イングランドのヘンリー8世の宮廷画家、ハンス・ホルバイン(子)による『アンナ・フォン・クレーフェ(アン・オブ・クレーヴズ)の肖像』について。
『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』( Portrait d’Anne de Clèves, reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII ) 1539年頃 ハンス・ホルバイン(子)
16世紀のイングランド国王ヘンリー8世の四番目の妃となったアンナの肖像画です。
アンナ・フォン・クレーフェ( Anna von Kleve、英語名はアン・オブ・クレーヴズ( Anne of Cleves ) )は、1515年9月22日、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘としてデュッセルドルフで生まれました。
この肖像画は、三番目の妃に先立たれたヘンリー8世に向けて、「お見合い肖像画」として描かれたものです。
引用元:ヘンリー8世
ヘンリー8世は娘しかもうけることのできなかった最初の妻と離婚。
王妃付きの女官だったアン・ブーリンと結婚し、エリザベスをもうけます。
しかし跡継ぎの男子を強く望むヘンリー8世は、離婚を拒むアンを投獄し、処刑。
やはり女官だったジェーン・シーモアと結婚しました。
ジェーンとの間に待望の男子が生まれますが、ジェーンは亡くなり、王子のエドワードも病弱でした。
そこで次のお妃探しが始まり、絵に描かれたアンナを気に入ったヘンリー8世は、彼女を四番目の妃として迎えます。
しかし、1539年12月のこと。
イングランドに上陸したアンナ本人を目にしたヘンリー8世は、「ちっとも美しくない!」と怒り出し、アンナのことを「フランドルの雌ロバ」と罵ります。
肖像画より不美人。
大女だった。
体臭がきつい。
…など、挙げられた理由が真実かどうかはともかく、アンナに対して大きな不満を抱いたヘンリー8世。
しかし、当時のクレーフェ公国はイングランドにとって戦略上重要な国です。
それに、はるばるやってきた花嫁を「美人じゃない」という理由で返すわけにも行かず、この結婚を強く勧めた側近のクロムウェルを罵りながら、ヘンリー8世はアンナと結婚します。
英語がよくわからないアンナにも自分が王に気に入られていないことはわかりました。
結局ふたりは半年後に離婚し、クロムウェルは処刑されてしまいます。
ゴシップ・スキャンダル満載(?)の厚い本。ダークな歴史が楽しめます。
ホルバインはアンナを美人に描き過ぎたのか?
頭にぴったり被ったアンダーキャップには刺繍が施されており、その上には透ける布。
キャップの左側には房飾りのある装飾品が付いていますね。
スクエア・カットの襟元の刺繍も素晴らしい。
胸の下、高い位置にしたベルトはアンナのウェストの細さを強調しています。
優れた写実性で知られる、ドイツ出身の画家ハンス・ホルバイン(1497/1498年-1543年)。
アンナの被るキャップや胸元の装飾は、金糸の刺繍、多くの宝石で彩られています。
すごく豪華ですごくリアルですよね。
細部までこんなにリアルに描く画家が、アンナを必要「以上」に美しく描き過ぎた?
真正面からの姿はヘンリー8世のリクエストだったという説もあります。
写真が無い時代に肖像画でお妃を選ぶのであれば、依頼者としては、なるべく実物に近い姿を描いて来てもらいたいと思うのではないでしょうか。
画家もモデルの短所をかなり控えめにして、多少の美化もしたかもしれませんけどね。
しかし、ヘンリー8世が怒り出すほど、絵と実物はかけ離れていたのか?と思わずにいられません。
アンナの姉と妹
引用元:アマリア・フォン・クレーフェ
上はアンナの姉ジュビレ、下は妹のアマリアです。
ジュビレの肖像画はドイツの巨匠ルーカス・クラナッハ(父)、アマリアのスケッチはハンス・ホルバイン(子)によるものです。
この姉妹の姿からアンナの容姿を想像してみても、「不美人」と罵られるほどだったとはますます思えないのですが(-_-;)…。
ホルバインの描いた別のお見合い肖像画『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』
こちらもヘンリー8世のお妃後補だった女性の肖像画です。
ヘンリー8世の命を受けたホルバインはをブリュッセルを訪れ、未亡人となっていたデンマーク王女クリスティーナをスケッチします。
その場に居たイギリス公使によって素描は「まさに完璧」と評されました。
ずば抜けた美女だったとの話はありませんが、クリスティーナは「手がとても美しい」といわれていたそうです。
茶目っ気のある微笑みを浮かべたクリスティーナは喪服姿であっても気品と若さにあふれ、この肖像画はホルバインの傑作のひとつとされています。
アンナ・フォン・クレーフェの細密肖像画
こちらは小さな容器に描かれた、アンナの細密肖像画(ミニアテュア)です。
引用元:アンナ・フォン・クレーフェ
引用元:ミニアテュアボックス
このミニアテュアボックスの直径は4.6㎝ほど。
ルーヴル美術館の肖像画とほぼ同時期に作られたようです。(ルーヴル美術館のものより若干美人に見えますね)
その他の肖像画
新古典主義の巨匠アングルによるスケッチ
『アン・オブ・クレーヴズ(?)』( Anne of Cleves (?) ) 画家不詳 The Wenceslaus Hollar Collection蔵(トロント大学)
引用元:『アン・オブ・クレーヴズ(?)』
The Wenceslaus Hollar Collection蔵:Anne of Cleves (?)
Wikipedia にも「はてなマーク」付きで掲載されています。
『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』 1540年代? ハンス・ホルバイン(子)
身に着けているものが個性的。
もしこれが本当にホルバインによるアンナの肖像画なら、アンナは不美人ではないですよねえ。
王の期待が膨らみ過ぎて、すんごい絶世の美女を想像してしまっていたから、勝手に「コレジャナイ感」いっぱいになっただけなのでは…。(画像が掲載されているのは Wikipedia:Anne of Cleves , Анна Клевська )
半年で離婚したけど結果オーライ
ヘンリー8世は、アンナとの結婚を勧めた側近クロムウェルを捕え、処刑してしまいました。
アンナは、きちんと解消されていなかった昔の婚約を持ち出され、離婚と聞いた時は気絶したといいますが、おとなしくそれを受け容れます。
しかし、離婚によってアンナは「王の妹」という称号と、当時としては莫大な年金や荘園を手に入れました。
帰国せずイングランドに留まったアンナは英語も上達。
時にはヘンリー8世と、その五番目の妻となったキャサリン・ハワードと食事をし、仲良く談笑するなどしていました。
経済的な心配もなく、膨大な衣装の中から素敵なガウンを選んで楽しむ毎日。
ヘンリー8世の娘たちであるメアリー(後の女王メアリー1世)とエリザベス(後の女王エリザベス1世)ともうまくつきあって行きます。
ヘンリー8世は早熟で学問に秀で、スポーツやダンスを好み、自分で作曲もするような人物でした。
それに対し、母国でアンナが受けた教育というのは、音楽や舞踊などではなく刺繍。語学もドイツ語しか話せませんでした。
ヘンリー8世の情熱をかき立てる女性ではありませんでしたが、アンナは性格も良く、ヘンリー8世は自分に忠実な彼女を好きだったようです。
これまで、アンナ本人を見たヘンリー8世が、肖像画より「美しくない」と怒り離婚に至ったと広くいわれてきましたが、海を渡ってやってきた花嫁を密かに見に行ったヘンリー8世がアンナに馴れ馴れしくし、王本人とは知らないアンナが、見知らぬ中年男の振る舞いを咎めたことがきっかけで彼女に不満を持った、という話もあります。(なんだかこの説のほうがホントっぽく聞こえます。今後の研究に期待します)
1547年、ヘンリー8世が逝去。
1557年7月15日、アンナはイングランド国内の静養先で亡くなりました。
Anne of Cleves around the time of her death として Wikipedia に掲載されていた晩年のアンナ。
引用元:アン・オブ・クレーヴズ
これが「本当に」アンナの姿だったとしたら…少し割り引いて見たとしても、やっぱり不美人じゃなくないですか?
処刑されなかったホルバイン
クロムウェルが処刑されたとき、ホルバインは自分の身も危ないのではないかと思い、震えあがったといいます。
ヘンリー8世の不興を買った場合、王妃や側近たちなどの近しい人間でも容赦なく死刑になりましたが、ホルバインにそうしたお咎めはありませんでした。
しかし、
ホルバインは宮廷での後ろ盾を失ったばかりか、この顛末のそもそものきっかけが彼の描いた肖像画だと、皆から非難の目で見られていると感じられたのではないか。どうして今までどおり仕事を続けられよう。その後も外科医組合に特許状を授与する王の大型絵画を請け負ったとされているが、未完に終わる。
中野京子(著). 2020-3-25. 『画家とモデル 宿命の出会い』. 新潮社. p.96.
不美人を美人に描き過ぎて王を欺いた罪(?)では処刑されなかったホルバイン。
ということは、処刑に値するほど肖像画とアンナ本人に著しい違いは無かったのでは、と思ってしまいます。
死は免れましたが、その後のホルバインは過去の作品をしのぐ傑作を残すことなく、失意のうちにペストのためロンドンで亡くなりました。
1543年、まだ40歳半ばの死でした。
ルーヴル美術館にあるホルバインの作品
ルーヴル美術館による来歴によると、『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』は、1671年にエバーハルト・ジャバッハ(ヤバッハ Everhard Jabach, 1618年-1695年)から買い取られ、フランス国王ルイ14世のコレクションに加わったようです。
下は、同じルーヴル美術館に所蔵されているホルバインによる肖像画です。『エラスムスの肖像』は画家がまだ20代、『ニコラス・クラッツァーの肖像』『ウィリアム・ウォラムの肖像』は30歳頃の作品です。
『エラスムスの肖像』( Portrait d’Érasme (1467-1536) écrivant ) 1523年頃 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵
引用元:エラスムスの肖像
『エラスムスの肖像』( Portrait d’Érasme (1467-1536) écrivant )
展示場所:リシュリュー翼、809展示室
ネーデルラント出身の人文主義者、神学者、哲学者、デジデリウス・エラスムス( Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年-1536年)。
主な著作に『痴愚神礼賛』があります。
イングランドの政治家トマス・モア、モアを師と仰いでいた若い頃のヘンリー8世とも交流がありました。
『マンガでわかる ルーヴル美術館の見かた』では、見開きでこの絵画を解説しています。一部をご紹介します。
注目すべきは、エラスムスの真剣な横顔と、書き物をする両手の繊細な描写。ホルバインは、エラスムスの体を大きく捉えることで、集中して執筆に励む様子を的確に描き出しています。
また、古代のメダルに端を発する伝統的な側面像の肖像画形式を用い、小道具や執筆を行う環境まで描くことで、エラスムスの学者としての本質を引き出し、公的イメージを作り出すことにも成功しています。
有地京子(著). 2019-12-13. 『マンガでわかる ルーヴル美術館の見かた』. 誠文堂新光社, p,104.
『ニコラス・クラッツァーの肖像』( Portrait de Nicolas Kratzer (vers 1486-après 1550), astronome du roi d’Angleterre Henri VIII ) 1528年 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵
引用元:ニコラス・クラッツァーの肖像
ヘンリー8世の宮廷に仕えた、ドイツ人天文学者、ニコラス・クラッツァー( Nicholas Kratzer, 1487年?-1550年)。
1516年に渡英し、トマス・モアと交流。その縁でイングランド宮廷に職を得ました。
一般的には胸像である肖像画に手元まで入れたのは、小道具を描き込むためだ。人物の職業や地位を表すための16世紀的手法である。日時計をつくる道具類の見事な写実性に、画家の技術力が表れている。
大友義博(監修). 2014-10-12. TJMOOK 『一生に一度は見たい ルーヴル美術館BEST100』. 宝島社. p.81.
『ウィリアム・ウォラムの肖像』( Portrait de William Warham (vers 1450 ?-1532), archevêque de Canterbury depuis 1503 et primat d’Angleterre ) 1528年 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵
引用元:ウィリアム・ウォラムの肖像
カンタベリー大司教で、トーマス・クランマーの前任者。
イングランド王ヘンリー7世の息子アーサーと、カトリック両王の娘キャサリン・オブ・アラゴンの結婚に関わった人物です。
人物の表情や顔に刻まれたシワ、肌や光沢のある布の質感、どの作品を見ても、ホルバインが実に優れた肖像画家だったかわかりますね。
動画で観られるアンナ・フォン・クレーフェ『 Tudor Queens 5: Anne of Cleves 』
History Freak 様の、英語による解説です。
ルーヴル美術館での展示風景ではありませんが、ホルバインの絵画などを使ってアンナの物語を解説しています。
ヴィクトリア&アルバート美術館のミニアテュアボックスも出てきますので、流し見するだけでも楽しいです。
- 大友義博(監修). 2014-10-12. TJMOOK 『一生に一度は見たい ルーヴル美術館BEST100』. 宝島社.
- 中野京子(著). 2020-3-25. 『画家とモデル 宿命の出会い』. 新潮社.
- 有地京子(著). 2019-12-13. 『マンガでわかる ルーヴル美術館の見かた』. 誠文堂新光社,
- ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 『ダークヒストリー イギリス王室史』.原書房
- 森護(著). 『英国王妃物語』. 三省堂選書.
- 有地京子(著). 『名画の秘めごと 男と女の愛の美術史』.角川マガジンズ.
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