ベラスケスによる肖像画『フアン・デ・パレーハ』『フランチェスコ1世・デステ』

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ベラスケスの絵画は名作ばかりです。その中から、今回は私の好きな『フアン・デ・パレーハ』『フランチェスコ1世・デステ』の肖像画を取り上げました。

『フアン・デ・パレーハ』の肖像( Portrait of Juan Pareja ) 1650年 ディエゴ・ベラスケス メトロポリタン美術館
『フアン・デ・パレーハ』( Juan de Pareja (ca. 1608–1670) ) 1650年 ディエゴ・ベラスケス メトロポリタン美術館
目次

『フアン・デ・パレーハ』( Juan de Pareja (ca. 1608–1670) ) 1650年 ディエゴ・ベラスケス メトロポリタン美術館

印象派の画家・エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだ17世紀スペインの画家、ディエゴ・ベラスケスによる、『フアン・デ・パレーハ』の肖像です。

『フアン・デ・パレーハ』の肖像( Juan de Pareja (ca. 1608–1670) ) 1650年 ディエゴ・ベラスケス メトロポリタン美術館
『フアン・デ・パレーハ』 1650年 ディエゴ・ベラスケス メトロポリタン美術館

引用元:『フアン・デ・パレーハ』

メトロポリタン美術館:フアン・デ・パレーハ(1606–1670年)

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年6月6日(洗礼日)-1660年8月6日)

ディエゴ・ベラスケス自画像 1650年頃 ピウス5世現代美術館蔵
ディエゴ・ベラスケス自画像 1650年頃 ピウス5世現代美術館蔵

引用元:ディエゴ・ベラスケス自画像

1648年11月16日、ベラスケスはパレーハと共に、二回目となるローマへ向かいます。

最初のローマ遊学とは異なり、この時ベラスケスの画家としての名声はローマにも届いていました。

ベラスケスには、スペイン国王フェリペ4世から授けられた、八角堂や鏡の間など改修工事後のアルカーサル内を新た飾る美術品獲得という重要な使命がありました。

1650年。

25年に一度、ローマ・カトリック教会の祝典が催される聖年に沸くローマで、ベラスケスは3月19日、パンテオン名人芸術家協会主宰の絵画展に出品します。

この時の作品が本作、『フアン・デ・パレーハ』の肖像と言われています。

自由な気分に満ちた肖像《フアン・デ・パレーハ》はインノケンティウス一〇世の肖像制作に先だち、そのための練習台として描かれたものとされる。自在なタッチと生けるがごとき自然な存在感は当時から高く評価され、パンテオン内に展覧された折には「他が絵に見えるほど、これだけが真実だ」と絶賛された。

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.178.

ベラスケスは、まずパレーハの絵を描き、本人にその絵を持たせてナヴォーナ広場に立たせました。

実物と肖像画があまりにも一致しているので大評判になり、それが教皇の耳に届いて肖像画が発注されることになったのです。(参考:『不朽の名画を読み解く 見ておきたい西洋名画70選』 ナツメ社.)

この素晴らしい肖像画は、ベラスケスのムーア人奴隷かつ工房の助手であった男性を描いたものです。ローマで描かれたこの作品は、1650年3月にパンテオンで一般公開されました。ベラスケスが自らの優れた才能を、イタリア人の同業者たちに印象付けようとしたことがうかがえます。実際、アントニオ・パロミーノが執筆した彼の伝記でこの作品について、「展示作品のうち他の作品は絵に見えるがこの作品だけは本物の人間に見えると、各国の画家からあまねく高い評価を受けた」としています。この肖像画でベラスケスは、人物の物理的な表現だけでなく、モデルの気高い心を表現しています。

『メトロポリタン美術館ガイド』 メトロポリタン美術館ミュージアム図書 p.262.

メトロポリタン美術館の日本語解説

フアン・デ・パレーハ( Juan de Pareja, 1606年頃-1670年)

『フアン・デ・パレーハ』 1650年 ベラスケス メトロポリタン美術館蔵
『フアン・デ・パレーハ』 ベラスケス

引用元:『フアン・デ・パレーハ』

『聖マタイの召命』( The Calling of Saint Matthew ) 1661年 ファン・デ・パレーハ プラド美術館

『聖マタイの召命』 1661年 ファン・デ・パレーハ プラド美術館蔵
『聖マタイの召命』 1661年 ファン・デ・パレーハ プラド美術館蔵

引用元:『聖マタイの召命』

プラド美術館:La vocación de San Mateo

宗教画『聖マタイの召命』は、後に画家になったパレーハが、師の死後に描いたもの。一番左にいるのがパレーハ本人です。 

  パレーハは一七世紀初頭、アンダルーシアの町アンテケーラに生まれたモリスコで、一六三〇年代初めに顔料やカンヴァスを準備する助手としてベラスケスの工房に参加するが、その身分は奴隷であった。それゆえ、自由学芸として絵画の職は自由人にしか許されていなかったあの時代、パレーハは独立して絵画制作はできなかったのである。しかしこのローマにおいて、一六五〇年一一月二三日、ベラスケスは長年にわたる彼の奉仕への報奨として、公証人の面前で「逃亡せず、犯罪も犯さない」との4年間の執行猶予付きの解放奴隷状を友人でスペイン政府代理使節フアン・デ・コルドバ(一六一〇頃-七〇年)の立ち合いのもとにパレーハに授与している。奴隷の使用が普通であった時代だ。この事実一つをとっても、ベラスケスの高潔な人間性がうかがい知れるだろう。穏やかなパレーハの姿には、一個の人間として自負と誇りがあふれ、弟子への師匠の友愛と共感、画家自らの出自への葛藤があってこそ生まれた名作である。画家としてのパレーハの優れた資質は、師の死の直後に自画像を含めて制作された《聖マタイの召命》(一六六一年、プラド美術館)に存分にうかがうことができる。

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.178.

モリスコ (スペイン語: morisco、ポルトガル語: mourisco)は、イベリア半島でレコンキスタが行われていた時代に、カトリックに改宗したイスラム教徒を指す名称。用語はさらに転換され、秘密裡にイスラム教を信仰した疑いをかけられた人々に適用される軽蔑語となった。秘密裡にユダヤ教を信仰する改宗ユダヤ人(コンベルソ)はマラーノと呼ばれた。(wikipedia モリスコ

ベラスケスは他にも宮廷の矮人や道化師といった人物を描いていますが、この『フアン・デ・パレーハ』もまた素晴らしいと思います。

パレーハの立場は「奴隷」でしたが、同じ人間としての視線で描かれており、そこにはパレーハの誇り、知性、ふたりの間の友情や信頼関係がはっきりと見て取れます。

メトロポリタン美術館ガイド 日本語版

分厚くて重い本ですが、読み応えは充分。読み終わる頃にはなんだかホントに美術館に行った気になれるかも。

表紙はフランスの画家ジェロームの作品。

ベラスケスの作品

『教皇インノケンティウス10世』( Portrait of Innocent X ) 1650年 ディエゴ・ベラスケス  ローマ、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵

『教皇インノケンティウス10世』 1650年 ディエゴ・ベラスケス  ローマ、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵
『教皇インノケンティウス10世』 1650年 ディエゴ・ベラスケス  ローマ、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵

引用元:『教皇インノケンティウス10世』

この絵には自らのサインを残したベラスケス。

教皇は夏用の紅絹のモゼッタ(肩マント)を羽織り、こちらへ視線を向けています。

額からは汗さえ吹き出しそうな表情で、真夏の暑さの盛りの頃に描かれたことを想像させる。その当時の制作風景は八月一三日、モデナの公爵フランチェスコ一世に宛てられた以下の文書から明らかである。

「カトリック陛下の侍従代でとても有名なスペイン人の画家がここで教皇の肖像を準備しております。その知人によりますれば、教皇聖下はまさしく活力にあふれており、この極めて暑い時期に教皇はどうしておられるのか、暑苦しい部屋に閉じこもったまま、どうして暑さが感じられないのか、驚いているというのです。」(ローマ駐在代理人フランチェスコ・グァレンギ)

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.180.

モデナの公爵フランチェスコ1世」の肖像画はこの後登場します。

 画面は醜男で知られたこの猊下の容貌を一瞬にしてとらえており、激しい猜疑心と嫉妬、強い現世欲、また聖務への不撓不屈の情熱など、およそ教皇らしからぬ複雑で屈折したモデルの全人格が余すところなく暴かれている。反面、ボッロミーニな有能な芸術家たちの優れた庇護者であり、感受性豊かな教養人でもあったという肯定的な人物評も残されている。

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.180.

当時、部屋にかけられていたこの絵を、ある側近が本人と見間違えたという話が残っています。

教皇はこの絵の出来に満足し、彫像入りの金メダルをベラスケスに授与したということです。

『貴紳の肖像(フランシスコ・パチェーコ?)』( Caballero, Francisco Pacheco ) 1619年-1622年頃 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵

『貴紳の肖像(フランシスコ・パチェーコ?)』 1619年-1622年頃 ベラスケス プラド美術館蔵
『貴紳の肖像(フランシスコ・パチェーコ?)』 1619年-1622年頃 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵

引用元:『フランシスコ・パチェーコ?』

プラド美術館:Francisco Pacheco

この男性は「フランシスコ・パチェーコ」ではないかと言われています。

17世紀スペインの画家、美術研究家、フランシスコ・パチェーコ・デル・リオ( Francisco Pacheco del Río, 1564年-1644年)はベラスケスの師ですが、ベラスケスはパチェーコの娘フアナと結婚していますので、彼の義父でもあります。

パチェーコの著書『絵画芸術論』(『絵画芸術:その古代性と偉大』)のなかで、彼が1611年に晩年のエル・グレコのアトリエを訪ねた話が出てきます。

その際、12歳の少年だったベラスケスを伴っていたと推測されています。

1623年、フェリペ4世の寵臣オリバーレス伯から旅費の支援を受けたベラスケスは、義父パチェーコと弟子パレーハと共にマドリードを旅行しています。

 このタイプの男性胸像は16世紀後半から17世紀の数十年間、数多く描かれた。エル・グレコやパチェーコの作例にも認められるように、何もない中空の背景に職業や身分を表示する諸要素を無にして人物が表される。多くの場合、黒衣で、必ずひだ襟かカラーを首に付け、貴族や聖職者。有産階級の人物であることが暗示される。こうした肖像はおそらく公的な性格のものではなく、個人かその一族の記念か顕彰、記憶のために描かれたのであろう。

本肖像も、そのモデルがだれであろうと、画家が属した中流有産階級の環境を語ると同時に、後に「顔しか描けない」として嫉妬されるほどの、肖像画家としてのベラスケスの天分を遺憾なく発揮した一作である。

『プラド美術館展』 2002年 国立西洋美術館 p.146.

『フェリペ3世の頭部(習作)』( Philip III, King of Spain ) 1627年 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵

『フェリペ3世』 1627年 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵
『フェリペ3世』 1627年 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵

引用元:フェリペ3世

プラド美術館:Felipe III

美術館に寄贈されたこの絵を調査した結果、ベラスケスの作品で、制作年代は1627年とされました。

この年フェリペ4世は、絵画制作者を決めるコンペを行っています。テーマは、先代のフェリペ3世が20年ほど前に断行した、「モリスコ追放」。コンペで優勝したベラスケスですが、生前のフェリペ3世に謁見したことはありませんでした。そこでベラスケスは、繊細な陰影表現などの実験を重ね、自分のイメージを作り上げていったのです。

『ベラスケスとプラド美術館の名画』 松原典子(監修) 中央公論新社 p.42.

首元の襞飾りについて気になる方は貴婦人の首元に咲く車輪のようなラフの花

『フェリペ4世』( Philip IV in black suit ) 1628年 ディエゴ・ベラスケス

『フェリペ4世』 1628年 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵
『フェリペ4世』 1628年 ディエゴ・ベラスケス プラド美術館蔵

引用元:フェリペ4世

プラド美術館:Felipe IV

肉眼でもわかるとおり、1628年に加筆され、美化されている。描き始めたのは、王の画家に抜擢された直後だろう。王が即位し、ベラスケスが宮廷画家となり、ともに20代で描かれた肖像は、若き日の王の姿と特徴ある容貌を現代に伝えている。

『ベラスケスとプラド美術館の名画』 松原典子(監修) 中央公論新社 p.16.

『名画の読み方』(ダイヤモンド社)によると、「肖像画の決まり事」として、騎馬像で描かれるのは王族や将軍などに限られ、全身像は、基本的に王侯貴族向けのものだということです。

『フラガのフェリペ4世』( Philip IV in Fraga ) 1644年 ディエゴ・ベラスケス フリック・コレクション蔵

『フラガのフェリペ4世』 1644年 ディエゴ・ベラスケス フリックコレクション蔵
『フラガのフェリペ4世』 1644年 ディエゴ・ベラスケス フリック・コレクション蔵

引用元:『フラガのフェリペ4世』

若かりし頃のフェリペ4世の肖像画も本作も、身に着けているものは大変上質なものです。

しかし、王様の肖像画としては若干シンプルだという印象です。

同じ時代のフランス王家のものに比べて「地味」(『名画の読み方』)ですが、これは「ハプスブルク家はヨーロッパ一の名家だから、見せかけの華美な演出など必要ない」と表すため。存在そのものに威厳がある、という考えです。

同時代のフランス王は、ルイ13世と、1643年に即位した「太陽王」ルイ14世です。 

フランス王ルイ13世(1601年-1643年) 1638年 シャルル・ボーブラン 
フランス王ルイ13世(1601年-1643年) 1638年 シャルル・ボーブラン

引用元:ルイ13世

フランス王ルイ14世(1638年-1715年) 1668年 ジャン・ノクレ シャンボール城
フランス王ルイ14世(1638年-1715年) 1668年 ジャン・ノクレ シャンボール城

引用元:ルイ14世

威厳の表現に対する考え方、当時のファッションの流行と、違いはありますが、フェリペ4世がベラスケスにだけ自分を描かせたいと考えたことがよくわかる気がします。

政治的には無能(決断力に欠ける)と言われるフェリペ4世ですが、教養豊かな人物であり、その審美眼が非常に優れたものであったことは歴史が証明しています。

フランスに嫁いだフェリペ4世の姉と娘がチョコレートをフランス宮廷に伝えます17世紀前半スペイン宮廷のチョコラーテ

モデナ及びレッジョ公フランチェスコ1世・デステ(Francesco I d’Este, 1610年9月6日-1658年10月14日)

『モデナ公フランチェスコ1世・デステ』の肖像( Portrait of Duke Francesco I d’Este ) 1638年 ディエゴ・ベラスケス

『フランチェスコ1世・デステ』 1638年 ディエゴ・ベラスケス エステンセ・ギャラリー蔵 
『フランチェスコ1世・デステ』 1638年 ディエゴ・ベラスケス エステンセ・ギャラリー蔵 

引用元:フランチェスコ1世・デステ

甲冑姿の、モデナ及びレッジョ公フランチェスコ1世・デステ。

1648年3月、船でイタリアのジェノヴァに到着したベラスケスは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を鑑賞し、その後はモデナへの道を急ぎます。

モデナ公爵フランチェスコ1世と会い、豊かな絵画コレクションで知られた彼に美術品蒐集への協力を取り付けるためでした。

当時のエステ家の当主、フランチェスコ1世・デステは、アルフォンソ1世・デステの庶子の流れを汲む人物です。

『アルフォンソ1世・デステ』 1530年-1534年 ティツィアーノ バンベルグ財団美術館蔵
『アルフォンソ1世・デステ』 1530年-1534年 ティツィアーノ バンベルグ財団美術館蔵

引用元:アルフォンソ1世・デステ

アルフォンソ1世の2番目の妃はルクレツィア・ボルジア。

また、アルフォンソの姉は美術コレクターとして知られるイザベラ・デステです。

イザベラ・デステ(1474年5月18日-1539年2月13日) 1500年 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
イザベラ・デステ(1474年5月18日-1539年2月13日) 1500年 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

引用元:イザベラ・デステ

ルーヴル美術館:Portrait d’Isabelle d’Este

ベラスケスは一〇年以上前の一六三八年、彼が西仏関係修復の外交使節としてマドリードを訪ねた際に同公爵の肖像を描いており、十分な信頼を勝ち得ていたはずである。

 モデナでの交渉は、ベラスケス自身がその後ローマから書き送ったボローニャ在住の歴史家で外交官ヴィルジリオ・マルヴェッツィ侯爵(一五九五-一六五四年)宛ての書簡(一六四九年一一月二二日)により再現することができよう。

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.175.
ヴィルジリオ・マルヴェッツィ(Virgilio Malvezzi)
ヴィルジリオ・マルヴェッツィ(Virgilio Malvezzi)

引用元:ヴィルジリオ・マルヴェッツィ

同書簡によれば、モデナでは公爵所蔵のすばらしい絵画を見せてもらい、国王陛下のギャラリーのために一点でも譲って欲しいことを伝えたのに対して(特にコレッジョを所望したようだ)、国王に絵画を贈るために必要な寸法を教えて欲しい旨を公爵から告げられたことなどが明かされている。ともあれ、このイタリア遊学ではもっぱら美術品の蒐集に明け暮れる日々を送ることになるだろう。

大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書. p.176.

ベルニーニによる『モデナ公フランチェスコ1世・デステの胸像』

ベラスケスが描いた肖像画はどれも本当に自然で、本物みたいです。

印象的な眼差しの『フアン・デ・パレーハ』の肖像はいつまでも見ていたいですし、『フランチェスコ1世・デステ』の肖像はカッコいい。美形。好き。

実際に本人に会っているということは、ベラスケスのことだから、かなり実物に近いんだろうと。

そこで、同時代の天才芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ( Gian Lorenzo Bernini, 1598年-1680年)が作ったという胸像なのですが。

ルイ14世胸像同様、大理石がたなびいています。

『フランチェスコ1世・デステ』 1650年-1651年 ベルニーニ作
『フランチェスコ1世・デステ』 1650年-1651年 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

引用元:フランチェスコ1世・デステ』 Sailko CC-BY-SA-3.0

『フランチェスコ1世・デステ』 1650年-1651年 ベルニーニ作
『フランチェスコ1世・デステ』 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

引用元:『フランチェスコ1世・デステ』 Sailko CC-BY-SA-3.0

…ベラスケスの肖像画からはそれなりに年数が経ってますしね。

公爵も年を取りますよね。

ですが、さすがベルニーニ、さすが巨匠。

髪の毛から首元のレースから、実にリアルです。

ベルニーニは送られてきた見本だけでこの胸像を制作したのです。

『ベルニーニ その人生と彼のローマ』によると、最初、フランチェスコ1世・デステ公爵は、ベルニーニではなく、別の彫刻家に依頼するつもりでした。

一六五〇年八月、彼はベルニーニに大理石の胸像の制作を依頼した。その当時のモデナは、かつてルネサンス芸術の最大のパトロンだった栄光溢れるエステ家の本拠地だった。フランチェスコの一族は、より広大で富んだフェラーラの所領を一五九八年に没収されていた。その年、教皇庁はエステ家の正統な血統が途絶えたとしてフェラーラの町を没収し、教皇庁の所領とした。そのためエステ家は格下の都市であるモデナに居を移したが、大幅に減らされた所領を最大限に生かそうとした。だが彼らは教皇庁の仕打ちを許すことなく、復讐と所領の奪還の機会を狙っていた。「大志を抱き、だが政治面では背信行為に傾きがちだった」と言われるフランチェスコ1世の長く活発な統治(一六二九~五八年)の間、縮小された所領はいくばくか復活した。これはとりわけフランスとの数々の政治的同盟関係、そして一族の対外的なイメージを堂々たる建築や芸術作品を通じて高めたこと、つまり荘厳な建築物を建て、優れた芸術作品を注文したことの成果だった。それが教皇たちに成功をもたらしたのなら、エステ家にとっても同様になるはずであり、事実その通りになった。ベルニーニに対するフランチェスコ公爵の胸像の依頼は、貴顕による、野心的かつ成功をおさめたキャンペーンのほんの一環だったのである。

フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 2016-12-17.『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.265.

ベルニーニによる胸像は、ユストゥス・スティルマンスによる肖像画をもとに制作されます。

この胸像は《トーマス・ベーカーの胸像》と同じように、衣服の大胆なうねりと垂れ下がるカールした髪が、その陰に隠れている臆病そうな顔つきの大公よりも見る者を圧倒する。ここでもベルニーニは、フラマン人の画家ユストゥス・スティルマンスによって描かれた二枚の絵画(横顔だけで、正面からのものはなかった)を参考に、実際の生きたモデルを目にすることなしに実物に似た胸像を制作する、というほとんど不可能に近い技に挑んだ。胸像とともに送られた、一六五一年十二十日の日付があるフランチェスコ公爵への手紙のなかで、ベルニーニはこの胸像の欠点について詫びているが、満足したパトロンにはどのような謝罪も必要なかった。

 フランチェスコ公爵の胸像をめぐるこの一六五〇年の交渉は、その後、長期間にわたってパトロンとなる人物、リナルド・デステ枢機卿をベルニーニに結びつける役割を果たした。

フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 2016-12-17.『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.267.
リナルド・デステ枢機卿(1618年-1672年) 画家不明 ゴンザーガ・コレクション
リナルド・デステ枢機卿(1618年-1672年) 画家不明 ゴンザーガ・コレクション

引用元:リナルド・デステ枢機卿

リナルド・デステ枢機卿はフランチェスコ公爵の弟で、胸像制作においてベルニーニと交渉に当たりました。

枢機卿は若い頃は軍隊にいて、聖職に就いても変わることなく好戦的。武力で衝突したりするなど、極めて聖職者ぽくない人物だったようです。

1651年11月。完成した胸像がベルニーニから送られてきました。

フランチェスコは、「教皇が《四大河の噴水》に支払ったのと同じ金額、つまり3000スクーディという大金」を支払いました。

ベルニーニ作の『四大河の噴水』はこちらです。

四大河の噴水
四大河の噴水

引用元:四大河の噴水 Petar Milošević CC BY-SA 4.0

ユストゥス・サステルマンスによるフランチェスコ1世・デステとその家族の絵

『モデナ公フランチェスコ1世・デステと妻マリア・ファルネーゼ、夫妻の子どもたち』 1625年-1681年頃 ユストゥス・サステルマンス画 エステンセ・ギャラリー蔵
『モデナ公フランチェスコ1世・デステと妻マリア・ファルネーゼ、夫妻の子どもたち』 1625年-1681年頃 ユストゥス・サステルマンス画 エステンセ・ギャラリー蔵

引用元:『モデナ公フランチェスコ1世・デステと妻マリア・ファルネーゼ、夫妻の子どもたち』

この絵ではないと思いますが、ベルニーニがフランチェスコ公爵の胸像制作の見本としたのはこの画家の絵だとのこと。参考までに。

ベラスケスとベルニーニ

1649年からローマに長期滞在中だったベラスケスと、ローマの巨匠ベルニーニは顔を合わせたことがあったのでしょうか?

一度くらいは合わせたことがあった、かもしれない。

だが残念ながら、両者の絵画の様式が似ているにもかかわらず、ベラスケスとベルニーニが個人的に顔を合わせたという記録は見つかっていない。

フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 2016-12-17.『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.275..

 合わせていて欲しいなあ、という願望です。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの自画像 1623年頃
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの自画像 1623年頃

引用元:ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの自画像

主な参考文献
  • 『名画の読み方』 木村泰司(著) ダイヤモンド社 
  • 『不朽の名画を読み解く 見ておきたい西洋名画70選』 宮下規久朗(編著) ナツメ社
  • 『メトロポリタン美術館ガイド』 メトロポリタン美術館ミュージアム図書
  • 『ベラスケスとプラド美術館の名画』 松原典子(監修) 中央公論新社
  • 『プラド美術館展』 2002年 国立西洋美術館
  • 大髙保二郎(著). 2018-5-22. 『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』. 岩波新書.
  • フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 2016-12-17.『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎.
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