ルーヴル美術館を代表する名画『モナ・リザ』のモデルではないかといわれた一人、ルネサンスの才媛イザベラ・デステ。嫁ぎ先のマントヴァの格上げに貢献したイザベラの知的な横顔です。
『イザベラ・デステの肖像』( Portrait d’Isabelle d’Este ) 1500年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
引用元:『イザベラ・デステの肖像』
『イザベラ・デステの肖像』( Portrait d’Isabelle d’Este )
ルーヴル美術館の版画とデッサンの研究室で予約することで見ることができます。
紙に黒チョークや木炭などで描かれた素描。
ルーヴル美術館の至宝『モナ・リザ』のモデル説があったひとり、イザベラ・デステの肖像です。
『モナ・リザ』が描かれたのはこの素描から数年後のことでした。
『モナ・リザ』( Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa ) 1503年-1506年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
引用元:『モナ・リザ』
1499年 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミラノを脱出しマントヴァに行く
引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチ
1490年代の終わり、フランス国王ルイ12世の軍がミラノに侵攻します。
ミラノを統治していたルドヴィーコ・スフォルツァは 9月2日にミラノを脱出。
その4日後にミラノはフランス軍に降伏しますが、それまで仕事に没頭していたレオナルドは状況を知って驚愕しました。
12月14日に財産をフィレンツェの銀行に預けた後、レオナルドは、未完成の作品やスケッチなどを持って弟子のサライらとミラノを離れます。
ヴェネツィアへ向かう途中、レオナルドたちはマントヴァに立ち寄ります。
マントヴァでは侯妃イザベラ・デステのもとに身を寄せ、イザベラから大きな歓待を受けました。
下の地図は1494年頃のイタリアです。マントヴァはミラノとヴェネツィア、フェラーラ、モデナに囲まれた場所に在ります。
引用元:1494年頃のイタリア半島 MapMaster CC-BY-SA-3.0-migrated CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0
マントヴァ侯妃イザベラ・デステ( Isabella d’Este, 1474年5月18日-1539年2月13日)
イザベラはエルコレ1世・デステの長女としてフェラーラ公国で生まれ、1490年にマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚しました。
イザベラの妹ベアトリーチェ・デステはミラノ公 ルドヴィーコ・スフォルツァの正妃でしたが、フランスがミラノに侵攻する前の1497年に第三子を早産し、亡くなっています。
教養豊かで熱心な美術コレクターでもあったイザベラは、レオナルドに自分の肖像画を描いて欲しいと頼みます。
レオナルドは承諾し、彼女をスケッチしました。
イザベッラは彼に自分の肖像画を依頼し、レオナルドも素描を少なくとも二枚は描いている。一枚を彼女のもとに残し、あとは彼自身が持っていたという。
素描の輪郭にそって残る小さな穴は、これが下絵として使われたことを示しているが、レオナルドによる油彩の肖像画はついに描かれなかった。
裾分一弘(監修). 2018-3-10. 『もっと知りたい レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と作品』改訂版. 東京美術. p.63.
『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』ではイザベラの度重なる「しつこい」要請に対して、
慇懃な宮廷人である彼は、侯妃のためにすばらしい下絵を描いてやるが、あとはヴェネツィアで仕上げてから送りますので、と約束したまま、そそくさとマントヴァから立ち去ってしまった(その後、彼女は何度も人を介して催促するが、ついに肖像画を手に入れることはできなかった)。
斎藤泰弘(著). 2019-12-22. 『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』. 集英社新書. p.248.
とあります。
もしレオナルドによる油彩の肖像画が完成していたなら一体どんなだったのだろう、と思わずにいられませんよね。
著者はレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿研究の第一人者・斎藤 泰弘さん。わかりやすく読みやすいです。絵を観る前に読んでおくとより理解が深まります。
ティツィアーノによるイザベラの肖像画
引用元:『イザベラ・デステの肖像』
この絵は巨匠ティツィアーノによる「16歳の」イザベラ・デステです。
制作されたのは1530年代ですので、当時のイザベラはもう60歳を超えていました。
最初に描かれた肖像画がイザベラに気に入られなかったため、ティツィアーノは若かりし頃の姿でイザベラの肖像画を描き直します。
この絵を見たイザベラの感想は、「私はこんなに美しくなかった」だったとか…。
イザベラ・デステと思われる女性の胸像
引用元:イザベラ・デステの胸像
キンベル美術館:Portrait of a Woman, Possibly Isabella d’Este, c. 1500
やっぱり美人じゃないですか、と思いますが、描かれた肖像画が気に入らないと不平を言ったというイザベラ。
それならこの作品もいくらか美化されていそうです。
イザベラ・デステのメダル
引用元:イザベラ・デステのメダル
胸像と同じ作者によるメダル。
こっちの方が実物に近い?
なぜ肖像画は完成しなかったのか?
「イザベラ・デステが『モナ・リザ』のモデル説」について、『モナ・リザの罠』(講談社現代新書)の中で、ルネッサンス学者の田中英道氏の著書が紹介されています。
そこで、
イザベラ・デステは肖像画にはうるさく、似ていないと受け取りを拒否したり、太り過ぎと言って突き返したりして画家を困らせたといいます。ダ・ヴィンチはこうしたイザベラ・デステの性癖を知っていたので、めったな作品は渡せないと思い、その結果、ただでさえ遅い彼の筆がさらに遅れることになり、結局そのまま渡さずに終わったのが『モナ・リザ』だというわけです。
西岡文彦(著). 2006-4-20. 『モナ・リザの罠』. 講談社現代新書. p.45.
という記述があります。
ルーヴル美術館の『モナ・リザ』のタイトルは『 Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa 』(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻 リーザ・ゲラルディーニ)であり、モデルとなったのは「リーザ・ゲラルディーニ」という名の女性であると考えられています。
素描『イザベラ・デステの肖像』には、レオナルドがこの絵を仕上げようとした「証拠」があるとのことです。
仕上げる気があったのに未完成のままになった理由としては、時間的制約、環境・状況などいろいろな要因が考えられるでしょう。
そのひとつとして、『モナ・リザの罠』で語られていた「めったな作品は渡せないと思い、その結果、ただでさえ遅い彼の筆がさらに遅れることに」なった可能性も大きいかもしれないと思います。
(いや、まさか、途中で面倒くさくなったということは…(゚д゚))
『イザベラ・デステの肖像』は顔だけがレオナルドの手によるものという説もありますので、そうだとしたら巨匠や弟子たちとの絡みによる要因もあったかもしれませんね。
さて、本当のところは一体…?
今後の研究によって解明されることを期待しています。
素描『イザベラ・デステの肖像』
引用元:『イザベラ・デステの肖像』
引用元:『イザベラ・デステの肖像』
引用元:『イザベラ・デステの肖像』
この素描には、輪郭線に沿って細かい穴があけられています。
じつは、この無数の穴は、当時、素描の輪郭を壁画や油彩画に転写するために使われたものでした。画面にこの穴のあいた素描を置いた上から、細かいカーボン粉の入った袋で叩いて点線の輪郭を転写する仕組みになっていましたから、穴のあいた素描があることは、それをもとに描かれた作品が存在するという証拠にもなるわけです。
絵柄が違うので、『モナ・リザ』の下絵とは考えられませんが、穴のあいた絵の存在はダ・ヴィンチに作品を仕上げる意思があったことの証拠にはなるわけです。
西岡文彦(著). 2006-4-20. 『モナ・リザの罠』. 講談社現代新書. pp.45.-46.
肖像画を仕上げる意思はあった、ということですかね(^^;(完成品を見たかった!)。
イザベラがチェチェーリアに宛てた手紙
『白貂を抱く婦人』( The Lady with an Ermine ( Portrait of Cecilia Gallerani )) 1490年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ クラクフ国立美術館蔵
引用元:『白貂を抱く婦人』
モデルとなったチェチーリア・ガッレラーニはミラノ公 ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾でした。
ミラノ公 ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドの元雇い主で、イザベラの妹の夫だった人物です。
ルドヴィーコの心を独占していた、美貌の誉れ高きチェチェーリア。
妬ましいことに、あのレオナルド・ダ・ヴィンチに肖像画を描いて貰えたチェチェーリア。
イザベラは妹の死後、このチェチーリアに宛てて手紙を書いています。
1498年4月の終わり。チェチーリアの元に、イザベラからの手紙が到着しました。
「ベッリーニが描いた肖像画とレオナルドが描いたあなた様の肖像画を見比べてみたいので、肖像画を貸していただけないか」
「あなた様のお顔を拝見させていただくことも楽しみにしています」
チェチーリアは承諾の返事を送りました。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』 には、この『白貂を抱く婦人』のX線写真が掲載されています。
それを見ると、髪型、白貂、女性の手の部分など、現在私たちが目にしている『白貂を抱く婦人』とは随分異なっています。
過去の修復時に過剰修復されてしまっていたりして、イザベラが見た時の『白貂を抱く婦人』とはだいぶ違っているようです。
現在の絵にしっかり描かれている白貂についてもこのような記述があります。
さらに一四九八年にチェチリアと、マントヴァ侯妃イザベラ・デステとの間で交わされた、イザベラが絵画の借用を希望する手紙には、この絵をチェチリア自身が所蔵していることを示す記述があるものの、なぜかテンに触れられていない。ここから完成から八年後の時点で、この絵にテンが描かれていなかった事実がうかがえるのだ。
日本博学倶楽部. 2015-5-15. 『「世界の名画」謎解きガイド』. PHP文庫. p.81.
こちらの謎もぜひ解明していただきたいものです。(よろしくお願いします)
ルーヴル美術館にあるイザベラ・デステ関連の絵
『パルナッソス』( Mars et Vénus, dit Le Parnasse ) 1475年-1500年頃 アンドレア・マンテーニャ ルーヴル美術館蔵
引用元:『パルナッソス』
『パルナッソス』( Mars et Vénus, dit Le Parnasse )
展示場所:ドゥノン翼、710展示室
イザベラ・デステと夫フランチェスコ2世・ゴンザーガの婚礼を祝う寓意画。
パルナッソス山の頂で寄り添うマルスとヴィーナス。ふたりの背後には床が用意されています。
マンテーニャによるこの作品はイザベラの書斎に飾られていました。
『イザベラ・デステの戴冠式の寓話』( Allégorie de la cour d’Isabelle d’Este ) 1500年-1525年 ロレンツォ・コスタ ルーヴル美術館蔵
『イザベラ・デステの戴冠式の寓話』( Allégorie de la cour d’Isabelle d’Este )
展示場所:ドゥノン翼、710展示室
イザベラの書斎を飾った絵画のひとつ。
本作は、マンテーニャが亡くなった後、ロレンツォ・コスタによって制作されました。
イザベラの夫
当時のファッションリーダーであり、芸術家たちの有力なパトロンだったイザベラ。
政治的手腕にも恵まれた彼女でしたが、夫フランチェスコと、弟アルフォンソの妻だったルクレツィア・ボルジアとの不倫に心を痛めることもありました。
1520年代の「ローマ略奪」後はマントヴァの教育や文化事業に尽力し、1539年2月に亡くなりました。
『勝利の聖母』( La Vierge de la Victoire ) 1475年-1500年 アンドレア・マンテーニャ ルーヴル美術館蔵
引用元:『勝利の聖母』
聖母子の左で跪く男性がフランチェスコ2世・ゴンザーガ。
引用元:フランチェスコ2世の肖像
引用元:アルフォンソ1世・デステ
- 裾分一弘(監修). 2018-3-10. 『もっと知りたい レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と作品』改訂版. 東京美術.
- 斎藤泰弘(著). 2019-12-22. 『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』. 集英社新書.
- 西岡文彦(著). 2006-4-20. 『モナ・リザの罠』. 講談社現代新書.
- 日本博学倶楽部. 2015-5-15. 『「世界の名画」謎解きガイド』. PHP文庫.
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