「チェーザレ・ボルジアのケープ、今、サライのもの」

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レオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレ・ボルジアから貰ったケープ。今はサライのもの。では、サライって?

『洗礼者ヨハネ』1514年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
『洗礼者ヨハネ』1514年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

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目次

「フランス風のケープ、かつてチェーザレ・ボルジアのもの、今、サライのもの」

『イラストで読むレオナルド・ダ・ヴィンチ』(河出書房新社)に書かれています。

「フランス風のケープ、かつてチェーザレ・ボルジアのもの、今、サライのもの」

 『イラストで読むレオナルド・ダ・ヴィンチ』. 河出書房新社. p.63.
イラストで読むレオナルド・ダ・ヴィンチ

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『イラストで読む レオナルド・ダ・ヴィンチ』

また、塩野七生氏の著書『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅な冷酷』(新潮社)にはこのようにあります。

それから約500年後の1967年、マドリッドの国立図書館の書庫の奥から、レオナルドのデッサンと手記のノートが新たに発見された。『マドリッド手稿』と呼ばれるものである。その時、ノートと一緒に、彼と彼の弟子の服なども発見された。そしてその中に、マントが一つ含まれていた。チェーザレ・ボルジアのマントだと言われる。

(『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅な冷酷』 塩野七生(著) 新潮社 P167)

レオナルドが弟子にあげちゃったチェーザレ・ボルジアのマント、なのでしょうか。

サライとは?

サライ( Salaì )とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だった芸術家の、ジャン・ジャコモ・カプロッティ( Gian Giacomo Caprotti, 1480年-1524年3月10日以前)です。

愛称であるサライの意味は「小悪魔」。

師匠のものを盗むなど、師匠に対する悪行の数々…まさしく悪魔です。

『洗礼者ヨハネ』1514年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵
『洗礼者ヨハネ』1514年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ ルーヴル美術館蔵

引用元:『洗礼者ヨハネ』

『洗礼者ヨハネ』はサライがモデルではないかと言われています。

この作品はレオナルドが、最後まで取り組んでいた作品のひとつです。

天を指さすポーズは救い主イエスが自分より後から来ることを示す。十字架と毛皮が洗礼者ヨハネであることを示す。中性的な容貌に微笑みを浮かべるヨハネはほかに例がない。闇に浮かび上がる人体の存在感、謎を秘めた静かな佇まいなど、『モナ・リザ』と並ぶ傑作だ。

(『pen BOOKS 018』 メディアハウス P41) 
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング 15世紀末から16世紀初頭
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング 15世紀末から16世紀初頭

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、サライと思われる人物のドローイング

『サライの肖像』 1502年 – 1503年頃 個人蔵
『サライの肖像』 1502年 – 1503年頃 個人蔵

引用元:『サライの肖像』

下はダ・ヴィンチの弟子のひとりが描いた『サライの肖像』。美青年ぶりがうかがえます。

サライ自身もアンドレア・サライという名で画家として活動しました。

チェーザレ・ボルジア (Cesare Borgia, duca di Valentino, 1475年9月13日(14日?)-1507年3月12日)

ローマ教皇アレクサンデル6世の息子(庶子)、 ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアは、イタリアの軍人・政治家。

妹に、フェラーラ公妃となったルクレツィア・ボルジアがいます。

同じ両親から生まれた兄弟の暗殺疑惑、妹ルクレツィアとの近親相姦疑惑、その他多くの暗殺・謀殺に、戦争における非道ぶりでもよく知られていますが、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』のモデルであり、本書では優れた政治家として描かれています。

チェーザレ・ボルジア 1500年-1524年の間 アルトベロ・メローネ カッラーラ美術館蔵
チェーザレ・ボルジア 1500年-1524年の間 アルトベロ・メローネ カッラーラ美術館蔵

引用元:チェーザレ・ボルジア

レオナルド・ダ・ヴィンチは一時期、建築・土木に関する技師としてチェーザレに雇われていたことがありました。

チェーザレの命令で、レオナルドはイーモラの地図を作成しています。

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたイーモラ市街の地図 英国ロイヤルコレクション蔵
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたイーモラ市街の地図 英国ロイヤルコレクション蔵

引用元:レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたイーモラ市街の地図

下はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、チェーザレ・ボルジア。

チェーザレ・ボルジアをスケッチしたもの 1502年夏から1503年1月の間
チェーザレ・ボルジアをスケッチしたもの 1502年夏から1503年1月の間

引用元:チェーザレ・ボルジアのスケッチ

武将・チェーザレ・ボルジアは長身で肩幅が広く、腹も締まっており、優れた知性と言語に絶する凶暴で反社会的な悪趣味さを持ち合わせていた。

(『モナ・リザ・コード』 ダイアン・ヘイルズ 柏書房) 

ボルジアはヨーロッパきっての美男子ともてはやされることもあるが、レオナルドは冷静に対応した。赤いチョークでスケッチした三枚の絵が残っていて、それがボルジアの特徴を捉えている。尖ったあご、荒々しい風貌、まぶたがくっきりと深い目だ。濃いひげが、梅毒(「フランス病」と言われた)でできたあばたを隠している。この病は、シャルル八世のイタリア侵略以来、イタリア半島に蔓延していた。やがてボルジアは、黒いマスクで顔を覆うようになった。 

(『モナ・リザ・コード』) 

スケッチからは酷薄さが伝わって来る…と思うと同時に、とても魅力的に映ります。(書籍のカラー頁ではこの絵はもっと赤っぽい感じです) 

この頃レオナルドは50歳を超え、チェーザレは26歳でした。

しかし、1503年3月、レオナルドはチェーザレの元を去ります。

その後チェーザレは父アレクサンデル6世の死後は勢いを失い、1507年に戦死。

マキャベッリは『君主論』(1532年刊行)を著しましたが、レオナルド・ダ・ヴィンチは彼の死に関しては一言も残していないそうです。 

残ったのは、レオナルドがサライにあげたマントだけ?

もしこれが本当にチェーザレ・ボルジア → レオナルド・ダ・ヴィンチ → サライの手を経たものであるなら、ミーハーな私としては、このマントの前にひれ伏したいくらいです。 

『男性の肖像』 ドッソ・ドッシ 1518年-1520年の間 ルーヴル美術館蔵
『男性の肖像』 1518年-1520年の間 ドッソ・ドッシ ルーヴル美術館蔵

引用元:ドッソ・ドッシによる肖像画

こちらはフェラーラ公国でルクレツィアの夫や息子に仕えた画家・ドッソ・ドッシの描いた肖像画。

チェーザレ・ボルジアを描いたものとされています。 

この絵が描かれたときには既にチェーザレは亡くなっていましたが、つい素敵な上着に目が行ってしまいました。

主な参考文献
  • 『イラストで読むレオナルド・ダ・ヴィンチ』. 河出書房新社.
  • 『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅な冷酷』 塩野七生(著) 新潮社
  • 『pen BOOKS 018』 メディアハウス  
  • 『モナ・リザ・コード』 ダイアン・ヘイルズ(著) 柏書房
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コメント

コメント一覧 (1件)

  • ハンナさん、改めてこんばんは。
    これは、ワードプレスですか?
    ハンナさんの記事をまだまだお読みしたいと思います。
    クリックすると、このブログに飛べるのなら、いつでも遊びに来ます。

    旅行ブログで、ワードプレスになさった方のアイコンをクリックしたら記事を見ることが出来るようになさっている方も、そういえばいらっしゃいました。(笑)
    そんな感じでしょうか。

    どうぞ、これからも、お付き合いくださいませ。

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