ヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』のヒロインのモデル、フランス王女、エリザベート・ド・ヴァロワ。そのエリザベートの肖像画を中心に。
エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de France または Élisabeth de Valois, 1545年4月2日-1568年10月3日)
1545年4月2日、王女エリザベートは、フランス国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘としてフォンテーヌブロー城で生まれました。
1559年にスペイン国王フェリペ2世と結婚しふたりの娘に恵まれますが、23歳という若さで産褥死しました。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
プラド美術館:La reina Isabel de Valois
引用元:アンリ2世
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
ヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』あらすじ
原作はフリードリヒ・フォン・シラーの『ドン・カルロス』(1787年)、ヴェルディのオペラの初演は1867年3月です。
舞台は16世紀のスペイン。
王子ドン・カルロは、フランスの王女エリザベッタと婚約していました。
しかし、スペインとフランスとの講和の一環で、王女エリザベッタはドン・カルロの父・フィリッポ2世と結婚することになってしまいます。
絶望するカルロ。
彼女を諦めることなんて、できない。
カルロは親友のロドリーゴに切ない恋情を打ち明けますが、ロドリーゴはその情熱を宗教問題で弾圧されているフランドルを救うことに向けるように言います。
その頃、王妃となったエリザベッタと息子カルロの仲を疑う国王フィリッポ2世は、ふたりに監視を付けることにします。
美しい宮廷女官エボリ公女もまたカルロを愛していました。
公女が出した恋文を、エリザベッタからのものだと勘違いしたカルロ。
密会の場所に現れたエボリ公女はカルロの本当の想いを知り、激しい嫉妬に駆られます。
苦悩するカルロは、宗教裁判所で火刑を宣告された異教徒の処刑の場で、父王にフランドルを賜りたいと願い出ます。
しかし、父王はこれを拒絶。激昂したカルロは剣を抜いてしまいます。
それを押しとどめるロドリーゴ。
フィリッポ2世は彼の勇気と忠誠に感動し、公爵位を授けます。
息子に裏切られ、妃から一度も愛されたことがない王。
大審問官は、進歩的な理想主義を掲げ、フランドルに肩入れするロドリーゴこそ、本当の異端者だとして処刑せよと要求します。
一方、嫉妬によってカルロに仕返しを企むエボリ公女は、カルロの肖像画を忍ばせているエリザベッタの宝石箱を盗み出し、王に渡してしまいます。
カルロの肖像画を突き付けられ、失神するエリザベッタ。
後悔したエボリ公女は、王妃に罪を告白します。
国王との不倫も明らかになり、王妃から修道院に行くように命じられました。
カルロは投獄され、そこへロドリーゴが忍んできます。
彼は反逆の罪をかぶり、国王の刺客に討たれました。
カルロは悲しみ、国王は後悔します。
そこへエボリ公女が扇動した群衆がなだれ込み、公女はどさくさに紛れ、カルロを逃がしました。
カルロはフランドル行きを決意し、エリザベッタに別れを告げます。
国王と宗教裁判長が現れてふたりを捕らえようとしますが、そこへ国王の父カルロ5世の亡霊が現れ、カルロを連れ去ります。
※参考:『ドン・カルロ』~『オペラ・ギャラリー50 改訂版』 Gakken
この登場人物、フィリッポ2世がフェリペ2世、王妃エリザベッタがエリザベート・ド・ヴァロワ、ドン・カルロがドン・カルロス・デ・アウストリア、カルロ5世がカール5世です。
エリザベート・ド・ヴァロワの肖像画
フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス( Juan Pantoja de La Cruz, 1553年-1608年)
スペインの宮廷画家・フアン・パントーハ・デ・ラ・クルスによる、気品あるエリザベート。
「イサベル・デ・バロイス」は「エリザベート・ド・ヴァロワ」のスペイン語読みです。
この美しい肖像画の制作年代は「1605年」とありますので、彼女が亡くなってから描かれた、または、完成したようです。
オリジナルはソフォニスバ・アングイッソラ ( Sofonisba Anguissola, 1532年-1625年)によるもの。
贅沢に宝石が縫い付けられた黒い衣裳に、真珠のネックレス。首周りにはラフと呼ばれる飾りがあります。
In this three-quarter portrait Queen Isabel de Valois (1546-1568) wears a black velvet gown with round sleeves from which her slashed red silk undersleeves embroidered with gold and silver thread peep out. On her head is a tilted flat cap which, like the buttons adorning the gown, is decorated with diamonds and rubies. The French queen would have dressed in this manner for solemn events, embellishing her outfit with jewellery such as the necklace, belt, and double string of pearls depicted here. Her complex hairstyle is interwoven with pearls and from one side hangs a pendant consisting of a diamond, a ruby, and a pearl. This piece of jewellery would be inherited by her daughter Isabella Clara Eugenia, who also had her portrait painted wearing it. As was very common practice in the sixteenth century, the underside of the diamonds is dyed black. Protruding from the collar of her dress is a ruff sewn with small, flat gold beads, which she sports in other portraits. The gown is adorned with red ribbons with gold aiglets set with small Indian rubies and pearls, which are described in her inventory.
https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/queen-elisabeth-of-valois/4bf43b3b-a3cf-44ef-aaf8-928b4ca51e0b
プラド美術館:La reina Isabel de Valois
(Google翻訳:この 4 分の 3 の肖像画では、イザベル ド ヴァロワ王妃 (1546 ~ 1568 年) が丸い袖の黒いベルベットのドレスを着ており、そこから金銀糸で刺繍された赤い絹の袖の下が切り取られて覗いています。彼女の頭には傾いた平らな帽子がかぶっており、ガウンを飾るボタンと同じように、ダイヤモンドとルビーで装飾されています。フランス王妃は、厳粛な行事の際にはこのような服装をし、ここに描かれているネックレス、ベルト、真珠の二重連などの宝石で衣装を飾ったでしょう。彼女の複雑なヘアスタイルには真珠が織り込まれており、片側からはダイヤモンド、ルビー、真珠で構成されたペンダントがぶら下がっています。このジュエリーは娘のイザベラ クララ ユージニアに受け継がれ、彼女はそれを身に着けて肖像画も描かれました。 16 世紀には非常に一般的であったように、ダイヤモンドの下側は黒く染められています。彼女のドレスの襟からは、小さな平らな金のビーズが縫い付けられたひだ飾りが突き出ており、彼女は他の肖像画でもそれを披露しています。ドレスは赤いリボンで飾られており、金色のアイグレットにはインド産の小さなルビーと真珠がセットされており、これらは彼女の目録に記載されています。)
下は同じ画家による、エリザベートの娘イサベル・クララ・エウヘニアです。
プラド美術館:La infanta Isabel Clara Eugenia
首元のラフが大きくなっています。
ソフォニスバ・アングイッソラ ( Sofonisba Anguissola, 1532年-1625年)
ルネサンス期のイタリアの女性画家、ソフォニスバ・アングイッソラの作品です。姓はAnguisciolaとも綴られ、「アンギッソラ」と表記することもあります。
ミケランジェロの助手をしていたこともあるアングイッソラは、やがてスペイン王フェリペ2世の宮廷に画家として仕えるようになりました。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
美術史美術館:Isabel von Valois (1545-1568)
こちらの肖像画もエリザベートが亡くなった後のものですね。
下はアングイッソラが描いたフェリペ2世( Felipe II, 1527年5月21日-1598年9月13日)、エリザベートの夫です。
引用元:フェリペ2世
画家アングイッソラが初めて結婚したのは30代後半。
当時の女性としてはかなり晩婚ですが、彼女に夫となる人物を紹介したのは、エリザベート亡き後の彼女の将来を案じたフェリペ2世でした。
生前、エリザベートはアングイッソラに大きな信頼を寄せていたと言います。
アングイッソラはエリザベートに絵を教え、絵を描くことはエリザベートの大事な趣味になりました。
この1599年頃の肖像画からは、アングイッソラのエリザベートに対する敬愛がにじみ出ているように思えます。
引用元:フェリペ2世の肖像画を持つエリザベート・ド・ヴァロワ
プラド美術館蔵:Isabel de Valois sosteniendo un retrato de Felipe II
フランソワ・クルーエ( François Clouet, 1510年頃-1572年12月22日)
フランス、トゥール出身の画家、フランソワ・クルーエは王家(ヴァロワ家)の人々の肖像画、ミニアチュール(細密肖像画)を手掛けました。
父ジャン・クルーエも画家で、フランソワ1世の肖像画が有名です。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ Sailko CC-BY-3.0
この作品が描かれたのは、エリザベートが14歳、1559年のカトー・カンブレジ条約に基づくフェリペと結婚の頃です。
Painted around the time of her marriage to King Philip II of Spain, this portrait of Elizabeth of Valois, daughter of King Henri II of France, captures not only her noble bearing and splendid costume, but also a hint of a lively personality. Fourteen at the time of her wedding, Elizabeth (1545-1568) was the third wife of 33-year-old Philip (ruled 1556-1598). Their marriage in 1559 was part of peace negotiations ending 60 years of war between France and Spain.
http://emuseum.toledomuseum.org/objects/55150
(Google翻訳:スペイン国王フェリペ 2 世との結婚の頃に描かれた、フランス国王アンリ 2 世の娘、ヴァロワのエリザベートのこの肖像画には、彼女の高貴な立ち振る舞いや華麗な衣装だけでなく、王女の雰囲気も捉えられています。活発な性格。結婚式当時14歳だったエリザベス(1545年~1568年)は、33歳のフィリップ(在位1556年~1598年)の3番目の妻であった。 1559 年の彼らの結婚は、フランスとスペインの間の 60 年にわたる戦争に終止符を打つ和平交渉の一環でした。)
こちらはフランス国立図書館の収蔵品、フランソワ・クルーエによるエリザベート・ド・ヴァロワの肖像画です
ルーヴル美術館:François 1er (1494-1547), roi de France.
フランソワ1世はエリザベートの父方の祖父にあたります。
アントニス・モル(アントニオ・モロ)( Antonis Mor, または Antonio Moro, 1520年-1578年頃)
アントニス・モル(アントニオ・モロ)は、オランダ出身の肖像画家。
神聖ローマ皇帝カール5世、皇帝の娘マリア・フォン・シュパーニエン(スペイン名マリア・デ・アブスブルゴ。フェリペ2世の妹)とも縁があり、ポルトガル王妃カタリナの肖像画も手掛けています。
引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ
ポルトガル王妃カタリナ・デ・アウストリアはカスティーリャの狂女王フアナの娘で、神聖ローマ皇帝カール5世の妹です。
引用元:ポルトガル王妃カタリナ
プラド美術館:La reina Catalina de Austria
下は、イングランド王ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘、メアリー1世。
引用元:メアリー1世
プラド美術館:María Tudor, reina de Inglaterra
母キャサリンはカスティーリャ女王フアナの妹。フアナの子供たちであるカール5世、カタリナ・デ・アウストリアとはいとこにあたります。
メアリーが手にしているのはイングランド王家の象徴の薔薇。
メアリーはスペイン王フェリペ2世の二番目の妻でした。
プラド美術館の解説に、「首にはフェリペ王子から贈られた宝石が掛けられている」とありました。
メアリーの胸元の真珠は、フェリペから贈られた「ラ・ベレグリーナ」と言われていましたが、今は「違う」説有力?
「ドン・カルロ」のモデル、ドン・カルロス・デ・アウストリア( Don Carlos de Austria, 1545年7月8日-1568年7月24日)
引用元:ドン・カルロス・デ・アウストリア
プラド美術館の解説に、「この作品は、王子の顔と体を理想化していますが、実際には、おそらく両親の血族のせいで、重度の身体的および精神的障害を持って生まれました。キャラクターの服装、ボヘミアン (オオヤマネコの皮で裏打ちされたマント) と黄色のダブレット、そして彼の正面のポーズの両方が、これらの特徴を隠すのに役立ちます。(Google翻訳)」とあります。
ドン・カルロス・デ・アウストリアは、スペイン王フェリペ2世と、フェリペのいとこで最初の妻ポルトガル王女マリア・マヌエラの子どもです。
母マリア・マヌエラはドン・カルロス誕生から数日後、産褥で亡くなりました。
端正な顔立ちに高価そうな衣裳の王子様ですが、美術史美術館のドン・カルロス像は少し印象が異なります。
引用元:ドン・カルロス
美術史美術館:Infant Don Carlos (1545-1568)
このドン・カルロスの肖像画は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世のウィーン宮廷へ贈られたものです。
ドン・カルロスとマクシミリアン2世の娘アンナとの結婚が予定されていたためですが、この結婚は実現しませんでした。
美術史美術館の解説には「文学(F. シラー)やオペラ(G. ヴェルディ)における英雄的なイメージに反して、カルロスは精神を病み、身体障害者でした。スペインの宮廷の肖像画は、現実の集中的な観察と、王子の威厳と威厳の印象を伝えることを目的とした、よそよそしい態度を組み合わせています。(Google翻訳)」とあり、ここでも王子の精神的・身体的な障害について言及があります。
両親から受け継いだ濃縮された血が、ドン・カルロスに影響を与えたのです。
血縁同士の結婚
ドン・カルロスの母 マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(1527年10月15日-1545年7月12日)
マリア・マヌエラの両親は、 ポルトガル王ジョアン3世と王妃カタリナです。
プラド美術館:María Manuela de Portugal
マリア・マヌエラが手にしているのは、劇場で使用される「日本型の扇」とのこと。ステータスシンボルですね。
マリア・マヌエラの両親(ポルトガル王ジョアン3世、王妃カタリナ夫妻)はいとこ同士です。
ジョアン3世の母親はカトリック両王の三女マリア、カタリナの母親はカトリック両王の次女で「狂女王」フアナです。
引用元:ポルトガル王ジョアン3世
ドン・カルロスの父 フェリペ2世(1527年5月21日-1598年9月13日)
引用元:フェリペ2世
大帝国スペインの国王フェリペ2世。1580年にポルトガルの王位継承者が絶えたため、ポルトガル王も継承しています。
最初の妻マリア・マヌエラと死別した後、父の意向で、やはり親戚であるイングランド女王メアリー1世と結婚します。
そのメアリー1世も死去し、カトー・カンブレジ条約の一環でエリザベート・ド・ヴァロワを三番目の妻に迎えました。
王位とともに莫大な借金も受け継いだフェリペ2世は、即位の翌年に最初の「バンカロータ(破産宣告)」をしています。
フェリペ2世の両親 神聖ローマ皇帝カール5世とイサベル・デ・ポルトゥガル
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
プラド美術館:La emperatriz Isabel de Portugal
父カールは「狂女王」フアナの長男。マリア・マヌエラの母・カタリナの兄です。
母イサベルは、マリア・マヌエラの父・ポルトガル王ジョアン3世の妹。
ジョアン3世とカタリナ夫妻同様、カールとイサベルもいとこ同士です。
1559年 カトー・カンブレジ条約( Traités du Cateau-Cambrésis )
かつてイタリアの地を巡り、フランス国王フランソワ1世と、神聖ローマ皇帝カール5世が戦いました。
国王フランソワ1世がスペイン側に捕らわれ、幼い王子だったアンリ2世が、父の代わりにスペイン側の人質となったこともあります。
1557年、サン・カンタンの戦いで、フェリペ2世がアンリ2世に勝利。スペイン側が優位に立ちます。
1559年、これまで幾度も干戈を交えてきたフランスとスペインが講和条約を結びます。
両国の結び付きのため、スペイン国王フェリペ2世とアンリ2世の娘エリザベートとが結婚。「カトー・カンブレジ条約」が実現しました。
エリザベートは最初、イングランド王エドワード6世と婚約していました。
イングランドから届いたエドワードの肖像画に、エリザベートはその前を通るたびに「おはようございます。イングランドの王様。私の王子様」と挨拶をしていたそうです。
しかし、エドワードは1553年に15歳で病死。
引用元:エドワード6世
次にエリザベートが婚約したのは、スペイン王フェリペ2世の王子カルロスでした。
ところが、フェリペ自身が、18歳も年の離れたエリザベートと結婚したのです。
フランス側はスペインに、王女エリザベートとドン・カルロスの縁組を提案しますが、当初フェリペはこれに同意しようとしませんでした。
ドン・カルロスは性格・精神面では凶暴で不安定、身体的には、頭が大きく左右の足の長さが違うなどの障害があったのです。
ロレーヌ公妃「デンマークのクリスティーナ」(狂女王フアナの孫)は、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスに、エリザベートをドン・カルロスの父であるフェリペ2世に嫁がせることを提案。
フェリペの妻でイングラド女王、メアリー1世は既に亡くなっており、カトリーヌ・ド・メディシスはこれに賛成します。
オペラとは異なり、結婚後のフェリペとエリザベートの夫婦仲は良好。虚弱で情緒不安定だったカルロスは、最期は牢死しています。
フェリペ2世(フィリップ2世)は、
この王は血も涙もない暴君であり、ネーデルラント人を不当に圧迫し、実子ドン・カルロスを暗殺した、といったことが、あたかもこの目で見てきた事実かのように流布されてきた。
だがこれは、全くの誹謗である。その出所はおそらくシラーの戯曲『ドン・カルロス』であり、またこれを題材としたヴェルディの同名の戯曲であろう。この両作品によってフィリップ像はひどく歪曲されてしまった。しかしスペインの黄金時代を築いた彼には、きわめて誠実で心やさしく、人間的な暖かみが多分にある。シラーの戯曲のような偏見に満ちた創作ではなく、もっと地道なフィリップ伝(たとえばプァンドルの伝記)を閲すれば、これはたちまち明らかになる。ここではフィリップ二世のために冤をそそいでおかねばならない。
江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社. p.128.
威厳たっぷりに描かれた肖像画やオペラの印象と、実際のフェリペとは違っているようですね。
物語として読みたい方におすすめ
スペイン領「ネーデルラント」総督
ネーデルラントとは「ほぼ今日のオランダとベルギーを合わせた領域」(『ハプスブルク家』 講談社新書)のこと。
1507年、父・神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の命により、皇女マルグリット・ドートリッシュがネーデルラント総督に就任します。
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
若くして二度も夫と死別したマルグリットはその後再婚はせず、兄フェリペ美公とカスティーリャ女王フアナ(狂女王フアナ)の子どもたちを養育します。
父マクシミリアン1世の崩御で行われた皇帝選挙では選挙参謀を務め、甥カール(神聖ローマ皇帝カール5世)の当選を後押ししました。
マルグリットが亡くなった後、マルグリットの姪マリア・フォン・エスターライヒ(カール5世の妹)が就任します。
ハンガリーとボヘミアの王妃マリア・フォン・エスターライヒは、兄姉と共にマルグリットに育てられました。
引用元:マリア・フォン・エスターライヒ
メトロポリタン美術館:Mary (1505–1558), Queen of Hungary
※マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche )は、ドイツ語読みでは「マルガレーテ・フォン・エスターライヒ( Margarete von Österreich )」といいます。
「 d’Autriche → de Autriche 」は「オーストリア出身の」の意味で、「 von Österreich 」と同じ意味です。
「 Österreich 」は「エスターライヒ」と発音し、「オーストリア」の意味です。
エリザベートとフェリペ2世の間の娘たち
政略結婚ではありましたが、フェリペ2世は妻エリザベートを大事にしていたそうです。
贅沢を好むエリザベートの希望に合わせて、宮廷は華やかに、フランス風になっていきました。
エリザベートの兄弟であるシャルル9世が王となり、全国巡行を行った時、国境近くでエリザベートと母カトリーヌ・ド・メディシスは再会します。
最初の妊娠以来流産を繰り返す娘エリザベートに、無事に妊娠できるよう怪しげな薬を送り続けたカトリーヌは、同時にスペイン側の情報を入手しようとしました。
その後、エリザベートは無事に女の子を出産。
1567年には次女も誕生しました。
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア(1566年8月12日-1633年12月1日)
美術史美術館:Infantin Isabella Klara Eugenia (1566-1633), Gemahlin von Albrecht VII.
プラド美術館:La infanta Isabel Clara Eugenia y Magdalena Ruiz
イサベル・クララ・エウヘニアの誕生を、フェリペは非常に喜んだそうです。
1568年、イサベル・クララ・エウヘニアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の息子ルドルフと婚約します。
ルドルフは1563年からフェリペ2世の宮廷で養育されていました。
引用元:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世
美術史美術館:Kaiser Rudolf II. (1552-1612)
しかし変人ルドルフとの結婚は実現せず、イサベル・クララ・エウヘニアは1599年にルドルフの弟と結婚します。
結婚前イサベル・クララ・エウヘニアは、父の側で通訳を務めていたこともありました。
イサベル・クララ・エウヘニアは、父フェリペからスペイン領ネーデルラントの統治を任され、夫と共に治めました。
いとこで、夫となったアルブレヒト・フォン・エスターライヒです。
美術史美術館:Erzherzog Albrecht VII. (1559-1621)
ルドルフ2世とアルブレヒト7世の両親ですが、父親は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の息子で、フェリペ2世のいとこです。
引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
美術史美術館:Kaiser Maximilian II. (1527-1576) als etwa Vierzigjähriger
引用元:マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(マリア・フォン・シュパーニエン)
美術史美術館:Infantin Maria (1528-1603), Kaiserin, Bildnis in halber Figur
母親はマクシミリアン2世妃マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(マリア・フォン・シュパーニエン)。神聖ローマ皇帝カール5世の娘で、フェリペ2世の妹です。
マクシミリアン2世とマリアはどちらも狂女王フアナの孫に当たります。
カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア(1567年10月10日-1597年11月6日)
引用元:ミカエラ・デ・アウストリア
カタリーナ・ミカエラの輿入れ先はサヴォイア公国。夫カルロ・エマヌエーレ1世の不在時には摂政も務めています。
結婚後も父フェリペ2世とは文通を続けていましたが、出産で亡くなりました。
カルロ・エマヌエーレ1世の母親は、フランス王女マルグリット・ド・フランスです。
マルグリット・ド・フランスの父親はフランス国王フランソワ1世、母親はルイ12世長女クロード・ド・フランス。
エリザベート・ド・ヴァロワの父であるアンリ2世の妹にあたります。
このマルグリット・ド・フランスには、かつて神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世、スペイン王フェリペ2世との縁談もありました。
引用元:マルグリット・ド・フランス
アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公の結婚
1559年のカトー・カンブレジ条約において、二組の男女が政略結婚しました。
フランス国内では、アンリ2世の王女エリザベート・ド・ヴァロワの結婚と、アンリ2世の妹マルグリット王女の婚約を祝う宴が開かれます。
しかし、6月30日、祝賀行事の馬上槍試合でアンリ2世は負傷。この傷が元でアンリ2世は亡くなります。
亡くなる前、この事故がきっかけとなってサヴォイア公国との同盟関係が白紙に戻されることを危惧したアンリ2世は、マルグリットの結婚を急がせました。
1568年10月3日、エリザベートの死
エリザベート・ド・ヴァロワは1568年10月3日、子どもを死産した後亡くなりました。
1570年5月、フェリペ2世は四番目の妃を迎えます。
エリザベートが産んだふたりの娘は後妻のアナに可愛がられて育ちました。
フェリペ2世の四番目の妻・アナ・デ・アウストリア( Ana de Austria, 1549年11月1日-1580年10月26日)
引用元:アナ・デ・アウストリア
美術史美術館:Anna von Österreich, Königin von Spanien (1549-1580)
アナは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘です。
フェリペ2世とマクシミリアン2世はいとこですから、フェリペにとってアナは「いとこの子ども」ですが、アナの実母はフェリペ2世の妹マリア。
ということで、フェリペ2世とアナは実の伯父と姪でもあるのです。
エリザベートが遺したふたりの王女にとってアナは従姉にあたり、イサベル・クララ・エウヘニアにとっては当時の婚約者ルドルフと、後に夫となるアルブレヒトの実姉です。
アナにはドン・カルロスとの縁談もあり、母マリアも娘が母国スペインの王妃になることを夢見ていました。
フェリペ2世とアナが伯父と姪であるため、ローマ教皇ピウス5世は結婚に反対します。
しかし結局は認可され、ふたりは結婚しました。
このアナの産んだ男児がフェリペ3世として、次の国王となるのです。
1580年にアナも病死し、オランダ(ネーデルラント)では独立の気運が高まります。
1581年、ユトレヒト同盟はスペイン王フェリペ2世による統治権を否認。いわゆるオランダ独立宣言でした。
この戦争を正当化するために一五八一年にオランイェ公ウィレムが著した冊子は、スペインを攻撃する「黒い伝説」のもとになった。フェリーペは息子ドン・カルロスの暗殺者で妻イサベル・デ・ヴァロワの毒殺者であり、国王を含めてスペイン人は狂信的であり、さらに新大陸先住民の虐殺者であるという非難が、その後何世紀もスペインにあびせられることになる。
立石博高(編). 2000-6. 『スペイン・ポルトガル史 上』. 山川出版社.
神聖ローマ皇帝カール5世が存命中は仲が良かったというウィレムとフェリペ2世。
引用元:ウィレム1世
フェリペがドン・カルロスとエリザベートを「毒殺」?
冷たいとも取れる、威厳ある肖像画のせいもあるのかと思うのですが、オペラといい、イメージって大事ですね…。
若くして亡くなったエリザベート、娘たちの肖像画からは、毒殺や暗殺といった不穏な事件や不幸な陰は見えませんけどね。
- 江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社.
- 『オペラ・ギャラリー50 改訂版』. Gakken
- 川成洋(著). 宮本雅弘(写真). 『図説 スペインの歴史』. 河出書房新社.
- 立石博高(編). 2000-6. 『スペイン・ポルトガル史 上』. 山川出版社.
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