イングランドで活躍した画家ハンス・ホルバインの『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』。「狂女王」フアナの孫娘です。

Christina of Denmark, Duchess of Milan / 『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

ナショナル・ギャラリーChristina of Denmark, Duchess of Milan
英国で活躍した画家・ハンス・ホルバイン(子)による、「デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃」の肖像画です。
Christine de Danemark / Christine af Danmark / クリスティナ(クリスティーヌ・ド・ダヌマルク、1521年11月 – 1590年8月10日)
クリスティーナ(デンマーク語名はクリスティナ)は、デンマーク王クリスチャン2世と イサベル・デ・アウストリアの末子として、デンマークで生まれました。

引用元:クリスティアン2世
コペンハーゲン国立美術館Portræt af Christian II (1481-1559)

引用元:Isabella of Austria (1501-1526)
ロイヤル・コレクションIsabella of Austria (1501-1526)

引用元:Three children of King Christian II of Denmark by Jan Gossaert (1526)
ロイヤル・コレクションThe Children of Christian II, King of Denmark (1481-1559)
母イサベルの死後描かれた子供たち。3歳のクリスティーナと、兄ハンス、姉ドロテアです。
1523年、父のクリスチャン2世が王位を追われ、一家でフランドルへ亡命。
困窮の中、大伯母であるマルグリット・ドートリッシュに引き取られます。
1533年、クリスティーナは、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しました。
しかし夫とは2年後に死別し、帰国します。

引用元:ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ Sailko CC-BY-3.0
(サイトには、伊英版とも Portrait of Francesco XII Sforza とあります)
1538年、ブリュッセルの宮廷に居たクリスティーナを、イングランドの宮廷画家であるハンス・ホルバインが訪ねてきます。
その前年に 3番目の妃 ジェーン・シーモアと死別した イングランド王ヘンリー8世が、「4番目のお妃」となる女性を探しており、王に見せる肖像画(お見合い写真のようなもの)を描くためでした。

引用元:ハンス・ホルバイン(子)自画像

引用元:ヘンリー8世
3月12日、彼女は3時間だけホルバインのモデルになることに同意しました。
絵の中の彼女が黒い衣裳なのは、これが喪服だから。
その場で描かれた素描は、イギリス公使によって「まさに完璧」と判断された。ホルバインはロンドンに戻ってから油彩の肖像画を仕上げたに違いない。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
カンペキ (゚д゚)!
正面向きのポーズ(ヘンリーの花嫁候補たちを描いたホルバインの他の肖像画にも共通の特徴)は、王の指示で選ばれたとする指摘がある。他の向きではモデルの欠点が隠されてしまう恐れがあると、王は懸念したのかもしれない。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
ヘンリー8世の4番目のお妃となったアン・クレーヴズの肖像画も、正面から書かれています。

引用元:アン・オブ・クレーヴズ
ルーヴル美術館Portrait d’Anne de Clèves (1515-1557), reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII
美人に描き過ぎたのか? アン・オブ・クレーヴズの肖像
実物より美人?『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』(ハンス・ホルバイン(子)作)
とてもとても魅力的なクリスティーナの肖像ですが、超美人だった、というわけでもないようです。
非常な美人だったという話はないものの、クリスティーナは手の優雅さを大いに賛美されていた。そこで、この絵の中の手の部分で、ホルバインは肌の繊細な美しさを際立たせるために、リネンやビロード、毛皮、皮、金、宝石の質感の違いを描き分けている。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
手の美しさも美人の条件なんですね。
でもモデルの人柄が滲み出るような、いたずらっぽいクリスティーナの微笑みにとても惹かれます。
ホルバインとクリスティーナの話も載っています
ヘンリー8世の最初の妻 キャサリン・オブ・アラゴン
ヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは、クリスティーナにとって母方の大叔母に当たります。

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
ナショナル・ポートレート・ギャラリーKatherine of Aragon
ヘンリー8世はキャサリンの侍女だったアン・ブーリンに夢中になり、キャサリンと離婚しようとします。
神聖ローマ皇帝カール5世は叔母の離婚に反対し、教皇クレメンス7世に圧力をかけました。

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
アルテ・ピナコテークBildnis Kaiser Karls V. im Lehnstuhl, 1548

引用元:教皇クレメンス7世
しかし、ヘンリー8世は国の宗教を変えてまでキャサリンを離婚。
キャサリンは娘メアリー(後の女王メアリー1世)を残して他界します。
2番目の王妃となったアン・ブーリンは女児エリザベスをもうけたのみで王の跡継ぎを産むことができず、王の寵愛は別の女性に移ってしまいました。このエリザベスが後のエリザベス1世です。
ところが、世継ぎとなる男児エドワードを産んだ3番目の王妃ジェーン・シーモアも亡くなってしまい、ヘンリー8世は新しい王妃を探していたのです。
クリスティーナは、寵愛を失ったアン・ブーリンが投獄され、斬首されたことを聞いて知っていました。
イングランド王のお妃候補に、と話があった途端、急いで結婚してしまう女性もいたそうです。
クリスティーナは「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」(ひとつは王の好きにしていいけれど、一個しかないから斬られたら困る)とやんわりと断ったのでした。
クリスティーナの再婚
1541年、クリスティーナは バール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)と再婚します。

フランソワは、ヘンリーの 4番目の王妃となったアンナ・フォン・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ)のかつての婚約者でした。
ヘンリー8世妃アン・オブ・クレーヴズ(アンナ・フォン・クレーフェ)が着る1530年代のハイ・ファッション
クリスティーナとの間には 1男2女が生まれます。
フランソワは1544年に公爵となりましたが、翌1545年に亡くなり、クリスティーナは再び未亡人に。
幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーナは長く摂政を務めました。

引用元:デンマークのクリスティーナ
意志が強く威厳のある女性であった彼女は、公国を慎重に統治し、皇帝を公然と支持したが、1552年にロレーヌ三司教領を奪取して支配権を握ったフランス王アンリ2世によって廃位された。シャルルはフランス宮廷に送られ、将来の妻となるアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの次女クロードを含む王室の子どもたちと共に育てられた。クリスティーヌは2人の娘と共にメヘレンに隠棲し、シャルル3世が王国に復帰した1558年にようやくナンシーに戻った。その後、彼女はイタリアのトルトーナに居を構え、ミラノ公爵未亡人としてその地を統治した。
1558年、この絵画の上部に記されている日付の通り、クリスティーヌは息子とクロード王女の結婚式に出席するため、初めてフランス宮廷を訪れました。おそらくカトリーヌ・ド・メディシスの依頼により、王室御用達の肖像画家フランソワ・クルーエが、公爵夫人と同行した娘ルネの肖像画を描きました(ロンドン、大英博物館、所蔵番号1910,0212.70)。これはクリスティーヌの最初の肖像画ではなく、彼女はすでに著名な画家たちの肖像画を描いていた。1526年のヤン・ゴッサールト(ハンプトン・コート、ロイヤル・コレクション、インベントリー番号405782)、1538年のハンス・ホルバイン(子)、1545年のミヒール・コクシー(オハイオ州オーバリン、アレン記念美術館、インベントリー番号AMAM 1953.270)、そして1554年のアントニス・モル(ロイヤル・コレクション、インベントリー番号405799)などである。これら公爵夫人の肖像画すべてにおいて、ハプスブルク家特有の突き出た唇がなく、同じ長い顔、濃い茶色の目、まっすぐな鼻、尖った顎、小さな口が見られる。彼女の美しさは確かに有名だったが、敬虔なクリスチャンは常に装飾品や宝石を一切つけず、黒い服に白い頭飾りをつけて現れた。それは、最初の夫の死後から身につけ、二度目の結婚生活の間もずっと着続けた未亡人の装いだった。(Google翻訳)
Sotheby’s Portrait de Christine de Danemark, duchesse de Milan puis de Lorraine (Nyborg ou Copenhague, novembre ou 5 décembre 1521-Tortona, 10 août ou 10 septembre 1590)
クリスティーナの容貌について、「ハプスブルク家特有の突き出た唇がない」とありますね。
ホルバイン(子)による肖像でも、特に気になるようなことも無いですもんね。
ミヒール・コクシー (Michiel Coxcie, 1499 – 1592) によって下の肖像画が描かれたのは、1545年。
コクシーは、クリスティーナの叔母「ハンガリーのマリア」の宮廷画家でした。

引用元:デンマークのクリスティーナ
アレン記念美術館Portrait of Christina of Denmark

引用元:ロレーヌ公シャルル3世
Sotheby’sPortait of Charles III, Duc de Lorraine et Bar (1543 – 1608)
ちなみに、息子シャルルの名はクリスティーナの伯父であるカール5世にちなんで付けられたそうです(「シャルル」はカールのフランス語読み)。
この肖像画は、おそらく1571年から1572年頃の巨匠による失われた素描または絵画に基づいている。同じ構図の素描(これもクルーエの作品と考えられている)がルーヴル美術館グラフィックアート部門(Inv.33.436)に所蔵されている。肖像画のモデルであるロレーヌ公シャルル3世(1543-1608)は、1570年11月のシャルル9世とオーストリアのエリザベートの結婚式に出席するため、この時期にパリに滞在していたことが記録されており、1571年1月末までパリに留まった。また、1572年8月には、フランスのマルグリットとナヴァールのアンリの結婚式に出席するためパリを訪れている。この作品の元となったクルーエの肖像画がオリジナルであると仮定すると、これはクルーエの最後の作品の 1 つであり、1572 年 9 月にクルーエが亡くなる直前に制作されたものと推定される。この頃、クルーエの工房は繁盛しており、クルーエの死後、宮廷画家としてクルーエの後を継いだジャン・デクールは、クルーエにとって最も重要な協力者であった。デクールに関する資料は少ないが、おそらくクルーエの弟子であり協力者であったと考えられ、この作品のいくつかの側面、特に宝飾品や衣装の描写には、デクールの影響が見られる。
シャルルはロレーヌ公フランソワ 1 世とデンマークのクリスティーナの息子である。彼の治世は進歩と繁栄で知られている。彼は公国の司法と財政を改革し、経済発展を奨励した。1572 年、彼はポンタムッソンに大学を設立し、首都ナンシーを拡張した。(Google翻訳)
Sotheby’s Portait of Charles III, Duc de Lorraine et Bar (1543 – 1608)
引用文中のジャン・デクール(Jean de Court または Jehan De Court, ジャン・ド・クールとも表記、1530年頃 – 1585年頃)とは、フランスの画家。
フランソワ・クルーエの後を継ぎ、フランス宮廷の肖像画家となりました。
息子シャルルの妃は、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘、クロード・ド・ヴァロワです。

引用元:クロード・ド・ヴァロワ
アルテ・ピナコテークHerzogin Claudia, Tochter Heinrichs II. von Frankreich
クロード・ド・ヴァロワの娘のマカロン
このクリスティーナやシャルルの子孫が、ロレーヌ公(ロートリンゲン公)フランツ、その娘マリー・アントワネットです。
1590年8月10日、クリスティーナはトルトーナで亡くなりました。


引用元:Christina of Denmark (1522-90)
ロイヤル・コレクションChristina of Denmark (1522-90) Signed and dated 1554
画家はプラド美術館の『メアリー1世の肖像』を描いたアントニス・モル。
この絵が描かれた1554年当時、モルはイングランドに滞在していました。
アントニス・モルは1554年にイングランドで活動しており、そこでこの肖像画を描いた可能性がある。当時、サヴォイア公エマニュエル・フィリベールもイングランドに滞在しており、ミラノ公爵夫人兼ロレーヌ公爵夫人と結婚することが提案されていた。結婚交渉は実現しなかったが、この肖像画の依頼と、最終的にクリスティーナの求婚に失敗した男性の肖像画と並べて描かれた理由を説明できるかもしれない。(Google翻訳)
ロイヤル・コレクション Christina of Denmark (1522-90) Signed and dated 1554
英国王への輿入れを断ったデンマーク王女クリスティーナ。
と、そこだけ聞くと「ふーん」だったのですが、彼女が狂女王フアナの孫娘で、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの姪の娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の姪、と知るとまた少し「深く」見えてくるような気がしました。
この時代、有名人が「ほとんど親戚同士」で、名前も似ている(同じ)なので混乱する × 混乱する。
しかも困窮したクリスティーナたちを迎え入れたのは、マルグリット・ドートリッシュ。
まあ、それは親戚だしね、と思うのですが、マルグリットはカールやイサベル(・デ・アウストリア)のために私設学校をつくり、そこには後にヘンリー8世の王妃となるアン・ブーリンも留学していた…。
となるとミーハーな私としては興味深過ぎます。
それでは、狂女王フアナの家族、子供たちについても見て行きたいと思います。
クリスティーナの祖母 フアナ
Juana la Loca(「狂女フアナ」 1479年11月6日 – 1555年4月12日)

引用元:カスティーリャ女王フアナ
美術史美術館Königin Juana “Die Wahnsinnige” (1479-1555)
フアナは1479年11月6日、「カトリック両王」と呼ばれた、カスティーリャ女王イサベル1世と、その夫のアラゴン王フェルナンド2世の娘として生まれました。
おとなしく、読書好きな子どもでした。

フアナの兄と妹
フアナは5人きょうだいの3番目で、兄にフアン、妹にカタリナ(英語名はキャサリン・オブ・アラゴン)がいます。

引用元:Joan d’Aragó i de Castella
プラド美術館La Virgen de los Reyes Católicos

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
フアナの夫とその妹
1496年、フアナは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男である ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公)と結婚します。

引用元:フィリップ美公
美術史美術館蔵Philipp “der Schöne” (1478-1506)
兄のフアンは フィリップ美公の妹・マルグリット(マルガレーテ)と翌年の1497年に結婚するという、スペイン王家とハプスブルク家の「二重結婚」でした。

引用元:マルグリット・ドートリッシュ
結婚当初はフアナを情熱的に愛してくれたフィリップでしたが、元々女性関係が派手だったこともあり、次第に他の女性に目を移していきます。
激しい嫉妬と猜疑心に、フアナの精神は蝕まれていきました。
狂気の芽は既にイザベル女王の母親に見られたのですが、フアナにもその兆しが表れたのです。
家族の死
1497年、スペインの王位継承者だったフアンが亡くなります。
このときマルグリットは妊娠中でしたが、後に死産。
マルグリットは、実の娘のように可愛がってくれたイザベル女王の元にしばらく留まった後、1500年に帰国しました。
1504年にはフアナの母イザベル女王が癌で崩御。
そして、最愛の夫であるフィリップが1506年に急死します。
フアナはついに正気を失いました。
ふたりの間には6人の子供がいましたが、フアナに子供の養育は出来ない状態に。
そのため、レオノール、カルロス、イサベル、マリアの4人は義妹(かつ元兄嫁)だったマルグリットが。
次男フェルナンドと末妹カタリナは、フアナの父フェルナンド2世が育てることになったのです。
マルグリットは愛情込めて幼い甥と姪たちを養育、彼らのために私設学校を開きました。
この私設学校には、後にヘンリー8世妃となるアン・ブーリンも留学します。
アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学
フアナの子どもたち
レオノール(1498年11月15日 – 1558年2月25日)

引用元:レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)
美術史美術館Königin Eleonore von Österreich (1498-1558)
スペイン語名はレオノール・デ・アウストリア (Leonor de Austria) 、
フランス語名はエレオノール・ドートリッシュ (Éléonore d’Autriche) または エレオノール・ド・アブスブール (Éléonore de Habsbourg) 。
初めはポルトガル王マヌエル1世妃となりましたが、死別。
後にフランス王フランソワ1世妃となり、フランソワ1世とカール5世の橋渡し役を務めました。

引用元:フランソワ1世
ルーヴル美術館François 1er (1494-1547), roi de France.
デンマークのクリスティーナ、エレオノールも登場
カルロス(1500年2月24日 – 1558年9月21日)

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 – 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 – 1556年)。
スペイン国王としてはカルロス1世 (Carlos I) 。
スペイン語名ではカルロス、ドイツ語名ではカール、フランス語名ではシャルルです。
妻は、いとこのポルトガル王女、イサベル。

引用元:イサベル・デ・ポルトゥガル
プラド美術館蔵La emperatriz Isabel de Portugal
イサベル自身もカトリック両王の孫にあたります。
イサベル(1501年5月18日 – 1525年1月18日)

引用元:Isabella of Austria (1501-1526)
スペイン語名はイサベル・デ・アウストリア (Isabel de Austria) 、
デンマーク語ではイサベラ・ア・ブアグン (Isabella af Burgund) 、エリサベト・ア・ウストリ (Elisabet af Østrig) 。
デンマーク王クリスチャン2世の王妃であり、クリスティーナの生母。
デンマークを追われ、叔母のマルグリット・ドートリッシュの元へ身を寄せます。
フェルナンド(1503年3月10日 – 1564年7月25日)

美術史美術館Kaiser Ferdinand I. (1503-1564), Bildnis in ganzer Figur
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(在位:1556年 – 1564年)。
オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王。
ドイツ語名はフェルディナント (Ferdinand)、スペイン語名はフェルナンド (Fernando) 。
同名の祖父・アラゴン王フェルナンド2世からとても可愛がられました。

引用元: アラゴン王フェルナンド2世
美術史美術館König Ferdinand II. (1452-1516) von Aragon
カスティーリャ女王イサベル1世、マルグリット・ドートリッシュに仕えた画家シトウ
マリア(1505年9月17日 – 1558年10月17日)

引用元:マリア・フォン・エスターライヒ
メトロポリタン美術館Mary (1505–1558), Queen of Hungary
ドイツ語名はマリア・フォン・エスターライヒ (Maria von Österreich) 。
ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世の王妃。ラヨシュの死後は再婚しませんでした。
兄カルロス(神聖ローマ皇帝カール5世)の命を受け、叔母マルグリット・ドートリッシュの後任としてネーデルラント17州の総督を務めました。

引用元:ハンガリー王ラヨシュ2世
美術史美術館König Ludwig II. (1506-1526) von Ungarn
カタリナ(1507年1月14日 – 1578年2月12日)

引用元:カタリナ
プラド美術館La reina Catalina de Austria
スペイン語名はカタリナ・デ・アウストリア (Catalina de Austria) 、ドイツ語名はカタリーナ・フォン・シュパーニエン (Katharina von Spanien) 。
いとこであるポルトガル王ジョアン3世の王妃。
ジョアン3世は、カール5世の妻イサベルの兄でもあります。
19世紀の歴史画には、幽閉中の母フアナと過ごした少女時代のカタリナも描かれています。

引用元:『幽閉中のフアナ』
プラド美術館La reina Juana la Loca, recluida en Tordesillas con su hija, la infanta Catalina
アン・ブーリンの章でキャサリン・オブ・アラゴンについても読むことができます。人物関係がわかると、クリスティーナの立ち位置が、より鮮明になります
- エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書.
- 有地京子(著). 『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』. 角川マガジンズ.


