イングランド王ヘンリー8世の妹メアリー王女は、年の離れたフランス王ルイ12世と政略結婚します。しかしルイは結婚後わずか三ヶ月で急逝。果たしてメアリーは亡き王の子を妊娠しているのか?

ヴァロワ朝第8代フランス王ルイ12世( Louis XII, 1462年6月27日-1515年1月1日)
ルイ12世のふたりの妃

引用元:ルイ12世
ロイヤル・コレクション:Louis XII, King of France (1462-1515) c. 1510-14
1498年、フランス王シャルル8世が城の改築工事の視察中に柱に頭をぶつけて事故死。
ルイ12世が王位を継ぎます。
ルイ12世にはルイ11世の娘でシャルル8世の姉、ジャンヌという妻がいました。

引用元:ルイ11世

引用元:シャルル8世

引用元:ジャンヌ・ド・フランス(またはジャンヌ・ド・ヴァロワ)
しかしルイは、この結婚はルイ11世から押し付けられたもので、無効であると主張。離婚したい一心でローマ教皇に泣き付きます。
当時の教皇は「悪魔が教皇に化けている」などといわれた悪名高いアレクサンデル6世でした。
権力と女性が大好きなアレクサンデル6世は、チェーザレとルクレツィア・ボルジアの実父です。

引用元:アレクサンデル6世
ジャンヌと離婚が成立したルイ12世は、ブルターニュ女公アンヌと再婚します。
シャルル8世の未亡人でもあったアンヌは、ルイ12世とは昔からの知人であり友人でした。

引用元:アンヌ・ド・ブルターニュ
ルイ12世と妻ジャンヌの離婚裁判を描いた小説。個人的には40代以上の方に読んでいただきたいと思います。著者の佐藤賢一氏は『ヴァロワ朝』(フランス王朝史)も出版されています。
アンヌ・ド・ブルターニュの結婚
かつてルイ11世は、ブルゴーニュ公国から幼女だったマルグリット・ドートリッシュを人質同然にフランスに連れてきて、息子のシャルル8世と結婚させようとします。
幼いマルグリットの養育に当たったのが、シャルルとジャンヌの姉で、フランスの摂政も務めたアンヌ・ド・ボージューでした。

引用元:マルグリット・ドートリッシュ
メトロポリタン美術館;Margaret of Austria

引用:アンヌ・ド・ボージュー
若い頃妻を亡くしていたマルグリットの父マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)は、1490年、ブルターニュ領を相続したアンヌ・ド・ブルターニュと代理を立てて政略結婚をします。

引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
しかし、シャルル8世が横からアンヌ・ド・ブルターニュを奪い取ってしまいます。
当然マルグリット・ドートリッシュとの婚約は破棄。
戦略上の重要地だったブルターニュはフランスのものになってしまいました。
ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの王女たち
ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの子どもの中で、成人したのは王女ふたりでした。
アンヌ亡き後のブルターニュ領は長女クロードが相続することになります。

引用元:クロード・ド・フランス

引用元:ルネ・ド・フランス
長女クロードの婚約相手(カールとフランソワ)
カール(後の神聖ローマ皇帝カール5世)

引用;神聖ローマ皇帝カール5世
シャルル8世との結婚で一度はフランスのものになったブルターニュでしたが、シャルルの死でブルターニュは再びアンヌの元に戻ってきました。
1501年頃、アンヌは、自分の死後ブルターニュ領を相続するクロードを、元夫マクシミリアンの孫カールと婚約させます。
1506年にカールの父フィリップ美公が亡くなり、母であるカスティーリャ女王フアナは発狂。
その後カールは姉妹と共に叔母のマルグリット・ドートリッシュに引き取られ、養育されます。
アングレーム伯フランソワ(後のフランス国王フランソワ1世)

引用元:フランソワ1世
1502年のこと。フランスは領地をめぐってスペインと争います。
1504年3月、ルイ12世はスペイン王との間で3年の休戦を結んだのですが、このスペイン王というのがカトリック両王のひとり、アラゴン王フェルナンド2世。
狂女王フアナの父、カールの母方の祖父です。

引用元:アラゴン王フェルナンド2世
1505年。スペインとの争い後、ルイ12世は体調を崩します。
一時は遺言も書いたほどでしたがどうにか持ち直し、1506年5月、トゥールの全国三部会を招集しました。
人びとは思います。
国王は前年に体調を崩した。この先万一のことがあったら?
国王には跡継ぎとなる男子がいない。
議員たちはルイ12世に求めます。
すなわち一人娘のクロード王女を、現下のアングーレーム伯フランソワと結婚させてほしいと。フランスの玉座に陛下の血筋を残してほしいと。王女はアンヌ王妃の相続人として、未来のブルターニュ女公でもあるからには、王女を余所に嫁がせて、外国人にブルターニュ公領を持って行かれ、またぞろ争乱を招くような事態だけは避けてほしいと。
佐藤賢一(著). 2014-9-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社. p.220.
ルイ12世は快諾。
申し入れのあった5月19日の直後の21日、クロード王女とアングレーム伯(アングーレーム伯)フランソワは婚約しました。
文中に「一人娘」とありますが、クロードには妹のルネがいます。
ルネは後にアレクサンデル6世の孫エルコレと結婚しますが、ルネにもカール(カール5世)またはフェルナンド(カールの弟。後の神聖ローマ皇帝)との、戦争後の和平に伴う「縁談」も出たようです。(参考:『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』)
1514年1月9日 アンヌ・ド・ブルターニュの死
ヨーロッパのしかるべき王家の嫡男に、ブルターニュ公領の相続人である自分の娘を嫁がせることを熱望していた王妃アンヌが亡くなり、ブルターニュ女公はクロードが継承します。
ルイ12世はせっかくフランスのなかに留まっているブルターニュを手放したくありません。
そして、自分に男子の後継者がいない以上、やむを得ず、分家アングゥレーム家のフランソワ(後の一世)に王位継承権があることを認めざるを得なくなった時、娘クロード姫を、このフランソワに娶せることによって、ブルターニュ公領を、フランス王家へ、特にオルレヤン家へ繋ぎとめようとした。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.26.
1514年5月15日、クロードとフランソワの結婚式が行われました。
(『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』では5月15日、渡辺一夫氏の著書では5月18日になっています)
フランソワは一四九九年にヴァロワ公に封ぜられていたが、さらにこのときブルターニュ公領の移譲も求めた。アンヌ王妃の財産であれば、死後は娘のクロードが相続する。その夫として自分が共同統治者になると、しごく当たり前の主張だったが、これをルイ十二世は拒否した。断固として、拒否した。
佐藤賢一(著). 20149-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社. pp.225-226.
できれば、自分の血を引いた後継者を、男児を、と思ったのでしょうか。
新しい妻との間になら、もしかして、と。
ちょうど、イングランドのヘンリー8世には年頃の妹がいる。
王妹を娶ればヘンリーとは義兄弟になり、今までのような敵対関係も改善できるだろう。
そして、王女が自分に男児を産んでくれれば、分家筋の男になんか王位を譲らなくていい。
この時ルイ12世は52歳。結婚話が持ち上がったメアリー王女は、16、17歳くらいでした。
メアリー・テューダー(Mary Tudor フランス名:マリー・ダングルテール(1496年3月18日-1533年6月25日)

引用元;メアリー・テューダー
ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの子どもたちのひとり、メアリー・テューダー( Mary Tudor )です。
フランス名はマリー・ダングルテール( Marie d’Angleterre 「メアリー・オブ・イングランド」)。
当時のイングランドでは評判の美人だったそうです。
陽気で奔放なメアリーはヘンリー8世のお気に入りの妹でした。
メアリーも後の神聖ローマ皇帝カール5世と婚約していたことがあります。
1507年、借金を抱えた神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はイングランド王ヘンリー7世の「莫大な財産に目が眩み」、孫のカールとヘンリーの娘のメアリーとを婚約させます。

引用元:ヘンリー7世
ヘンリー7世はハプスブルグ家と親戚関係になるため、自分の娘メアリーをカールに嫁がせることを望み、自分自身はマクシミリアンの娘マルグリットに求婚しました。
マクシミリアンはマルグリットにヘンリーとの結婚を促しますが、マルグリットは拒否。
カールとメアリー王女の結婚も実現しませんでした。
もうひとりの「メアリー・テューダー」(イングランド女王メアリー1世)
この方も同じ「王女メアリー・テューダー」、イングランド女王メアリー1世、通称「血まみれメアリ」です。

引用元:イングランド女王メアリー1世
こちらのメアリーはヘンリー8世の娘ですので、上のメアリーとは別人です。
メアリー1世の生母はスペインのカトリック両王の娘、キャサリン・オブ・アラゴン。
メアリー1世と神聖ローマ皇帝カール5世はいとこにあたります。

引用元・ヘンリー8世
兄ヘンリー8世からルイ12世との結婚話を告げられたメアリーは政略結婚を受けいれます。
その代わり、と彼女は兄に頼み事をしました。
それは、「もし夫が亡くなったら、次は好きな男性と結婚させて欲しい」というもの。
ヘンリーは承知し、メアリーはフランスへ嫁いで行きました。
アン・ブーリン、フランスへ行く
1513年6月、ネーデルラントを統治する総督となっていたマルグリット・ドートリッシュの元で学ぶため、アン・ブーリンは故郷のイングランドを離れました。
アン・ブーリンとは、後にヘンリー8世の二番目の妃となり、女王エリザベス1世の生母となる女性です。

引用元:アン・ブーリン
マルグリットの宮廷の文化的水準は非常に高く、マルグリットが自分の甥カールと姪たちのために開いた私設学校に、外交官で学問好きだった父トマス・ブーリンが娘を留学させたのです。
ヘンリー8世はスペイン王女キャサリンと結婚しており、アンは立派な貴婦人となり、キャサリン王妃に仕えることを希望していました。

引用元:キャサリン・オブ・アラゴン
Katherine of Aragon ナショナル・ポートレート・ギャラリー
しかし、イングランドとスペインの関係は徐々に悪化。イングランドとフランスが接近します。
マルグリットの宮廷は当時スペイン領でした。
フランスへ輿入れするメアリー王女について、アンはマルグリットの宮廷を離れ、フランスのクロードの宮廷へ移ります。
メアリーの意中の男性(サフォーク公チャールズ・ブランドン)

引用元:チャールズ・ブランドン
ヘンリー8世の幼友達で寵臣のチャールズ・ブランドンです。
家柄や地位にこだわった先王と違い、ヘンリー八世は郷士だろうと新興貴族だろうと、自分の気に入った家臣はどんどん高く取り立てた。機知に富んだ性格、人をそらさぬ社交性、スマートでハンサムな容貌…。チャールズ・ブランドンはたちまちヘンリー八世のお気に入りとなった。
仮面劇、狩り、馬上槍試合と、ヘンリーの愛する気晴らしのことごとくに、つねに主君のそば近く寄り添うチャールズの姿があった。彼はトマス・ウルジーと並んでヘンリーの随一の寵臣となり、なんとわずか五年のあいだに一介の盾持ちからイングランド最高位の公爵・サフォーク公に成り上がることとなる。
桐生操(著). 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. pp.10.-11.
チャールズ・ブランドンは、王妹メアリーとカール(神聖ローマ皇帝カール5世)の婚約の交渉に、ネーデルラントのマルグリット・ドートリッシュを訪ねています。
『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』では、メアリーの輿入れにはチャールズ・ブランドンが「特派大使」としてフランスへ派遣され、しばらく滞在したとありますが、
ブランドンと結婚前のメアリーとの関係を詳らかにすることは不可能であるが、二人は、決して冷ややかな間柄ではなかったようである。そして、政略結婚を欣んで受けたメアリー王女は、慎ましやかな大人しい女性では決してなかった。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.31.
1514年10月、メアリー王女 フランスに到着する
1514年10月初旬、アングレーム伯フランソワは、北フランスの海岸までメアリー王女を迎えに行きます。
王家の代表として多くの貴族たちを従えてメアリーと顔を合わせたフランソワは、新王妃となる美女に大きな関心を抱いたようです。

引用元:フランソワ1世
1月に王妃アンヌを亡くしたばかりにルイ12世も、メアリーに「ひとめぼれ」だったと言われています。
1514年10月9日、ルイ12世とメアリーは盛大な結婚式を挙げました。

引用元:ルイ12世とメアリー・テューダー
1514年12月31日から1515年1月1日にかけて、ルイ12世逝去
1514年12月31日から1515年1月1日にかけて、ルイ12世は亡くなりました。
わずか三ヶ月の結婚期間でした。
若くて美人の新妻に夢中になり、彼女に付きっきりになったと言われているルイ12世。
しかし不幸なことに、ルゥイ十二世は、それまで、子宝を、特に男の子を得ようとして無理を重ねてきたのに、若い王妃を迎えてからは、更に無理に無理を重ねたらしく、そのために全精力を使いはたしてしまった結果となり、それが主要原因だと、十六世紀のある伝記作者は言っているが、僅か三ヵ月の結婚生活に終止符を打つにいたる。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.27.
当時の50代は「老人」の域(^^;。
ルイ12世は、長いこと6時に就寝するなど規則正しい生活をしていましたが、結婚後は夜中まで起きていたようです。
朝になると、まだ就寝中の妻の元に行き、午前中は離れなかったとか。
新妻メアリーは、
一説によると、メアリはルイの死を早めたいがために、連日、王をベッドに招き入れたり、宴や狩猟をひんぱんに催したともいう。
桐生操(著). 2014. 『悲劇の9日女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.12.
…。
そう、メアリーは「もし夫が亡くなったら、次は好きな男性と」って兄に約束させてましたよね。
メアリーの「懐妊」をめぐって

16世紀の歴史家ブラントームがいうところの、ルイ12世の死因(!)となったメアリー王女。
フランスに嫁いできたメアリーと、メアリーと同じイングランド人のサフォーク公を不安な面持ちで見つめる女性がいました。
フランソワの母「母后ルイーズ」

引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ
サヴォワ公女として生まれ、11歳頃にアングレーム伯シャルル・ドルレアンと結婚。
マルグリット(マルグリット・ド・ナヴァル)とフランソワ(フランソワ1世)をもうけます。
若くして未亡人となりますが、その後は二人を育てながらアングレーム家を守る女丈夫振りを発揮します。
幼い頃、ルイーズはフランスで教育されました。
従姉であるアンヌ・ド・ボージューの宮廷で、マルグリット・ドートリッシュと一緒に学んだのです。
ルイーズの弟フィリベルトは後にマルグリット・ドートリッシュの夫となった男性です。

ルイーズと長女マルグリットはフランソワを溺愛します。
愛情に包まれて、フランソワは伸び伸びと育ちました。(かなり伸び伸び)

引用元:マルグリット・ド・ナヴァル
ずっと男児を授からないルイ12世を、分家のルイーズはどんな目で眺めていたのでしょう?
最初の妻ジャンヌ、二番目の妻アンヌ・ド・ブルターニュと、ルイは健康な男児には恵まれませんでした。
もしこのままルイに跡継ぎができなければ、王位は息子フランソワのものになるのです。
そこへ若い女性がイングランドから嫁いできました。
ルイーズは気が気でなかったのではないでしょうか。
ルイーズの目はメアリーに同行してきたサフォーク公チャールズ・ブランドンに注がれます。
そして、もうひとり、女好きの自分の息子フランソワにも。
メアリーがルイ12世に男児を産めば、王位はその子どもに行きます。
子どもが本当にルイ12世の子ならまだしも(?)ですが、子どもの父親がサフォーク公でもそうでなくとも、アングレーム家にしてみれば鳶に王位をさらわれる結果となってしまうのです。
ブラックリストのふたり(サフォーク公チャールズ・ブランドンとアングレーム伯フランソワ)
『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』では、母后ルイーズはチャールズ・ブランドンにある取り引きを持ち掛けたという話が載っています。
それは、「ルイ12世の在世中は絶対にメアリー王妃に手を触れてはならないが、その代わり、王が亡くなったら自由に行動して構わない。ブランドンには5万リーヴルの年金を与え、王の未亡人となったメアリー王妃には「フランス王太后」としての待遇を与える」というものだったとか。
ルイーズは自分の息子フランソワにも釘を刺しました。
万一フランソワがメアリーを妊娠させた場合、王位継承権はその手から滑り落ちるそ、と。
もしメアリーが男児を出産したなら、その子どもは形式上ルイ12世の王子となり、王冠は父親であるフランソワを素通りしてその子どものものになるのですから。
ルゥイーズ・ド・サヴォワ母后は、重臣たちと相談して、「愚かなことをすると王様にはなれないぞ」という諫言と叱責とで、フランソワの意馬心猿を制御し、自宅から出そうになった火事を消し止めざるを得なかった。かのブラントームは、その間のことを、長々と面白可笑しく記述している。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.33.
「胎児管理人」
まだルイ12世が存命中だったときのことです。
若くて美人で奔放な妻を貰ったルイ12世は、メアリーの「浮気」を気にしていました。
そうですね。それは気になりますよね。
サフォーク公チャールズ・ブランドンに加えて、自分の娘婿であるフランソワまでメアリーを狙っているかもしれないのですから。
チャールズ・ブランドンを信用していなかったルイーズと、その娘マルグリット・ド・ナヴァルは、王妃の側近に監視役として貴婦人たちを配置。
ルイの長女でフランソワの妻クロードも、ルイーズとメアリーと共にフランソワの行動を監視していました。
昼はクロードが「見守り」、クロードまたはルイーズの命を受けたオーモン男爵夫人が王の不在時にはメアリー王妃と一緒に寝室で休みました。
それでもまだ足りなかったのか、ルイ12世は更にある人物を呼び寄せます。
それはなんと、アンヌ・ド・ボージュー。
最初の妃だったジャンヌの姉で、ルイ11世の娘。フランスの摂政を務めた女性です。

引用:アンヌ・ド・ボージュー
アンヌとルイーズは従姉妹同士ですが、ルイーズとは対立関係にありました。
ルイがアンヌを呼んだのは、ルイーズを始めとするアングレーム家の画策を阻止するためなのか…。
メアリー王妃を警戒し、王妃の懐妊を監視するルイーズは、「胎児管理人(キユラトリス・オ・ヴアントル」(『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』)の「仕事」を進んで引き受けていたようです。
この胎児管理人について、渡辺一夫氏の著書では、
「良人が死ぬ前から妻が妊娠している場合、良人の死後その胎児のために、親族会議が任命する後見役」と、普通には解されている。我が国でも、遺産相続や家督相続のために、血が流れたり陰謀がたくらまれたりした階級の世界には、恐らくこうした「役掌」があったかもしれないが、それが何と呼ばれたかを調査する暇はない。「お胎守り」とか「お胎看取り」とか名附けられるかもしれない。
モーロワによると、ルゥイーズ・ド・サヴォワ側の人々が、メアリー王妃の「お胎守り」をしたことになるのだが、衰弱したとは言えルゥイ十二世は、まだ生きていたのだし、メアリー王妃には、「おめでた」の兆候はなかったのであるから、この場合は、通常の意味の「胎児管理人」ではないことになる。まだ肝心な「胎児」が存在していないからである。その点、モーロワは形容的に漠然と、この役掌名を用いているのであろう。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.36.
ルイーズは、メアリー王妃の懐妊を気にかけていましたが、それ以上に、「不正で非合法な」妊娠の発生を阻止しようとしたのかもしれません。
ルイ12世の死後
ルイ12世の死去にともない、ルイーズの息子フランソワがヴァロワ朝第9代のフランス王となります。
夫の死後メアリー王妃は、
自分の将来の立場を少しでも有利にするための手段として、何とかして妊娠したかったらしいのであるが、同じくブラントームによると、王の歿後、この聡明すぎる王妃は腹に布切れを巻きつけ、前から「おめでた」になっていることを誇示し宣伝させたとのことである。
渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.34.
しかし、この企みは王妃以上に聡明なルイーズに見破られてしまったそうです。
チャールズ・ブランドンとの結婚

引用元:メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン
フランス王家の習慣で、メアリーは服喪期間の40日をクリュニーにある館に「監禁」されて過ごしました。
メアリーがルイ12世の子を妊娠していないかどうかを確かめるためでしたが、メアリーは兄のヘンリーが次の結婚相手を見つけてくるのではないかと気を揉んでいたようです。
そのクリュニーに、メアリーとルイ12世の結婚に関する後始末をつけるため、使節団の団長としてチャールズ・ブランドンがやってきます。
ヘンリー8世はチャールズに、メアリーに求婚しないという誓いを立てさせてフランスに派遣したようですが、彼と再会したメアリーは、自分をここから出し、一緒に連れて行ってくれるよう泣いて懇願しました。
ヘンリー8世の忠実な家臣であるチャールズ・ブランドンは大いに困惑します。
主君は絶対です。裏切ることは許されません。
しかし、メアリーは、涙で恋人に懇願します。
今すぐ結婚してくれないなら、彼との結婚は永遠に諦めることにするとメアリは主張したという。結局、チャールズは、愛する女性の涙と懇願に折れた。
桐生操(著). 2014. 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版.p.14.
チャールズとメアリーは、フランソワ1世の後押しで結婚します。
それはフランソワの好意というより、メアリーを他国に嫁がせ、イングランドと他国との結び付きを強くしてしまうよりは、ここでチャールズと結婚させてしまった方が得だと思ったからかもしれません。(私はライヴァルであるヘンリー8世に対する嫌がらせにしか見えないのですが、もっと深い意味があるのかも)
1515年3月3日、ヘンリー8世の許可が無いまま、フランソワ1世を含むわずか数人を立会人として、ふたりはクリュニーの礼拝堂で式を挙げました。
ヘンリー8世の激怒
ヘンリーの怒りを恐れたチャールズは、ヘンリーの側近であるトマス・ウルジーに手紙を書き、なんとか仲介に入ってくれるよう懇願します。

引用元:トマス・ウルジー
トマス・ウルジーから来た返事は、「一部始終を聞いたヘンリー8世が烈火のごとく怒っている」というものでした。
絶体絶命に立たされたチャールズはヘンリーに平身低頭して許しを請い、王の信頼を失うぐらいならむしろ、この首を断ち切ってほしい、ただちに自分に死を賜りたいと手紙を書いた。
メアリもメアリで、チャールズに結婚を強いたのは自分であり、彼には何の非もない。自分がそのとき、このままでは二度と彼と結婚できないのではないかという恐怖とパニックに投げこまれたゆえだと兄に言い訳した。
桐生操(著). 2014. 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版. p.14.
その結果、チャールズは莫大な罰金を支払う代わりに、ヘンリー8世の許しを得ることができました。
チャールズとメアリーはイングランドに帰国。
クリュニーでの秘密結婚から数ヵ月後の1515年5月13日、ふたりはヘンリー8世とその廷臣たちの前で公に結婚しました。
1520年「錦野の会見」
1518年に英仏条約が結ばれ、それを受けて1520年6月に「錦野の会見」が行われます。
フランスのカレー近郊バランゲムの平原で、ヘンリー8世とフランソワ1世の顔合わせが実現したのです。

引用元:錦野の会見(または金襴の陣)
アン・ブーリンの父でフランス駐在大使を務めていたトマス・ブーリンは、1518年から会見実現のための交渉に当たっていました。
このとき、会見に随行していたチャールズ・ブランドンが、フランスにいるアンがヘンリー8世妃キャサリンの侍女として出仕できるよう口添えしたということです。
アン・ブーリンはメアリーが帰国した後もフランス宮廷に残り、クロード王妃に仕え、宮廷で可愛がられていました。
しかし1522年(または1526年)アンはイングランドに帰国し、キャサリン妃の女官として仕えます。
メアリーとチャールズ・ブランドンの娘・フランセス( Lady Frances Brandon )

引用元:フランセス・ブランドン
夫妻の子どものひとり、フランセス・ブランドン。
「フランセス」の名はフランソワ1世の名にちなむという話もあるようです。
フランセスは後のサフォーク公となるヘンリー・グレイと結婚します。
その結婚でもうけた娘のひとりが、ジェーン・グレイです。イングランド初の女王となり、在位9日間で処刑された少女です。
孫の「9日間女王」レディ・ジェーン・グレイ( Lady Jane Grey )

引用元:『ジェーン・グレイ』
王女様と王様の結婚だけあって、登場人物の豪華なこと(;´∀`)。
有名人ばかりですね。ごちそうさまでした。
メアリー王女(マリー・ダングルテール王妃)、なかなか強烈な女性のようですが、ヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンと離婚する際はキャサリン擁護に回り、兄や夫と対立するなど、芯は強そうです。
歴史って、「誰」の視点から見るかで同じ出来事でもだいぶ見方が違いますよね。
「華やかな魅力を振りまく自由奔放、わがまま王女」
「夫の死期を早めたくて、狩猟や舞踏会に夫を引っ張り出す」
「恋人との愛を貫き通す」
メアリー王女を毒婦と見るか、一途な女性と見るか。
ヘンリーとメアリーの母エリザベスは才色兼備、嫁をスペインから迎えるにあたり、自身でもスペイン語を習得しようとする女性だったそうなので、私は彼女に似ていて欲しいなという願望で見ています。
- 佐藤賢一(著). 20149-20. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社.
- 渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房.
- 桐生操(著). 2014. 『悲劇の9日間女王 ジェーン・グレイ』. 中経出版.
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