王様、王妃様、寵姫、寵姫の夫。あなたならどの立場から本書を読みますか?

『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』
著者は エレノア・ハーマン( Eleanor Herman )氏。
本書より著者略歴を引用します。
「1981年までボルチモアのツーソン州立大学にてジャーナリズムを専攻し、そののち、ヨーロッパ諸国にて各国言語を学ぶ。これまで多くの論文を発表し、1989年から2002年までボンの出版社に勤務。」
この本が出たときには、フリーのライターとして米国にお住まいだったようです。
翻訳は 高木 玲(りょう)氏。 訳書に『ヒトラーの共犯者』などがあります。
訳者略歴には、
「関西大学非常勤講師を務める傍ら、2001年よりドイツ語出版翻訳に従事する。」
とありました。 ドイツ語出版翻訳って、私にとっては神様以上のレベルです。
『 Im Bett mit dem König 』
原書は『 Sex with Kings (王とのセックス)』のドイツ語版『 Im Bett mit dem König (王とベッドで)』の全訳とのことです。
『 Sex with Kings 』の表紙は、ブーシェの『褐色のオダリスク』。

引用元:『褐色のオダリスク』
ルーヴル美術館蔵L’Odalisque

引用元:『オダリスク』
ルーヴル美術館蔵Odalisque
ブーシェは、フランス国王ルイ15世の寵姫 ポンパドゥール夫人によって庇護された画家でした。
【hannaと美術館】の記事
『 Im Bett mit dem König 』邦訳版の表紙には、ルイ15世とその寵姫 デュ・バリー夫人が登場しています。

引用元:『ルイ15世とデュ・バリー夫人』
ハンガリー国立美術館Louis XV and Madame Dubarry
この表紙を見て、まず、「えー、ルイ15世に見えなーい」と思いました。
デュ・バリー夫人にも見えなーい。
デュ・バリー夫人ってこんな顔。このイメージ絵とかなり違いませんか?

引用元:デュ・バリー夫人胸像 CC-Zero
メトロポリタン美術館Madame du Barry (1746–1793)
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この本の目次
- フランス王家とイギリス王家の系譜図
- はじめに
- 第1章 王たちのセックス
- 悲劇の婚礼
- 寵姫とのセックス
- 不倫の操
- 第2章 ベッドを出たら ー 王を喜ばせる努力
- 王に気に入られる努力
- 一筋縄ではいかない猛女
- 退屈な美女
- 王をとりこにした不美人
- 第3章 寵姫と王妃 ー 王の寵愛をめぐるライバル
- 「陛下はわたくしの主であらせられます」
- 王妃の抵抗
- 王妃に利用された寵姫
- 太陽王とその妃
- 「公認の寵姫」という称号
- 王妃たちの涙と嘆き
- 第4章 寝取られた男 ー 寵姫の夫
- 従順の報酬
- 英雄ナポレオン
- ポンパドゥール侯爵夫人の誕生
- 沈黙の苦しみ
- 抵抗する夫たちの苛烈な運命
- 第5章 寵姫たちの心理戦 ー 成功の代償
- 黒魔術に頼ったモンテスパン夫人
- ポンパドゥール夫人と「鹿の苑」
- 政治上のライバル
- 陽気なライバル
- 第6章 セックスの報酬
- 宝石の役割
- 居室、領地、動産
- 爵位の使い道
- 賭け事の借金
- 手当と現金
- 寵姫への賄賂
- がめつい王と貧しい寵姫
- 第7章 ベッドの上の政治権力
- 王を改宗させたガブリエル・デストレ
- 「理性を曇らせてはならぬ」
- 「イギリス国王のお考えは、ひどくご婦人方に左右される」
- 首相になった寵姫
- ドイツの真の支配者
- 「あの女は口出しせぬし、させてもならん」
- 第8章 罪の町バビロンの娼婦 ー 移ろう世論
- 「王の娼婦!」と呼ばれたモンテスパン夫人
- ポンパドゥール夫人の心痛
- マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人
- 「わたしはプロテスタントの娼婦よ!」
- 革命の引き金となったローラ・モンテス
- 第9章 罪の果実 ー 王の庶子
- 庶子に対する王の愛情
- 私生児の認知
- 戦場に追い払い、結婚に売り渡す
- 数奇な運命を生きたメディチ家の私生児
- 第10章 王の死
- 愛されなかった王妃
- チャールズ二世が残した二人の寵姫
- ヨーロッパ一の美女の最期
- ナポレオンが救ったリヒテナウ伯爵夫人
- ハプスブルク帝国最後の寵姫
- 寵姫にキスをした王妃
- 第11章 栄華の終焉とその後
- 死神と寵姫
- 生きるということ
- 信仰に慰めを求めて
- 美貌が失われるとき
- 第12章 王と寵姫と結婚と
- エドワード八世とシンプソン夫人
- チャールズ皇太子とカミラ、そしてダイアナ妃
- 新しいトレンド
- おわりに
- 訳者あとがき
- 人名索引
あなたが知りたい・気になることは何でしょうか? 王妃の嘆き? 寵姫の優雅な贅沢生活? 王様の愛人の数ですか?
この本の目次には、人が知りたそうな項目がずらっと並んでいます。
ポンパドゥール夫人など特定の人物について知りたい場合は、正直ちょっと見づらいのですが(私の感想です)、「手当」など、気になる項目がはっきりしているときは調べやすいかと。
20年以上前に書かれた本ですが、その時は気にならなかったことがふと気になって見返すと、そのたび新たな発見があります。 いや、単に私が忘れているだけなんですがね…。
デュ・バリー伯爵夫人(1745年8月1日 – 1793年12月7日)
私が一番興味を持って読んだのはこの女性です。
『ベルサイユのばら』前半に登場した、ちょっと気の強い、肉体美の王の愛人です。
しっかり参考にさせていただきました。

『フローラに扮したデュ・バリー伯爵夫人』 1769年 フランソワ=ユベール・ドルーエ ヴェルサイユ宮殿

ポンパドゥール侯爵夫人(女侯爵)亡き後、フランス国王ルイ15世の寵姫となったデュ・バリー伯爵夫人。
本名をマリ=ジャンヌ・ベキューと言います。

引用元:ルイ15世の肖像
ルーヴル美術館Portrait de Louis XV (1710-1774), roi de France

引用元:ポンパドゥール夫人
ルーヴル美術館蔵Portrait en pied de la marquise de Pompadour
【hanna_and_art’s blog】の記事
ポンパドゥール侯爵夫人の全身肖像画(モーリス=カンタン・ド・ラ・トゥール作)
マリ=ジャンヌ・ベキューは、貧しい家庭に生まれました。
お針子をしている時、デュ・バリーと知り合って囲われ、彼の弟と形だけの結婚。
貴族の身分を手に入れ、宮廷に入ります。
ルイ15世の寵姫だったポンパドゥール侯爵夫人には知性では及びませんでしたが、デュ・バリー夫人の方が「美しさでは勝っていた」そうです。
彼女の元に嘆願に訪れた若い士官は、デュ・バリー夫人のあまりの美しさに圧倒され、自分の用件を忘れてしまったとか…。以下は彼の証言です。
宮廷に居並ぶ美女は多いが、そのなかでも夫人は最高の美女に数えられよう。姿かたちに欠けたところは一つもなく、じつに魅力的だった。しばしば髪粉を使わずに、見事な金色の髪を自然なままにしていた。髪はふさふさとしていて、どう結ってよいやら自分でもわからないようだった。大きな青い瞳でまっすぐに見つめ、会う人をとりこにしてしまう。鼻はじつに小さく、肌は目を見張るほど清らかだった。
エレノア・ハーマン(著), 高木玲(訳). 2005-12-30. 初版第3刷発行. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.70.
当時流行した天然痘の為に、ほとんどの人の肌にあばたがありました。
しかし彼女の肌にあばたはなく、「実際のところ希少価値だった。」
また、若い女性の多くが歯を失っていたにも関わらず、「デュ・バリー夫人が笑うと、真珠のような歯が二列覗いた。」
これ、当時の社会では、かなり目立っていたのでしょうね。
そして、身体を清潔に保つ「お手入れ」です。
宮廷貴族も大層不潔なこの時代、デュ・バリー夫人は、かなり「特異な」習慣を持っていました。
ほとんどの宮廷貴族は身体の汚れや強烈な体臭を、ビロードやレースや大量の香水でごまかしていた。女性たちは複雑に結い上げた髪のなかへ櫛を突っ込んで汚れをこそげ落とした。油ぎった頭皮にシラミがわくと、かゆくてたまらないからだ。それに対してデュ・バリー夫人には、汚れも、臭いも、ノミもシラミも無縁だった。夫人は週に何度もバラの香りの風呂を浴びていた。
エレノア・ハーマン(著), 高木玲(訳). 2005-12-30. 初版第3刷発行. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.70.
読んだだけで一気に痒くなる、この時代の髪状況…。
この清潔な習慣を持っているだけでも、私はデュ・バリー夫人のファンです。

デュ・バリー夫人が宮廷入りした時、彼女が無様に失敗する様子を見物すべく、大広間には多くの貴族が押し寄せたと言います。
しかし、彼女が姿を現すと、
そのあまりの美しさに、最も容赦ない敵でさえ思わず息をのんだ。一〇万リーヴル相当のダイヤモンドで身を飾り、金糸・銀糸を織り込んだドレスの裾は大きく膨らんでいる。宮廷風に膝を屈めて三度お辞儀をするとき、また後ろに下がるとき、デュ・バリー夫人は巧みな足さばきで長い裳裾を脇へはらった。貧民あがりの無様な小娘を期待していた者たちは皆失望した。デュ・バリー夫人の姿は上品でエレガントだった。古い家柄を誇る貴婦人たちと比べても、なんら遜色なかった。
エレノア・ハーマン(著), 高木玲(訳). 2005-12-30. 初版第3刷発行. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.255.
本書には、他にもデュ・バリー夫人の衣裳の金額も出てきます。庶民が聞いたら心が折れそうな金額ですが、興味がありましたらぜひお読みください。
その後、公妾・寵姫の存在を憎むマリー・アントワネットとの女の闘い、天然痘に罹患したルイ15世の崩御と、デュ・バリー夫人にとっての苦難が続きます。
ルイ15世の死でヴェルサイユを追放され、修道院に送られたデュ・バリー夫人でしたが、「デュ・バリー夫人は共同生活にも慣れ、喜んで仕事を引き受け、ミサの時間もきちんと守った」とあり、最初はあまり好意的でなかった修道女たちも考えが変わって行きます。
昔読んだ『ベルばら』ではマリー・アントワネットの側に思い入れるあまり(?)、デュ・バリー夫人に対していい印象は持っていませんでした。
しかし読み進めるうちこの辺りで、「このひと、そんなにイヤなひとではなかったのでは…」との印象を強くしました。
【hanna_and_art’s blog】の記事
コーヒーを飲むルイ15世の寵姫たちの絵 デュ・バリー夫人とポンパドゥール夫人
ヴィジェ=ルブランによる1778年のマリー・アントワネットの肖像画
著者はデュ・バリー夫人を、「愉快な子どもで、天才的な娼婦で、優しい母だった」と書いています。
ベッドで王を悦ばせるだけでなく、その明るく人好きのする性格で王を憂鬱から救い、室内を王の好きな花々で埋め尽くし、曲芸師や道化師を招き、オペレッタを上演させる。
ルイ15世にとっては、最高の女性であったのでしょう。
夫人の母親は多くの貴族の館で料理女として働いた経験があった。高慢な廷臣たちはそのことを悪く言ったが、デュ・バリー夫人は愛する王の美食に飽きた胃袋を、母親に推薦してもらった数々の素晴らしい料理で驚かせた。
エレノア・ハーマン(著), 高木玲(訳). 2005-12-30. 初版第3刷発行. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.71.
ウィーンの「女帝」マリア・テレジアの支配する宮廷で育った マリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人のことを「考えられるかぎりもっとも愚かで無礼なふしだら女」と手紙に書いています。
しかし実際のデュ・バリー夫人というのは、「蓮っ葉なところはみじんもなく、非常に上品な感じの女性だった」そうです。(『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃』. 中公新書)
ヴィジェ=ルブランによる、フィラデルフィア美術館収蔵のデュ・バリー夫人の肖像画解説にも、デュ・バリー夫人は「決して他人の悪口を言わない」とありました。

引用元:デュ・バリー夫人
フィラデルフィア美術館Portrait of Madame Du Barry
ジャンヌ・デュ・バリーはこの肖像画を気に入っていたに違いありません。1780年代に、愛人それぞれに1枚ずつ、計2枚の版画を依頼したのです。このパネルは、マダム・デュ・バリーから数マイル離れたところに住み、1780年頃に彼女の愛人となったイギリス貴族、ヘンリー・シーモアの所有物でした。美しさ、寛大さ、そして決して他人の悪口を言わないことで知られたマダム・デュ・バリーは、芸術の崇拝者であり、パトロンでもありました。(Google翻訳)
フィラデルフィア美術館Portrait of Madame Du Barry
ルーヴル美術館収蔵の「嗅ぎ煙草入れ」(Tabatière , OA 6821 ピエール=フランソワ・ドレ作)には、「マダム・デュ・バリーより愛する人へ」との言葉が入っています。
以前、「アート写真」:ピエール=フランソワ・ドレ(嗅ぎ煙草入れ)という記事もあり(今は見られないようです)、「おそらく恋人だったヘンリー・シーモア卿」宛てかな?と思われます。
また、デュ・バリー夫人は、「むしろ困っている人がいれば助けようとする人だった」ともいいますので、いよいよ「デュ・バリー夫人、いいひと」説が私のなかで固定されていきます。
実際、貧困と猥雑な空気の中で育ったこの女性は、実に平凡な優しい性質をしており、冷酷な権謀術数や策略にはまったく縁のない素直な可愛い女に過ぎませんでした。
池田理代子(文). 1994-5-20. 『フランス革命の女たち』. 新潮社. p.32.
デュ・バリー夫人についてはこちらにも書いています
以下もヴィジェ=ルブランによる、デュ・バリー夫人の肖像画です。

引用元:デュ・バリー夫人
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートMadame du Barry

引用元:デュ・バリー夫人の肖像
クリスティーズPortrait of Madame du Barry (1743-1793), three-quarter-length, seated in a landscape
風景のなかに座るデュ・バリー夫人。
1789年に着手された肖像画ですが、完成したのは10年以上も後でした。
デュ・バリー夫人は1793年に処刑されています。
肖像画は、1789年夏にルーヴシエンヌ旧城で依頼されたが未完成のまま放置され、ブリサック公ルイ・エルキュール・ティモレオン・ド・コッセ(1734-1792)に託されたとみられ、1793年9月にルイ・アントワーヌ・オーギュスト・ド・ロアン=シャボー(1733-1807)、後の第6代ロアン公ルイ・マリー・ジャック・アマルリック・ナルボンヌ=ララ伯ルイ(1755-1813)によって彼の邸宅でマダム・デュ・バリーの他の肖像画とともに回収され、1802年以降、パリのグロ・シェネ通りにあるホテル・ル・ブランのヴィジェ・ルブラン(1755-1842)に修復され、後にヴィジェ・ルブランによって完成され、彼女の死後、パリのシャトー・デュ・コックにある彼女の邸宅で作成された財産目録に記載されている。(Google翻訳)
クリスティーズPortrait of Madame du Barry (1743-1793), three-quarter-length, seated in a landscape
『図説 ヨーロッパ 宮廷の愛人たち』(河出書房新社)のなかで、著者・石井美樹子氏は上の2枚の肖像画について、夫人のパトロンのド・ブリサック元帥の依頼で描かれたと仰っています。

引用元:ルイ・エルキュール・ティモレオン・ド・コッセ=ブリサック
1789年、フランス革命
デュ・バリー夫人はイギリスへ渡り難を逃れましたが、なぜか革命の嵐が吹き荒れるフランスへ舞い戻ります。
デュ・バリー夫人が危険なフランスに戻って来たのは、革命を甘く考えていた「呑気な愚かさ」?
それとも、隠していた宝石類を取りに?
国王の元寵姫なんて、もう誰も気にしていないだろう、と思ったのでしょうか。
革命でド・ブリサック元帥は逮捕。 1792年9月9日、惨殺されます。(「9月虐殺」)
元帥の首は斬り落とされ、愛人だったデュ・バリー夫人の邸に投げ込まれました。
デュ・バリー夫人自身もまもなく逮捕され、投獄されます。
【hanna_and_art’s blog】の記事
「一杯のチョコレート」を楽しむパンティエーヴル公の家族と「9月虐殺」
そして1793年12月7日、デュ・バリー夫人はギロチンにて処刑されました。
デュ・バリー夫人は、断頭台を前に取り乱し泣き叫んだと言われています。
低い身分から美貌を武器に、国王の伴侶にまでなったデュ・バリー夫人。
あのままイギリスに留まっていれば、命までは落とさなかったかもしれないのに、と思います。
『図説 ヨーロッパ 宮廷の愛人たち』の著者 石井美樹子氏の言葉を借りれば、デュ・バリー夫人の人生は、正に「栄華と悲惨を極めた生涯」だったと言えるでしょう。
ド・ブリサック元帥と「ジョゼフ=マリー・ヴィアンの絵画」
『キューピッド売り』、『奴隷制度から逃げる愛』(Google翻訳)は、美術愛好家だったド・ブリサック元帥とも縁が深い作品です。
画家はジョゼフ=マリー・ヴィアン( Joseph-Marie Vien, 1716年6月18日 – 1809年3月27日)。
有名な『キューピッド売り』は ド・ブリサック元帥を通して、デュ・バリー伯爵夫人に贈られています。

引用元:『キューピッド売り』
ルーヴル美術館La Marchande à la toilette, dite La marchande d’amours
【hanna_and_art’s blog】の記事
18世紀の古代ブーム ジョゼフ=マリー・ヴィアンの『キューピッド売り』

引用元:Cupid Fleeing from Slavery
Musée des AugustinsL’Amour fuyant l’esclavage – tableau
『奴隷制度から逃げる愛』について、Wikipediaより。
Commande de Louis Hercule Timoléon de Cossé-Brissac pour le compte de Madame du Barry, qui possède le tableau qu’elle vise à accompagner, l’œuvre est présentée au Salon, à Paris, l’année de sa création, et elle est d’ailleurs la première entrée de son catalogue. Saisie pendant la Révolution française, elle est conservée depuis 1876 au musée des Augustins, à Toulouse[1],[2]. .
(参考:Wikipedia L’Amour fuyant l’esclavage )
(Google翻訳:この作品は、ルイ・エルキュール・ティモレオン・ド・コッセ=ブリサックが、その絵画を補完するものとして所有していたデュ・バリー夫人のために依頼したもので、制作された年にパリのサロンに出展され、事実上、そのカタログの初版となった。フランス革命中に押収され、 1876年以来トゥールーズのオーギュスタン美術館に保管されている[ 1 ]、[ 2 ] 。)
『キューピッド売り』はこちらにも掲載しています
私が気になる有名寵姫たち
本書には何人もの王の寵姫たちが出てきます。
そのなかの数人は本館【hanna_and_art’s blog】でも取り上げています。
フランス王シャルル7世愛妾 アニェス・ソレル( Agnès Sorel, 1421年 – 1450年2月9日)

引用元:『ムランの聖母子』
アントワープ王立美術館Madonna Surrounded by Seraphim and Cherubim
アニェスの死後に書かれた『ムランの聖母子』(ムーランの聖母子とも表記)。
「メトレス・ド・ボーテ」(麗しの君)(高貴な貴婦人)と呼ばれ、王に愛された女性です。
彼女の「乳出し」ファッションに興味がありまして。
【hanna_and_art’s blog】の記事
15世紀の寵姫アニェス・ソレルのファッション(ジャン・フーケの『ムランの聖母子』)
彼女の死因にも興味がありまして。
【hanna and books】の記事
『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』から、寵姫アニェス・ソレルの死因
フランス王アンリ4世愛妾 ガブリエル・デストレ( Gabrielle d’Estrées, 1571年 – 1599年4月10日)

ルーヴル美術館蔵Gabrielle d’Estrées et une de ses soeurs
なぜ乳首をつまむ?と、ちょっとドキッとする『ガブリエル・デストレとその姉妹』。
この仕草には諸説あり、ガブリエルが王アンリ4世の子を妊娠していることを示唆しているのでは、というものも。
ガブリエルは直接出てきません。ガブリエル亡き後のアンリ4世が見つけた、新たな恋の話です。
【hanna_and_art’s blog】の記事
1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機
ガブリエル・デストレは「シュノンソー城の女主人」のひとりでもあります。
【hanna_and_art’s blog】の記事
フランス王ルイ14世愛妾 モンテスパン侯爵夫人(Madame de Montespan, 1641年10月5日 – 1707年5月27日または5月28日)

引用元:Inconnue en Iris
フランス歴史博物館Inconnue en Iris(在庫番号: MV 3542)
Iris(アイリス、イリス)とは、ギリシャ神話に出てくる虹の女神です。
モンテスパン侯爵夫人(フランソワーズ・アテナイス・ドゥ・ロシュシュアール・ドゥ・モルトゥマール、Françoise Athénaïs de Rochechouart de Mortemart )は、フランス王ルイ14世の寵姫。
モンテスパン夫人の有名なエピソードに、「黒ミサ事件」があります。
以前、この肖像画はがっつり「モンテスパン夫人」とされていたかと思いますが、フランス歴史博物館の解説に、なんとなく気になる記述があったので、載せておきます。
Personne représentée : anciennement identifiée comme Françoise-Athénaïs de Rochechouart, marquise de Montespan
フランス歴史博物館Inconnue en Iris(在庫番号: MV 3542)
(Google翻訳:描かれた人物 : 以前はフランソワーズ・アテナイ・ド・ロシュシュアール、モンテスパン侯爵夫人と特定されていました)
サイトでのタイトルは「Inconnue en Iris」です。
今は「モンテスパン侯爵夫人」ではないんですかね?
夫人は登場しませんが、ルイ14世の有名な愛人の髪形についての記事です。
【hanna_and_art’s blog】の記事
1670年代の髪形ハールーベアルー / ユルリュベルリュ(キャベツ巻き)とフォンタンジュ
イングランド王チャールズ2世愛妾 ネル・グウィン( Nell Gwyn, 1650年2月2日 – 1687年11月14日)

引用元:ネル・グウィンとされる女性像
ナショナル・ポートレート・ギャラリーUnknown woman, formerly known as Nell Gwyn
庶民出身の、国王の寵姫。
自分の死後、「哀れなネルを飢えさせないで」とはチャールズ2世の今わの際の言葉です。
【hanna_and_art’s blog】の記事
フランス王ルイ15世愛妾 マリー=ルイーズ・オミュルフィ( Marie-Louise O’Murphy, 1737年10月21日? – 1814年12月11日)

引用元:『横たわる少女』
アルテ・ピナコテークRuhendes Mädchen, 1752
ポンパドゥール侯爵夫人が、ルイ15世のために作った娼館で、王の相手をした少女。
『横たわる少女』はこちらにも掲載しています【hanna and books】
【hanna_and_art’s blog】の記事






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