イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃となったアン・ブーリンはフランス語に堪能でした。10代でネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの宮廷に留学し、後にフランス宮廷に移ります。
アン・ブーリン( Anne Boleyn, 1501年頃-1536年5月19日)
引用元:アン・ブーリン
ナショナル・ポートレート・ギャラリー:Anne Boleyn
アン・ブーリンは、イングランド王ヘンリー8世の二番目の王妃、エリザベス1世の生母です。
後に王に対する反逆罪に問われ、1536年に斬首されました。
「ブーリン」はブリン、ブリーン、ボレイン、ボレーンと表記されることがありますが、ここでは「ブーリン」としました。
マルグリット・ドートリッシュの宮廷でフランス語を学ぶ
アンの父トマス・ブーリンは語学に堪能で、駐仏大使も務めた外交官でした。
1512年、トマスは、イギリスとの友好促進のため、スペイン領ネーデルラント総督のもとに派遣されます。
ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche )
当時のネーデルラント総督は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘であり、フィリップ美公の妹、マルグリット(ドイツ語読みではマルガレーテ)・ドートリッシュでした。
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
マルグリットの家族
1477年、ブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死し、娘のマリー・ド・ブルゴーニュが遺されました。
シャルル突進公の死でブルゴーニュ公国の領土の大半はフランス王国に併合されてしまい、16世紀初頭にはフランドルと、フランス東部のフランシュ・コンテだけになっていました。(参考:『カール5世とハプスブルク帝国』 創元社)
マリーはハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と結婚。フィリップとマルグリットの子宝に恵まれます。
引用元:フィリップ美公
しかし、1482年、マリーは落馬事故が元で死亡。
「ブルゴーニュ公」は息子であるフィリップ美公が継承しましたが、そのフィリップ美公も1506年に亡くなってしまいます。
1507年、父マクシミリアンにより、妹のマルグリットがネーデルラント総督に任命されました。
マルグリットは若くして二人の夫と死別していました。
その後は再婚せず、メッヘレンの宮廷で兄の遺児たちを引き取って養育します。
マルガレーテ大公妃はルネサンス期の才媛の一人で、古典の教養も深く、フランス語の詩を書き、ラテン語に堪能だった。美公といわれた兄フィリップの夭折ののちネーデルラントの総督になった彼女は、甥カールと三人の姪に囲まれた楽しい家庭生活を味わうことができた。
江村洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.16,
マルグリットの宮廷は、当時のヨーロッパで最も文化水準が高いとされ、他国の羨望の的となっていました。
マルグリットは甥や姪たちのために学校を開きます。
マルガレーテは子どもたちのために、ヨーロッパじゅうからすぐれた学者を集め、「学校」を設けた。トマス・ブーリンは、マルガレーテに、十一歳ほどになる次女アンを預かってもらえないか打診し、色よい返事を得る。翌一五一三年の六月中旬に、トマスはアンをブルゴーニュに送り出した。
石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社. p.12.
学問に熱心だったトマスは、娘のアンをマルグリットの宮廷に送り出します。
マルグリットの私設学校で、アンはフランス語だけでなく、楽器や舞踏、歌も学びました。
ところで、アンの生年は諸説あり、はっきりしません。
トマス・ブーリンに宛てたマルグリットの手紙には、「年齢のわりに立ち居振る舞いが立派」とありますが、「年齢のわりに」とは、6歳? 13歳?
『英国王妃物語』(三省堂書店)ではアンの生年は1507年となっており、さらに「トマス・ブリーンの長女」となっています。
マルグリットの甥・カール
フィリップ美公の妻、カスティーリャ女王フアナは、マルグリットの最初の夫フアンの実妹でもあります。
フィリップ美公とフアナ夫妻は6人の子供をもうけていました。
しかしフィリップ美公の急死後、フアナは発狂。子供たちの養育はできない状態になります。
引用元:カスティーリャ女王フアナ
マルグリットは、兄の遺児6人のうち4人を引き取って育てました。
この兄妹の長男が、後のスペイン王であり、神聖ローマ皇帝となるカールです。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
カール(フランス語読みではシャルル)は、曾祖父であるシャルル突進公の名から付けられました。
カールはフィリップ美公の死により、ブルゴーニュ公を継承します。
マルグリットは甥であるカールの後見を1515年1月まで務めました。
スペイン生まれのフェルディナント(スペイン語読みではフェルナンド)と、末の妹であるカタリナはスペインで育てられます。
フアナの父であり、子供たちの祖父であるアラゴン王フェルナンド2世は、自分と同じ名を持つフェルナンドを溺愛しました。
引用元: アラゴン王フェルナンド2世
カンブレー同盟戦争
1508年から1516年にかけてはカンブレー同盟戦争の時代でした。
イタリア半島における権益を巡り、フランス、教皇国、ヴェネツィア共和国が争ったのです。
この戦争はスペイン、神聖ローマ帝国、イングランド、スコットランド、イタリア諸邦といった当時の西欧諸国のほぼ全てを巻き込み、イタリア戦争における最も大規模な戦争の一つとなりました。
マルグリットも外交・政治の才能を発揮し、父の神聖ローマ皇帝マクシミリアン、甥のカールの側に立ち、オーストリアの対フランス、イタリア政策を支援します。
引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
イングランドのヘンリー8世がスペインのカトリック両王の娘キャサリンと結婚していたことでもわかるように、イングランドとスペインの関係は悪いものではありませんでした。
しかし、1514年、両国の関係は悪化。イングランドとフランスが接近します。
父の希望通りに立派な貴婦人となり、王妃キャサリンに仕えることを願ってフランス語を学んでいたアンでしたが、これ以上スペイン領であるマルグリットの宮廷に留まることは出来ませんでした。
アンはマルグリットのを元を離れ、ルイ12世の王女クロードの宮廷に移ります。
1514年10月、フランスで、国王ルイ12世とイングランドのヘンリー8世の妹の婚礼が行われました。
ルイ12世王女クロード・ド・フランスのもとへ
ルイ12世王女クロード・ド・フランス( Claude de France, 1499年10月13日-1524年7月20日)
クロード・ド・フランスは、フランス王ルイ12世とブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュの長女です。
引用元:クロード・ド・フランス
引用元:ルイ12世
王女クロードは1499年10月14日に生まれ、1524年7月20日に20代の半ばで亡くなりました。
通訳として仕えたアンとは年齢も近く、クロードはアンを可愛がります。
一時、神聖ローマ皇帝カール5世との婚約の話もありましたが、1514年、親戚関係にあるフランソワ(後のフランス国王フランソワ1世)と結婚し、後のアンリ2世をもうけました。
引用元:フランソワ1世
引用元:アンリ2世
ルイ12世はクロードを気にかけ、よく彼女の生活するブロワを訪れました。
もっと大きくなったとき、彼女は父に連れられて狩猟に行った。大使アンドレア・ダ・ボルゴからマルグリット・ドートリッシュ〔ネーデルラントの女性統治者〕への手紙がそれについて報告している。おそらく鷹狩りだったと思われるが、彼女は従者が跨る馬の後尻に乗せてもらってついて行くことができた。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.47.
アンヌ・ド・ブルターニュが1514年1月に亡くなると、同じ年の10月、ルイ12世はイングランドのヘンリー7世の娘メアリーと再婚します。
ヘンリー7世王女メアリー・テューダー( MaryTudor, 1496年3月18日-1533年6月25日)
引用元:メアリー・テューダー
英語名はメアリー・テューダー、フランス名はマリー・ダングルテール( Marie d’Angleterre メアリー・オブ・イングランド)といい、ヘンリー8世の妹です。
この王女に付き従ってきた侍女のなかに、クロードは気持ちの通じる一人の若い女性と出会うのだが、その女性こそ、のちに数奇な運命を辿るアン・ブーリン〔イギリス王ヘンリ八世の妃。エリザベス一世の母〕だった。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.49.
どうしても嫡子となる男児を諦め切れずにメアリー(マリー)と結婚したルイ12世。
しかしルイは3ヶ月後に亡くなり、娘婿のフランソワが国王になります。
フランソワの妃クロードはフランス王国の王妃となりました。
1515年フランソワ1世立ち合いの元、メアリーは元恋人チャールズ・ブランドンと秘密結婚し、その後イングランドに帰国します。
イングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイは、恋人と再婚したメアリーの孫に当たります。
メアリーの去ったフランス宮廷であったが、幼いとはいえ優れた資質を持つアンは宮廷の誰からも可愛がられ、ルイ一二世の娘のクロードの保護のもとに教育されることになった。音楽、舞踏、刺繍、そしてラテン語に至るまで、宮廷のマナーとともに磨きをかけたアンは、一五二二年までの八年のフランス滞在で見違えるほどのレディーに成長した。
森護(著). 1986. 『英国王妃物語』. 三省堂書店. p.123.
『英国王妃物語』(1986年、三省堂書店)の、メアリーが登場する「アン・ブーリン」の項には誤りがあります。「王弟メアリー」ではなく「王妹メアリー」ですし、「シャルル一二世」は「ルイ一二世」、「結婚後わずか八ヶ月」ではなく「三ヶ月」など単純な誤植かなと思われます。お読みになる際はお気をつけください。
クロードの妹ルネ・ド・フランス( Renée de France, 1510年10月25日-1574年6月12日)
引用元:フェラーラ公妃ルネ・ド・フランス
クロードには妹がいました。ルネ・ド・フランスです。
イタリア語名ではレナータ・ディ・フランチア( Renata di Francia )。
ルネもアン・ブーリンの優しさを感じていた一人でした。
1528年4月、ルネは結婚します。
義兄フランソワ1世からは多額の持参金や年金を贈られました。
ルネの結婚相手は、フェラーラ公アルフォンソ1世の跡継ぎエルコレ2世です。
エルコレの母はルクレツィア・ボルジア。
エルコレにとってローマ教皇アレクサンデル6世は祖父に、チェーザレ・ボルジアは伯父に当たります。
引用元:エルコレ2世・デステ
ルネの宮廷も大変進歩的なものとして知られ、宗教改革で知られるジャン・カルヴァンとも親交がありました。
1572年の「聖バルテルミーの虐殺」では、ルネはユグノーに救いの手を差し伸べることになります。
錦野の会見
クロード王妃の通訳を務めるほど流暢なフランス語を話し、優雅な所作を身につけたアン。
アンの考案したファッションはフランス宮廷の流行にさえなりました。
1520年6月、フランス、カレー近郊バランゲムの平原で、「錦野の会見」が行われます。(『フランス王妃列伝』では「金襴の野営地」)
1518年の英仏条約を受け、ヘンリー8世とフランソワ1世両君の親交を深めるための会見ですが、
その年の春、「金襴の野営地」(camp du drap d’or)の名で知られるフランス王とイギリス王の長々しい会見式典が〔フランドルのカレー近くで〕おこなわれた。それは二人の王のあいだの個人的で持続的な友情を築くことが狙いだった。そのエピソードの一つとして、六月十日、それぞれの王と王妃が取り替わる余興が催された。ちなみにヘンリ八世は、クロードから〔フランス側の〕アルドル城で個人的な夕食会の招待を受けた。彼女は二ヵ月後に出産を控えていた。外国の使臣たちは「彼女の奇怪な肥満」にびっくり仰天した〔彼女の妊娠を知らず、変装していると思ったのである〕。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.63.
引用元:イングランド王ヘンリー8世
1518年から1521年にかけてフランス駐在大使を務めていたアンの父・トマス・ブーリンは、この会見を実現させるための交渉に当たっていました。
また、メアリー・テューダー(マリー・ダングルテール)のかつての恋人であり、再婚相手となった初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンは、この会見にも随行していました。
ブランドンは、アンがヘンリー8世妃キャサリンの侍女として仕えることができるよう口添えしたそうです。
引用元:チャールズ・ブランドン
1522年初頭(または1526年頃?)、アンはイングランドに帰国します。
姉妹のメアリーは一足早くフランス宮廷から帰国しており、ヘンリー8世の愛人となっていました。
引用元:メアリー・ブーリン
『ダーク・ヒストリー 図説イギリス王室史』(原書房)によると、メアリーはフランソワ1世から「下品な娼婦」と見なされていたようです。
メアリーはヘンリー8世の子どもを産んでいましたが、ヘンリーには彼女と結婚する気などありませんでした。
「錦野の会見」後、アンはキャサリン王妃の侍女として出仕するようになり、後継の男児を望むヘンリー8世から求愛されます。
大勢の愛人の中の一人では、飽きられれば捨てられて、それで終わり。
アンはメアリーの二の舞を演じる気はありませんでした。
アンはブルゴーニュにおいて、女性ながらトップの座に君臨し、優れた政治手腕をふるうマルガレーテの姿を間近に見てきた。さらにフランソワ一世の宮廷では、陰で王や権力者に強い影響を与える女性たちの力を知った。その力の効果的使い方、その力の拠ってきたる男殺しのテクニックを学んだ。
中野京子(著). 2013-12-22. 『残酷な王と悲しみの王妃』. 集英社文庫. p.208.
魅力的なアンに夢中になったヘンリー8世は、キャサリン妃と離婚することを決意します。
1533年1月25日、アンとヘンリー8世はひそかに結婚。
その年の9月、後のイングランド女王となるエリザベスが誕生しました。
引用元:エリザベス1世
一方、娘メアリー(後のイングランド女王メアリー1世)と会うことも出来ないまま、キャサリン・オブ・アラゴンは1536年に病死します。
引用元:メアリー1世
男児ではなく女児エリザベスを産んだことを「神の裁きを受けた」と言われ、王の寵愛を失ったアンは斬首されます。
ヘンリー8世の心は既に次の女性、ジェーン・シーモアに移っていました。
アンの悲劇的な最期が印象的過ぎて、少女時代の留学の話が霞んでしまいそうです。
しかしこうして改めて見ると、異国の地で頑張っていたのだろうなと思います。
語学の才に恵まれ、機知に富んだ賢い女性だったのでしょうね。
- ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 2002-9-20. 『カール5世とハプスブルク帝国』. 創元社.
- 江村 洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房.
- 石井美樹子(著). 『図説 エリザベス一世』. 河出書房新社.
- 森護(著). 1986. 『英国王妃物語』. 三省堂書店.
- 阿河雄二郎・嶋中博章(編). 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂.
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