あなたが王様なら選りすぐりの医師団による最高の治療を受けることができます。1685年のイングランド宮廷での話です。
患者様はイングランド王チャールズ2世様
チャールズ2世( Charles II, 1630年5月29日-1685年2月6日)
引用元:チャールズ2世
職業、ご身分:イングランド、スコットランド、アイルランドの王。「陽気な王様」と呼ばれます。
お父様:清教徒革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世(1600年-1649年)。
お母様:フランス王女ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(フランス名はアンリエット・マリー・ド・フランス。1609年-1669年)、お母様のご両親はアンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスです。
備考:ヘンリエッタ・マリアの兄はフランス王ルイ13世。その息子であるルイ14世とチャールズ2世は従兄弟同士ということになります。
引用元:チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
奥様:チャールズ2世の妃は、ポルトガルから輿入れしたキャサリン・オブ・ブラガンザ(1638年-1705年)。当時高級品だった紅茶を愛飲し、イングランド宮廷に喫茶の習慣を根付かせました。
妹姫:オラニエ公妃メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(1631年-1660年)。後のイングランド王ウィリアム3世のお母様。
1685年当時、最高の治療
『イギリス王室 1000年史』(新人物往来社)ではチャールズ2世は「尿毒症の為」亡くなったとあります。
『「最悪」の医療の歴史』(原書房)では、
イングランド王チャールズ二世が一六八五年に突然亡くなったとき、廷臣たちは説明を要求した。王の侍医団はなんとか責任を逃れたいとの思いから、多くの日誌類を公表した。これらの記録は、王が当時としては最高の治療を受けていたことを明確に証明するものだった。
ネイサン・ペロフスキー(著). 伊藤はるみ(訳). 2014-1-28. 『「最悪」の医療の歴史 』. 原書房. p.67.
と書かれています。
それでは、心臓発作を起こして倒れた国王陛下が受けられたという当時最高の医療の内容を見てみましょう。
二月二日、お目覚めの際、王は気分がすぐれなかった。髭剃りを中断し、一パイント(約五〇〇CC)の血液を採取。使者を出して精鋭の医師団を招集し、吸盤を使用してさらに八オンス(約二四〇CC)の血液を採取。
ネイサン・ペロフスキー(著). 伊藤はるみ(訳). 2014-1-28. 『「最悪」の医療の歴史 』. 原書房. p.68.
中世から行われている治療法の一つに、「瀉血(しゃけつ)」があります。
「体内にたまった不要物や有害物を血液と共に外部に排出させることで、健康を回復できる」という考えによるものですが、体力が弱まっている病人に行ったりすれば、それは時として命取りになります。
チャールズ2世はこの量の血を取られた後、続いて、
陛下に有毒の金属であるアンチモンを嚥下していただく。嘔吐される。一連の浣腸を実施。有害な体液を下降させるため、頭髪を剃り、頭皮に発疱薬を塗布。
下降した有害な体液を吸収するため、ハトの糞などの刺激物質を足の裏に湿布。さらに一〇一〇オンス(約三〇〇CC)の血液を採取。
気力回復のため砂糖飴を摂取いただいた後、灼熱した鉄棒で突く。その後「一度も埋められたことのない男 ― 非業の死をとげたことは確認済み ― の頭蓋骨から滲出した液を四〇滴投与。最後に西インドのヤギの腸から採取した砕石を王の喉に押し込む。
ネイサン・ペロフスキー(著). 伊藤はるみ(訳). 2014-1-28. 『「最悪」の医療の歴史 』. 原書房. p.68.
中世には錬金術の材料として名前が挙げられる、レアメタル「アンチモン」。Wikipedia の毒性の項を引用します。
急性アンチモン中毒の症状は、著しい体重の減少、脱毛、皮膚の乾燥、鱗片状の皮膚である。また、血液学的所見では好酸球の増加が、病理的所見では心臓、肝臓、腎臓に急性の鬱血が認められる[13]。このほか、アンチモン化合物は、皮膚や粘膜への刺激性を有するものが多く、日本では毒物及び劇物取締法及び毒物及び劇物指定令によりアンチモン化合物及びこれを含有する製剤は硫化アンチモンなど一部の例外[注釈 1]を除いて劇物に指定されている。
アンチモン 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
血を抜かれ、浣腸され、アンチモンを飲まされ、ハトの糞を足裏に塗られ、灼熱した鉄棒で突かれ、砕石を喉に押し込まれ、非業の死をとげた人の頭蓋骨の…。
……………。
えーっと。
弱っているひとに、そりゃまずいんじゃないかな…。
現代日本に生きる者としては「いや、それはマズイっしょ( ゚Д゚)」と容易に想像できますが、当時としては考えられる限りの最高の治療法だったのでしょう。
現代から見れば拷問や笑い話にしか思えない数々の事例ですが、当時は真剣だった筈。 チャールズ2世の治療を行った医師たちを非難するつもりは私には無く、ただ、多くの過ちとか成功、経験の上に現代の医療が成り立っているのだなと思いました。 歴史の中でどのような治療が行われていたのかご興味がある方はご一読を。
チャールズ2世の最後の言葉
チャールズ2世の寵姫たち
引用元:バーバラ・ヴィリアーズ
引用元:フランセス・ステュアート
引用元:ルイーズ・ケルアイユ
引用元:ネル・グウィンとされる女性像
宮廷の首席画家ピーター・レリーが描く歴代?の寵姫たちです。美人揃いですね。
1660年、チャールズ2世は亡命先から帰国し王位に就きます。
愛人たちが常に途切れない「陽気な王様」チャールズ2世。認知した子どもの数は14人にのぼります。
しかし1662年に結婚した王妃キャサリンとの間に子どもはいませんでした。
チャールズはキャサリンを庇い、王妃の立ち場を守ります。
キャサリンも子どもができなかったという引け目もあったのか故国には戻らず、離婚しませんでした。
1685年の冬の日。
たいていの王は死んだあと寵姫を一人残すだけだったが、チャールズ二世は違った。一六八五年、ハーレムを一つ丸ごと残したまま、チャールズは逝った。おもだった寵姫二人の境遇は、王の死後まったく違う様相を呈した。
おそらくは梅毒のせいで心臓発作を起こし、王は五五歳で死の床についた。チャールズの寵姫ルイーズ・ド・ケロワールは王の枕頭に赴いて、王に最後の務めを果たそうとした。政治的な理由で公に改宗こそしなかったものの、王はひそかにカトリック教徒になっており、ルイーズはそのことを知る数少ない一人だった。
エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. pp.289.-290.
「寵姫二人」とは、ルイーズ・ド・ケロワール(ルイーズ・ルネ・ド・ケルアイユ)と、ネル・グウィンです。
王妃キャサリンがチャールズ2世の側に付いていたためルイーズは遠慮し、代わりにカトリックの司祭を手配します。
チャールズには跡継ぎの男児がいなかったので、次の王は弟のジェームズでした。
王妃キャサリンとジェームズ、ルイーズはカトリック教徒です。
ジェームズはプロテスタントの秘蹟を拒否したチャールズのために、カトリックの司祭を入室させます。
その際チャールズ2世はルイーズについて、
「余はあれをつねに愛してきた。あれへの愛のうちに余は死ぬ」
との言葉を口にしました。
” Let not poor Nelly starve. ” (かわいそうなネルを飢えさせないで)
フランスの(貧乏)貴族出身のルイーズ。
彼女の後ろ盾はフランス国王ルイ14世でしたが、もうひとりの寵姫ネル・グウィンは1650年に貧民街で生まれた女性でした。
引用元:ネル・グウィンとされる女性像
チャールズ2世の宮廷の貴族たちは身分の低さからネルを嫌いましたが、庶民の間では、オレンジ売りや女優を経て王の寵愛を受けるまでになったネルの方が人気がありました。
ルイーズはジェームズ(ジェームズ2世)から恩給を貰い、莫大な財産がありましたが(あっという間に使い果たします)、ネルの場合は違いました。
チャールズ2世の死で、ネルへの手当は終わってしまったのです。
ネルには領地も無く、その他定期的な収入もありませんでした。
死の床についたチャールズは、一七年間忠実に仕えてくれたネルにもっとよく応えてやらなかったことをどうやら後悔したようだ。「哀れなネルを飢え死にさせないでくれ」と、彼は死の間際になって弟に懇願した。
エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.292.
最高の治療を施されたにも関わらず、チャールズ2世は1685年2月6日に亡くなります。
チャールズ2世が危惧した通り、ネルの生活はたちまち困窮しました。
しかしジェームズ2世はネルの借金を払うなど、援助の手を差し伸べます。
チャールズ2世からうつされたと思われる梅毒が原因か、心臓発作を起こしたネルは、1687年の冬37歳の生涯を閉じました。
ジェームズ2世の治世の間イングランドに留まっていたキャサリン・オブ・ブラガンザは名誉革命の後、1693年に帰国。リスボンで亡くなりました。
- ネイサン・ペロフスキー(著). 伊藤はるみ(訳). 2014-1-28. 『「最悪」の医療の歴史 』. 原書房.
- エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ.
コメント
コメント一覧 (2件)
hannnaさん、こんにちは。
チャールズ2世の寵姫の方々…本当に綺麗な方ばかりですね。
イギリスは美人がいないと思っていたら、生まれはフランス人だったりするのですね。(笑)
当時の最高の治療というのは、はっきり言ってかえって怖い感じ。
放っておいたほうが、長生きしそうですね。
きっと、火にあぶったり、煮沸消毒もまだされていない時代でしょうし…。
梅毒…今のエイズみたいな感覚でしょうか。
この頃の時代に生まれていなくてよかったです。
贅沢三昧でも、長生きできそうにありませんね(笑)
ぴーちゃん様
コメント有難うございました。
さすが王様に見初められるだけあって、皆さん美人ですよね。
寵姫たちは他にもいるのですが本題からズレてしまうので、レリーが描いた肖像画だけを集めてみました。
確かに、いっそほっといてくれた方が良さそうです。
今の感覚からすれば「それ迷信だから!止めて、それ!治療じゃないし!」と叫びたくなります。
梅毒の歴史はある意味興味深いです。
放蕩者の死因はだいたいそれっぽいそうですが、フランソワ1世の身体にその発疹ができたとき、「性愛の花環」とか呼ばれてましたしね。いやそんな優雅な話じゃないじゃんと思います。
一度やってみたいテーマのひとつですが、見てくださる方がいるのかというのと、違うところからのアクセスがあるかも…と思い、なかなか記事にできません。
今はきちんとした薬もありますし、感染症の歴史とか文化、社会に興味を持つ方がいれば情報をシェアさせていただきたいと思います。その際には字ばかりで絵画の掲載率が下がるかもしれませんが…。
本当に現代日本に生まれて良かったと感じています。
今回もみてくださって有難うございました。