたが死別。
その後スペインとフランスの間で結ばれたマドリッド条約に基づき、1530年にフランスのフランソワ1世に嫁いできたのです。
小さなエリザベートの最初の婚約者はイングランド王エドワード6世でした。
引用元:エドワード6世
イングランドから届いたエドワードの肖像画に、エリザベートはその前を通るたびに「おはようございます。イングランドの王様。私の王子様」と挨拶をしていたそうです。
しかし、エドワードは16歳になる前に病死してしまいました。
1559年1月、エリザベートの妹クロード(当時11歳)が、一足先にロレーヌ公国に嫁いでいきます。
引用元:クロード・ド・ヴァロワ
両親は長女のエリザベートに、ロレーヌ公国以上の大国の妃の地位を考えていました。
『スペイン フェリペ二世の生涯』(彩流社)によると、クロードの嫁ぎ先の義母、「デンマークのクリスティーナ」は、スペインとフランスの和平のため、スペイン王子ドン・カルロスとエリザベートの結婚を考えていました。
引用元:デンマークのクリスティーナ
デンマーク王女クリスティーナ(デンマークのクリスティーナ)は、神聖ローマ皇帝カール5世、フランス王妃エレオノーレの姪にあたります。
イングランドの宮廷画家ハンス・ホルバイン(子)が喪服姿の彼女を描いています。
引用元:ドン・カルロス・デ・アウストリア
皇太子ドン・カルロスとエリザベートは年も同じです。
フランス側はスペインにこの縁組を提案しますが、フェリペはこれに同意しようとしませんでした。
いとこ同士の結婚で生まれた長男ドン・カルロスは、頭が大きく、左右の足の長さが違うなどの身体的特徴があり、虚弱体質でした。
さらに知性も乏しく、性格は凶暴、情緒不安定だったのです。
しかし、フランスとスペインは和平のために強く結びつかねばなりません。
フランスはこれから国内の宗教問題に取り組まなければならないのです。
「デンマークのクリスティーナ」は、エリザベートをドン・カルロスにではなく、父親のフェリペに嫁がせることを提案します。
カトリーヌ・ド・メディシスは大賛成。
ドン・カルロスが限りなく次期国王の座に近いとはいえ、絶対に王になる、とは限りません。
しかし、既にフェリペは王であり、現在独身なのです。
二番目の妻だったイングランド女王メアリー1世は世を去っていました。
1559年 カトー・カンブレジ条約( Traités du Cateau-Cambrésis )
カトー・カンブレジ条約で、エリザベートはフェリペ2世の元に輿入れすることになりました。
エレオノール・ドートリッシュは、引退していた弟の神聖ローマ皇帝カール5世と同じ年、1558年に亡くなっています。
かつて抱き上げた赤子たち、フェリペとエリザベートが結婚する姿を見ることはできませんでした。
下のトレド美術館所蔵の肖像画は結婚の頃のもの。エリザベート14歳です。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ Sailko CC-BY-3.0
1560年。
トレドに入ったエリザベートに、慣例に従いカルロスが手にキスをしようとすると、エリザベートはそれを遮ります。
代わりにカルロスを抱き締め、頬に母としてのキスをしました。
結婚式の祝宴後、同年代のカルロスやフェリペの異母弟ドン・フアン・デ・アウストリア、フェリペの甥アレッサンドロ・ファルネーゼたちとはしゃぎ回っていたエリザベートはウイルス性の病気にかかり、しばらく寝付いてしまいます、
フェリペはずっとエリザベートの側についていたそうです。
娘の病気を知ったカトリーヌはエリザベートに手紙を書きます。
また、イサベルは、宮廷のいろいろな陰謀もまったくわからず、本人の意思とは無関係に、子どもの感覚で、すぐにどちらかの派に味方をしてしまうのです。それを知ったカトリーヌは、またあわてて娘に手紙を書きます。トレドとパリとの間に頻繁に手紙が行き来するようになります。イサベルの少女時代が終わり、フェリペとの真の結婚生活が始まったことを知ったカトリーヌは、娘に、夫フェリペを虜にして、フランスが期待しているようにフェリペを動かすように、言います。しかし、フェリペは動きません。父カルロス一世の教えをかたくなに守っているのです。
「誰も信用してはならぬ。個人的な感情で動いてはならぬ」というものをです。
西川和子(著), 2005-5-20. 『スペイン フェリペ二世の生涯 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』. 彩流社. p.152.
1561年、宮廷はマドリッドに移りました。そこでは狩猟や仮面舞踏会などが催されます。
フランス風のジャムを作ったり、フランスから人形や最新の小説を取り寄せたり、とエリザベートは楽しく過ごします。
女官たちも最新流行の衣裳に身を包み、家具など調度品は豪華になり、生活はフランス風に華やかなものになっていきました。
しかし、フェリペはエリザベートに甘く、多額の出費に廷臣が苦言を呈しても、彼女には欲しいものを与えるように言います。
フェリペのいとこ マクシミリアン2世( Maximilian II., 1527年7月31日-1576年10月12日)
ドン・カルロスがまだ小さい頃のこと。
フェリペは父カールに命じられ、ヨーロッパを知る旅に出ていました。
フェリペはネーデルラント、イタリア、ドイツを回ります。
フェリペ不在のスペインには、いとこのマクシミリアンが滞在していました。
マクシミリアンが畏敬するカールの要望で、マドリッド総督として赴任したのです。
しかしマクシミリアンにはスペインでの生活は合わず、伯父カールに早くウィーンに帰して欲しいと懇願しています。
引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
父フェルディナントの後を継いで神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン2世は、カトリックを守護する立場でありながら、プロテスタントに親近感を持っていました。
カトリック嫌いになったのはこのスペインでの生活が原因だったともいわれます。
1548年にマクシミリアンはフェリペの妹マリアと結婚。翌年バリャドリッドで長女アナが生まれます。
帰国したフェリペと入れ違いに、1553年頃ウィーンに戻ったようです。
引用元:マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(マリア・フォン・シュパーニエン)
1563年、マクシミリアンとマリアの息子たち、ルドルフとエルンストがスペインに到着します。
父カールと兄フェリペを敬愛し、美しく信仰深かった母イザベルを愛するマリアは、ふたりを兄の元で教育しようと考えていました。
フェリペも、プロテスタント寄りのいとこマクシミリアンの元に置いておくより、そうした方がいいと思っていたのです。
父マクシミリアンが嫌ったスペインの生活、カトリックの教義をルドルフはすっかり気に入り、完全に身につけて帰国します。
引用元:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世
エリザベートの母 カトリーヌ・ド・メディシス( Catherine de Médicis, 1519年4月13日-1589年1月5日)
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
イタリアのメディチ家に生まれましたが、幼い頃に両親を亡くし孤児となりました。
14歳でフランス王家に輿入れしますが、同い年の夫アンリ2世には20歳年上の恋人があり、カトリーヌを顧みることはほとんどありませんでした。
その後約10年間子どもに恵まれず、宮廷では「商人の娘」と陰口を叩かれるつらい日々が続きました。
1559年7月、夫アンリが事故死し、息子フランソワ2世が王位を継ぎます。
この後カトリーヌはフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と3人の王の母后としてフランス宮廷に君臨することになります。
カトリーヌは、最初の妊娠以来流産を繰り返すエリザベートに、無事に妊娠できるよう怪しげな薬を送り続け、スペイン宮廷の情報を入手しようと画策していたといいます。
さらには末娘のマルグリットをドン・カルロスの妃に…とフェリペに打診。
断られても、また別の縁組を申し入れてきます。
カトリーヌがこのようにスペイン宮廷との結びつきを強めようとしていたのには理由がありました。
王位に就いたフランソワ2世の妃メアリー・スチュアートの親戚であるギーズ一族が力を持つようになり、これをカトリーヌは快く思っていなかったのです。
ギーズ家はカトリックですが、ギーズ家の力を抑えるためにも、ここはプロテスタント側と手を組んだ方が良いか。または、国内のカトリック勢力・プロテスタント勢力ではなく、外国ではあるが、スペインと手を組むべきか、おおいに迷っていました。
フランソワ2世の病死後、新しく王になったシャルル9世が全国巡行を行います。
引用元:シャルル9世
その機会を利用して、カトリーヌはスペイン国境でエリザベートに再会することができました。
この後エリザベートは妊娠し、1566年、無事に女児を出産します。
フェリペは王女イサベル・クララ・エウヘニアの誕生をとても喜び、「王子が生まれた時より嬉しい」と言ったそうです。
翌年の1567年には、次女カタリーナ・ミカエラが生まれました。
男の子ではありませんでしたが、フェリペは大喜びでした。
引用元:王女イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの肖像
ドン・カルロスの死
母マリア・マヌエラを亡くしたカルロスは、フェリペの妹たちによって養育されました。
フェリペのすぐ下の妹マリアは1553年頃に夫マクシミリアンとスペインを離れ、もうひとりの妹フアナは1552年、ポルトガルのいとこの元に嫁ぎます。
引用元:フアナ・デ・アウストリア
しかしフアナは、フェリペが結婚のためにイングランドへ向かうにあたって呼び戻され、ポルトガルに残した息子とは会うことはありませんでした。
まだ20歳前後だったフアナは兄に代わり、摂政の役目を果たします。
同い年の叔父 ドン・フアン・デ・アウストリア
カルロスは父フェリペの命令で、フェリペの異母弟フアン、フェリペの甥アレッサンドロと共に大学で学びます。
引用元:ドン・フアン・デ・アウストリア
引用元;アレッサンドロ・ファルネーゼ
フアンは後にレパントの海戦で勝利した名将と知られ、アレッサンドロもこの戦いに参加しました。
カルロスとフアンは同い年でしたが、フアンはカルロスにとっては叔父にあたります。
フアンの父親は、フェリペの父・神聖ローマ皇帝カール5世でした。
カールの「一夜の恋」でできた子どもだったのです。
出生の秘密を知らなかった彼を引き取ったフェリペは、敬愛する父の子どもということで、自分の息子と同じように養育しました。
あるとき、カルロスはフアンとの口論で、フアンに向かって、「お前の母親は娼婦だ!」と罵ります。
フアンは「確かに母は娼婦だ!しかし、僕の父親はお前の父親よりずっと偉大だ!」と言い返しました。
カルロスは血相を変え、父フェリペに言い付けに行きます。
カルロスの言葉を聞いたフェリペは、「彼は正しい。彼の父はお前の父よりずっと偉大だ」と静かに答えたのでした。
カルロスの「野望」
17歳のある日、フアンと共にアルカラ大学の大司教館に住んでいたカルロスは、館の階段から落ちてしまいます。
両親と共に住み込んでいる娘が気になり、こっそり後をつけた際に階段から足を踏み外してしまったのでした。
カルロスは頭を強く打っており、一時は生死の境をさまようほどでした。
フェリペは息子の様子を逐一報告させ、叔母フアナ、義母エリザベートはカルロスの回復を願って祈り続けます。
カルロスは生き延びることができましたが、性格はますます頑固に、凶暴になっていきました。
フアンを見るたび、父は自分を見限って、フアンを王位に就ける気ではないかという考えがカルロスのなかに浮かびます。
カルロスは、自分がネーデルラント統治者の将来を約束され、いとこのアナとの結婚が取りざたされていることを知っていました。
しかし、それらの話は一向に進んでいません。
カルロスの父への愛情は次第に屈折していき、憎しみに変わっていきます。
一方、カルロスが従者たちにひどい言動をするたびに謝罪し、補償金を払っていたフェリペのなかにも、段々と「カルロスを次の王にしていいのだろうか」という思いが膨らんでいきました。
22歳になったカルロスは、窮屈なスペインを捨ててプロテスタントの嵐が吹くネーデルラントに行き、そこで自らの王国を創り上げることを夢想し始めます。
カルロスはこの計画を、なんとライバルでもあるフアンに打ち明け、協力を要請したのです。
「王子が、カトリックにとっては異端であるプロテスタントと手を組もうとしている」
フアンは一瞬戸惑った後、このことを兄フェリペに伝えました。
カルロスの聴罪司祭からも同様の報告が届き、フェリペはついにカルロスの身柄を拘束します。
この日からフェリペの監視下に置かれたカルロス。
常にかばってくれたフアナとエリザベートとは二度と会うことなく、23歳の夏に亡くなりました。
エリザベートの死
今また妊娠していたエリザベートは出産に臨みます。
しかし、生来病弱でよく熱を出していたエリザベートの体力は限界でした。
1568年10月3日、エリザベートは子どもを死産。その直後に亡くなってしまったのです。
まだ23歳の若さでした。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
上はフェリペ2世によってスペインに招聘された女性画家、アングイッソラが描いたエリザベートの肖像画です。
エリザベートはアングイッソラに大きな信頼を寄せていたそうです。
この絵から、画家がエリザベートに抱いていた親しみや敬愛が感じられます。
フェリペはエリザベート亡き後のアングイッソラの独り身を案じ、結婚相手を紹介しています。
エリザベートが亡くなった後、カトリーヌ・ド・メディシスは再びフェリペに自分の末娘マルグリットを推しますが、フェリペにはもうフランス・ヴァロワ家から妃を娶るつもりはありませんでした。
四番目の妻 神聖ローマ皇帝皇女アナ・デ・アウストリア( Ana de Austria, 1549年11月1日-1580年10月26日)
引用元:アナ・デ・アウストリア
跡継ぎのいないフェリペは男児を得るため、4度目の結婚をします。
最後の妃になったのはアナ・デ・アウストリア。
ドイツ語名はアンナ・フォン・エスターライヒ( Anna von Österreich )といい、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の長女です。
見聞を広めるためのヨーロッパ旅行から帰国したフェリペは、スペインのバリャドリッドで生まれた幼い姪に会っていたと思われます。
引用元:アンナ・フォン・エスターライヒ
マクシミリアン一家はウィーンに戻りましたが、上の息子ふたりをスペインに送ってきました。
スペインを愛する母マリアは、プロテスタントに近い考えを持つ夫よりも、愛する兄の宮廷で息子たちが教育されることを望んでいたのです。
マリアは子どもたちにスペイン語を教え、娘がいつの日かスペイン王妃になることを夢見ていました。
そのためには、アナをカルロスに嫁がせたかったのです。
しかし、スペイン側からは一向に色好い返事が来ません。
報告されるカルロスの様子もあまり芳しいものではありませんでした。
アナが18歳の頃スペイン側から断りの返事が来て、また、夢見ていたスペインではなく、フランスのシャルル9世の妃にとの話が持ち上がったとき、アナはショックを受けたといいます。
しかし、フェリペはアナを自分の妃にと望みます。
自分と同様スペインを愛して止まない、敬虔なカトリックである妹のマリア。
アナはその娘であり、何よりマリアは16人もの子どもを持った多産の女性です。
身体的には既に結婚・妊娠可能な体になっているアナなら、すぐに男児を産んでくれるかもしれません。
マリアとアナにしてみれば、フェリペの妃になれば直ちにスペイン王妃です。
フェリペとアナが実の伯父と姪であることからローマ教皇は結婚に反対しますが、結局は認可しました。
1570年の結婚
1570年5月、フェリペとアナはアナの住むプラハで代理結婚します。
アナは6月にプラハを出発し、陸路でスペインに向かいました。
母マリアはアナに、ふたりの息子、アルブレヒトとヴェンツェルをつけて送り出しました。
同じ年、アナの妹エリーザベト・フォン・エスターライヒ( Elisabeth von Österreich )は、宗教問題で揺れるフランスに輿入れし、シャルル9世妃となりました。
引用元:エリザベート・ドートリッシュ
アナ、ふたりの王女たちと会う
スペインのセゴビアの礼拝堂で結婚式を挙げ、アナは自分が連れてきた女官たちと別れます。
マドリッドの宮廷に到着したアナは、フェリペの小さな王女たちと顔を合わせました。
王女たちは「天国からお母様が帰っていらっしゃる」と聞かされて楽しみにしていましたが、母の姿を覚えていた4歳のイサベル・クララ・エウヘニアはアナを見て、「このひとはお母様ではないわ」と泣き出したそうです。
アナはイサベル・クララ・エウヘニアと妹のカタリーナ・ミカエラを抱き締め、優しく慰めました。
華やかな性格のエリザベートと違い、アナは質素で地味な性格でした。
縫い物や刺繍が得意で、女官たちのおしゃべりを聞きながら、一緒に刺繍をしていました。
アナの衣装ダンスにあまり衣装が少ないので、驚いた家臣たちが、典礼用の衣服や祝宴用の衣服を揃えたりもしています。
アナは、エル・エスコリアルに滞在するのが好きで、よく庭を散歩しました。王女たちと一緒に、窓から農民たちの働く姿を見るのも好きでした。そしてアナは、気前良く彼らにワインを振る舞ったのです。日が沈みかける頃、アルコールですっかり気分が良くなった農民たちは、王妃の前であることも忘れて俗謡を歌い出します。アナも王女たちも、いい声で調子良く歌う歌声に魅せられ、その日はとても楽しい一日となるのでした。
アナは幼い王女たち、イサベル・デ・ヴァロワが生んだイサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラにも、優しい母となっていきました。フェリペの執務室で一緒に仕事をすることもあったのです。フェリペが、書き上げた書類をそこいらに散らかしている、でもインクが乾くのに時間がかかるので、書類を広げておくのは当然のことだったのです。それらの書類の上にアナは細かな砂を蒔きます。インクを吸収してインクを乾かすためです。そして、インクが乾くと書類をまとめて、王女たちに言いつけて、それを書記官の部屋に運ばせる、そんな仕事を自然に受け持つようになっていきました。
西川和子(著), 2005-5-20. 『スペイン フェリペ二世の生涯 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』. 彩流社. pp.189-191.
アナはスペイン語ができたので意思の疎通には何の問題も無く、フェリペとアナの間には最初から親戚の気安さがありました。
フェリペはアナをとても大切にし、日に三回必ずアナの元を訪ねていました。
また、アナが都会を好まず、ほとんど外出しないことに驚いたフランス大使が、カトリーヌ・ド・メディシスにそのことを手紙に書き送っています。
アナは1571年にフェルナンドを産み、その後カルロス・ロレンソ、ディエゴ・フェリックス、フェリペを産みました。
レパントの海戦での勝利後、フェルナンド王子を天(勝利)に捧げるフェリペ2世の姿です。
フェリペの足元にはトルコ人捕虜のが姿があります。
アナの死
イベリア半島を統一するというフェリペの願いは達成されます。
フェリペはポルトガル王位をも自分のものにすることに成功したのです。
1580年、家族と共にポルトガルとの国境まで来ていたフェリペは、現地で流行していた伝染病にかかりました。
アナの懸命の看病でフェリペは回復しましたが、今度はアナ自身が罹患してしまいます。
フェリペに男児を産んでくれた、優しく、家庭的なアナ。
アナは31歳の誕生日を迎える前に息を引き取りました。
フェリペは連れてきていた子どもたちをマドリッドに帰し、自分は国境に留まります。
そして、翌年になってから甥アルブレヒトを伴ってポルトガルに入りました。
もうひとりの甥ヴェンツェルは1578年に亡くなっていました。
フェリペは本来勝ち誇ってポルトガルに入ってもいいのに、妃アナを亡くし、子どもたちをスペインに返し、寂しくなっていたのでしょうか。あるいは、アナがとても家庭的な女性だったため、フェリペもすっかり家庭的になったのでしょうか、マドリッドの子どもたちに、心を込めた手紙を書いています。一番上のイサベル・クララ・エウヘニアには、生理は来たか、と年頃の娘を持った父親が密かに気にする心配の手紙を書いています。妹のカタリーナ・ミカエラには、風邪をひいてはいないか、とその健康を心配する手紙を書いています。王子ディエゴには、これでアルファベットを覚えるようにと大きな石版を送り、また、エル・エスコリアルの庭で遊ぶようにと小さな象を送っています。小さなフェリペのことは、この人はやがてフェリペ三世となるのですが、歯は生えそろっただろうか、と気にしています。
家族はアランフェスでも、過ごしていたようです。フェリペは、こんな手紙も書いているからです。それは、アランフェスからの手紙はとても嬉しかった、こちらでは不思議なことにナイチンゲールは鳴かないようだ、まだ、その声を聞いたことがないから、などというものでした。
西川和子(著), 2005-5-20. 『スペイン フェリペ二世の生涯 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』. 彩流社. p.199.
アナの産んだ男子は、末っ子のフェリペひとりを除いて亡くなってしまいます。
しかし、この小さかったフェリペが父の後を継いで「フェリペ3世」となります。
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア( Isabel Clara Eugenia de Austria, 1566年8月12日-1633年12月1日)
イサベル・クララ・エウヘニアは2歳でいとこのルドルフ2世と婚約していました。
待たされ続けた結果イサベル・クララ・エウヘニアは30歳を超えてしまい、結局「変人」ルドルフとの結婚は実現しませんでした。
1599年、幼なじみで、アナとルドルフの弟であるアルブレヒトと結婚します。
フェリペの遺言で夫妻はネーデルラント統治にあたり、ルーベンスなど多くの芸術家のパトロンとなりました。
カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア( Catalina Micaela, 1567年10月10日-1597年11月6日)
引用元:ミカエラ・デ・アウストリア
カタリーナ・ミカエラはサヴォイア公国のカルロ・エマヌエーレ1世に嫁ぎます。
このカルロ・エマヌエーレ1世も、父方・母方両方での親戚でした。
カルロ・エマヌエーレ1世・ディ・サヴォイアの生母はフランソワ1世の王女マルグリット。
エリザベート・ド・ヴァロワと同じカトー・カンブレジ条約に基づいて婚約・結婚した女性です。
引用元:マルグリット・ド・フランス
マルグリットはカタリーナ・ミカエラの祖父アンリ2世の妹ですから、カタリーナ・ミカエラの伯母にあたります。
また、カルロ・エマヌエーレ1世の父親であるサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトも、フランス王フランソワ1世、アンリ2世とは父方の親戚でした。
エマヌエーレ・フィリベルトは母方でカトリック両王の血も引いていますので、スペイン王フェリペ2世とも親戚ということになります。
オペラや英国史から見ると、フェリペ2世というのはあんまり良い役ではないように思います。
ずっと厳格で冷たい印象を持っていたのですが、両親を愛し、奥様たちを大切にし、子どもたちを気にかけていたと思える姿に、見方というのは一方的ではいけないなという気に改めてなりました (^^;。
自分の王子カルロスを閉じ込めた末毒殺したという噂が出たのは、まあ、わかる気がしますし、本当の本当のところはわかりません。
冷酷と言われようと、王子の父でいるより大帝国を背負う王であることを取り、自身が父カールに言われていたように、個人の感情で行動することをしなかったのだと思います。
しかし、娘の誕生に大喜びする姿と、執務室で仕事をする父親をお手伝いする可愛い王女様たちの姿を想像するとほっとします。
エリザベートもアナも政略結婚で嫁いできましたが、どちらもフェリペの王子・王女の良き母であろうとしました。
その人の本心まではわかりませんし、幸せの尺度もひとによりますよね。
宗教や習慣、時代によっても考え方は違ってくるものですが、ひとつの家族として、皆が幸せだと思っていてくれていたらいいなあと思わずにいられません。
- 西川和子(著). 2005-5-20. 『スペイン フェリペ二世の生涯 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』. 彩流社.
- 佐藤賢一(著). 2014-9-20.『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書.
- 江村洋(著).1990-8-20. 『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社.
コメント
コメント一覧 (2件)
ハンナさん、こんにちは。
ご無沙汰しております。
今回も、興味深い記事をありがとうございます。
フェリペ2世と言う人は、奥さんが次々になくなったけど、幸せな方だったのではと思います。
それにしても、近親結婚が多いですね。
王家ばかりと結婚すると、みんな血がつながるから、虚弱体質になったり遺伝子異常の確率も高くなりますよね。
特に、ハンナさんの記事から察するに、スペインとオーストリアとの姻戚関係は特に多そうですね。
どろどろした駆け引きの多い時代のように感じますが、なんかほっとしたようなそんな感想を持った(もっともカルロスの話もありますが)フェリペ2世のスペイン宮廷の印象でした。
ぴーちゃん様
コメント有難うございました。
フェリペ2世の印象は、オペラや英国から見た歴史のためにか、あまり良いものとは言えないと思います。
「実姪と結婚」、「メアリーやエリザベートと政略結婚」、「4回も結婚した」とだけ見れば、「ええ~」なのですが、実際にこんな書籍を読むと、ぴーちゃんが仰るように、実はかなり幸せな方ではなかったかと。
そして、画家に伴侶を紹介したり、子どもたちを案じる手紙を書いたりと、人間的な面を知るたびに、この人物に対して興味が湧きます。
以前は「スペイン・ハプスブルクの王は虚弱体質で」などと読むと「へー」で終わっていましたが、改めて図にしてみると、あまりの血の濃さ、近さに驚くほどです。
ヨーロッパ王家は皆親戚というのは大げさな言い方ではないのだなと思います。
非情な政治の世界の中に、伴侶や親子の愛が垣間見えてどこかほっとした今回の話です。読んでくださり、感想をお寄せくださって有難うございました。