ロワール川流域にあるシュノンソー城と、城を愛した女城主たちのお話です。
シュノンソー城
引用元:シュノンソー城
素敵なお城ですね。
昔読んだ『ヨーロッパ・古城の旅』(角川文庫)に「ショール川の中に建てられた「橋楼」といわれる建物は、「ゆあみするニンフ」と呼ばれ、妖しい美しさを持っている。」と書かれていて、「そんな優雅な別名で呼ばれる建物ってどんなの?」と思っていました。
「ゆあみするニンフ」、「六人の奥方の城」など、実にロマンティックな名前で呼ばれるシュノンソー城。
引用元:シュノンソー城 Lieven Smits CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0
1432年にジャン・マルケが戦火で崩れた砦を改築し、相続人となったピエール・マルケが城をトマ・ボイエに売却します。
1515年、城の所有者となったトマ・ボイエ( Thomas Bohier )は、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世と、三人の王に仕えた辣腕の財務官でした。
引用元:シャルル8世
引用元:ルイ12世
引用元:フランソワ1世
城を愛した女性たち
カトリーヌ・ブリソネ( Katherine Briçonnet, 1475年 ‐ 1526年)
砦だったシュノンソー城を居館に改築したのは、トマ・ボイエの妻カトリーヌ・ブリソネでした。
引用元:カトリーヌ・ブリソネ
カトリーヌは、主が留守がちの城を守り、それまでの武骨な城塞を生まれ変わらせました。
カトリーヌはシュノンソー城にフランソワ1世を二度招待しています。
しかしその後、国家に対する負債の返却として、ボイエ夫妻の息子によって城はフランソワ1世に献上されました。
ディアーヌ・ド・ポワチエ( Diane de Poitiers, 1499年 – 1566年)
フランソワ1世の息子アンリ2世は、王妃カトリーヌ・ド・メディシスがシュノンソー城に住みたがったにもかかわらず、城を愛妾ディアーヌに与えます。
引用元:ディアーヌ・ド・ポワチエ
1535年以降フランス王家の所有となっていたシュノンソー城は、本来なら愛妾にすぎないディアーヌが譲渡されるものではありませんでした。
ディアーヌに対するアンリの寵愛ぶりがわかるエピソードですね。
ディアーヌはこの城を増改築し、河に橋を渡したりイタリア式の整形庭園を造園したりしました。城も彼女に相応しい新たな装いが施されたのです。
木村泰司(著). 2010-11-30. 『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』. 光文社新書. 83.
引用元:ディアーヌのアーチ橋 Château de Chenonceau – France Author: Raph CC-BY-SA-3.0-migrated CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0
引用元:ディアーヌの庭園
ディアーヌは城を美しく飾りたいと、川の中に館を建て、庭を造ることを王にせがんだ。アンリ二世はこの費用捻出のため、国中の鐘一つに対して二十リーブルの税金をかけたので、当時の作家ラブレーが、「王は牝馬の首に国中の鐘をかけた」、と風刺したのは有名な話である。
井上宗和(著). 昭和59-1-25. 『ヨーロッパ・古城の旅』. 角川文庫. p.172.
…庶民の私とは住まいを「飾る」意味と規模、費用が桁違いです。いや、比べるのがおかしいか。
引用元:アンリ2世
アンリはディアーヌに少年の頃から愛を捧げ、国政への助言を求めるほど彼女を信頼していました。
イタリアから嫁いできた妃カトリーヌが顧みられる事はなく、カトリーヌは長い間嫉妬に苦しめられます。
カトリーヌ・ド・メディシス( Catherine de Médicis, 1519年4月13日 – 1589年1月5日)
引用元:カトリーヌ・ド・メディシス
イタリアの名門メディチ家の出身で、教皇クレメンス7世を親戚に持つカトリーヌ・ド・メディシス。
フランス王家に嫁いで来ましたが、宮廷では「商人の娘」と言われ蔑まれます。
そんな異国の地で親身になってくれたのは、夫の愛妾ディアーヌでした。
ディアーヌがカトリーヌに対して親切だったのは、正妻カトリーヌを味方に付け、アンリの関心をいつまでも自分へ向けておくためだったと言われます。
しかし、アンリ2世が事故死したことで、状況は大きく変わります。
アンリ2世の崩御で、長男のフランソワが即位します。
引用元:フランソワ2世
フランソワがまだ若かったことから、カトリーヌが摂政の座に就きます。
ずっと寵姫の陰に隠れ、冴えない存在だった商人の娘は「母后カトリーヌ」となり、大きな権力を手にしたのです。
カトリーヌは、亡夫アンリがディアーヌに贈った品の数々を記録していました。
カトリーヌはそのひとつであるシュノンソー城を要求。代わりにショーモン城を与えます。
もはやディアーヌは従うほかはなく、要求を受け入れ、シュノンソー城を後にしました。
カトリーヌがディアヌに対してした復讐行為のひとつは、ディアヌの居城であるシュノンソーの城を要求したことだった。しかしそれも、かつてディアヌがエタンプ夫人に対してしたように、無理矢理強奪したわけではない。シュノンソーをこちらによこすなら、その代わりカトリーヌの居城のひとつで、一五五〇年に彼女が自分の財産で買ったロワール河畔のショーモンの城(パリから南西一八九キロにある)を与えようという、はなはだ寛大な交換取引だった。ショーモン城からあがる収入はシュノンソーのそれより三割がたも多かったので、これは最終的にはディアヌのほうに有利な取引になった。
桐生操(著). 1995-12-20. 『フランスを支配した美女 公妃ディアヌ・ド・ポワチエ』. 新書館. pp.259-260.
実際には、ショーモン城の方が実入りが良いということで、ディアーヌにとってそんなに悪い交換取引ではなかったようです。
ずっと冷遇され続けた王妃として、ムリヤリ奪い取っても、まあ、ワカル気がします。
このとき城の所有権は王室ではなくディアーヌだったので、一方的に取り上げるのはそんなに簡単ではなかったのかな?
権力者となったカトリーヌなら、元寵姫など秘密裏に監禁なり処刑なりしてしまうこともできたでしょうから、シュノンソー城を取り上げたのはディアーヌへの嫌がらせとか、意地悪だったのでは…とも思ってしまいますね。
単なる意地悪や「前から欲しかったから」という理由以外にも、シュノンソーにフランソワ1世が招待されたこともあったように、こちらの方が賓客の接待に適していたから手に入れようとした、のかもしれません。
結局、ディアーヌがショーモン城に住んだのは一時だけで、最後はアンリから贈られたアネの城で亡くなりました。
シュノンソー城の女主人となったカトリーヌは、美しく洗練された庭園を造り、若き王の摂政として外交的行事を主催しました。
1560年には、息子フランソワの即位を記念する祝賀行事で、フランスで初めての花火を打ち上げています。
引用元:カトリーヌ・ド・メディシスの庭園 This image was originally posted to Flickr as Chenonceau. Photographer: Tim Sackton CC-BY-SA-2.0
引用元:カトリーヌ・ド・メディシスの庭園 LonganimE CC-BY-SA-2.5
カトリーヌによって橋の上に増築された大回廊も、シュノンソー城の特徴のひとつだ。白と黒のタイルが敷かれ、舞踏会に使用されたこの回廊は、きらびやかな宮中生活の舞台となったことだろう。
桐生操(監修). 2010-7-20. 『ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本』. PHP文庫. p.35.
この城で生活し、庭を眺め、舞踏会を楽しむ人びとの姿が浮かんでくるようです。
シュノンソー城の 3D 映像
公式サイト
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フランソワ2世が亡くなり、二番目の息子であるシャルルが王位に就きます。
しかしサン・バルテルミの虐殺事件が引き金となったのか、シャルル9世が狂死。
母カトリーヌに可愛がられた三男のアンリがフランス王となります。
引用元:アンリ3世
ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン( Louise de Lorraine-Vaudémont, 1553年4月30日 – 1601年1月29日)
シュノンソー城四番目の女主人となったのは、アンリ3世妃ルイーズです。
アンリ3世はコンデ公妃マリー・ド・クレーヴに想いを寄せていました。
マリーを離婚させて自らの妃にしようとした矢先、マリーは急死してしまいます。
しばらく悲嘆に暮れていたアンリでしたが、ナンシーの宮廷で見掛けた、マリーに似た少女を思い出し、その娘を自分の結婚相手にと考え始めます。
ルイーズは幼い頃、ナンシーの宮廷で礼儀作法を学んでいました。
その時のロレーヌ公妃はクロード・ド・ヴァロワ。
カトリーヌ・ド・メディシスの愛娘で、アンリの姉です。
引用元:クロード・ド・ヴァロワ
アンリの希望を聞いたカトリーヌは驚き、ルイーズの血筋や身分について考えを巡らせます。
ルイーズについて、ロレーヌ公妃クロードからは「とても敬虔で気立てがよく、何よりも美しくて健康である」との報告があり、最終的にカトリーヌはアンリとルイーズの貴賤結婚を許しました。
家族から国王との結婚を告げられたルイーズは仰天。
1575年2月、婚約式・結婚式前の聖別式で初めてアンリ3世に会いました。
結婚後ルイーズは跡継ぎを授かろうと、媚薬、温泉治療、慈善活動、巡礼と様々な方法を試しましたが、結局子宝には恵まれませんでした。
不妊、それによる大きなプレッシャー、焦り、期待に応えられない苦しみ、世界からの注目、とほんの少し想像しただけでも胸が痛くなります。
アンリはルイーズを気遣い、温泉地にも同行しています。
アンリ3世夫妻は他の国王夫妻と異なり、この苦難に二人で立ち向かおうとしました。
妊娠はほぼ絶望的でしたが、ルイーズはアンリを支持し、助け、彼の良き伴侶となりました。
1588年5月、パリの民衆が蜂起する「バリケード事件」が起き、アンリはルーヴル宮から逃げ出します。
その際パリに踏み止まり、和平の交渉にあたったのは、母后カトリーヌとルイーズでした。
1589年8月1日、アンリ3世は刺客に襲われます。
アンリにロワール方面で待機するよう言われていたルイーズは、6月から行動を別にしていました。
アンリは8月2日未明に亡くなります。
アンリの死の知らせに深く悲しむルイーズ。
身の安全を考慮した従者たちによってシュノンソー城への避難が決定します。
カトリーヌ・ド・メディシスは1月に亡くなっており、シュノンソー城は遺言でルイーズに与えられていました。
白いヴェールを身につけ喪に服すルイーズは、「白い夫人」「白衣の王妃」と呼ばれました。
アンリ三世の死で四〇日間の喪に服したルイーズは黒の喪服の上に白のヴェールを被ったので、「白衣の貴婦人」と称される。シュノンソー城の三階にある彼女の居室と礼拝堂は黒い壁で囲まれ、その壁には銀色で葬祭の標章である十字架、埋葬用のシャベルと鶴嘴、涙に濡れた豊穣の角、髑髏が描かれた。暖炉の上には等身大のアンリ三世の肖像画が掲げられた。カプチン修道会の宗旨に深く帰依していた彼女は、このシュノンソーで王を追慕する生活を送ろうとした。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 2021-3-1. 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネット』. 昭和堂. p.114.
引用元:ルイーズの寝室 LonganimE CC-BY-SA-2.5
次の王となったのはアンリ4世。ブルボン朝が始まります。
ガブリエル・デストレ( Gabrielle d’Estrées, 1571年 – 1599年4月10日)
アンリ4世の妃はカトリーヌ・ド・メディシスの娘、マルグリット・ド・ヴァロワ(『王妃マルゴ』のモデル)でしたが、お気に入りの愛妾にガブリエル・デストレがいました。
21歳で18歳年上のアンリの愛妾となったガブリエルは、アンリとの間に三人の子供をもうけています。
引用元:ガブリエル・デストレ
一時、ルイーズに対する寡婦給与財産が支払われず、また、カトリーヌ・ド・メディシスが抱えていた借金の抵当にシュノンソー城が入っていたことから、1597年にルイーズは城から立退きを迫られてしまいました。
アンリ4世と交渉していたルイーズは、アンリに反発する自分の弟メルクール公と、アンリの間に仲介に入ります。
その頃王妃のように振る舞うガブリエルはシュノンソー城に目をつけ、城を息子のセザールに与えようと考えていました。
1598年、メルクール公がアンリ4世に降伏します。
同年セザール(当時4歳)と、メルクール公の娘フランソワーズ・ド・ロレーヌ(ルイーズの姪。当時6歳)との婚約が成立しました。
シュノンソー城の件はルイーズが買い戻す形で決着します。
1599年頃から体調を崩していたルイーズは、11年住んだシュノンソー城をあとにしました。
城をヴァンドーム夫妻に寄贈し、1601年1月29日にムーランで亡くなりました。
一方、ガブリエル・デストレは1599年に亡くなっています。
アンリの第四子を妊娠していたガブリエルは、4月8日に食事をした後具合が悪くなり、10日に息を引き取りました。
母の死で、セザールはボーフォール公位とエタンプ公位を継承。
ガブリエルとの再婚を考え、その死を嘆いていた父アンリ4世は、イタリア出身のマリー・ド・メディシスと再婚。
マリー・ド・メディシスはカトリーヌ・ド・メディシスの親戚にあたる女性で、後にルイ13世の母親となります。
シュノンソー城は1720年にブルボン公ルイ・アンリに買い取られ、その後、大地主クロード・デュパンに売却されました。
デュパン夫人( Louise Marie Madeleine Guillaume de Fontaine, 1706年10月28日 – 1799年11月20日)
引用元:デュパン夫人
クロード・デュパンとの結婚で、デュパン夫人と呼ばれました。
1733年から1782年にかけて文学サロンを主催。
ヴォルテール、モンテスキュー、ブッフォン、ベルナール・フォントネル、ピエール・ド・マリヴォーやジャン=ジャック・ルソーらをシュノンソーに招きます。
十八世紀になって、城を改築した羽振りのよい徴税官を夫に持つ、派手好きのデュパン夫人は、城を社交場にしたので、当代の有名人がシュノンソウに集まった。「懺悔録」の作者ジャン・ジャック・ルソーは、彼女の子供たちの家庭教師をしていたことがあり、ルソーは美しいデュパン夫人に愛の手紙を送り、彼女の冷たい仕打ちを受けたいきさつを、作品の中に書いている。
井上宗和(著). 昭和59-1-25. 『ヨーロッパ・古城の旅』. 角川文庫. pp.173-172.
引用元:デュパン夫人
デュパン夫人は村人たちからの人望も厚く、革命期の破壊行為から城を守りました。
デュパン夫人は1799年11月20日にシュノンソー城で死去。
19世紀に城を買い取ったぺローズ夫人( Marguerite Pelouze )も城館の修復に尽力しました。
『ヨーロッパ・古城の旅』によると、「この最後の夫人は、特にこれというエピソードはないが、この城を昔の美貌に返すため、巨費を投じて化粧直しを行なった。」とあります。
ぺローズ夫人はディアーヌ・ド・ポワチエの頃の城を再現するため、カトリーヌ・ド・メディシスの行った改築部分を撤去するなど、莫大な金額を費やしたそうです。
最後に、『ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本』から引用します。
このシュノンソー城には、それまでに建てられた城と比べると、階段に画期的な違いがある。かつては軍事的な理由から時計回りに登るらせん階段が設置されていたが、シュノンソー城にはまっすぐな階段が設けられているのだ。また、部屋と部屋を繋ぐのではなく、部屋を経由せずに済むよう廊下が設けられている。女性が建造を指揮しただけあって、暮らしやすさを考慮した機能性が追求されているといえる。
桐生操(監修). 2010-7-20. 『ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本』. PHP文庫. p.35.
暮らしの知恵が活用されている城。いいですね!
「六人の奥方の城」と呼ばれるシュノンソー城ですが、「六人」の中に誰が入るか、書籍やサイトによって若干の違いがあるようです。
ガブリエル・デストレを除いてぺローズ夫人を六代目とするものもあれば、初代とされるカトリーヌ・ブリソネをカットしている場合もあります。
時代によってちょっとずつ解釈が違う?? こちらの記事も参考になります。
ディアーヌ、ガブリエルの話も載っています
カトリーヌ・ド・メディシス、ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォ―デモン、王妃マルゴも登場
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