ルーヴル美術館の超目玉・レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。イタリアの巨匠のこの絵が、なぜフランスにあるのでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』はなぜフランスにあるのか?
Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa /『モナ・リザ』 1503 – 1519年 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

引用元:『モナ・リザ』
ルーヴル美術館Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa
ルーヴル美術館にある『モナ・リザ』。 レオナルド・ダ・ヴィンチが 1519年に亡くなるまで手元に置き、筆を入れ続けていたそうです。
同じ頃、後にヘンリー8世妃となり、斬首されることになるアン・ブーリンが、レオナルドの住まいの近くで暮らしていました。

引用元:アン・ブーリン
ナショナル・ポートレート・ギャラリーAnne Boleyn
アンはこの天才芸術家と会ったことがあるのでしょうか。
そもそも何故、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がフランスにあるのか?
その疑問から見ていきましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランス王に招かれる
1515年、ルイ12世の娘婿 フランソワ1世が、フランス国王となります。
前王たちから引き継いだイタリアへの野望。
イタリア侵攻の際、現地の芸術に触れたフランソワ1世は、その大ファンになってしまいました。
天才レオナルド・ダ・ヴィンチに会ったフランソワ1世は、彼にフランスに来るように誘います。
1516年。 フランソワ1世に招かれたイタリアの偉大なる芸術家が、フランスにやってきます。
そのときレオナルドは『モナ・リザ』も携えていました。

引用元:フランソワ1世
ルーヴル美術館François 1er (1494-1547), roi de France.

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチ
フランソワ1世はレオナルドを大歓迎。 居城アンボワーズ城近くのクルーの館に住まわせます。
1516年、フランソワの招待に応じてフランスに来たイタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が老いの身を落ち着けたのは、クロード王妃の住むアンボワーズ城のすぐそばのクロー村であったから、アンもダ・ヴィンチの姿を目にしたにちがいない。
石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社. p.18.

引用元:アンボワーズ城 Quality Images by Martin Falbisoner CC-BY-SA-3.0

引用元:クルー城 Nadègevillain CC-BY-SA-3.0
François 1er reçoit les derniers soupirs de Léonard de Vinci / 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 1818年 ドミニク・アングル プティ・パレ美術館蔵
「レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取った」という伝承が残っているほど、レオナルドはフランソワ1世から賞賛、厚遇されました。

引用元:『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』
プティ・パレ美術館François 1er reçoit les derniers soupirs de Léonard de Vinci
幼い頃に父を亡くしたフランソワ1世は、レオナルドを父親のように慕っていました。
アンボワーズ城からレオナルドが暮らすクロ・リュセの館まで、フランソワ1世は自ら地下通路を歩いて会いに来ていたそうです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1519年5月2日に死去。
実際には、アングルの絵に描かれているような最期ではありませんでした。
『モナ・リザ』は弟子のサライが相続しましたが、後にフランソワ1世によって買い上げられます。
諸説あるそうですが、『マンガでわかる 「西洋絵画」の見かた』(誠文堂新光社)では、「売却額は 4000 エキュで、これはダ・ヴィンチの年金 700 エキュの約 6 年分。当時としては高額な部類」だったとあります。
下は「サライ」と思われる、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『青年の横顔』です。

ロイヤル・コレクションThe head of a youth c.1510
弟子サライがモデル?『洗礼者ヨハネ』
その後『モナ・リザ』はフォンテーヌブロー宮殿に飾られ、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移します。
革命後はルーヴル美術館へ収められましたが、普仏戦争や世界大戦などの戦禍を避けるため各地を転々とし、一時ナポレオンの寝室に掛けられたこともありました。
『モナ・リザ』が今でもフランスに在るのは、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招聘したフランソワ1世のおかげということですね。
『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』も掲載
フランソワ1世の常備薬はミイラの粉末
ルネサンスの華・イザベラ・デステ
素描『イザベラ・デステの肖像』(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
では、イングランド出身のアン・ブーリンが、レオナルドの住居の近くにいたのは何故なのか?
アン・ブーリン、フランスへ行く
マルグリット・ドートリッシュの宮廷へ留学
当時ヨーロッパで最も文化水準が高かったという、 ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷。
マルグリットは、手元に引き取り養育している甥(後の神聖ローマ皇帝カール5世)や姪たち(後のフランソワ1世の 2度目の妻 エレオノール他)のために、私設学校を開いていました。

引用元:マルグリット・ドートリッシュ

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
アルテ・ピナコテークBildnis Kaiser Karls V. im Lehnstuhl, 1548

引用元:レオノール・デ・アウストリア
美術史美術館Königin Eleonore von Österreich (1498-1558)
マルグリット・ドートリッシュの人生について
イングランドとスペインの関係
イングランドの国王ヘンリー8世の妃は、キャサリン・オブ・アラゴン (Catherine of Aragon) といい、スペインのカトリック両王の娘です。
ヘンリーには他にもキャサリンという名の女性と結婚しており、区別するため、Katherine の表記になっている場合があります。
キャサリンのスペイン語名は、カタリーナ・デ・アラゴン(またはカタリナ・デ・アラゴン、Catalina de Aragón)。
カールとレオノールにとっては、叔母(母フアナの妹)にあたります。

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
ナショナル・ポートレート・ギャラリーKatherine of Aragon
ジェーン・グレイを処刑したイングランド女王メアリー1世は、キャサリン・オブ・アラゴンの娘
外交官で勉学好きだったトマス・ブーリンは、自分の娘のアンを預かってもらえないか、マルグリット・ドートリッシュに打診。
マルグリットは了承し、1513年6月半ば、アンはマルグリットの宮廷があるブルゴーニュに送り出されます。
下の引用文に出てくる「マルガレーテ総督」は、マルグリット・ドートリッシュのドイツ名 (Margarete von Österreich) です。
一五一三年の、ブーリン宛マルガレーテ総督の手紙が残っている。アンが無事到着したこと、賢い娘さんを預かることになって嬉しい、といった内容だ。このときアンは十三歳だったのだろうか、それともまだたった六歳だったのだろうか? 手紙には、年齢のわりに立ち居振る舞いが立派、との褒め言葉もあるが、そこから類推できることは何もない。十三歳であっても六歳であっても当てはまるからだ。
中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.204.
後にイングランド王ヘンリー8世の妃となり、エリザベス1世の母となるアン・ブーリンですが、生年は諸説有り、はっきりしません。
1500年生まれとすれば、この時アンは13歳くらいです。
しかし、この留学はイングランドとスペインの関係悪化により、短期間で終わりました。
アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学
1514年、フランスへ
1514年、妻を亡くしたフランス王ルイ12世に、ヘンリー8世の妹 メアリーが輿入れすることになりました。
王妹メアリーについて、アン・ブーリンもフランスへ渡ります。

引用元:メアリー・テューダー
メアリー・テューダー(フランス名 マリー・ダングルテール)と ルイ12世の結婚は、ルイ12世の死により、わずか 3ヵ月で終わりを告げました。
未亡人となったメアリーはイングランドに帰国し、かつての恋人と再婚します。
このふたりの孫が、イングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイです。
フランソワ1世妃クロードの通訳として
ルイ12世崩御後、娘婿のフランソワ1世が次のフランス国王になります。
アンは通訳として王妃クロードに仕え、可愛がられました。

引用元:王妃クロード
ルーヴル美術館La reine Claude, première femme de François 1er
流暢なフランス語を話すアンは、同時代の宮廷人からも「言われなければ、外国人だとわからない」とまで言われたそうです。
リエの司教ランスロット・ド・カールは、「その立ち居振る舞いや作法からは、決してイングランドの女性だとは思われないだろう。フランスで生まれ育ったかのようだ」と書いている。
ジェニファー・ライト(著). 二木かおる(訳). 『史上最悪の破局を迎えた13の恋物語』. 原書房. p.91.
いいですねー。 語学に堪能なひと、尊敬します。 羨ましい。 目に見えないところで努力も相当したんでしょうね。
当時のフランスの宮廷文化
イタリア芸術にハマっていた、クロードの夫 フランソワ1世。
レオナルド・ダ・ヴィンチだけでなく、アンドレア・デル・サルト、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオなど、イタリアで活躍していた芸術家たちを呼び寄せ、代理人を通じて美術品を収集します。

引用元:『美しき女庭師』
ルーヴル美術館La Vierge à l’Enfant avec le petit saint Jean Baptiste
ルーヴル美術館特集【hannaと美術館】

引用元:FontainebleauGalerieFrancoisI originally posted to Flickr as DSC01529 Neil Rickards CC-BY-2.0
彫刻や「黄金の塩容れ」で有名なベンヴェヌート・チェッリーニ(チェリーニとも表記)もフランソワ1世に招かれ、1540年から5年間 パリに滞在しています。

引用元:サリエラ Gaspar Torriero CC-BY-SA-2.0
美術史美術館Sogenannte Saliera
目に眩しい黄金の塩容れ

『残酷な王と悲しみの王妃』の中でも、フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家たちを招聘した話が書かれています。
王は即位まもなくミラノへ遠征したが、進んだイタリア文化に完全にノックアウトされ、絵画や彫刻、書籍や贅沢品を収集(半ば収奪)するとともに、おおぜいの芸術家たちを国へ招いて庇護した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年をフランスで送ったのはそのためで、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』があるのもまたそのおかげである(アンが老レオナルドに会う機会はあったのだろうか?)
中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.206.
そんなルネサンスの花が大きく華麗に開いた時代の宮廷で過ごしたアン。
華やかな宮廷文化の中で、イタリア芸術や音楽、ダンスに触れ、後にイングランド宮廷で注目される “洗練” を身につけていきます。
今のところ「アン・ブーリンがレオナルド・ダ・ヴィンチに会った」という話は無いようですが、もしかしたら遠くから見掛けたことくらいはあったのかもしれませんね。(あって欲しい!)
娘エリザベスについての本ですが、母アン・ブーリンについても書かれています。





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