国王フランソワ1世を溺愛し、陰から動かしていたとされる母后ルイーズの、「貴婦人の和約」に至るまでの活躍を見ていきましょう。
ルイーズ・ド・サヴォワ( Louise de Savoie, 1476年9月11日 -1531年9月22日)
引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ
ルイーズは1476年、サヴォイア(仏語読みでサヴォワ)公の長女として生まれました。
同母弟にフィリベルト2世・ディ・サヴォイア、異母弟にルネ、カルロ3世・ディ・サヴォイアらがいます。
引用元:サヴォイア公国の地図
1483年に母マルグリットが亡くなります。
幼いルイーズとフィリベルト2世は、父方のいとこであるアンヌ・ド・ボージューの元に預けられました。
いとこでフランス王女、アンヌ・ド・ボージュー( Anne de Beaujeu, 1461年4月3日-1522年11月14日)
引用元:アンヌ・ド・ボージュー
フランス・ヴァロワ朝6代の王ルイ11世の長女。フランスの摂政も務めた女性です。
アンヌの実母はルイーズとフィリベルトと同じサヴォイア家の出身です。
アンヌは貴族の子女を預かり、自身の宮廷で教育しました。
ルイーズの同母弟、フィリベルト2世・ディ・サヴォイア( Filiberto II di Savoia, 1480年4月10日-1504年9月10日)
「美男」の誉れ高いルイーズの同母弟。父のあとを継ぎ、サヴォイア公となります。
アンヌの宮廷ではアンヌの弟シャルル(後のフランス王シャルル8世)と学びました。
ヴァロワ朝第7代フランス王シャルル8世( Charles VIII, 1470年6月30日-1498年4月7日)
引用元:シャルル8世
ルイ11世の息子で、アンヌの弟。1494年、イタリア侵攻を開始しました。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄し、ブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュと結婚します。
神聖ローマ皇帝の娘、マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche, 1480年1月10日-1530年12月1日)
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
マルグリットは小さい頃、人質同然にフランスに連れてこられ、未来のフランス王シャルル8世妃になるためアンヌの宮廷で養育されました。
マルグリットとルイーズとはそこで出会い、仲の良い友人となります。
マルグリットとシャルル8世は破談になりますが、マルグリットは後にスペインのカトリック両王の長男フアンと結婚します。
フアンと死別後、かつての幼なじみであるフィリベルトと結婚し、サヴォイア公妃となりましたがフィリベルトとも死別。
以降は甥や姪の養育、ネーデルラントの統治に尽力しました。
後のアンリ2世の寵姫、ディアーヌ・ド・ポワチエ( Diane de Poitiers, 1499年9月3日 – 1566年4月22日)
引用元:ディアーヌ・ド・ポワチエ
後の国王アンリ2世の寵姫です。
ディアーヌ・ド・ポワチエもアンヌの宮廷で行儀見習いをしていたひとりで、クロード・ド・フランス(フランソワ1世妃)、ルイーズ・ド・サヴォワ(フランソワ1世の母)、クロード王妃が亡くなった後フランソワ1世のもとへ嫁いできたエレオノール・ドートリッシュの侍女となりました。
ルイーズの夫、アングレーム伯シャルル・ドルレアン( Charles d’Orléans, 1459年-1496年1月1日)
ルイーズは11歳頃、ルイ11世とアンヌ・ド・ボージュの取り持ちで、王族のアングレーム伯シャルル・ドルレアンと結婚します。
引用元:『道徳化された愛のチェスの本』
夫シャルルには公式の愛人アントワネット・ド・ポリニャックがいました。
シャルルはふたりの間の娘を認知し、自分の居城に住まわせていました。
ルイーズがシャルルの妻となっても状況は変わらず、それどころかアントワネットはルイーズの侍女となり、一家を取り仕切ります。
早く世継ぎをもうけてアントワネットと対抗しようとしたのか、ルイーズは13歳の時、占い師として名高い修道士フランソワ・ド・ポールのもとを訪ねます。
フランソワ・ド・ポールはルイーズに、彼女はやがて男の子を産み、その子はやがてフランスの国王になるだろうと予言しました。
才色兼備の娘、マルグリット・ド・ナヴァル( Marguerite de Navarre, 1492年4月11日-1549年12月21日)
引用元:マルグリット・ド・ナヴァル
15歳半ばで、ルイーズは娘を出産しました。
マルグリットは長じて『エプタメロン』を著し、彼女の孫は後の国王アンリ4世となります。
最愛の息子、フランソワ1世( François Ier, 1494年9月12日-1547年3月31日)
そして1494年のこと。ルイーズに待望の男の子が誕生します。
引用元:フランソワ1世
ルイーズは息子を溺愛します。
一四九六年一月一日、生後十五ヵ月でフランソワは、父を肺炎で失った。遺言によって子供たちの後見人として、また領地の使用収益権者として指名され、十九歳半でルイーズはコニャックの城主となった。そればかりではない。数カ月後、彼女の父が時ならずサヴォワ公に昇進したので、彼女は公爵の娘となり、ルイーズ・ド・サヴォワとなったのである。ルイーズは夫の死に、ほとんど心を動かされたようには見えなかった。日記の中で、愛犬アップゲの死のために割いた以上のスペースを、夫の死のため割いてはいない。
桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館. pp. 22-23.
愛犬以下の夫とは一体…。
引用元:「 ルイーズ・ド・サヴォワとマルグリット・ダングレームの御前で、アントワーヌ・ベラールがフランソワ・ダングレームに著書を贈る」
母ルイーズと姉マルグリットに見守られ、書物を贈られるフランソワの図。
ルイーズは、自身の聴罪司祭クリストフォロ・ヌマイを息子の教育に当たらせ、家庭教師にアルトゥス・ド・グフィエ、フランソワ・ド・ムーラン・ド・ロシュフォールを当てるなど、熱心にフランソワを教育します。
ルイーズ自身がルネサンス芸術に対し強い興味を持っており、フランソワに少なくない影響を与えました。
前任の国王シャルル8世、ルイ12世のイタリア進出もあり、フランソワ1世もイタリアに大いに関心を持ち、イタリア語も完璧にマスターしていたようです。
アンヌ・ド・ブルターニュ( Anne de Bretagne, 1477年1月25日-1514年1月9日)
ブルターニュ女公アンヌ
引用元:アンヌ・ド・ブルターニュ
ブルターニュ公国を相続したアンヌ・ド・ブルターニュ。
引用元:ブルターニュ GwenofGwened CC-BY-SA-4.0
シャルル8世の侵攻から公国を守ろうと、アンヌは14歳で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と代理結婚します。
マクシミリアン1世は、マルグリット・ドートリッシュの実父です。
引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
フランス軍がブルターニュ公国に迫ります。
マクシミリアン1世の援軍を待ち侘びるアンヌの思いは叶わず、公国はついにフランス軍に降伏。
1491年12月6日、シャルル8世はブルターニュ公国を手に入れるべく、アンヌと強引に結婚してしまいました。
シャルル8世の許婚だったマルグリットは家族の元へ帰り、後にスペイン王子と結婚します。
フランス王妃となりアンボワーズ城で暮らしていたアンヌ。
1498年4月7日、 城内の鴨居に頭をぶつけたシャルル8世が死亡します。
ずっと夫に付き添っていたアンヌでしたが、シャルルの死によってブルターニュ公国の全権を回復しました。
アンヌの再婚相手、ヴァロワ朝第8代の王ルイ12世( Louis XII, 1462年6月27日-1515年1月1日)
引用元:ルイ12世
シャルル8世の死でルイ12世が次のフランス王となります。
わずか2歳で父オルレアン公シャルル・ド・ヴァロワを失ったルイは、若くしてオルレアン公となっていました。
ルイ12世は、ルイーズの夫シャルル・ドルレアンのいとこにあたります。
ルイ11世の命令により、ルイは王女ジャンヌと1476年に結婚しました。
ジャンヌ・ド・フランスはアンヌ・ド・ボージューとシャルル8世の姉妹で、生まれつき身体が不自由でした。
引用元:ジャンヌ・ド・フランス(またはジャンヌ・ド・ヴァロワ)
後にルイ12世はこの結婚は「先王に押し付けられたもの」であるとして、結婚の無効を主張。時のローマ教皇アレクサンデル6世に泣きつきます。
ルイは旧知の間柄だったブルターニュ女公アンヌと再婚し、公国を手に入れたいと考えたのです。
引用元:アレクサンデル6世
アレクサンデル6世は本名をロドリゴ・ボルジアといい、庶子にチェーザレ、ルクレツィアらがいます。
結局、ルイ12世はジャンヌと離婚。アンヌ・ド・ブルターニュと再婚します。
アンヌとの間には、クロード(後のフランソワ1世妃)とルネ(後にアレクサンドル6世の孫・エルコレ2世・デステ妃になる)という王女たちが生まれました。
ルイ12世と妻ジャンヌの間の離婚裁判を描いた佐藤賢一氏の小説です。
40歳以上の方に特にお勧めしたいです。
以前、30代前半の友人もこの本を持っていると聞き、感想を聞いたところ、「よくわからなかった」とのことでした。
えー、私なんて号泣だったけどな。( ノД`)…
輝かしい未来が待ち受けている20代、30代の方より、「あの頃は良かったな」「若かったよな」なーんて思うことが増えた年齢の方に読んでいただきたいと思います。
何処で泣いたかはネタバレしますので言えませんが、人生の青い春、世界を征服できる気になっていた時代を過ぎ、自分が経験してきたことや思い出をどう消化し、今を生きるためにどうすれば良いのか。そーゆーの、ちょっと考えちゃうよね(‘ω’)ノという物語です。私にとってはね。
アンボワーズ城
引用元:アンボワーズ城 Quality Images by Martin Falbisoner CC-BY-SA-3.0
長女クロードが誕生する前。
まだ子どもがいなかったルイ12世は、いとこシャルルの息子フランソワをオルレアン家の長とし、フランス王位の法定相続人に任命していました。
フランソワの王座への道が一歩近付いたのです。
ルイ12世の招きで、ルイーズとフランソワはアンボワーズのフランス宮廷で暮らすことになります。
何とルイーズは非常識にも故夫の愛人とその私生児、おまけに当時の彼女の愛人と噂されていた一人の従者まで伴って来て、徳高いルイ十二世を仰天させた。彼はルイーズとフランソワを、その悪名高い供の者から引き離して、ロワール河畔にある国王の城のひとつアンボワーズの宮廷にほとんど隔離した。
愛人も友人もなく、ルイーズの孤独の日々がまた始まった。もはや息子の他に頼るものは何もなかった。彼女のフランソワに対する熱中と崇拝は、なおさら強いものになり、日記の中で「我が国王、我が主君、我がシーザー」と呼ぶまでになった。二人は同じ部屋に寝むようになり、ルイーズはフランソワが着替えしたり入浴したりする時、他人が同席することを許さなかった。フランソワの家庭教師のロアン元帥が、朝、彼を迎えに来てミサや散歩に連れていく他は、二人は片時も離れなかった。
桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館. pp. 23-24.
他の書籍でもルイ12世が「常識外の人間」という記述はありません。むしろ「誠実」で「徳高い」「洗練された」人物という印象です。
その常識的なルイ12世が仰天したというルイーズの「非常識」っぷりについてですが、1525年の「パヴィアの戦い」で、フランスの元帥ブルボン公が敵である神聖ローマ皇帝カール5世側についてしまったのは、ルイーズが原因といわれています。
ルイーズは、いとこアンヌ・ド・ボージューの娘の遺産をめぐり、アンヌの娘の夫だったシャルル・ド・ブルボンと争います。
引用元:シャルル3世・ド・ブルボン
国王フランソワ1世は当然母后ルイーズの味方をし、怒ったブルボン公は敵カール5世側についてしまいました。
遺産のことだけでなく、ブルボン公はルイーズの娘マルグリットに想いを寄せていましたが、「ブルボン公に執心したルイーズを振った」ことも諍いの原因だった、との話もあります。
今の常識で全てを測れるとも思いませんが、ルイーズつえぇ…Σ(゚Д゚) という感想を持った出来事でした。
引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ Tangopaso
ルーヴル美術館:Buste de Louise de Savoie, mère de François Ier (1476-1531)
ルイーズがシャルル・ド・ブルボンに執心?した話はこちらの書籍で読めます
アンヌ・ド・ブルターニュは結婚後間もなく妊娠します。
アンヌはルイーズの側で出産することにし、「ルイーズの夏の別荘であるロモランタン(ブロワの東西四十一キロにあるオルレアネ地方の都市)に、大掛かりな一行を引き連れて到着した。」(『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』)。
勿論王妃アンヌは世継ぎを望んでいます。
出産の日が近付くにつれ、ルイーズの不安は増して行ったに違いありません。
いつか我が子フランソワが国王になるとの予言を信じていたルイーズの胸中は、どれ程のものだったのでしょうか。
果たして10月13日、生まれた子どもは女の子でした。
ルイ12世王女、クロード・ド・フランス( Claude de France, 1499年10月13日-1524年7月20日)
引用元:クロード・ド・フランス
ルイ12世の次女、ルネ・ド・フランス( Renée of France, 1510年10月25日-1574年6月12日)
引用元:ルネ・ド・フランス
アンヌは諦めず、その後も懐妊への努力を続けます。
その熱意に押されて、ルイ十二世も病身をおしてもっぱら種馬役をあい務めるが、時には体力を消耗し切って命を危ぶまれるまでになる。けれどこれほどの努力も功を奏さず、アンヌは数度の流産や死産を繰り返し、一五一〇年もう一人の女児ルネを出産しただけで、結局一五一四年、相次ぐ妊娠に疲れ果て、落胆の底で死ぬことになる。
桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館. p. 25.
シャルル8世への「持参金」としてフランスのものになってしまったブルターニュ領でしたが、シャルルの死でアンヌの元に戻ってきました。
アンヌがルイ12世と再婚したことにより、ブルターニュはフランス国内に留まっていたのですが、男子を得ることができず、このままアンヌが亡くなった場合、相続人不在となりブルターニュ領が宙に浮いてしまいます。
状況を案じたアンヌは、相続人となる娘クロードを、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫カールと結婚させたいと考えていました。
父の死後ブルゴーニュ公を相続したカールは、精神を病んだ母が子どもたちの養育ができなくなったため、叔母にあたるマルグリット・ドートリッシュによって育てられました。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
しかしクロードがカールと結婚したのでは、ブルターニュは外国のものになってしまいます。
ルイ12世はクロードの婿に、ルイーズの息子アングーレーム伯フランソワを考えていました。
1505年。スペインとの争いの後体調を崩したルイ12世。
なんとかもち直しましたが、翌年5月、招集したトゥールの全国三部会で議員たちは国王に頼みます。
すなわち一人娘のクロード王女を、現下のアングーレーム伯フランソワと結婚させてほしいと。フランスの玉座に陛下の血筋を残してほしいと。王女はアンヌ王妃の相続人として、未来のブルターニュ女公でもあるからには、王女を余所に嫁がせて、外国人にブルターニュ公領を持って行かれ、またぞろ争乱を招くような事態だけは避けてほしいと。
佐藤賢一(著). 2014. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社. p.220.
これを受けてルイは、同じ月の内に娘クロードとフランソワを婚約させました。
引用元:ルイ12世年代記
そして五月二十一日、フランソワとクロードの婚約式が、大急ぎで執り行われる。プレシス・レ・トゥールの離宮の大広間に、国王、王妃、ブルボン公妃、アングレーム公妃(ルイーズ)、全宮廷人と各国大使が集合する。国王の甥のガストン・ド・フォワが、まだ六歳半にしかならない、小さなクロードを腕に抱く。大法官が結婚契約を重々しい声で読み上げ、その場に出席した各自が、それを守ることを宣誓する。すなわち今後国王に男子が生まれない場合は、クロードが王家遺産であるブロワ(ロワール河畔の都市)、ソワソン(イル・ド・フランス地方の都市)、クーシー、アスティ(イタリアのピエモンテ地方の都市)の虚有権、王妃からの十万エキュ金貨の持参金とブルターニュ公領の相続権を受けとるという契約である。
桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館. p. 26.
引用元:ガストン・ド・フォワ
ルイーズとフランソワは…すっごく喜んだでしょうね。国王の座はもう目前なのです。
フランソワは1514年5月にクロード王女と結婚式を挙げました。
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