スペイン王家の人びとの肖像画で知られる画家アントニス・モル。パルマ公妃マルゲリータの人生とともに彼の筆による肖像画を見て行きます。
パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア( Margherita d’Austria, 1522年7月5日-1586年1月18日)
神聖ローマ皇帝カール5世の庶子、マルゲリータ・ダウストリア(またはマルゲリータ・ダズブルゴ、マルガリータ・デ・アウストリア)です。
カール5世と没落した貴族の娘との「ひとときの恋」によって生まれたマルゲリータは、父方の大叔母マルグリット・ドートリッシュ、父の妹マリアのもと、ブリュッセルで養育されます。
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
引用元:マルグリット・ドートリッシュ
引用元:マリア・フォン・エスターライヒ
1529年、カール5世はマルゲリータを認知。
マルゲリータは1532年にイタリアに移り、1536年、フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチと結婚します。
フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチ(1510年7月22日-1537年1月6日)
アレッサンドロ・デ・メディチの肖像( Portrait of Alessandro de’ Medi ) 1535年12月以前 ヤコポ・ダ・ポントルモ フィラデルフィア美術館蔵
フィラデルフィア美術館:Portrait of Alessandro de’ Medici
ローマ教皇クレメンス7世の庶子、アレッサンドロ・デ・メディチは、その肌の色から「イル・モーロ( il Moro、 ムーア人)」と呼ばれました。
教皇クレメンス7世はメディチ家出身で、本名をジュリオ・デ・メディチといいます。
引用元:ローマ教皇クレメンス7世
1523年、フィレンツェを統治していたジュリオ枢機卿が、クレメンス7世として教皇に選出。
クレメンス7世はあとをふたりの10代前半の少年・アレッサンドロとイッポーリト、補佐役パッセリ―二に託し、ローマから間接的に統治します。
イッポーリトはジュリアーノ・デ・メディチの庶子として生まれ、親戚であるローマ教皇レオ10世、ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)によって養育されました。
パッセリ―二はロレンツォ・デ・メディチの宮廷で育ち、ロレンツォの息子ジョヴァンニ(ローマ教皇教皇レオ10世)と親しく交流しています。
引用元:イッポーリト・デ・メディチ
引用元:シルヴィオ・パッセリーニ
クレメンス7世は最初、レオ10世に倣い、神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結びます。
その頃、フランス王フランソワ1世がイタリア進出に野心を抱いていました。
しかし、フランソワ1世は「パヴィアの戦い」でカール5世の皇帝軍に敗れ、王自身が捕虜になってしまいます。
その知らせに危機感を抱いたクレメンス7世。
カール5世の勢力がイタリア全土に及ぶことを恐れ、クレメンス7世は、解放されたフランソワ1世と反皇帝同盟を結びました。
引用元:フランソワ1世
1527年5月、ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ Sacco di Roma )
コニャック同盟戦争(1526年~1530年)のさなか、1527年5月、後に「サッコ・ディ・ローマ Sacco di Roma 」(ローマ劫掠(ローマごうりゃく))(ローマ略奪)と呼ばれる大きな事件が起きます。
1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍が衝突。
クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃亡し、教皇軍は敗北しました。
しかし皇帝軍の指揮官ブルボン公シャルル3世が戦死したことにより、参戦していた兵士たちは統制を失い、破壊、殺戮、略奪、強姦とあらゆる非道を繰り返します。
美しかったローマの街は荒廃してしまいました。
〈ローマ劫掠〉の報が届くと、フィレンツェの反メディチ派は蜂起し、イッポーリトとアレッサンドロ、それに枢機卿を追放して、再び市政府長官を元首とする共和制が打ち立てられた。若い君主は二人とも傲慢な性格で市民から嫌われ、よそ者のパッセリ―二枢機卿も陰険で貪欲な人物として恨まれていたのに加え、ローマから課される重税のため、フィレンツェではメディチ家に対する反感が強くなっていたのである。
中嶋浩郎(著). 2000-4-20. 『図説 メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」. 河出書房新社. p.82.
1529年6月、教皇クレメンス7世と皇帝カール5世との間に和平が成立。
メディチ家のフィレンツェへの帰還にあたり、クレメンス7世は慎重に事を進めて行きます。
ヴェッキオ宮殿博物館所蔵のこの作品の解説に、「教皇クレメンス7世と皇帝カール5世の会談は、サン・ペトロニオでの戴冠式前の1529年から1530年にかけて行われた」とあります。
1532年、アレッサンドロがフィレンツェ公に
クレメンス7世はアレッサンドロをフィレンツェに戻し、アレッサンドロは1532年にカール5世からフィレンツェ公の称号を受けます。
クレメンス7世は、アレッサンドロと、カール5世の庶子マルゲリータとの縁談を進めて行きました。
引用元:マルゲリータ・ダウストリア( Portrait of female )
同じ頃、もうひとつの縁談が計画されていました。
両親を失い孤児となっていた一族の娘カテリーナ(当時14歳)と、フランソワ1世の王子アンリ・ド・ヴァロワ(当時14歳、後のアンリ2世)の婚姻です。
以前はアレッサンドロとともにフィレンツェの統治者だったイッポーリトを枢機卿に取り立てたのは、自分の息子であるアレッサンドロを優遇したためであるが、カテリーナと引き離すためでもあったといわれている(カテリーナはハンサムな父の従弟のイッポーリトに惹かれていた)。この結婚には皇帝の許可が必要だったが、教皇は巧みな工作によってそれをとりつけ、一五三三年十月、マルセイユに自ら赴いて式を執り行った。
中嶋浩郎(著). 2000-4-20. 『図説 メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」. 河出書房新社. p.83.
カテリーナ・デ・メディチ、フランス名カトリーヌ・ド・メディシスはアンリ2世亡き後、王位に就いた息子たちの母后として権力を掌握。
輿入れの際、テーブルマナーやお菓子など、洗練されたイタリア文化をフランスに持ち込んだことでも有名です。
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
引用元:アンリ2世
1537年1月6日、アレッサンドロ暗殺
1532年、10歳のマルゲリータはイタリアに移り、そこで元ナポリ総督の未亡人によって養育されました。
1533年には、父カール5世によってペンネ、カンブリ、オルトーナ、レオネッサ、チッタドゥカーレ、モンテレアーレといったイタリア内の領地を贈られています。
フィレンツェ、ローマ、パルマの宮廷で過ごしたマルゲリータはイタリアとイタリア語を好み、後年はイタリアのラクイラ( L’Aquila )に隠居、オルトーナ( Ortona )で亡くなっています。
サリエラなどの金細工で有名なベンヴェヌート・チェッリー二の自伝の中で、下のような記述が出てきます。
チェッリーニは、アレッサンドロの依頼を受けて仕事をしていました。
二日後に、閣下から求められていた、ちょっとした数枚の下図を持参した。公爵が当時はまだナーポリにいた妃への贈りものにする金細工のためであった。私は改めて、まえと同じ私の要望を申しあげ、早く善処してくださるように頼んだ。すると閣下は、私が以前にクレメンテ法王のためにつくったものに遜色のない、彼の肖像の鋳型をつくるのが先決であると言った。
古賀弘人(訳). 2001-7-16. 『チェッリーニ自伝 フィレンツェ彫金師一代記(上)』. 岩波文庫. p.261.
ナポリにいた妃が「マルゲリータ」ですね。
引用元:自画像
マルゲリータとアレッサンドロは1536年6月13日にフィレンツェで挙式しましたが、マルゲリータにとってこの結婚は幸せなものではありませんでした。
クレメンス7世の死後、アレッサンドロは暴君の顔を隠さなくなります。
ロレンザッチョ(ロレンツィーノ・デ・メディチ)という男と組み、夜ごと酒を飲んでは女を買うなど、放埓な生活をしていました。
1537年1月5日の夜、アレッサンドロはロレンザッチョの屋敷で刺殺されます。
アレッサンドロとの間に子どもが無いまま、マルゲリータは14歳で未亡人となってしまいました。
引用元:『ロレンザッチョ』
コジモ1世による求婚
アレッサンドロの死後、18歳の若者コジモ1世がフィレンツェ公となります。
コジモは未亡人となったマルゲリータに求婚しますが、父のカール5世はこの申し込みを拒絶しました。
引用元:コジモ・デ・メディチ
神聖ローマ帝国ハプスブルク家の支援を受け、フィレンツェ公国は中央集権体制を確立していきます。
オッターヴィオ・ファルネーゼとの再婚
第2代パルマ公及びピアチェンツァ公オッターヴィオ・ファルネーゼ( Ottavio Farnese, 1524年10月9日-1586年9月18日)
引用元:オッターヴィオ・ファルネーゼ
オッターヴィオ・ファルネーゼは、初代パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼの次男としてヴァレンターノで生まれました。
引用元:ピエール・ルイージ・ファルネーゼ
オッタ―ヴィオの祖父は教皇パウルス3世。兄弟にはアレッサンドロ、ラヌッチョらがいます。豪華な顔ぶれですねえ…ティツィアーノの素晴らしい肖像画に目が眩みそうです。
引用元:教皇パウルス3世
引用元:ラヌッチョ・ファルネーゼ
引用元:『若い英国人の肖像』
引用元:『パウロ3世と甥たち』
ファルネーゼ家の依頼で制作された、孫たち(アレッサンドロ、オッターヴィオ)と教皇パウルス3世。
パウルス3世は、1538年にオッターヴィオをカメリーノ大公 ( Duke of Camerino ) に任命。
オッターヴィオは、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の間の休戦に際し、教皇に同行してニースを訪れます。
1538年11月4日、パウルス3世らの取り持ちで、オッターヴィオ(当時14歳)はマルゲリータ(当時16歳)と結婚。
パウルス3世立会いのもと、式はシスティーナ礼拝堂で行われました。
父カールからの領地と亡父アレッサンドロから受け継いだ領地が有り、フィレンツェ公夫人の称号を持つ若き未亡人マルゲリータ。
マルゲリータはメディチ家の華やかな宮廷が忘れられませんでした。
マルゲリータは当初、繊細さや理解力に欠けた年下の花婿を嫌い、未亡人の黒服を着てローマに現れたそうです。
国家間の事情でやむなく同意したとは言え、この押し付けられた結婚がマルゲリータにとって気に入らないものであることを示したのです。
しかし1541年、カール5世のアルジェ遠征に参加したオッターヴィオが負傷して帰還すると、状況は変化します。
マルゲリータの嫌悪は愛情に変わり、1545年、マルゲリータは双子を出産しました。
1544年秋、家族との再会
1544年9月、カール5世とフランソワ1世の間に「クレヴィの和約」が締結されます。
和睦のお祝いに、カールの姉でフランソワ1世妃エレオノーレが帰郷。
引用元:レオノール・デ・アウストリア
エレオノーレとカールの妹でネーデルラント総督のマリアがもてなし役を務めます。
きょうだいのひとりローマ王フェルディナントに代わり、フェルディナントの息子たちマクシミリアンとフェルディナントが、大伯父や大伯母たちに挨拶。
引用元:マクシミリアン2世
マルゲリータと夫オッタ―ヴィオも駆けつけ、久しぶりに顔を合わせたハプスブルクの一族は楽しい時を過ごしました。
1545年8月27日、アレッサンドロ誕生
第3代パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ( Alessandro Farnese, 1545年8月27日-1592年12月3日)
引用元:アレッサンドロ・ファルネーゼ
1545年、アレッサンドロは双子としてローマで生まれましたが、兄弟のカルロは間もなく亡くなります。
1550年、マルゲリータは息子アレッサンドロを連れてローマを離れ、パルマに向かいました。
引用元:アレッサンドロ・ファルネーゼ
1545年、カール5世の息子フェリペ(フェリペ2世)にカルロスが、カール5世自身に庶子フアンが誕生します。
引用元:ドン・カルロス・デ・アウストリア
引用元:ドン・フアン・デ・アウストリア
1545年、オッターヴィオは祖父パウルス3世からカストロ公領を受け継ぎ、翌年に義父カール5世から金羊毛騎士団員に選ばれました。
しかし、祖父が期待していたミラノ総督はオッターヴィオではなく、カール5世によってフェランテ1世・ゴンザーガ(イザベラ・デステの息子)が任命されてしまいます。
その結果、ファルネーゼ家とカール5世との関係は冷え込んでしまいました。
1547年9月10日、オッターヴィオの父でパルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼが、ピアチェンツァで殺害されるという事件が起きます。
フェランテ1世・ゴンザーガはパルマ公国を占拠。
オッターヴィオは失地回復に努め、夫を支持するマルゲリータと結束を強めます。
1550年にパルマは返還されましたが、ピアチェンツァは未だ失われたままでした。
そのため、ファルネーゼ家は翌年(1551年)にスペインから離反し、代わりにフランス王アンリ2世に接近、「第6次イタリア戦争」のきっかけを作ってしまいました。
1556年、フェリペ2世がスペイン王として即位します。
パルマ戦争の終わり、カール5世はパルマを放棄しないマルゲリータのことを息子フェリペに託し、フェリペ2世はパルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼとの接近を考えます。
引用元:スペイン王フェリペ2世
1556年、オッターヴィオは妻の異母弟であるフェリペ2世と和睦。ピアチェンツァは返還されます。
1559年のカトー・カンブレジ条約でも確認され、オッターヴィオはスペイン離反時に放棄した金羊毛騎士団も取り戻しました。
しかし、交わされた合意の中には、息子アレッサンドロをスペイン王の後見下に置くというものも含まれていました。
1556年、マルゲリータはアレッサンドロを連れ、フェリペ2世が滞在していたブリュッセルに向かいました。
1559年、フェリペ2世は、スペインの支配に抵抗するネーデルラントの執政に異母姉マルゲリータを任命します。
息子は人質としてスペインに送られ、妻マルゲリータは1559年5月25日にピアチェンツァからネーデルラントに向けて出立。オッターヴィオは家族と離れ離れになってしまいました。
スペイン宮廷で育てられたアレッサンドロは、同い年のドン・フアン(カール5世の庶子。母マルゲリータの異母弟)、ドン・カルロス(母マルゲリータの異母弟でスペイン王であるフェリペ2世の息子。カルロスはアレッサンドロにとって、いとこに当たる)と一緒に大学で学びます。
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