テューダー朝第4代、若き女王ジェーン・グレイ。なぜジェーンが、ヘンリー8世の王女であるメアリーやエリザベスを差し置いて女王になったのか。ポール・ドラローシュの絵画『ジェーン・グレイの処刑』に至るまでの物語です。
ジェーン・グレイ( Jane Grey, 1537年10月12日?-1554年2月12日)
引用元:ジェーン・グレイ
ナショナル・ポートレート・ギャラリー:Lady Jane Grey
イングランド史上初の女王ですが、9日間の在位だったことから「9日間女王」として知られています。
初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイと、その妻フランセス・ブランドンの間に生まれました。
上の肖像画はジェーンの死後描かれたものです。
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』 1833年 ポール・ドラローシュ ナショナル・ギャラリー蔵
19世紀フランスの画家・ポール・ドラローシュ( Paul Delaroche, 1797年7月17日-1856年11月4日)による歴史画です。
1554年のジェーンの処刑場面を描いたものですが、実際には処刑は屋外で行われました。
ジェーンの血統
イングランド国王ヘンリー7世(1457年-1509年)
テューダー朝最初の王となったヘンリー7世です。
引用元:ヘンリー7世
イングランド王ヘンリー8世(1491年-1547年)
イングランド王ヘンリー8世は妹のメアリーを、フランス王ルイ12世に嫁がせようとします。
しかしメアリーは、ヘンリー8世の家臣チャールズ・ブランドンと恋仲でした。
引用元:ヘンリー8世
メアリー・テューダー(フランス名 マリー・ダングルテール 1496年-1533年)
引用元:メアリー・テューダー
フランス王ルイ12世(1462年-1515年)
引用元:ルイ12世
メアリーは政略結婚を承知し、父親ほどの年齢のルイ12世に嫁ぐことになりました。
しかしもし夫が亡くなったら、その後は好きな男性と結婚させて欲しいと兄ヘンリー8世に頼み、そのことを約束させます。
1514年8月13日、 メアリーはルイ12世と結婚します。
その約3ヵ月後の1515年1月1日、ルイ12世は死去。
早く恋人と一緒になりたいメアリーは、年相応の静かな生活を送っていたルイを宴席や狩猟などに引っ張り出し、ルイの死期を早めた、との説があります。
1515年2月、次のフランス王フランソワ1世の後押しで、メアリーはチャールズと秘密結婚します。
フランス国王フランソワ1世(1494年-1547年)
引用元:フランソワ1世
引用元:メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン
「好きな男性と結婚させて欲しい」というメアリーとの約束など守る気がなかったヘンリー8世は激怒しますが、結局、1515年5月13日にふたりは正式に結婚しました。
フランセス・ブランドン(サフォーク公妃フランセス・グレイ、1517年-1559年)
王女メアリーとチャールズ・ブランドン夫妻の間に生まれた子どものひとりに、フランセス・ブランドン( Lady Frances Brandon )がいます。
フランセスは後のサフォーク公となるヘンリー・グレイと結婚し、ジェーンたち姉妹が生まれました。
引用元:フランセス・グレイ
引用元:ジェーン・グレイまたはAmy Robsartと言われる1535年頃の細密肖像画
引用元:キャサリン・グレイ
引用元:メアリー・グレイ
祖母がイングランド王女という血筋のジェーン・グレイ。
この由緒正しいジェーンの血統に目を付けたのが、初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーでした。
ヘンリー8世の妻と子どもたち
最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとメアリー1世
キャサリンはスペインのカトリック両王の末娘です。
最初はヘンリー7世の長男アーサーと結婚しましたが、アーサーは病死し、弟のヘンリーと結婚します。
ヘンリーとの間に、娘メアリー(後のイングランド女王メアリー1世)をもうけました。
引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
引用元:メアリー1世
2番目の妻アン・ブーリンとエリザベス1世
跡継ぎとなる男の子を熱望するヘンリー8世は、キャサリンと離婚するため国の宗教を変えてしまいます。
ヘンリー8世はキャサリンの女官だったアン・ブーリンを王妃に迎えましたが、アンは女児エリザベスをもうけたのみで、王子を産むことができませんでした。
引用元:アン・ブーリン
この女児エリザベスが、後のイングランド女王エリザベス1世です。
引用元:エリザベス1世
3番目の妻ジェーン・シーモアとエドワード6世
引用元:ジェーン・シーモア
跡継ぎが欲しいヘンリー8世は、アンを処刑し、アンの侍女だったジェーン・シーモアと結婚します。
1537年、ジェーンは男児エドワード(エドワード6世)を出産し、産褥死しました。
エドワード6世と寵臣ノーサンバランド公
イングランド王エドワード6世( Edward VI of England, 1537年10月12日-1553年7月6日)
引用元:エドワード6世
待望の男児を得たヘンリー8世。しかし、王子のエドワードは病弱でした。
ヘンリー8世はジェーンの死後も再婚を繰り返しましたが、1547年1月に亡くなります。
1547年、エドワードは、父王ヘンリー8世の死により、9歳で王位に就きます。
母方の伯父にあたるエドワード・シーモアはサマセット公となり、幼いエドワード6世を意のままにしようとします。
しかし、エドワード・シーモアはジョン・ダドリーとの権力闘争に敗れ、1552年に大逆罪で処刑されました。
初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリー( John Dudley, 1st Duke of Northumberland, KG, PC、1502年-1553年)
政敵エドワード・シーモアに代わり、ジョン・ダドリーがエドワード6世の寵臣として権力を握りました。
エドワード6世自身が熱心なプロテスタントだったことから、ジョン・ダドリーはプロテスタント寄りの政策を進めます。
ジョン・ダドリーには病弱なエドワードの人生がそれほど長くないことがわかりました。
エドワードが亡くなった場合、次の王位継承権者はヘンリー8世の王女たち、メアリーとエリザベスです。
ふたりは一時庶子の身分に落とされましたが、ヘンリー8世の最後の王妃となったキャサリン・パーの尽力によって身分を回復されていました。
引用元:キャサリン・パー
キャサリン・パーはテューダー朝の才媛のひとりです。
母アン・ブーリンを処刑されたエリザベスは、キャサリンを母親のように慕っていました。
ジェーン・グレイも一時キャサリンのもとへ預けられていました。
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーは自分の息子のひとりギルフォードと、ジェーン・グレイを結婚させることを考え始めます。
ジェーンが王位に就き、ギルフォードとの間に男児が誕生すれば、自分が王の祖父となることができるのです。
ギルフォード・ダドリー卿( Guildford (Guilford) Dudley )の兄弟に、後の女王エリザベス1世の寵臣となるロバートがいます。
引用元:ロバート・ダドリー
独身を通した「ヴァージン・クイーン」エリザベスでしたが、ロバートとは結婚も考えたと言われています。
引用元:1546年頃のエリザベス
最初にノーサンバランド公ジョン・ダドリーが目を付けたのは、エドワードと同じ穏健派のプロテスタントのエリザベスだったようです。
しかし、聡明なエリザベスは自分の言いなりにならないかもしれない。
熱心なカトリック教徒であるヘンリー8世の長女メアリーが王位に就けば、カトリックによる弾圧が始まり、プロテスタントである自分も無事では済まないかもしれない。
本来であれば王位継承の順位からは遠いジェーン・グレイですが、ジョン・ダドリーは自分の本心を隠し、エドワード6世に迫ります。
エドワードにプロテスタントの後継者を立てることの重要性を説き、ジェーンを次の後継者とすることを了承させました。
エドワード6世は1553年7月6日、ジェーン・グレイを次の女王に指名し、15歳で崩御しました。
1553年5月21日、ジェーンとギルフォードの結婚
エドワードの死の2ヵ月ほど前のこと。3組の男女の結婚式が行われました。
この結婚の花嫁と花婿は、
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの次女キャサリン・ダドリーと、ハンティントン卿の長男ヘイスティングス、
ジェーン・グレイとギルフォード・ダドリー、
ジェーンの妹キャサリンとペンブローク卿(ぺンブルクとも表記)の長男ハーバートでした。
(『ダーク・ヒストリー イギリス王室史』(原書房)によると、ジェーンの妹キャサリンとメアリーもジョン・ダドリーの支持者の有力貴族と結婚させた、とあります。)
この時ジェーンは15歳、ギルフォードは17歳くらい。
勉強熱心で、ギリシャ語でプラトンを読みこなす才媛のジェーンに対し、長身で美男のギルフォードは甘やかされて育ち、酒と女性と賭け事が大好きな軽薄な青年でした。
ジェーンはギルフォードとの結婚を嫌がりましたが、両親の命令には逆らえませんでした。
ジェーンの結婚を喜んだエドワード6世は、ジェーンに多くの衣装や宝石を贈りました。
エドワード6世の健康状態が悪化するなか、ジョン・ダドリーは、ジェーンの母フランセスに彼女自身の王位継承権を放棄させます。
瀕死のエドワード6世はジェーンを後継者に指名し、7月6日、16歳になる前に亡くなりますが、ジェーンはエドワードの病状が深刻なものだったことを直前まで知らなかったようです。
その数日後、ジェーンはエドワード6世の死を知らされると共に、自分が次期女王に指名されたことを知ります。
メアリーやエリザベスといった王女たちを差し置いて何故自分が…、と王位に就くことを拒みますが、義父ジョン・ダドリーや夫ギルフォード、両親から「亡き国王のご意思だ」と取り囲まれて説得され、ジェーンは運命を受け入れざるを得ない状況に陥りました。
果たして、この時彼女はジョン・ダドリーの真の目的に気付いたのでしょうか。
一方、メアリーとエリザベスですが、
エドワード6世の死後、ノーサンバーランド公はその死を2日間発表しなかった。そのあいだに彼はメアリとエリザベスに国王が瀕死の床にあることを知らせ、臨終に立ち会うようにと使いを出した。実際はおびき寄せて、二人の身柄を拘束する計画であった。
エリザベスはいつもの用心深さで、病気を理由に召還に応じなかった。そして何か自分に伝えたいことがあるなら、その前に姉のメアリに連絡してくれと慎重に返事してきた。
メアリはハートフォードシャーに滞在していたが、半信半疑ながら出発し、グリーンウィッチに進んだ。
このとき、メアリは一人のロンドンからの使者に出会った。使者は、ノーサンバーランド公からの召還は罠であり、すでにエドワードはこの世の人ではないと断言した。しかし、メアリはこれこそが、ノーサンバーランド公から仕掛けられた罠ではないかと疑った。
万が一それを信じて彼女がイングランド女王であることを宣言し、その後でエドワードが生きていることがわかったりしたら、彼女は一転、大逆罪に問われることになる。
どうしたら良いか決めかねて、メアリは5~6人の腹心のみを従えて、ケニング城へと向きを変えた。ノーフォークにおけるハワード家の本拠である。メアリは海岸近くに滞在することで、万が一追手が迫った場合、ここからスペイン支配下のネーデルラントにむけて逃亡するつもりでいた。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.177.
エリザベスは病気を口実に慎重に行動し、メアリーはトーマス・ハワードの居城に向かいました。
ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンと、5番目の妃キャサリン・ハワードは、トマス・ハワードの姪に当たります。
ちなみに、メアリーが逃亡先に考えたネーデルラントは当時スペイン領でした。
スペインはメアリーの母キャサリン・オブ・アラゴンの実家であり、スペイン王にして神聖ローマ皇帝であるカール5世はメアリーの従兄に当たります。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
ジェーン、女王としてロンドン塔に入る
イングランド国王は統治の最初の日々をロンドン塔で過ごすことになっていたので、ジェーンはその伝統に従い、シオン館を出てロンドンのダラム館に向かった。そこから舟でロンドン塔に向かい、そこに到着したのは午後4~5時ごろだった。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.178.
ロンドン塔入りしたジェーンの姿を間近で見たジェノヴァの商人は、彼女の容姿についてこのように書き残しているそうです。
「女王は非常に小柄でほっそりしていた。しかし格好が良く優雅だった。 小作りな目鼻だちで、形の良い鼻、しなやかな唇、そして唇は赤かった。
眉毛はアーチ型をしており、赤に近い色の髪の毛より黒い色をしていた。その目はヘーゼル色できらきら輝いていた」
さらに商人はジェーンの顔色は美しいがそばかすが多いことや、微笑むとき真っ白で尖った歯がのぞくことなどにも触れている。
しかしそばかすだらけの顔は、ジェーンが一番コンプレックスを抱いているところだった。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.180.
エドワード6世の崩御を突然知らされた民衆は戸惑い、さらには次の王となるべきメアリーの姿が無いことに戸惑い、新女王であるジェーンに対しての反応は薄いものだったといいます。
着々と準備は整って行きますが、そのなかでジェーンはギルフォードを共同統治者に据えることを拒みます。
ギルフォードは親から予め言い含められていたように、女王の夫である自分も「王」または「共同統治者」になれると考えていたのかも知れませんが、ジェーンは周囲の説得や懇願には耳を貸しませんでした。
7月12日、メアリーはサフォークから枢密院にあて、
「かくも重大な」弟王の死を知らせてくれなかったことに対して遺憾の意を表明した。そしてただちに「彼女の国土における彼女の王冠と政府に対する権利と称号」を、彼らの忠誠において、ロンドン市にて宣言することを要求した。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.189.
メアリーの元には支持者が集まり、次第にその勢いを増して行きました。
出兵したノーサンバランド公ジョン・ダドリーの兵士にもメアリー側に寝返る者が急増します。
ロンドン塔に入っていた有力貴族たちも塔を出て、メアリーに忠誠を誓う者も出ました。
ノーサンバランド公の野心を知っていた民衆たちは、プロテスタントの信仰より、メアリーが次期王位継承者であるという「王冠の正統性」を重んじたようです。
そして7月19日、メアリーは「イングランド女王メアリー1世」となります。
引用元:メアリー1世のブロンズ製メダル sailko CC-BY-SA-3.0
イングランド女王メアリー1世( Mary I of England, 1516年2月18日-1558年11月17日)
引用元:メアリー1世
引用元:メアリー1世
スペインのカトリック両王の王女キャサリンを母に持つメアリー。
若い頃のメアリーは魅力的な娘だったそうです。
しかし、父ヘンリー8世はキャサリンの女官だったアン・ブーリンに心を移し、キャサリンを離婚します。
母と引き離されたメアリーは、王妃となったアンからエリザベスに仕えるよう言われますが、それを拒否。
逆境のなか、苦労して生きてきました。
1553年7月19日、メアリーが王位に就く
メアリーを捕らえようとするノーサンバランド公ジョン・ダドリー。
しかしノーフォーク公トーマス・ハワードがメアリーを匿います。
メアリーを支持する者は多く、戦いに敗れて逮捕されたジョン・ダドリーはロンドン塔に幽閉されました。
ジェーン・グレイの逮捕
両親も去ったロンドン塔に残るジェーン。
翌朝になり、ジェーンはギルフォードと共に逮捕されます。
枢密院はジェーンに、彼女が「横領した」女王の称号とその地位に関する一切の特権や儀典を返還するよう命じてきました。
王位に就いてわずか9日間で逮捕、投獄されたジェーン・グレイと、夫のギルフォード・ダドリー。
ギルフォードはボーシャン・タワーの最上階の小部屋に、ジェーンはタワー・グリーンのならびにある看守用の住居に、それぞれ閉じ込められます。
メアリーは最初、このふたりを処刑する気は無かったようです。特にジェーンは、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーや両親の操り人形に過ぎないことは明らかでした。
メアリーとは従姉妹同士であり、友人としても以前から親しかったジェーンの母サフォーク公妃フランセス・グレイは、ロンドンに入城した女王メアリーのもとに駆け付け、夫への許しを懇願します。
夫ヘンリー・グレイは7月28日に逮捕されていました。
ヘンリーの釈放は聞き入れられ、その後フランセス自身も何事もなかったように宮廷の社交生活に戻ることができました。
ジェーンの妹で美貌の聞こえ高いキャサリンも、母とともにメアリ女王の侍女の職を得た。グレイ家との縁組を嫌悪したぺンブルク伯から結婚解消を言い渡され、実家に帰っていたのである。
ノーサンバーランド公爵夫人でさえ、逮捕の2~3日後に釈放された。夫や子供たちの釈放を嘆願したが、さすがにそれは容れられず、メアリ女王は彼女に追放を言い渡し、宮廷に5マイル以上近づかないよう命じた。
いずれにしても、ノーサンバーランド公を例外として陰謀の張本人たちがすべて自由を得ていた。ジェーンと夫のギルフォードをのぞいては。
理不尽だが、これが現実なのだった。サフォーク公爵夫人は釈放されてからも、牢獄にいる娘のためにメアリ女王に命乞いひとつしなかったという。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.206.
女王としてロンドン塔に足を踏み入れたジェーンでしたが、生きてそこを出ることは叶いませんでした。
ジェーンは牢獄の中で、メアリーに宛て、囚人の慣例として釈明の手紙を書きます。
「自ら進んで王冠を求めたこともなく、それを得たことに対しても満足したこともありません」
8月半ばにこの陰謀の首謀者であるジョン・ダドリーの裁判が開かれます。
裁判で、彼は、同じく投獄されていた自分の息子たちは父の命令に従っただけなので、どうか寛大な処置をお願いしたいと述べています。
ジョン・ダドリーが自身にも強く望んでいた恩赦はついに得られず、8月22日、タワー・ヒルで最後の演説を行い、斬首されました。
このころのジェーンの牢獄での生活は、必ずしも非人道的なものではなかった。4人のお付きを抱えることを許されていたし、庭を散歩することも許されていた。週に90シリングの額が彼女の食事と宿泊のために国庫からあてがわれ、さらに週に20シリングの手当てがそれぞれの召使いに支払われていた。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.213.
1553年10月1日、メアリーの戴冠式
10月1日、メアリーの戴冠式がウェストミンスター大聖堂で行われます。
この時メアリーは37歳。
異母妹のエリザベスはまだ20歳でした。
メアリーの目にはエリザベスこそが自分の王位を脅かす存在として映ります。
また、もし自分に跡継ぎとなる子どもがいなかった場合、王位は憎いエリザベスに渡ってしまいます。
何としてもエリザベスには王位を渡したくない…。
強いカトリック信仰を抱き続けていたメアリにとって、父ヘンリがうち立てた国教会は、母や自らを苦しめた元凶であり、とうてい認められるものではなかった。ヘンリ8世に追われて大陸へ逃れていた、王家につながる血統の枢機卿レジナルド・プールを迎え、ローマ教会との和解を達成した。
指昭博(著). 『イギリスの歴史』. 河出書房新社. p.53.
10月にメアリー統治の最初の枢密議会が開かれ、エドワード6世の時代に議会を通過した一切の信仰に関する法律が廃止された。
こうして英国国教会はヘンリー8世の統治時代の状態にもどったわけであり、この処置は一応、プロテスタント、カトリック双方の大多数を満足させるはずであった。
しかし皇帝大使のルナールは、メアリの政策が弱さの現れと国民に解釈されないかと危惧していた。彼は国民がメアリの政策を好き勝手に解釈し、それを嘲笑しているとメアリに忠告した。それに動かされたのか、メアリはそれまでの感情を一変させ、ジェーンとその夫に対して第一級の罰を与えるようにと裁判官に指示を与えたともいわれる。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.219.
ルナールは、スペイン王、神聖ローマ皇帝カール5世の大使です。
引用元:シモン・ルナール
カールはメアリーに対し、宗教の変更を強硬に進めるべきではないと考えていました。
しかしこの後のプロテスタントに対する迫害、弾圧で多くの血を流したことから、メアリーは「血まみれメアリー(ブラディ・メアリ)」の名で呼ばれることになります。
11月、ジェーンたちの裁判
11月14日。ジェーンとギルフォードの裁判が行われ、ふたりは久しぶりに顔を合わせました。
ジェーンたちは裁判の行われるギルドフォードに向かいます。
先頭にはジェーンとそれにつき従う二人の侍女、その後に夫ギルフォードが、さらに同じ日に異端の罪で裁かれることになるクランマー大主教が、そしてその後にギルフォードの二人の兄であるヘンリーとアンブローズが続く。ロンドン塔の長官と400名の鉾槍を手にした近衛兵らが、彼らをエスコートした。
どちら側からも証人は出廷せず、囚人に対する詳細な尋問もなく弁護もなかった。ジェーンの予想どおり、罪状は最初からとうに決められていたのである。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.222.
ケンブリッジ大学教授を務めたカンタベリー大司教トマス・クランマーは、ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚及びヘンリーとアン・ブーリンの再婚を承認した人物です。
引用元:トマス・クランマー
クランマーはエドワード6世の治世では宗教改革の指導者として働きましたが、メアリーが王位に就くとプロテスタントは迫害され、クランマーも逮捕されます。
1556年3月21日、オックスフォードで火炙りにされ、殉教しました。
ギルフォードの兄弟は彼らの父に従っただけということで無罪となりますが、ジェーンとギルフォードは死刑判決を受けました。
ギルフォードが真っ青になってがっくり肩を落とす一方、ジェーンは取り乱すことなく気丈に耐えていました。
ジェーンの裁判を聞いていた傍聴人の間からは同情の声が上がりました。
メアリーの結婚
自分の血を分けた王位継承者を望むメアリーの元へ、スペインから結婚の話がもたらされます。
相手は、従兄であるカ―ルの息子フェリペでした。
スペインの皇太子フェリペ(1527年-1598年)
引用元:フェリペ2世
引用元:メアリー1世
プラド美術館に在る、アントニス・モルによるメアリーの肖像画です。
胸にはフェリペから贈られた真珠「ラ・ペレグリーナ」を着け、手にはテューダーを象徴する赤バラを持っています。
11歳年下のスペインの皇太子、フェリペの肖像画を見たメアリーは彼に恋をしました。
当時フェリペは従妹だった最初の妻と死別していましたが、既に嫡男も庶子もいました。
偉大な父王カールの意向に、フェリペは文句も言わずに従います。
スペイン側にはイングランドの金と軍隊、引いてはイングランドを手に入れるという考えがありました。
一方、メアリー自身は、このことを何も知らなかった。彼女は自分の結婚がすばらしいロマンスになると思っていた。誰かに愛されたくてたまらなかった彼女は、若くてハンサムな夫を見せびらかすのを楽しみにしていた。哀れなメアリーは、フェリペを神からの授かりものと信じていたが、それはすべて幻想に過ぎなかった。
ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 2010-6-30. 『ダークヒストリー 図説イギリス王室史』. 原書房. p.168.
今まで苦労を重ねてきたメアリーは彼を「神からの授かりもの」と思ってしまっていたようです。
メアリーに対する反乱
10月の終わり頃、メアリーは大使ルナールにフェリペとの結婚を決めたことを伝えます。
スペイン側は大喜びでしたが、イングランド側はこの知らせに驚愕しました。
メアリーがスペインの王子と結婚したならば、イングランドはスペインの臣下になってしまうかもしれないのです。
民衆も貴族も大反対しますが、翌年1月14日、メアリーとフェリペの婚約が正式に発表されました。
この婚約で示された条件は、イングランドでは女王メアリーの立ち場はフェリペより上であること、スペイン人は王国内の職務においていかなる役職も与えられないなど、フェリペを驚かせるものでした。
しかし、イングランドの人々は「外国人の王など持つつもりはない」として、一気にメアリーに対する反感を強めてしまいます。
そして、イングランド国内の3ヵ所で、メアリーに対する反乱が起きました。
ひとつは「エリザベスを女王に」とするピーター・カルーの反乱です。
ふたつ目の反乱、それはジェーンの父サフォーク公ヘンリー・グレイが、自分の弟らと共に起こした反乱でした。
ヘンリー・グレイはメアリーの結婚反対を主張しましたが支持はほとんど得られず、逃亡先で捕らえられました。
三つ目の「ワイアットの乱」は、トマス・ワイアットによる、メアリーとスペインのフェリペの結婚への抗議行動です。
この反乱は鎮圧されましたが、宮廷の重臣たちは、ジェーンが生きている限り、誰かがまたジェーンを女王に担ごうとするかもしれないと考えます。
ジェーンを極刑にすべきだと主張する者たちも出始めました。
それまでジェーンに対して恩赦を考えていたメアリーは「ワイアットの乱」の翌日、ジェーンとギルフォードの死刑執行令状に署名しました。
執行の日は2月9日。
2日後でした。
ジェーン、改宗を拒否
メアリーの命令を受け、カトリックの神学者・ジョン・フェッケナム博士(1515年頃-1584年10月)が牢獄のジェーンを訪ねて来ます。
博士は2日間でジェーンをカトリックに改宗させるように言われていましたが、既にこの世を去る覚悟を決めたジェーンは首を縦に振りませんでした。
フェッケナム博士がメアリーにそう報告すると、メアリーから更に3日の猶予を与えられます。
信仰を捨て、カトリックに改宗すれば、命だけは助けてやろうというのです。
死刑は一旦延期されましたが、ジェーンは改宗を拒みます。
その後ジェーンは死出の旅に着る黒い衣装を選び、最期に行うスピーチ、形見の品、遺書を準備するのでした。
形見として、妹のキャサリンにはギリシャ語の聖書を、父サフォーク公ヘンリー・グレイには祈祷書を送ろうとします。
ジェーンは父に宛てて、長い遺書を書きました。
ジェーンは知りませんでしたが、その時父は自分の弟と共にロンドン塔に送られていました。
サフォーク公ヘンリー・グレイは2月23日に斬首されています。
処刑直前、ギルフォードがジェーンに会いたいと伝えて来ました。
メアリーは許可しましたが、ジェーンは面会を断ります。
ジェーンは、
いま彼と会うことは、お互いが神聖な静寂さのなかで死出の支度をする妨げになるだけだと付け加えて。
「離れ離れになるとしても、それは一瞬のことにすぎません。わたしたちはすぐにあの世で再会することができるでしょう。そこでわたしたちの愛は永遠に結ばれ、死も失望も不運もそこではわたしたちにもはや届くことはなく、わたしどもの永遠の幸福を邪魔することはできないでしょう」
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.244.
2月12日、処刑
朝10時。
ジェーンは自室の窓から、ボーシャン・タワーから引き出されたギルフォードが刑場に向かう姿を目にします。
死刑判決が出た時は泣き叫んだという彼は、今は顔をまっすぐに上げていました。
無言で見送ったジェーンでしたが、ギルフォードの遺骸が載った荷車が戻ってきたのを見て、「ギルフォード、ギルフォード( ” Oh, Guildford, Guildford. ” )」と悲痛に呟いたのをそばにいたひとが聞いたそうです。
そしてついに、ジェーン自身の番が来た。彼女は王家の血を引いているため、公開処刑されたギルフォードと違い、タワー・グリーンの人目につかない場所で処刑されることになっていた。
ドアが叩かれ、ロンドン塔長官代理のジョン・ブリッジがジェーンを迎えにきた。侍女のエレン夫人と若いエリザベス・ティル二―は、堪えきれずに声をあげて啜り泣いた。しかしジェーンはうろたえることなく、ジョン・ブリッジの手に支えられ、処刑台への道を歩みだした。片方の手には、あの祈祷書をしっかりと抱いて。
見上げると処刑台の上では、真紅の服を着た処刑執行人が彼女を待っている。階段を上がりきると、ジョン・ブリッジ卿は脇に退き、ジェーンは処刑を見物するために集まった少数の人々のほうを向いた。
昨夜何度も繰り返し練習した演説である。自然にすらすらと言葉が流れ出した。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.248.
演説を終えたジェーンは身に着けていたものを侍女のエリザベスに渡し、慣例に従って、死刑執行人に許しを与えます。
それから藁の上に立ち、ハンカチで自ら目を覆って首の後ろで縛りました。
しかし暗闇のなか、彼女はレンガの台のある場所を見失ってしまいます。
ジェーンは震えながら呟きました。
「わたしはどうすればいいのですか。ここは何処なのですか」( ” What shall I do ? Where is it ? “)
誰か、恐らく Thomas Brydges なる人物の手が、ジェーンの肩に触れます。
その手が優しく彼女の体を押し出してくれたおかげで、ジェーンはようやくレンガの台に辿り着くことが出来ました。
台を抱き、そのくぼみに頭を載せたジェーンは最後の言葉を口にします。
「神よ、御手にこの身を捧げます!」( ” Lord, into thy hands I commend my spirit ! ” )
死刑は執行され、ジェーンはギルフォードと同じ場所に葬られました。
引用元:ジェーン・グレイの処刑
ジェーン・グレイは反逆者として裁かれたので、処刑は宮殿どころか屋内ですらなく、ロンドン塔の広場で貴族たちに公開で行われた。胴から離されたジェーンの首は、処刑人に髪をむんずと掴まれ、みんなによく見えるよう高々と掲げられたし、遺体はその場に四時間も放置されたままだった。
中野京子(著). 平成29年8月20日. 『怖い絵 泣く女篇』. 角川文庫. p.12.
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』( The Execution of Lady Jane Grey )
ナショナル・ギャラリー:The Execution of Lady Jane Grey
ロンドン留学中の夏目漱石も魅了されたという、ポール・ドラローシュによる歴史画。
きわめて演劇的な、計算されつくした画面。
左に巨大な円柱があり、宮殿の一間とおぼしき場所で処刑が行われようとしている。その円柱にすがりつき、背中を見せて泣く侍女と、失神しかける侍女。後者の膝におかれたマントと宝石類は、直前までジェーンが身につけていたものだ。斬首の際、邪魔になるので脱がねばならなかった。
若き元女王は真新しい結婚指輪だけを嵌め、サテンの艶やかな純白ドレスは花嫁衣装のようでもあり、自己の潔白を主張するかのようでもある。目隠しをされたため、首を置く台のありかがわからず手探りするのを、中年の司祭が包み込むように導こうとしている。台には鉄輪が嵌められており、動かないように鎖で床に固定されている。ジェーンの身分を考慮した房付きの豪華なクッションが足もとにあり、ここに腹這いとなって首を差し出すのだ。床には黒い布が敷かれ、その上に血を吸うための藁が撒いてあるのが、その先を想像させて胸を衝く。
中野京子(著). 平成29年8月20日. 『怖い絵 泣く女篇』. 角川文庫. p.8.
『怖い絵』によると、赤い下ばき(ホーズ)の死刑執行人は斧を持っています。これで罪人の首を落とそうというのですが、彼の腰にはナイフとロープもあります。
ロープは手を縛るためのもの。ナイフは、首の切断に必要なものでした。
「人道的な」ギロチンが発明される以前の斬首には、はなはだ失敗が多かった。髪の毛で刃先が滑ったり(だからジェーンは髪を束ねてうなじを出している)、処刑人の腕が未熟だったり(一撃で終わらせるにはかなりの技量を要した)、精神集中がうまくゆかないこともある(衆人環視のもと、処刑人にかかるプレッシャーは相当のものだった)。
中野京子(著). 平成29年8月20日. 『怖い絵 泣く女篇』. 角川文庫. p.9.
引用元:首を載せる台に導かれるジェーン
ジェーンの右にいるのは、ジョン・ブリッジス( John Brydges, 1st Baron Chandos と Wikipedia にあります)。
引用元:膝の上の宝石類
引用元:ドラローシュによる習作
引用元:死刑執行人と女官たちの習作
引用元:ルーヴル美術館所蔵の習作
『ジェーン・グレイ』 1545年頃 個人蔵
引用元:『ジェーン・グレイ』
ジェーンの肖像画?
『イギリスの歴史』(河出書房新社)では、ジェーン・グレイとしてこの絵が掲載されています。
ギルフォード・ダドリーの兄弟について
ギルフォード(1535年生まれ)の兄弟姉妹のなかで最も有名なのは、エリザベス1世の寵臣レスター伯のロバートですね。
父の陰謀に加担して投獄された他の兄弟たちのその後も気になったので、少し調べてみました。(気になったのは私だけ??)
書籍によっては「兄」だったり「弟」だったりしているかもしれませんが、Wikipedia の生年を参考に並べました。
第2代ウォリック伯ジョン・ダドリー(1527年?-1554年10月21日)
死刑を宣告されましたが、恩赦。ロンドン塔から解放された直後に亡くなりました。
第3代ウォリック伯アンブローズ(1530年頃-1590年2月21日)
恩赦で釈放後、サン・カンタンの戦いでスペイン王フェリペ2世の側で戦いました。
弟のロバートの華やかなキャリアとは対照的に、「ウォリック伯」として堅実に基盤を築いたようです。
※サン・カンタンの戦い( the Battle of St. Quentin、スペイン・ハプスブルク対フランスの戦い )
ヘンリー(1531年-1557年8月10日)
死刑宣告を受けましたが釈放され、その後サン・カンタンの戦いで亡くなりました。
初代レスター伯ロバート・ダドリー(1532年6月24日-1588年9月4日)
引用元:レスター伯ロバート・ダドリー
ロバートも死刑判決を受けましたが、1555年に赦免されました。
ロバートはエリザベス1世の愛人、寵臣として知られています。
彼には1550年に結婚した妻( Amy Robsart )がいて、エリザベスと結婚することはできなかったのですが、妻と別れてエリザベスと結婚するというような噂が流れた頃、妻が事故死します。
この事件には他殺説が流れ、 ふたりの結婚は難しくなりました。
引用元:『エイミーの死』
引用元:ジェーン・グレイまたはAmy Robsartと言われる1535年頃の細密肖像画
その後ロバートは別の女性と再婚し、1588年に病死します。
戦時の指揮官としては無能だったようですが、エリザベスは彼を「お目めちゃん」と言って寵愛し、彼から来た最後の手紙を大切に保管していました。
映画『レディ・ジェーン』
ジェーンはギルフォードのことをどう思っていたのでしょう?
ジェーンの想い人はエドワード6世だったようですが、本当のところは?
映画『レディ・ジェーン』では愛し合うジェーンとギルフォードの姿を描いた物語になっています。
日本の映画雑誌で記事になった時からずっと観たいと思っていました。
それまでジェーン・グレイという名は聞いた事も無く、恋愛ものを観たいというより、きちんとした時代考証をされている映画と記事にあったので、1500年代の衣裳や食事風景などを見てみたかったのです。
日本ではビデオが発売されたのみでロードショー公開は無かったと記憶しています。
ドラローシュの絵の意味がわかってからはどうしても一度観てみたくて、海外の Amazon で DVD を購入しました。(現在は国内で邦訳版が売られています)
実際観てみると、結婚披露宴の場面での衣裳や杯、余興などが「へええ。こんな感じなんだあ( ..)φメモメモ」と結構興味深い。
舞台となる城内の様子は寒々しい感じです。
日常生活のあれこれをもっと長くじっくり観てみたかったな。
この映画は「ラブストーリー」にも分類されると思います。親同士が決めた政略結婚に従うだけの娘と息子が、次第に相手を理解し合い、愛して、本当の夫婦(というか恋人同士に見える)になっていく過程はとても微笑ましいものです。
しかし処刑というふたりの結末を知っている身としてはやはり切なく、ラストシーンではジェーンが可哀想で号泣でした。
- 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』 桐生操(著) 中経出版
- 『イギリスの歴史』 指昭博(著) 河出書房新社
- 中野京子(著). 平成29年8月20日. 『怖い絵 泣く女篇』. 角川文庫.
- ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 2010-6-30. 『ダークヒストリー 図説イギリス王室史』. 原書房.
コメント