イングランドで活躍した画家ハンス・ホルバインの『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』。「狂女王」フアナの孫娘です。
『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』( Christina of Denmark, Duchess of Milan ) 1538年 ハンス・ホルバイン(子) ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
ナショナル・ギャラリー:Christina of Denmark, Duchess of Milan
英国で活躍した画家・ハンス・ホルバイン(子)による、『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』の肖像画です。
クリスティナ(クリスティーヌ・ド・ダヌマルク Christine de Danemark, 1521年11月-1590年8月10日)
クリスティーナ(デンマーク語名はクリスティナ)は、デンマーク王クリスチャン2世とイサベル・デ・アウストリアの末子として、1521年11月にデンマークに生まれました。
引用元:クリスティアン2世
引用元:イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)
1523年、父のクリスチャン2世が王位を追われ、一家でフランドルへ亡命。困窮の中、大伯母であるマルグリット・ドートリッシュに引き取られます。
1533年、クリスティーナは、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しました。
しかし夫とは2年後に死別し、帰国します。
引用元:ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ Sailko CC-BY-3.0
1538年、ブリュッセルの宮廷に居たクリスティーナを、イングランドの宮廷画家であるハンス・ホルバインが訪ねてきます。
その前年に3番目の妃ジェーン・シーモアと死別したイングランド王ヘンリー8世が、「4番目のお妃」となる女性を探しており、王に見せる肖像画(お見合い写真のようなもの)を描くためでした。
引用元:ヘンリー8世
3月12日、彼女は3時間だけホルバインのモデルになることに同意しました。
絵の中の彼女が黒い衣裳なのは、これが喪服だから。
その場で描かれた素描は、イギリス公使によって「まさに完璧」と判断された。ホルバインはロンドンに戻ってから油彩の肖像画を仕上げたに違いない。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
カンペキ(゚д゚)!
正面向きのポーズ(ヘンリーの花嫁候補たちを描いたホルバインの他の肖像画にも共通の特徴)は、王の指示で選ばれたとする指摘がある。他の向きではモデルの欠点が隠されてしまう恐れがあると、王は懸念したのかもしれない。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
ヘンリー8世の4番目のお妃となったアン・クレーヴズの肖像画も、正面から書かれています。
引用元:アン・オブ・クレーヴズ
とてもとても魅力的なクリスティーナの肖像ですが、超美人だった、というわけでもないようです。
非常な美人だったという話はないものの、クリスティーナは手の優雅さを大いに賛美されていた。そこで、この絵の中の手の部分で、ホルバインは肌の繊細な美しさを際立たせるために、リネンやビロード、毛皮、皮、金、宝石の質感の違いを描き分けている。
エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書. p.126.
手の美しさも美人の条件ですね。でもモデルの人柄が滲み出るような、いたずらっぽいクリスティーナの微笑みにとても惹かれます。
ホルバインとクリスティーナの話も載っています
ヘンリー8世の最初の妻 キャサリン・オブ・アラゴン
引用元:カタリナ(ヘンリー8世最初の妃キャサリン・オブ・アラゴン)
ヘンリー8世の最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは、クリスティーナにとって母方の大叔母に当たります。
ヘンリー8世はキャサリンの侍女だったアン・ブーリンに夢中になり、キャサリンと離婚しようとします。
神聖ローマ皇帝カール5世は叔母の離婚に反対し、教皇クレメンス7世に圧力をかけました。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
引用元:教皇クレメンス7世
しかし、ヘンリー8世は国の宗教を変えてまでキャサリンを離婚。キャサリンは娘メアリー(後の女王メアリー1世)を残して他界します。
2番目の王妃となったアン・ブーリンは女児エリザベスをもうけたのみで王の跡継ぎを産むことができず、王の寵愛は別の女性に移ってしまいました。このエリザベスが後のエリザベス1世です。
ところが、世継ぎとなる男児エドワードを産んだ3番目の王妃ジェーン・シーモアも亡くなり、ヘンリー8世は新しい王妃を探していたのです。
クリスティーナは、アン・ブーリンが斬首されたことを聞いて知っていました。
イングランド王のお妃候補に、と話があった途端、急いで結婚してしまう女性もいたそうです。
クリスティーナは「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」(ひとつは王の好きにしていいけれど、一個しかないから斬られたら困る)とやんわりと断ったのでした。
クリスティーナの再婚
1541年、クリスティーヌはバール公フランソワ(ロレーヌ公フランソワ1世)と再婚します。
フランソワは、ヘンリーの4番目の王妃となったアンナ・フォン・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ)のかつての婚約者でした。
クリスティーナとの間には1男2女が生まれましたが、フランソワは1545年に亡くなります。
幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーナは長く摂政を務めました。
引用元:デンマークのクリスティーナ
引用元:ロレーヌ公シャルル3世
ちなみに、息子シャルルの名はクリスティーナの伯父であるカール5世にちなんで付けられたそうです(「シャルル」はカールのフランス語読み)。
シャルルの妃はフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘、クロード・ド・ヴァロワ。
引用元:クロード・ド・ヴァロワ
このクリスティーナやシャルルの子孫が、ロレーヌ公(ロートリンゲン公)フランツ、その娘マリー・アントワネットです。
1590年8月10日、クリスティーナはトルトーナで亡くなりました。
英国王への輿入れを断ったデンマーク王女クリスティーナ。
と、そこだけ聞くと「ふーん」だったのですが、彼女が狂女王フアナの孫娘で、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの姪の娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の姪、と知るとまた少し「深く」見えてくるような気がしました。
この時代、有名人が「ほとんど親戚同士」で、名前も似ている(同じ)なので混乱する×混乱する。
しかも困窮したクリスティーナたちを迎え入れたのは、マルグリット・ドートリッシュ。
まあ、それは親戚だしね、と思うのですが、マルグリットはカールやイサベル(・デ・アウストリア)のために私設学校をつくり、そこには後にヘンリー8世の王妃となるアン・ブーリンも留学していた…。
となるとミーハーな私としては興味深過ぎます。
それでは、狂女王フアナの家族、子供たちについても見て行きたいと思います。
クリスティーナの祖母フアナ
「狂女フアナ」( Juana la Loca, 1479年11月6日-1555年4月12日)
引用元:カスティーリャ女王フアナ
フアナは1479年11月6日、「カトリック両王」と呼ばれた、カスティーリャ女王イサベル1世と、その夫のアラゴン王フェルナンド2世の娘として生まれました。
おとなしく、読書好きな子どもでした。
フアナの兄と妹
フアナは5人きょうだいの3番目で、兄にフアン、妹にカタリナ(英語名はキャサリン・オブ・アラゴン)がいます。
引用元:アストゥリアス公フアン
引用元:カタリナ(ヘンリー8世最初の妃キャサリン・オブ・アラゴン)
フアナの夫とその妹
1496年、フアナは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男であるブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公)と結婚します。
引用元:フィリップ美公
兄のフアンはフィリップ美公の妹・マルグリット(マルガレーテ)と翌年の1497年に結婚するという、スペイン王家とハプスブルク家の「二重結婚」でした。
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
結婚当初はフアナを情熱的に愛してくれたフィリップでしたが、元々女性関係が派手だったこともあり、次第に他の女性に目を移していきます。
激しい嫉妬と猜疑心に、フアナの精神は蝕まれていきました。
狂気の芽は既にイザベル女王の母親に見られたのですが、フアナにもその兆しが表れたのです。
家族の死
1497年、スペインの王位継承者だったフアンが亡くなります。
このときマルグリットは妊娠中でしたが、後に死産。
マルグリットは、実の娘のように可愛がってくれたイザベル女王の元にしばらく留まった後、1500年に帰国しました。
1504年にはフアナの母イザベル女王が癌で崩御。
そして、最愛の夫であるフィリップが1506年に急死します。
フアナはついに正気を失いました。
ふたりの間には6人の子供がいましたが、フアナに子供の養育は出来ない状態に。
そのため、レオノール、カルロス、イサベル、マリアの4人は義妹(かつ元兄嫁)だったマルグリットが。
次男フェルナンドと末妹カタリナは、フアナの父フェルナンド2世が育てることになったのです。
マルグリットは愛情込めて幼い甥と姪たちを養育、彼らのために私設学校を開きました。
この私設学校には、後にヘンリー8世妃となるアン・ブーリンも留学します。
フアナの子どもたち
レオノール(1498年11月15日-1558年2月25日)
引用元:レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)
スペイン語名はレオノール・デ・アウストリア( Leonor de Austria )、フランス語名はエレオノール・ドートリッシュ( Éléonore d’Autriche )またはエレオノール・ド・アブスブール( Éléonore de Habsbourg )。
初めはポルトガル王マヌエル1世妃となりましたが、死別。
後にフランス王フランソワ1世妃となり、フランソワ1世とカール5世の橋渡し役を務めました。
引用元:フランソワ1世
カルロス(1500年2月24日-1558年9月21日)
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年-1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年-1556年)。
スペイン国王としてはカルロス1世( Carlos I )。
スペイン語名ではカルロス、ドイツ語名ではカール、フランス語名ではシャルルです。
妻は、いとこのポルトガル王女、イサベル。
引用元:イサベル・デ・ポルトゥガル
イサベル(1501年5月18日-1525年1月18日)
引用元:イサベル・デ・アウストリア(イサベラ・ア・ブアグン)
スペイン語名はイサベル・デ・アウストリア( Isabel de Austria )、デンマーク語ではイサベラ・ア・ブアグン( Isabella af Burgund )、エリサベト・ア・ウストリ( Elisabet af Østrig )。
デンマーク王クリスチャン2世の王妃であり、クリスティーナの生母。
デンマークを追われ、叔母のマルグリット・ドートリッシュの元へ身を寄せます。
フェルナンド(1503年3月10日-1564年7月25日)
神聖ローマ帝国のローマ皇帝フェルディナント1世(在位:1556年-1564年)。
オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王。
ドイツ語名はフェルディナント( Ferdinand )、スペイン語名はフェルナンド( Fernando )。
同名の祖父・アラゴン王フェルナンド2世からとても可愛がられました。
引用元: アラゴン王フェルナンド2世
マリア(1505年9月17日-1558年10月17日)
引用元:マリア・フォン・エスターライヒ
ドイツ語名はマリア・フォン・エスターライヒ( Maria von Österreich )。
ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世の王妃。ラヨシュの死後は再婚しませんでした。
兄カルロス(神聖ローマ皇帝カール5世)の命を受け、叔母マルグリットの後任としてネーデルラント17州の総督を務めました。
引用元:ハンガリー王ラヨシュ2世
カタリナ(1507年1月14日-1578年2月12日)
引用元:カタリナ
スペイン語名はカタリナ・デ・アウストリア( Catalina de Austria )、ドイツ語名はカタリーナ・フォン・シュパーニエン( Katharina von Spanien )。
いとこであるポルトガル王ジョアン3世の王妃。
ジョアン3世は、カール5世の妻イサベルの兄でもあります。
19世紀の歴史画には、幽閉中の母フアナと過ごした少女時代のカタリナも描かれています。
引用元:『幽閉中のフアナ』
アン・ブーリンの章でキャサリン・オブ・アラゴンについても読むことができます
- エリカ・ラングミュア(著). 高橋裕子(訳). 2004-11-1. 『ナショナル・ギャラリー コンパニオン・ガイド』. ミュージアム図書.
- 有地京子(著). 『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』. 角川マガジンズ.
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