『グランヴェル枢機卿の道化師』(アントニス・モル)

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    16世紀スペイン宮廷人の肖像画で知られるモルの傑作、『グランヴェル枢機卿の道化師』。

    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 - 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵
    『グランヴェル枢機卿の道化師』 1500年 – 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵

    展示室変更、貸し出し・修復中などで展示されていない場合もあります。美術館のサイトをご確認ください。

    目次

    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 – 1600年 アントニス・モル

    リシュリュー翼811展示室Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien, INV 1583 ; MR 527

    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 - 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵
    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 – 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵

    引用元:Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien

    神聖ローマ皇帝カール5世、その息子であるフェリペ2世に仕えたグランヴェル枢機卿。

    その道化師を描いた作品です。

    オランダ、ユトレヒト出身の画家 アントニス・モルによる、この絵画は「後にスペイン絵画で流行する道化師の肖像の原型ともなった作品(NHK ルーブル美術館 Ⅳ ルネサンスの波動)です。

    ユトレヒト出身のモルは、ネーデルラントの仮借なき写実の伝統にイタリア盛期ルネサンス美術の記念碑性を結びつけ、迫真的かつ荘重な肖像画様式を確立して国際的に活躍、スペイン宮廷を中心に17世紀に至るまで多大な影響を及ぼした。

    高階秀爾(監修). 中山公男, 佐々木英也(責任編集). 平成2年11月30日第6刷発行. 『NHK ルーブル美術館 Ⅳ ルネサンスの波動 フランドル / ドイツ / イタリア / フランス 』. 日本放送出版協会. p.44.

    その写実性に目を奪われますよね。

    ここに描かれた男性の堂々とした佇まいに圧倒されるとともに、彼の性格や誇りまで伝わってきます。

    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 - 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵
    『グランヴェル枢機卿の道化師』 アントニス・モル

    引用元:Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien

    『グランヴェル枢機卿の道化師』( Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien ) 1500年 - 1600年 アントニス・モル ルーヴル美術館蔵
    『グランヴェル枢機卿の道化師』 アントニス・モル

    引用元:Portrait du nain du cardinal de Granvelle tenant un chien

    犬の首輪は紋章付きです。これは、「ペルノ・ド・グランヴェルの紋章がついているが、1899年にそのように特定された」(参考: Cardinal de Granvelle’s Dwarf )(Google翻訳)とあります。

    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル枢機卿の紋章
    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル枢機卿の紋章

    引用元:アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル枢機卿の紋章 Barsupilami1512 CC-BY-SA-3.0

    『グランヴェル枢機卿の道化師』は傑作ですが、かつてのハタチの私なら、「そもそもグランヴェル枢機卿ってどういう人なんだろー」で終わってしまいそうです。

    それでは、彼の主君である「グランヴェル枢機卿」の肖像画も見てみましょう。

    グランヴェル枢機卿( Antoine Perrenot de Granvelle, 1517年8月20日 – 1586年9月21日)

    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル( Antoine Perrenot de Granvella ) 1549年 アントニス・モル 美術史美術館蔵

    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル( Antoine Perrenot de Granvelle, 1517年8月20日 - 1586年9月21日) 1549年 アントニス・モル 美術史美術館蔵
    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル 1549年 アントニス・モル 美術史美術館蔵

    引用元:アントワーヌ・ド・グランヴェル

    美術史美術館蔵Antoine Perrenot de Granvella

    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェルは、1484年、当時神聖ローマ帝国領だったフランシュ=コンテのブザンソンで生まれました。

    神聖ローマ皇帝カール5世の国務大臣を務めた父ニコラの後を継ぎ、1550年に国務大臣に就任。

    アントワーヌ自身もカール5世、スペイン・ハプスブルク家に仕えました。

    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル( Antoine Perrenot de Granvelle ) 1548年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ ネルソン・アトキンズ美術館蔵
    アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル 1548年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ ネルソン・アトキンズ美術館蔵

    引用元:アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル

    ネルソン・アトキンズ美術館Antoine Perrenot de Granvelle

    巨匠ティツィアーノが描く アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェルの肖像。

    高名な美術収集家でもあったグランヴェルは、ティツィアーノやアントニス・モルら多くの芸術家たちを支援しました。

    平らな茶色がかった灰色の背景に、髭を生やした男性の七分丈肖像画。長袖の黒いチュニックと、襟と手首だけが見える白いアンダーシャツを着用している。左手には3つの指輪をはめており、緑色の本をテーブルの上に立てかけている。右手には紙片を持っている。テーブルは深紅の布で覆われ、その上に小さな時計が置かれている。時計の後ろには、「ティティアヌス/D・カドール」と刻まれた折り畳まれた紙片が置かれている。

    (Google翻訳Antoine Perrenot de Granvelle

    画家 アントニス・モル( Antonis Mor, 1520年 – 1578年頃)

    アントニス・モル( Sir Antonis Mor, 1520年 - 1578年頃)自画像 1558年 ウフィツィ美術館蔵
    アントニス・モル自画像 1558年 ウフィツィ美術館蔵

    引用元:アントニス・モル

    1547年、モルはアントワープにある聖ルカ組合に入会します。

    1548年のアウクスブルク帝国議会にグランヴェルが出席したとき、モルもアウクスブルクに滞在していました。(「同行していた」となっているものもありました)

    「そこでティツィアーノと出会い、公式肖像画の分野を追求するよう奨励された。そして、当時アラス司教でありカール5世皇帝の顧問でもあったグランヴェル枢機卿の目に留まった。枢機卿は彼の常連のパトロンとなり、彼を皇帝に紹介した。」(Google翻訳)

    1550年、ローマを訪れたモルは現地でティツィアーノの作品、特に「ダナエ」を模写したことが記録されています。

    グランヴェルは、モルをカール5世に引き合わせます。

    モルはカール5世の依頼を受けて渡英し、イングランド女王 メアリー1世の肖像画を制作しました。

    イングランド女王 メアリー1世(1516年 – 1558年)

    イングランド女王メアリー1世( María Tudor, reina de Inglaterra, 1516年 - 1558年) 1554年 アントニス・モル プラド美術館蔵
    イングランド女王メアリー1世(1516年 – 1558年) 1554年 アントニス・モル プラド美術館蔵

    引用元:メアリー1世

    プラド美術館蔵María Tudor, reina de Inglaterra

    右手にテューダー家を象徴する赤いバラ、左手には宝石が散りばめられた手袋を持つ イングランド女王メアリー1世。

    女王の胸には、スペイン王子フェリペ(カール5世の息子。後のスペイン王フェリペ2世)から贈られた宝石が輝いています。 

    プラド美術館の解説によると、「1604年、カレル・ファン・マンダーはアントニオ・モロの伝記の中で、モロが1554年にチャールズ5世の依頼でメアリー・チューダーの肖像画を描くためにロンドンへ旅したことと、それが成功したことを詳しく述べています。(Google翻訳)とあります。

    文中の「チャールズ5世」は神聖ローマ皇帝カール5世の英語読みです。

    グランヴェルは、イングランド女王メアリー1世と、カール5世の王子フェリペとの結婚交渉にあたっています

    1553年、9日間女王レディ・ジェーン・グレイの処刑

    ヴェルディ『ドン・カルロ』ヒロインのモデル、エリザベート・ド・ヴァロワ

    スペイン王フェリペ2世(1527年 – 1598年)

    サン・カンタンの戦いにおけるスペイン王フェリペ2世 1560年 アントニス・モル エル・エスコリアル宮殿
    サン・カンタンの戦いにおけるスペイン王フェリペ2世 1560年 アントニス・モル エル・エスコリアル宮殿

    引用元:スペイン王フェリペ2世

    メアリー1世とフェリペ夫妻には子どもはできず、メアリーは1558年に亡くなりました。

    1559年、ヴァロワ朝(フランス)と、ハプスブルク家(オーストリア・スペイン)の間で「カトー=カンブレジ条約」が結ばれます。

    グランヴェルは、この講和条約におけるスペイン代表団のひとりでした。

    カトー=カンブレジ条約の一環で、スペイン王フェリぺ2世は、フランス王女 エリザベート・ド・ヴァロワと結婚します。

    1559年6月30日午後、フランス王アンリ2世の事故

    ヴェルディ『ドン・カルロ』ヒロインのモデル、エリザベート・ド・ヴァロワ

    エリザベート・ド・ヴァロワ(1545年 – 1568年)

    フランス王アンリ2世と、王妃カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれた王女エリザベート。

    カトー=カンブレジ条約でスペイン王フェリペ2世の妃となります。

    エリザベート・ド・ヴァロワ( Élisabeth de France または Élisabeth de Valois, 1545年4月2日 - 1568年10月3日) 1560年 アントニス・モル Várez Fisa Collection, マドリッド
    エリザベート・ド・ヴァロワ 1560年 アントニス・モル Várez Fisa Collection, マドリッド

    引用元:エリザベート・ド・ヴァロワ 

    フェリペ2世の三番目・四番目の妃

    フェリペ2世の妃たち エリザベートとアナ

    その後フェリペによって ネーデルラント総督マルゲリータ・ダウストリア(マルゲリータ・ディ・パルマ)の宰相に任命されたグランヴェルは、ネーデルラントでプロテスタントを弾圧します。

    パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリアの肖像(アントニス・モル作)

    パルマ公妃 マルゲリータ・ダウストリア(1522年 – 1586年)

    カール5世の庶子、パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア。

    パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア( Margherita d’Austria, 1522年7月5日 - 1586年1月18日) 1562年 アントニス・モル ベルリン、絵画館蔵
    パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア 1562年 アントニス・モル ベルリン、絵画館蔵

    引用元:パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア

    グランヴェルはネーデルラントの人びとから強く嫌われ、貴族たちはグランヴェルを排除する計画を立てます。

    1561年に枢機卿の座に就いたグランヴェルでしたが、ネーデルラントの宗教対立は激化。

    1564年、フェリペはグランヴェルをスペインに呼び戻しました。

    第3代アルバ公爵 フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507年 – 1582年)

    第3代アルバ公爵 フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507年 - 1582年) 1557年 アントニス・モル アメリカヒスパニック協会蔵
    第3代アルバ公爵 フェルナンド・アルバレス・デ・トレド 1557年 アントニス・モル アメリカヒスパニック協会蔵

    引用元:フェルナンド・アルバレス・デ・トレド

    フェリペは、猛将アルバ公と1万の軍隊をネーデルラントに送り込みます。

    1567年8月15日、アルバ公がブリュッセルに到着。

    「血の評議会」と呼ばれる特別法廷を設置したアルバ公は、新教徒たちを逮捕し処刑するなど、厳しい弾圧を行います。

    「アルバ公の行動が大惨事につながる」と、マルゲリータは異母弟であるフェリペに警告しましたが受け入れられず、1567年マルゲリータはネーデルラント総督職を辞任。

    後任にはアルバ公が就きました。

    パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリアの肖像(アントニス・モル作)

    リシュリュー翼811展示室のモルの作品

    Portrait d’homme désignant une horloge de table 1565年 アントニス・モル

    リシュリュー翼811展示室Portrait d’homme désignant une horloge de table, INV 1582 ; MR 880

    Portrait d'homme désignant une horloge de table 1565年 アントニス・モル ルーブル美術館蔵
    Portrait d’homme désignant une horloge de table 1565年 アントニス・モル

    引用元:Portrait d’homme désignant une horloge de table

    タイトルの日本語訳は「置時計を指差す男性の肖像」(Google翻訳)

    装飾モデルは、私たちが時々信じているように、必ずしも時計職人である必要はありません。置き時計は、1550 年頃のドイツ製のアラーム付きドラム時計です (1999 年の Hervé Oursel からの書面による連絡で、エクアンに非常によく似た時計があると言及されています)。

    (Google翻訳Portrait d’homme désignant une horloge de table

    画家モルとしては出てきませんが、この時代の背景などを知りたいときに

    作品の所有者 大蔵卿ニコラ・フーケ

    17世紀、この『グランヴェル枢機卿の道化師』は、ルイ14世の大蔵卿 二コラ・フーケのコレクションのひとつでした。

    ニコラ・フーケ( Nicolas Fouquet, 1615年 - 1680年) 17世紀 シャルル・ル・ブラン ヴォー=ル=ヴィコント城
    ニコラ・フーケ( Nicolas Fouquet, 1615年 – 1680年) 17世紀 シャルル・ル・ブラン ヴォー=ル=ヴィコント城

    引用元:ニコラ・フーケ

    宮廷で絶大な権力を誇ったフーケ。

    フーケは巨費を投じて、ヴォー=ル=ヴィコント城を建設します。

    フーケは城に国王ルイ14世を招き豪華な宴を催しますが、これはルイ14世の不興を買うことになりました。

    1661年9月、フーケは逮捕され、財産は没収されます。

    『グランヴェル枢機卿の道化師』は、ルイ14世によって没収された絵画でした。(1671年?)

    ヴォー=ル=ヴィコント城の建設に携わった建築家ルイ・ル・ヴォ―、画家シャルル・ル・ブラン、造園家アンドレ・ル・ノートルらは、後にルイ14世のヴェルサイユ宮殿の建設に用いられました。

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