『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』から、寵姫アニェス・ソレルの死因

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長いこと砒素で毒殺されたのではないかと思われていた、シャルル7世の愛妾アニェス・ソレルの死因が、古病理学によって解き明かされました。他にも『ルイ17世の心臓がたどった数奇な運命』『リシュリュー枢機卿の「マスク」』『薬としての人体』など、興味深い話題がいっぱいです。

『トゥルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン マウリッツハイス美術館蔵
『トゥルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン マウリッツハイス美術館蔵
目次

『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』

著者フィリップ・シャルリエ氏は、1977年生まれの医師(解剖・病理学、法医学)、文学博士(フランス国立高等研究院、第4学科)とのことです。

本書にご本人のお写真が載っていますが、これがまた素敵なんですよ。手にされている物といい、なんだか映画や小説の宣伝のような…。

翻訳はフランス文学翻訳家、吉田晴美氏です。

『お菓子の歴史』『骨から見る生物の進化』など多くの書籍を訳されていますが、フランス語だけでなく、英訳もされています。(『エジプトの神々事典』『甦るアレクサンドリア』他持っています)


死体が語る歴史 古病理学が明かす世界
死体が語る歴史
  • フィリップ・シャルリエ(著)
  • 吉田晴美(訳)
  • 出版社 ‏: 河出書房新社 (2008/9/12)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2008/9/12
  • 文庫 ‏ : ‎ 349ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4309224911
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309224916

この本の目次

  • 序文
  • はじめに
  • 第1章 だれが国王の愛妾を殺したか ― アニェス・ソレルの遺骸の研究
  • 第2章 頭蓋骨の中の壺 ― 聖女アフラの聖遺物
  • 第3章 頭蓋骨の杯と人間の皮のマスク
  • 第4章 フランス国王の心臓と遺体の行方
  • 第5章 フランス国王の遺体の解剖と保存処置
  • 第6章 ルイ十七世の心臓がたどった数奇な運命
  • 第7章 「不吉さ」ゆえのローマの生け贄
  • 第8章 チンチョロのミイラの皮(チリ)
  • 第9章 アルゴスの骨(ギリシア) ― 二〇〇体の人骨に秘められた四〇〇〇年の歴史
  • 第10章 ルーヴル美術館のギリシアの壺に隠されているのもの
  • 第11章 ギリシアとローマの死と死者
  • 第12章 死の周辺 ― 古代の墓をめぐる魔術的行為
  • 第13章 ファラオ時代とエジプト後期の奇形たち
  • 第14章 ローマ、広大なネクロポリス
  • 第15章 法医学と吸血鬼
  • 第16章 「死体を求む!」 ― 解剖と死体探しの小史
  • 第17章 ギリシアとローマの病気の変遷に対する都市化の影響
  • 第18章 古代ギリシア・ローマの健康診断
  • 第19章 ファン=ルナール(ブールジュ)のミイラ ― ガロ・ロマンの赤毛の子ども
  • 第20章 古代の奇形と身体障害者 ― 排除か見世物か
  • 第21章 先コロンブス時代の人骨からたどる関節リウマチの歴史
  • 第22章 リシュリュー枢機卿の「マスク」
  • 第23章 エッツィ ― 世界一有名な無名の男
  • 第24章 ジャンヌ・ダルクは三度死ぬ
  • 第25章 薬としての人体
  • 第26章 デカルトの首なし遺体
  • 第27章 「鼻利き」の古病理学
  • 第28章 サン=ルイ礼拝堂の夕べ ― パリのピティエ=サルペトリエール病院
  • 第29章 古病理学旅行案内
  • 訳者あとがき
  • 参考文献

ご興味がお有りなのはどの章ですか?

吸血鬼にジャンヌ・ダルクに聖遺物…。

どれもこれ興味深い話題ですよね。

今まで毒殺とされていたあの貴人は、本当に毒殺だったのか?

何千年も前に埋葬された古代人や、誰にも知られず息絶えたアイスマンは、生前何を食べ、どんな生活をしていたのか?

そして、それはどこまで判るものなのか?

それらを知りたいと思いませんか?

訳者あとがきから、引用させていただきます。

 人間の骨はただの有機物ではない。その人が生きていた時代に関する情報が詰め込まれている。骨を調べれば、その人の性別、年齢、健康状態といった個別のデータが得られるだけでなく、そうした遺骨を総合的に研究することによって、当時の生活や社会の様子も明らかになるのである。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. pp.337-338.

知るためには出土した骨を調べ、その遺体が纏っていた衣類を調べ、…まったく気が遠くなるような作業だと思います。

その研究の成果を、私たちは数千円(出版時には2800円税別)で読むことができます。すごくないですか?

あなたが知りたい謎がこの中にあるかどうかはわかりませんが、300ページを超えるこの分量。読むと確実に物知りになれそうな気がします。

できればもっとカラーの画像が多いといいなーとは思いますが、そうすると本の価格がもっとお高くなりますよねー…。

というわけで、面白そうな章の一部を画像付きでご紹介。

王太子の肖像(ルイ17世)(第6章 ルイ十七世の心臓がたどった数奇な運命)

ルイ17世 1792年 アレクサンドル・クシャルスキ ヴェルサイユ宮殿
ルイ17世 1792年 アレクサンドル・クシャルスキ ヴェルサイユ宮殿

引用元:ルイ17世

フランス国王ルイ16世と、妃マリー・アントワネットの間に生まれた息子です。

『トゥルプ博士の解剖学講義』(第16章 「死体を求む!」 ― 解剖と死体探しの小史)

『トゥルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン マウリッツハイス美術館蔵
『トゥルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン マウリッツハイス美術館蔵

引用元:『トゥルプ博士の解剖学講義』

巨匠レンブラントによる解剖学講義の様子。

hanna_and_art’s blog では、17世紀の襟の例として掲載貴婦人の首元に咲く車輪のようなラフの花

リシュリュー枢機卿の肖像(第22章 リシュリュー枢機卿の「マスク」)

リシュリュー枢機卿 1633年-1640年 フィリップ・ド・シャンパーニュ ナショナル・ギャラリー蔵
リシュリュー枢機卿 1633年-1640年 フィリップ・ド・シャンパーニュ ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:リシュリュー枢機卿

ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿。

フランス革命時、彼の頭部は男によって遺体から持ち去られ…。って、ちょっと気の毒。

hanna_and_art’s blog では「灰色の枢機卿」ジョゼフ神父とリシュリュー枢機卿の絵を掲載ジャン=レオン・ジェロームの歴史画『灰色の枢機卿』

エッツィの話(第23章 エッツィ ― 世界一有名な無名の男)

1991年チロルで発見されたエッツィ
1991年チロルで発見されたエッツィ

引用元:1991年チロルで発見されたエッツィ Barbara Oppelt for Wikimedia Austria CC-Zero

発見当初、その保存状態の良さから、割りと最近の、「1970年代に死亡した登山家」の遺体だと思われていた男性。

しかしその遺体は、紀元前3350年から3100年頃、青銅器時代に生きた人間だった…なんて、驚くような話ですよね。

遺された彼の持ち物、胃の内容物などから、シャルリエ氏が彼の最期に迫ります。

フランソワ1世の肖像(第25章 薬としての人体)

フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵
フランソワ1世(1494年-1547年) 1535年頃 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ1世

発掘された古代のミイラは「薬」として使われました。

フランス国王フランソワ1世も、ミイラの粉末を万能薬として持ち歩いていました。

香油とミイラ 古代エジプトのミイラの使い道

「万能薬」の話、エッツィの写真も掲載

この機会に歴代国王を確認

フランソワ1世、この後出てくるシャルル7世、ルイ11世もヴァロワ朝の王

次に、この書籍の中で、私が特に気になった章について、ご紹介します。

「第1章 だれが国王の愛妾を殺したか」から

『ムランの聖母子』 1450年代前半 ジャン・フーケ ベルギー、アントワープ王立美術館蔵

『ムランの聖母子』 1450年代前半 ジャン・フーケ ベルギー、アントワープ王立美術館蔵
『ムランの聖母子』 1450年代前半 ジャン・フーケ ベルギー、アントワープ王立美術館蔵

引用元:『ムランの聖母子』

ジャン・フーケによる祭壇画、『ムランの聖母子』です。

この聖母のモデルとなったのは、フランス国王シャルル7世の寵姫だったアニェス・ソレル( Agnès Sorel, 1421年-1450年2月9日)と言われ、本作品はアニェスの死後に描かれています。 

自慢のバスト剥き出しのファッション15世紀の寵姫アニェス・ソレルのファッション(ジャン・フーケの『ムランの聖母子』)

1450年2月9日、アニェス・ソレル死去

アニェス・ソレル 1526年頃-1550年頃の間  ジャン・フーケにちなむ ウフィツィ美術館蔵
アニェス・ソレル 1526年頃-1550年頃の間  ジャン・フーケにちなむ ウフィツィ美術館蔵

引用元:アニェス・ソレル

国王シャルル7世に見初められたアニェスは、王との間に三人の娘をもうけています。

「メトレス・ド・ボーテ」(麗しの君)(高貴な貴婦人)と呼ばれ、王妃以上に贅沢な生活を送っていました。

シャルル7世 1450年頃 ジャン・フーケ ルーヴル美術館蔵
シャルル7世 1450年頃 ジャン・フーケ ルーヴル美術館蔵

引用元:シャルル7世

「女と見れば手当たり次第」と言われたシャルル7世の心をしっかりと捉えたアニェスは、時には王を叱咤激励し、王の関心を国政に向けさせました。

シャルル7世妃マリーは表立ってアニェスへの嫉妬を表わそうとはしませんでしたが、息子の王太子ルイはアニェスに対し憎しみを抱いていました。

アニェス・ソレル 16世紀 画家不詳 個人蔵
アニェス・ソレル 16世紀 画家不詳 個人蔵

引用元:アニェス・ソレル

1450年、国王暗殺の陰謀を知ったアニェスは、ノルマンディーでイングランドと交戦中だったシャルル7世の元へ急ぎます。

アンドル=エ=ロワール県のロッシュからノルマンディーまでの冬の旅は過酷なものでした。

四人目の子どもを妊娠していたアニェスは、メニル=スー=ジュミエージュの地で赤ん坊を生み落とし、病に倒れます。

子どもは死亡し、「腹下し」に見舞われたアニェス。

「腹下し」という言葉は症状を表すのであって、特定の病気を示すものではない。つまり、アニェスの肛門ないしヴァギナからなんらかの物質が流れ出たのである。これは赤痢だったのか、それとも産褥熱だったのか。たちまち、毒を盛られたに違いないといううわさが広まった。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. p.14.

2月9日の夕方、アニェスは28歳という若さで亡くなりました。

毒殺?犯人は?

王に愛され、権力を手にした美女の、あまりにも早過ぎ、若過ぎる死。

毒殺されたのは本当なのか。だとしたら犯人は誰なのか。敵国であるイギリスによる陰謀か?

アニェスの死は長らく砒素中毒と考えられてきました。

容疑者とされたのは、アニェスを憎んでいた王太子ルイ(後のルイ11世)、アニェスの友人だった財務官ジャック・クール…。

シャルル7世の命令により、ジュミエージュでアニェスの遺体から心臓が取り出され、修道院聖堂に預けられます。

このとき、つまり遺体に保存処置が施されたとき、内臓が取り出されたと思われる。遺体は樫とヒマラヤ杉と鉛の棺に納められ、葬列に守られてゆっくりとロッシュへもどった。途中、参列が大きな町に着くたびに、盛大な葬儀が執り行われたことは想像に難くない。おそらく遺体(顔のみ?)も公開されたため、一時的にせよ入念に保存処置が施されたのだろう。かくしてアニェスはノートル=ダム教会(のちのサン=トゥール参事会教会)の内陣に、ねんごろに埋葬された。墓の上に作られたアラバスター製のアニェスの横臥像は、両手に時禱書を持ち、輝くばかりに美しい顔をしている。足元に彫られた二匹の子羊アニョーは、アニェスという名前から連想されたのだろう。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. p.16.

しかし、安らかな眠りの中にいた筈のアニェスの遺体からは、髪や歯(義歯にするなど)が持ち去られ、墓はフランス革命で破壊されました。

アニェス・ソレルの墓 1695年 ルイ・ブーダン
アニェス・ソレルの墓 1695年 ルイ・ブーダン

引用元:アニェス・ソレルの墓 1695年 ルイ・ブーダン( Bibliothèque nationale de France

ロッシュのアニェス・ソレルの横臥像
ロッシュのアニェス・ソレルの横臥像(アニェスの死後まもなく彫られた)

引用元:ロッシュのアニェス・ソレルの横臥像 Bastenbas CC-BY-SA-4.0

参考:Tombeau d’Agnès Sorel( Wikipedia )

被葬者はアニェス本人か?

2004年、アニェスの墓を王家の館からサン=トゥール参事会教会に移すことが決定され、古病理学の権威シャルリエ氏が棺の中を調べることになりました。

DNAの抽出のため、残っていた骨の一部を採取します。

調査の目的は「被葬者がまさしくアニェス・ソレルであるかどうかを確かめること」「死因を突き止めること」「生前の健康状態を調べること」でした。

毛髪の色と当時の髪型

生前、「ブロンドのアニェス」として知られていたアニェス・ソレル。

肉眼で観たとき、毛髪の色は黒のように見えたと本書にありますが、その後の顕微鏡検査と生化学的調査によって、ナチュラル・ブロンドの髪が、棺から出た鉛の不純物と、分解物質に覆われていたことがすぐに判明します。

被葬者に残されていた毛髪は、法医学の分類の原則からいえば、ヨーロッパ人の毛髪の特徴を示していました。

偏光顕微鏡の検査で見つかった毛髪のよじれと切れ毛の痕跡は、髪をうしろに引っつめた髪型を示すものではないかとの議論を呼んだ。さらに、額の皮膚の顕微鏡検査により、アニェスの肖像画(アントワープ美術館所蔵のジャン・フーケ作「ムランの聖母」。この聖母はアニェス・ソレルをモデルにして描かれている)に見られるように、額の高い位置の毛髪が抜かれていなかったことが明らかになった。肖像画はおそらく美術の約束事にしたがい、髪型の特徴を強調して描いたのだろう。

 とはいえアニェス・ソレルは、当時流行していた美容法を取り入れ、また顔のバランスをとるために、額の部分を脱毛していた可能性はある。実際、頭蓋骨の解剖学的調査が示すように、アニェスの眼窩(と目)はかなり大きい(とてつもなく大きいというほどではないが)。額を広くとることは、顔の残りの部分に対して目を小さく見せ、全体のバランスを整えることになるのである。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. p.23.

アニェス・ソレルの死因にも興味がありますが、この当時の髪型に興味がある私としては、このような話がとても興味深いです。

この時代、髪が見えないことが美しいとされていました。

毛髪はエナンと呼ばれる被り物の下にすべて隠し、隠しきれない髪の生え際を剃っていました。

額にはエナンを起こすための輪っかのようなもの、ループが見えています。

15世紀の寵姫アニェス・ソレルのファッション(ジャン・フーケの『ムランの聖母子』)

『ムランの聖母子』 1450年代前半 ジャン・フーケ ベルギー、アントワープ王立美術館蔵
『ムランの聖母子』 1450年代前半 ジャン・フーケ ベルギー、アントワープ王立美術館蔵

引用元:『ムランの聖母子』

また、採取された額の皮膚から、生前の肌の色も判りました。

本書に、アニェスが非常に青白い顔色をしていたことをうかがわせるという記述がありますが、肖像画のアニェスも同じように色が白いですよね。

描き手もアニェスの肌の白さを意識していたのかと思われます。

アニェス・ソレル 16世紀 画家不詳 フランス、アンジェ美術館蔵
アニェス・ソレル 16世紀 画家不詳 フランス、アンジェ美術館蔵

引用元:アニェス・ソレル

遺骸の頭部の立体映像と顔の復元図、ロッシュの横臥像は「驚くほど似ていた」そうです。

毛髪や歯の調査から、遺骸の身元がはっきりと裏付けられたことにより、ブールジュの博物館にある胸像も誰のものなのかが判りました。

ブールジュのベリー博物館に所蔵されていたアニェス・ソレルのものとされる胸像とも、驚くほどよく似ていた。この胸像は、ベリー公の宮廷に近い芸術家であるロラナが制作したものである。したがって、私たちがアニェスの顔を復元したことにより、推定にすぎなかった胸像のモデルが明らかになったわけである(古病理学が美術史に貢献したことになる)。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. p.27.

「古病理学が美術史に貢献」。いいですねぇ。こうして歴史に埋もれた謎がまたひとつ、解かれるんですね。

フランチェスコ・ラウラーナに帰属するデスマスク
Wikipedia に「フランチェスコ・ラウラーナに帰属するデスマスク」との解説あり

引用元:フランチェスコ・ラウラーナに帰属するデスマスク Michel wal CC-BY-SA-3.0

Masque mortuaire d’Agnès Sorel (marbre). Attribué à francesco da Laurana. Hôtel Lallemant, Bourges, Frances

「フランチェスコ・ラウラーナに帰属するデスマスク」の解説(Wikipedia)

本文にある「芸術家ロラナ」は、Francesco Laurana(1430年頃-1502年以前)で良いかと思います。

岩波新書の『デスマスク』を参考に、本記事と hanna_and_art’s blog 「15世紀の寵姫アニェス・ソレルのファッション(ジャン・フーケの『ムランの聖母子』)」では、「フランチェスコ・ラウラーナ」と表記しています。

遺骸から水銀

アニェス・ソレルは回虫症にかかっており、シダによる治療を受けていました。

アニェスの陰毛と腋毛の毒物分析を行った結果、疑われていた砒素の痕跡は検出されませんでした。

しかし、毛根のあたりで、体積比で 8.2 パーセントという「かなり高い比率の水銀が検出された」のだそうです。

腐敗汁から採取された体毛や毛髪には、ごくわずかな水銀しか含まれていませんでした。

シャルリエ氏によると、

水銀が陰毛の中に定着したのは死亡する前ということになる。陰毛から見つかった量を考えると、長く生きるのは難しい。つまりこれは慢性の中毒ではなく、急性の水銀中毒であって、現在の医学的知識からいって、四八時間から七二時間で死が訪れたはずである。

フィリップ・シャルリエ(著). 吉田晴美(訳). 『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』. 2008-9-30. 河出書房新社. p.31.

48時間から72時間で死に至る程の水銀量(゚д゚)!

かつて疑われていた「砒素による毒殺」ではなく、水銀中毒が死因だったんですね。

では、この高濃度の水銀は、どのようにアニェスの体内に入ったのでしょうか。

治療の適正量を誤った?

誰かに処方された?

もし誰かに処方されたとしたら、それは一体誰が行ったのか?

遺体に保存処置を施した際に水銀が使われた?

正に歴史ミステリーですね。この続きは是非本書で!

寵姫アニェス・ソレルの人生に興味がある方、この第一章だけでもお読みになると面白いと思います。

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