フランソワ1世母后 ルイーズ・ド・サヴォワ

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ヘンリー7世王女、メアリー・テューダー( Mary Tudor, 1496年3月18日-1533年6月25日)

メアリー・テューダー (マリー・ダングルテール 1496年3月18日-1533年6月25日) 16世紀 Jean Perréal に帰属
メアリー・テューダー (マリー・ダングルテール 1496年3月18日-1533年6月25日) 16世紀 Jean Perréal に帰属

引用元;マリー・ダングルテール(メアリー・テューダー)

1514年10月。

その年の1月に妻アンヌを失ったルイ12世の元に、親子ほど年の離れたイングランド王ヘンリー7世王女メアリーが嫁いできます。

メアリーは、父の死後イングラド王を継いだヘンリー8世のお気に入りの妹でした。

メアリーには好きな男性がいましたが、兄ヘンリー8世の意向でルイ12世との政略結婚をしたのです。

その時、メアリーは兄にあることを約束させました。

もし夫が亡くなった時には、今度は好きな男性と結婚させて欲しい、と。

10月初旬、北フランスの海岸に到着したメアリー王女を迎えに行ったのはフランソワでした。

海を越えてやってきた若くて美人、陽気で魅力的なメアリー。

新妻にたちまち魅了されたルイ12世でしたが、彼女に強い関心を示したのは娘婿フランソワも同じでした。

ルイ12世妃マリー・ダングルテールの「胎児管理人」

ルイーズ、メアリーを監視する

アンヌ・ド・ブルターニュが男児を産まずに亡くなったことで、限りなく次期国王の座に近付いた息子フランソワ。

しかし若いメアリーが王妃になったことで、再びルイーズに不安の日々が訪れます。

ルイーズの監視の目は、イングランドからメアリーに同行してきたサフォーク公チャールズ・ブランドンに注がれていました。

初代サフォーク公チャールズ・ブランドン(1484年頃-1545年8月22日) 1530年頃
初代サフォーク公チャールズ・ブランドン(1484年頃-1545年8月22日) 1530年頃

引用元:チャールズ・ブランドン

チャールズ・ブランドンはヘンリー8世の側近で、メアリーの輿入れに同行していましたが、彼こそがメアリーの意中の男性だったのです。

ルイーズはチャールズ・ブランドンにこのような取り引きを持ち掛けたそうです。

“ルイ12世の在世中は絶対にメアリー王妃に手を触れてはならないが、その代わり、王が亡くなったら自由に行動して構わない。

ブランドンには5万リーヴルの年金を与え、王の未亡人となったメアリー王妃には「フランス王太后」としての待遇を与える”(参考:『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』)

さらに、ルイーズは女好きの息子フランソワにも釘を刺しました。

「万一お前がメアリーを妊娠させた場合、王位継承権はその手から滑り落ちるそ」、と。

もしメアリーが男児を出産したなら、その子どもは形式上ルイ12世の王子となります。

王位は父親であるフランソワを素通りし、その子どものものになるのです。

ルゥイーズ・ド・サヴォワ母后は、重臣たちと相談して、「愚かなことをすると王様にはなれないぞ」という諫言と叱責とで、フランソワの意馬心猿を制御し、自宅から出そうになった火事を消し止めざるを得なかった。かのブラントームは、その間のことを、長々と面白可笑おかしく記述している。

渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.33.

ルイ12世、アンヌ・ド・ボージューを呼び寄せる

娘婿フランソワがヴァロワ公となった時、フランソワはルイにブルターニュ公国の移譲も求めていました。

というのも、

アンヌ王妃の財産であれば、死後は娘のクロードが相続する。その夫として自分が共同統治者になると、しごく当たり前の主張だったが、これをルイ十二世は拒否した。断固として、拒否した。

佐藤賢一(著). 2014. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社. pp.225-226.

このまま自分が死んだらブルターニュ公領もフランスもフランソワのものです。

でも、できれば、王位を継ぐのは我が子であって欲しい。男児を諦め切れない。

そう思ったルイ12世(52歳)は再婚を決意し、イングランド王女(16歳くらい)を妻に迎えました。

もしメアリーが自分に男児を産んでくれたなら、分家筋の男なんかに王位を譲らなくていい。

メアリーに夢中になり、男児を熱望するルイ12世は彼女につきっきりになりました。

同時に、若くて美しく、奔放な新妻の「浮気」にも目を光らせます。

ルイ12世は元妻ジャンヌの実姉で、ルイーズとは対立関係にあるアンヌ・ド・ボージューを監視役として呼び寄せました。

みんなでメアリーを監視

ルイーズはチャールズ・ブランドンを警戒していました。

ルイーズと娘マルグリット・ド・ナヴァルは、王妃メアリーの側近に貴婦人たちを監視役として配置します。

ルイ12世の長女でフランソワの妻クロード王女も監視役に加わっていました。

チャールズ・ブランドンだけでなく、夫フランソワもメアリーに手を出そうとする男のひとりだなんて、個人的にはちょっとクロード王女が気の毒…(/ω\)。

昼の間はクロードがメアリーを「見守り」、ルイ12世の不在時には、クロードまたはルイーズの命を受けたオーモン男爵夫人がメアリーと一緒に寝室で休みました。

メアリーの行動を監視するルイーズ。

ルイーズはメアリーの懐妊を特に注視し、「胎児管理人」の役を自ら進んで引き受けていました。

ルイ12世妃マリー・ダングルテールの「胎児管理人」

ルイ12世の死因はメアリー?

ルイ12世とメアリー・テューダー 1514年頃 大英図書館蔵
ルイ12世とメアリー・テューダー 1514年頃 大英図書館蔵

引用元:ルイ12世とメアリー・テューダー

ルイ12世と盛大な結婚式を挙げたメアリーは、夫をパーティーや舞踏会、自分のベッドに誘います。

当時の50代といえば、老人の域((゚Д゚)ノ今ハチガウヨ!

それまで規則正しい生活を送っていたルイでしたが、新妻のベッドで過ごしたり、夜遅くまで起きていたりしていたそうです。

それで命を縮めたのか、ルイ12世は倒れ、1514年12月31日から1515年1月1日にかけての夜にこの世を去ってしまいます。

 しかし不幸なことに、ルゥイ十二世は、それまで、子宝を、特に男の子を得ようとして無理を重ねてきたのに、若い王妃を迎えてからは、更に無理に無理を重ねたらしく、そのために全精力を使いはたしてしまった結果となり、それが主要原因だと、十六世紀のある伝記作者は言っているが、僅か三ヵ月の結婚生活に終止符を打つにいたる。

渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房. p.27.

わずか3ヶ月の結婚生活でした。

メアリーが積極的にルイをベッドに誘い入れた理由は愛?

ひょっとしたら、政略結婚後にお互いに恋に落ちたのかもしれませんねえ。

ふたりで力を合わせ、男児を授かろうとしたのかもしれません。ルイ12世は実子に王位を継がせるため、メアリーは自分の立ち場を安泰にするために。

しかし、メアリーはイングラドを出る前に兄に約束させてましたよね。

夫が亡くなったら、次は好きな男性と…って。

もしかするとメアリーは夫の死を早めたかったのかも?(゚Д゚;)

メアリーの行動がルイ12世に体力を使わせ、死期を早めたのは間違いなさそうですが、果たして彼女の真意は…。

メアリー懐妊!?

ルイ12世の死後、メアリーは自分のお腹に布を巻き付け、さも「前から妊娠していた」ように装います。

しかし、この企みはルイーズによって看破されてしまいました。

服喪期間をクリュニーの城で過ごしていたメアリーは、チャールズ・ブランドンが使節団の団長として訪れた際、自分をここから出し、一緒に連れて行ってくれるよう泣いて懇願したといいます。

「今すぐ結婚してくれないなら、あなたとの結婚は永遠に諦める」

愛するメアリーの涙と言葉に折れ、主君ヘンリー8世に背くことになってしまったチャールズ・ブランドン。

メアリーとチャールズはフランソワ1世の後押しと立ち合いの元、1515年3月3日、クリュニーの礼拝堂で結婚式を挙げました。

メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン 1515年 ヤン・ホッサールトに帰属 ウォバーン・アビー蔵
メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン 1515年 ヤン・ホッサールトに帰属 ウォバーン・アビー蔵

引用元:メアリー・テューダーとサフォーク公チャールズ・ブランドン

メアリーとチャールズはイングランドに帰国。

ふたりの孫娘が、後にイングランド女王となり、斬首されたジェーン・グレイです。

『レディ・ジェーン・グレイの処刑』 1833年 ポール・ドラローシュ ナショナル・ギャラリー蔵
『レディ・ジェーン・グレイの処刑』 1833年 ポール・ドラローシュ ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:『レディ・ジェーン・グレイの処刑』

1553年、9日間女王レディ・ジェーン・グレイの処刑

ヴァロワ朝第9代のフランス王、フランソワ1世

ルイ12世が死去し、ついにルイーズの息子フランソワに王冠が回ってきました。

ルイーズが聞いた予言が本当になったのです。

1515年、フランソワはヴァロワ朝第9代のフランス王として即位します。

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

フランソワ1世の息子たち

フランソワ3世・ド・ブルターニュ( François III de Bretagne, 1518年2月28日-1536年8月10日)

王太子フランソワ3世・ド・フランス 1520年頃 ジャン・クルーエ アントワープ王立美術館蔵
王太子フランソワ3世・ド・フランス(フランソワ3世・ド・ブルターニュ) 1520年頃 ジャン・クルーエ アントワープ王立美術館蔵

引用元:王太子フランソワ3世・ド・フランス

フランス国立図書館の解説では作者が「フランソワ・クルーエ」となっています

フランソワ3世・ド・ブルターニュ( François III de Bretagne, 1518年2月28日-1536年8月10日) 1540年頃 コルネイユ・ド・リヨン コンデ美術館蔵
フランソワ3世・ド・ブルターニュ 1540年頃 コルネイユ・ド・リヨン コンデ美術館蔵

引用元:フランソワ3世・ド・ブルターニュ

フランソワ3世・ド・ブルターニュ コルネイユ・ド・リヨン エステンセ・ギャラリー蔵
フランソワ3世・ド・ブルターニュ コルネイユ・ド・リヨン エステンセ・ギャラリー蔵

引用元:フランソワ3世・ド・ブルターニュ

エステンセ・ギャラリー:RITRATTO DI FRANCESCO DI VALOIS-ANGOULEME

フランソワ1世と王妃クロードの間の長男。母クロードよりブルターニュ公を相続しています。

しかし1536年8月10日、18歳で急死。

弟のアンリが「王太子」となります。

ヴァロワ朝第10代のフランス王アンリ2世(Henri II de France, 1519年3月31日-1559年7月10日)

子供時代のフランス王アンリ2世 16世紀後半 ジャン・クルーエにちなむ コンデ美術館蔵
子供時代のフランス王アンリ2世 16世紀後半 ジャン・クルーエにちなむ コンデ美術館蔵

引用元:子供時代のアンリ2世

アンリ2世 1553年頃 フランソワ・クルーエ フランス国立図書館蔵
アンリ2世 1553年頃 フランソワ・クルーエ フランス国立図書館蔵

引用元:アンリ2世

1521年以降、イタリア進出を目論むフランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世とが干戈を交え、「パヴィアの戦い」(1525年)でフランソワ1世自身が皇帝軍の捕虜になってしまいます。

国王が捕虜になったことはフランスに大きな衝撃を与えました。

しかしルイーズはびくともしません。

 母后ルイーズ、男勝りの女性で、息子フランソワを陰で動かしていたともいわれるほど、政治にも容喙ようかいした遣手やりての母后だった。世のありきたりの母とは違って、彼女は思いもよらぬ災難にあってもびくともせず、国家の再建めざして奮闘する。やっと自分の出番が回ってきたかというように、天下に号令する。

 まず貴族たちをリヨンに招集して彼らに、

「国を守るために死力を尽くせ」

 と、声高く激励する。イタリアから戻ってきた将兵たちをかなめとして、新たに募った新兵を加え軍隊を再建し、国境の警備にあたらせる。国民には広く義捐金を求め、国内の工場には早急のうちに軍需品を作れと司令する。

江村洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. pp.82-83.

( ゚Д゚) ルイーズつよっ…

摂政ルイーズ、オスマン帝国に接近

フランソワがスペインに捕らわれて不在の間、1525年から1526年にかけて、ルイーズは二回目のフランス摂政を務めました。

ルイーズは、オスマン帝国のスレイマン1世に支援を求め、使節団を送ります。

オスマン帝国、イングランドとも友好的な関係を築き、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗しようとしました。

「捕虜となった息子に代わりフランスを統治する王母ルイーズ・ド・サヴォワ、手前に寝そべるのは同盟者のスレイマン大帝」 1520年から1522年の間 エティエンヌ・ルブラン作 フランス国立図書館蔵
「捕虜となった息子に代わりフランスを統治する王母ルイーズ・ド・サヴォワ、手前に寝そべるのは同盟者のスレイマン大帝」 1520年から1522年の間 エティエンヌ・ルブラン作 フランス国立図書館蔵

引用元:「捕虜となった息子に代わりフランスを統治する王母ルイーズ・ド・サヴォワ、手前に寝そべるのは同盟者のスレイマン大帝」

Wikipediaによると、絵の中のルイーズ・ド・サヴォワは「摂政の象徴である舵を持って表現されている」とあります。

1526年、フランソワ解放

マドリッド条約(1522年)に基づき、スペインで捕虜生活を送っていたフランソワ1世と、フランソワの幼い王子たちの身柄が交換されます。

自由の身になった父親フランソワに代わり、フランソワ3世とアンリ2世の兄弟はスペイン側で4年に及ぶ人質生活を送りました。

この敵国での人質生活は、アンリ2世の心に大きな傷を残したと言われています。

1559年6月30日午後、フランス王アンリ2世の事故

男勝りで遣り手のルイーズも、人質となっている孫たちに対してはさすがに不憫に思ったようですが、

 しかしいかに男勝りとはいえ、ルイーズもやはり女性である。三年前に息子がマドリッドの牢獄に収監されたと聞いた時には胸を痛めたが、いま気がかりなのはフランソワの身代わりとなってスペインに留置されている二人の孫のことである。目の中に入れても痛くない、かわいい盛りの愛孫たちが、けなげにも、

「行ってまいります」

と別れの挨拶をしに来た時のことをまぶたに思い浮かべると、しっかり者の祖母もつい目頭が熱くなるのを禁じえない。息子の場合とは違って、何の罪もないのに異国で不自由な生活を強いられているのかと思うと、この豪胆な母后にも人並みに憐憫の情がそくそくとして湧き起こってくる。

 ちょうどそこへ、幼友達のマルガレーテから、

「カールとフランソワを仲直りさせてはどうでしょうか」

という申し出があった。ルイーズにとっては、願ったりかなったりだった。

江村洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房. p.115.

ルイーズの元へ、幼い頃共に学び、共に遊んだ幼馴染みのマルグリット・ドートリッシュから、和平の申し出がありました。

マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵
マルグリット・ドートリッシュ(1480年1月10日ー1530年12月1日) 1518年 ベルナールト・ファン・オルレイ ブルー美術館蔵

神聖ローマ皇帝カール5世の大叔母で、実弟フィリベルトの未亡人であるマルグリット。

マルグリットの申し出を受けたルイーズは、フランソワ1世とカール5世に代わり、使者を介してマルグリットと協議を重ねます。

そして1529年8月、「貴婦人の和」(「貴婦人の和約」、「カンブレーの和約」ともいわれます)締結に至りました。

『貴婦人の和約』 1871年 フランシスコ・ホベール・イー・カサノヴァ  プラド美術館蔵
『貴婦人の和約』 1871年 フランシスコ・ホベール・イー・カサノヴァ  プラド美術館蔵

引用元:『貴婦人の和約』

 この「カンブレの和」は原則的にいえば、先のマドリッド条約の再確認といっても大差ないであろう。しかし皇帝は、あれほど固執していたブルゴーニュ公領(ブザンソンを州都とするフランシュ・コンテ)の宗主権については譲歩することとした。フランス王はイタリアにおける全権益を放棄し、スペインに留置中の二人の王子釈放の代償として二〇〇万ターラーを支払うことが定められた。

江村洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房.

1530年、王子たちの人質生活が終わり、和平の一環として、カール5世の姉でポルトガル王未亡人エレオノールと、妃クロードと死別していたフランソワ1世が結婚します。

レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵
レオノール・デ・アウストリア(エレオノール・ドートリッシュ)(1498年11月15日-1558年2月25日) ヨース・ファン・クレーフェ 1530年以降? 美術史美術館蔵

引用元:レオノール・デ・アウストリア

マルグリット・ドートリッシュは1530年12月1日に亡くなり、ルイーズ・ド・サヴォワは1531年9月22日に亡くなりました。

ルイーズ・ド・サヴォワ 16世紀 画家不詳 フランス国立図書館蔵
ルイーズ・ド・サヴォワ 16世紀 画家不詳 フランス国立図書館蔵

引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ

アングレーム伯爵夫人ルイーズ・ド・サヴォワ 1505年頃 メトロポリタン美術館蔵
アングレーム伯爵夫人ルイーズ・ド・サヴォワ 1505年頃 メトロポリタン美術館蔵

引用元:アングレーム伯爵夫人ルイーズ・ド・サヴォワ

メトロポリタン美術館:Louise of Savoy, Countess of Angoulême (1476–ca. 1531)

ルイーズ・ド・サヴォワ像(リュクサンブール公園) オーギュスト・クレサンジェ
ルイーズ・ド・サヴォワ像(リュクサンブール公園) オーギュスト・クレサンジェ

引用元: ルイーズ・ド・サヴォワ像

ネーデルラント17州総督マルグリット・ドートリッシュ

1559年6月30日午後、フランス王アンリ2世の事故

フランソワ・クルーエの肖像画で見る1500年代後半のフランス宮廷

主な参考文献
  • 桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館.
  • 佐藤賢一(著). 2014. 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』. 講談社現代新書. 講談社.
  • 渡辺一夫(著). 1970.『渡辺一夫著作集 3 ルネサンス雑考 上巻』. 筑摩書房.
  • 江村洋(著). 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房.
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