フランソワ・ブーシェの有名な絵画『オダリスク』のモデルについて。「褐色のオダリスク」と呼ばれるオダリスクはブーシェの奥様説があります。
『褐色のオダリスク』( L’Odalisque Brune ) 1745年 フランソワ・ブーシェ
引用元:『褐色のオダリスク』
シュリー翼921展示室, (RF 2140) L’Odalisque
シュリー翼921展示室の展示作品については ロココの画家ブーシェとシャルダンの絵画を堪能
18世紀ロココの画家、フランソワ・ブーシェが描いたヌード画『褐色のオダリスク』。
小机にはブーシェのサインも入っています。
この絵が描かれた当時、エキゾチックな異国趣味が流行していました。
さり気なく置かれている東洋っぽい小物や髪飾りで、これはオスマン帝国の皇帝に仕える後宮の女性、「オダリスク」を描いた絵だと判ります。
引用元:『褐色のオダリスク』
ブーシェはこうした小物を配することで、後宮の女奴隷「オダリスク」を描いたことにしていますが、
画家にはイスラム圏の文化考証をする気はなく、身近なモデルのふくよかで優雅な肢体を描き出すことにひたすら注力している。
池上英洋(著). 2014. 『官能美術史 ヌードが語る名画の謎』. 筑摩書房. p.226.
ということです。
単に美しい女性のお尻だけを描きたかったのかも。
モデルは、ルイ15世の愛人のマリー=ルイーズ・オミュルフィ、ポンパドゥール夫人等諸説あります。
よく言われるのが、ブーシェのモデルだった13歳年下の奥様説ですね。
引用元:オダリスク
女性が寝そべってお尻を出しているきわめて煽情的な「オダリスク」を描いたが、このモデルには諸説あって、ルイ十五世の愛人だったヴィクトリア、その姉のマリー・ルイーズ、あるいは彼の奥さん説もある。ポンパドゥール夫人説も面白いが、国王の第二夫人でもあった彼女がそこまでしたかどうか。
小島英熙(著). H6-1-20. 『ルーヴル・美と権力の物語』. 丸善ライブラリー. p.125.
ランス美術館による解説も参考になります
イタリア留学から帰国したブーシェは、1734年の『リナルドとアルミーダ』で王立絵画彫刻アカデミーの正会員となります。
この絵画に描かれているのが、後のブーシェ夫人マリー=ジャンヌ・ビュゾーです。
引用元:『リナルドとアルミーダ』
シュリー翼919展示室 ,(INV 2720 ; MR 1213) Renaud et Armide.
金髪のオダリスク
その髪の毛の色から、『褐色のオダリスク』(『ブルネットのオダリスク』『L’Odalisque Brune』『Brown Odalisque』)と呼ばれる本作に対し、「金髪(ブロンド)のオダリスク」とも呼ばれるヌード画があります。
『横たわる少女』( Ruhendes Mädchen (Louise O’Murphy)1751 ) 1751年 フランソワ・ブーシェ ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵
引用元:『横たわる少女』
ヴァルラフ・リヒャルツ美術館:Ruhendes Mädchen (Louise O’Murphy)1751
『横たわる少女』( Ruhendes Mädchen, 1752 ) 1753年頃 フランソワ・ブーシェ アルテ・ピナコテーク蔵
引用元:『横たわる少女』
アルテ・ピナコテーク:Ruhendes Mädchen, 1752
赤ちゃんのような、白くてふっくらしたお尻の「ブロンドのオダリスク」。
成熟した女性というより、随分若い女の子という印象ですね。
日本語のタイトルは『横たわる裸婦』『オミュルフィ嬢』『ソファに横たわる裸婦』などとなっています。
それまで裸婦像といえば、仰向けのポーズが主流でした。
うつ伏せで臀部を見せるポーズはとても珍しく、当時は大きな話題になったようです。
しかも、これは女神の裸体ではなく、ヌード画のためのヌード画。
18世紀、ヌードを描くためには、裸であるもっともらしい言い訳が必要でした。つまり、神話に出てくる女神か、化粧室での着替え中の人物でなければならなかったのです。
そんな時代に描かれたこの画は、人間の女性を言い訳なしに描いています。当時としては異例なことです。
木村泰司(監修). 2012. 『名画の美女 巨匠たちが描いた絶世の美女50人』. 洋泉社. p.44.
女神様でもなく着替え中でもない、生身の女性の肢体を描いたというわけですね。
ふたりの美尻のオダリスク
『お尻とその穴の文化史』では、このふたりのオダリスクについて、
褐色の髪のほうは、丸く魅力的な尻をソファにのせている。「まるで皿に載った肉のように、まるく盛り上がった尻、腿を開き、王のおやつといった風情」( J = P・デュフレーニュ)。この解放された女性にはブーシェ夫人の面影があると言う人もいれば、有名な宮廷の女性、ヴィクトワール・オマーフィがモデルだと言う人もいる。いずれにせよ、この絵はかなりの話題となった。『百科全書』で有名なディドロでさえショックを受け、「全裸の女性……、快楽に誘っている。この上なくくつろいだ、気楽な様子で、大胆に誘いをかけている」と語っている。
ぽっちゃりした金髪は、もう少し小さく薔薇色でくっきり二つに分かれた尻をたっぷりと見せている。暗青色の絹の布の上に横たわり、薄青の衣装はお尻がぜんぶ見えるようにずっと上のほうまで、まくれ上がっている。
ジャン・コルダン, オリヴィエ・マルティ(著). 藤田真利子(訳). 2005-10-10. 『お尻とその穴の文化史』. 作品社. pp.116-117.
とあります。
「金髪のオダリスク」の描写の、「暗青色の絹の布」のという所にちょっと「?」です。
それに、たっぷりとお尻を見せ、衣装がまくれ上がっているのは「褐色のオダリスク」だと思うのですが…。また、ソファに身体を横たえているのは「金髪のオダリスク」ですよね…。
さらに気になったのは、ケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館にある「金髪のオダリスク」について書いているのに、本書内(p.114)で使われている「金髪のオダリスク」の絵はミュンヘンのアルテ・ピナコテークの絵の方だということ(;´∀`)。
誤って掲載されている書籍は他にもあるのですが、この本では、「褐色のオダリスク」「金髪のオダリスク」の制作年代が両方とも「1759年」となっています(p.114)。お読みになる際はどうぞお気をつけて。
「金髪のオダリスク」のモデル、マリー=ルイーズ・オミュルフィ( Marie-Louise O’Murphy, 1737年10月21日?-1814年12月11日)
引用元:『白日夢』
「金髪のオダリスク」のモデルは、仏ルーアン生まれのアイルランド人の少女、マリー=ルイーズ・オミュルフィ(当時14歳)だと言われています。
子沢山の一家に生まれ、13歳頃、『カザノヴァ回想録』で有名なジャコモ・カサノヴァに見出され、彼の愛人になったようです。
カサノヴァが初めて彼女を見た時のこと。
その回想録のなかで「手入れが行き届いていないが魅力的な少女。金髪でそのうえ青い瞳は深い色と輝きをたたえている」と記している。そこでカサノヴァはブシェにこう話した。「きみのモデルのヴィクトリーヌには小さな妹がいて、これこそあの家族の逸品だよ。」
ブシェが進んで確かめてみたことはいうまでもない。なにしろ、ニンフや女神の趣向に絶えず目先きを変えて顧客を満足させなければならなかったからである。それらは最も新しいタイプであり、ルーベンスの描いた豊満な女たちとはまったく異なる裸婦の美の新しい理想像であった。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.140.
「褐色のオダリスク」のモデル説で名前が出て来た「ヴィクトリア」(ヴィクトリーヌ)はマリー=ルイーズの姉で、ブーシェの絵のモデルをしたことがありました。
マリー=ルイーズ自身もブーシェのモデルを務めたことがきっかけとなり、フランス国王ルイ15世の愛人となりました。
ルイ15世の公式寵姫ポンパドゥール夫人( Madame de Pompadour )
引用元:『ポンパドゥール夫人』
この女性は、平民出身ながら、その美貌と知性でルイ15世の公式寵姫となったポンパドゥール侯爵夫人です。
芸術を愛するポンパドゥール夫人はブーシェを支援。
ブーシェは彼女の庇護のもと、多くの絵画、優れた室内装飾を手掛けました。
ポンパドゥール夫人はブーシェから絵を習うこともしています。
引用元:フランソワ・ブーシェの肖像
, INV 30868(※グラフィック・アーツ相談室で予約して閲覧可) Portrait de François Boucher (1703-1770). )
ポンパドゥール夫人は寵姫としてルイ15世から寵愛を受け、自らもルイ15世に尽くしました。
しかし、実際にふたりが男女の関係だったのは5~6年程だったといいます。
生来ポンパドゥール夫人は病弱でした。
なんとかベッドでの王の期待に応えようと様々な媚薬や薬を試しましたが、逆に健康を害する結果になってしまいます。
娼館「鹿の苑」(「鹿の園」 Parc-aux-cerfs )
ルイ15世のベッドを退いたポンパドゥール夫人は、王のためにヴェルサイユ宮殿内の森の中に娼館を造り、王好みの若い娘たちを住まわせました。
集められた娘たちは、「鹿の苑」と呼ばれたこの娼館で、王に性的奉仕を行います。娘たちは売春婦が多かったようです。
もし娘が王の子どもを妊娠しても、庶民の子であれば爵位を授ける必要はありません。娘自身にも持参金をつけ、適当なところに嫁にやってしまえばいいのです。
無教養な労働者階級の娘であれば、自分の地位を脅かすことはない。
ポンパドゥール夫人はそう考えたようです。
マリー=ルイーズ・オミュルフィも自分の姉(姉妹の長女)ブリジットと共に、この娼館で王の相手をするひとりでした。
ブーシェの絵の中で見た、艶めかしい肢体のマリー=ルイーズ。
ルイ15世は実物の彼女を気に入り、マリー=ルイーズは約2年間「鹿の苑」に住みます。
次第にマリー=ルイーズは自分の立場を勘違いし始めました。
ポンパドゥール夫人に代わり、自分が公式寵姫になれると思ったのかもしれません。
しかし、ある晩、ルイ15世の前でポンパドゥール夫人の陰口をたたいてしまい、王の不興を買ってしまいます。
ポンパドゥール夫人はマリー=ルイーズに持参金を付け、別の男性と結婚させてしまいました。
「鹿の苑」はその後、ポンパドゥール夫人の死後に次の公式寵姫となったデュ・バリー夫人によって閉鎖されます。
引用元:デュ・バリー夫人
ポンパドゥール夫人がブーシェを庇護したように、デュ・バリー夫人は、ブーシェの弟子フラゴナールを庇護しました。
自宅でブーシェの絵を楽しみたい時は覗いてみてください。たくさんの種類が出ています
- 池上英洋(著). 2014-11-10. 『官能美術史 ヌードが語る名画の謎』. 筑摩書房.
- 小島英熙(著). H6-1-20. 『ルーヴル・美と権力の物語』. 丸善ライブラリー.
- 木村泰司(監修). 2012. 『名画の美女 巨匠たちが描いた絶世の美女50人』. 洋泉社.
- 美術手帖(編). 2012. 『ヌードの美術史 身体とエロスのアートの歴史、超整理』. 美術出版社.
- ジャン・コルダン, オリヴィエ・マルティ(著). 藤田真利子(訳). 2005-10-10. 『お尻とその穴の文化史』. 作品社.
- ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11.『巨匠のモデル』. 白水社.
コメント
コメント一覧 (2件)
ハンナさん、こんにちは。
オダリスクとは、トルコの後宮の女性なのですね。
オスマントルコといえは、ハーレムを思い出し、だからと言っていやらしいわけでなく、アラビアンナイトのようなきらびやかなイメージがあります。
オスマントルコはヨーロッパへ戦争を仕掛けたけれど、しっかりエキゾチックな憧れの気持ちをヨーロッパの人々の心に植え付けていったのですね。(笑)
現代的な考えだったら、わたしもモデルはルイ15世の奥さんのような身分のある人が、ヌードと思えません。
(そんな絵があるかどうかも知らないのですが)
因みに、緑のドレスのポンパドゥール夫人の、絵が大好きです。
知的な雰囲気で。
知的でない私は、ハンナさんのブログで楽しく勉強させていただいていますが、お読みしたのに忘れてしまって、以前、記事として書いたじゃない…と失礼に思われることがあるかもしれません。
その時は、どうぞ、ご容赦くださいませ。
ぴーちゃん様
いつも有難うございます。
ほんとに有り難く拝読しています。
「以前書いたじゃない」などとは全く思っておりませんです。
ちょこっと書いたのは、コメント欄等見て下さっている方への宣伝(?)でした。
何より、自分で書いといて、自分が「書いたっけ」とか「どこに書いた?」という有り様で( ;∀;)、備忘録ブログが備忘録になってないというね…。
でも、ああ、もし全然予期しない方向に行ってぴーちゃんさんを悩ませてしまっていたのでは…(◎_◎;)と思っております。
そうでしたら大変申し訳ありませんでした。
「以前話したかな?」「聞いたかな?」は日常茶飯事な今日この頃です。
よろしければ、自分への確認のためにも役立ちますので、何か疑問に思われることがあればぜひ仰っていただければと思います。
過去に戦争したりしていても、オスマントルコ、ハーレム、オダリスク、コーヒーなどの印象が強い「エキゾチックなオリエント」に、当時の西洋は大いに興味があったようです。
仰るように、きらびやかなアラビアンナイトの世界ですよね。
私も小さい頃シンドバッドのような船乗りになりたいと思ったものでした。
(炎天下のシルクロードを行く隊商を率いるのはその前に断念していました。『十五少年漂流記』『宝島』は超愛読書で、今でも「お宝」などと聞くとわくわくします。しかし船酔いを経験して以来、海賊王を目指すのは諦めました)
ブーシェのオダリスクのモデルは奥様説が有力のようで、ポンパドゥール夫人ではないと思います。さすがにほんとの裸にはならないんじゃないかと。
でも、ポンパドゥール夫人をモデルにした絵の中にはヌード絵もあり(神話画)、胸やお尻は多分画家の想像なのだろうなと思います。
ぴーちゃんさんが「知的でない」と仰るのは大きな誤りがございますね。それは私にもわかります。
ひとは自分にないものを求めると申します。
他者にこう見られたいという自分を演出するものだとも。
私がもっと知性的であれば人生違ったぜと日々思っていますが、もう遅い。地頭はどうにもなりません。
小さい時は冒険小説に憧れ、親に美術館に連れて行かれ、中学生以降は歴史が好きになり、お宝に憧れた気持ちそのままに骨董品や宝石を好きになりました。
一時は病気等で人生終わったと絶望していましたが、好きなものへの記録を残し始めて、小さい時の気持ちを思い出しました。
つらい状況の時も私がずっと好きでいたものが、いつかどなたかの役に立つのであれば大変光栄ですし、嬉しいです。
勉強していただけるようなブログであるかは甚だ疑問で、いつも楽しんで貰えているといいなと考えているだけですが、ぴーちゃんさんにそう仰っていただけるなら、そうであるようにもう少し続けたいと思います。
長文失礼しました。
有難うございました。