多くのお宅に有りそうな「嫁と姑の問題」。ルイ9世のお宅の場合はこのような感じだったようです。
聖王ルイ9世( Louis IX, 1214年4月25日-1270年8月25日)
引用:ルイ9世
二度の十字軍参加、「地上の王の中の王」とも呼ばれた、カペー朝初の聖人ルイ9世。
1226年、ルイは12歳でフランス王に即位しました。
ルイはその幼年時代を堅実な、安定した家族関係のなかで過ごした。父、ルイ八世は教養人で、立派な騎士であるとともに誠実な夫であり、妻ブランシュに全幅の信頼を寄せていた。彼女もまた夫を全面的に信じていた。たとえば彼女は、夫がイギリスでの権益を守るためジョン失地王との争いに巻き込まれたときなど、自分がヘンリー二世の孫娘であるにもかかわらず完璧な内助の功を発揮している。
アラン・サン=ドニ(著). 福本直之(訳). 2004-12-30.『聖王ルイの世紀』.白水社. p.71.
ブランシュ・ド・カスティーユ(1188年3月4日-1252年11月26日)
父王亡きあと摂政として支えてくれた、気丈な母ブランシュ・ド・カスティーユ。
フランス語名はブランシュ・ド・カスティーユ( Blanche de Castille )ですが、スペイン名ではブランカ・デ・カスティーリャ( Blanca de Castilla )といい、カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘としてバレンシアで生まれました。
ルイ9世はこの母親に対し、絶対の信頼を置いていました。
マルグリット・ド・プロヴァンスとの結婚
マルグリット・ド・プロヴァンス( Marguerite de Provence, 1221年頃-1295年12月21日)
1234年、ルイ9世は結婚します。
彼の妻となったのは、アラゴン王家の血筋であるプロヴァンス伯の長女マルグリットでした。
(カスティーリャとアラゴンですが、15世紀、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世が結婚し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、今の「スペイン」王国の基礎を築きます。
ふたりはローマ教皇アレクサンデル6世により、「カトリック両王」の称号を授けられました。)
プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世には4人の娘がおり、マルグリットはその長女でした。
彼女はルイと結婚してフランス王妃になりましたが、妹たちもそれぞれ各国の王妃となりました。
ヘンリー3世妃となった妹エレオノールはルイと夫との間を取り持つ役割を務め、1254年、両王は長時間の会見を持ちました。
末の妹ベアトリスは、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー。ルイ9世の末弟)の妻です。
引用元:ベアトリス・ド・プロヴァンス
執政の母后とその顧問官たちが彼女を選んだのは、トゥールーズ伯レモン七世の裏をかき、同時にアラゴン王の統一の野望をくじくべく、フランス王家が地中海方面への備えを固めるためであった。
王妃の結婚式と戴冠式はサンスで行われた。花嫁マルグリットは十二歳であった。ルイがこの幼い妻に示した熱情は母后をいら立たせるほどのもので、あとに続く緊張以上の関係の序幕となった。若夫婦は一二四〇年七月から一二六〇年のあいだに十一人の子をなしたが、うち三人は早世している。王太子に挙げられていたルイも十三歳で他界している。国王は妻への愛情にもかかわらず、王国の政府のなかで母后が占めていたような地位をけっして妻に与えようとはしなかった。あるいは彼はあまりにもはっきりと彼女が公言する野心や、彼女の家系から、当時王国の地中海方面をおびやかしていたアラゴン王との血縁に不安を抱いていたのかもしれない。そのうえ、レモン・ベランジェはルイ九世とシャルル・ダンジューに各々一女を嫁がせ、あとの二人の娘はヘンリー三世の息子たちと縁組させていたのである。
アラン・サン=ドニ(著). 福本直之(訳). 2004-12-30.『聖王ルイの世紀』.白水社. p.75.
王様の結婚なのですから、勿論、このように政略結婚です。
しかし、ルイはこの新妻に夢中になり、夫婦仲も良く、6男5女をもうけました(3人は早くに亡くなります)。
後に、マルグリットは夫について十字軍にも参加しています。
シャルル・ダンジューとベアトリス夫妻も十字軍に参加しました。
家庭内でこっそり密会
ルイ9世の母ブランシュは、息子のルイがマルグリットと仲良くするのを好みませんでした。
ですので、二人はブランシュに隠れて「逢って」いたそうです。
『カペー朝 フランス王朝史1』のなかで、ルイ9世に仕えた騎士ジャン・ド・ジョアンヴィル(1224年-1317年12月24日)の証言では、
「ブランシュ母后さまは、夜の帳が下りて床に就くというならやむをえないとして、それ以外の時間に息子が嫁と一緒にいるなんて許せないと、とにかく邪魔なされた。王にとっても、王妃にとっても、逗留するならポントワーズがよかろうとしたのは、そこでは王の部屋が上階に、王妃の部屋が下階にあるからなのだった。
佐藤賢一(著). 2009-7-20. 『カペー朝 フランス王朝史1』. 講談社現代新書. p.170.
とすると、こちらの二人は上階から下階へ降りる階段のところで会うことにし、また守衛にも母后が息子王の部屋を訪ねたときは杖で扉を叩けと、それを合図に王は急ぎ自室に戻れば、なにごともなかったかのように母后を迎えられるからと、またマルグリット王妃の守衛にも、ブランシュ母后が部屋に訪ねてきたときは同じように合図を送れ、とマルグリット王妃が自身で迎えるようにと、すっかり打ち合わせたものである」
やはり同じように合図を送るように、と打ち合わせ。
家庭内密会ですかね(・∀・)。
続きまして、
「あるとき、王が細君である王妃のそばから離れないことがあった。御子をお産みになられ、その時の産褥の傷がひどくて、瀕死の状態にあられたからだ。それでもブランシュ母后はやってこられた。息子の手をつかんで、『来なさい。ここにいても、することなどないでしょう』といった。そのまま王を連れていこうとするのをみて、マルグリット王妃は叫んだ。『まあ、お義母さまときたら、わたくしが死んでも生きても、夫の顔を見せてはくださいませんのね』。それから王妃は気絶した。死んでしまったのではないかと思われたほどだ。さすがに王は王妃は死にゆくところだと戻ってきた。実際、持ち直していただくには、大変な苦労を要したものだった」
佐藤賢一(著). 2009-7-20. 『カペー朝 フランス王朝史1』. 講談社現代新書. p.171.
この時代、産褥熱で亡くなった女性の数は少なくありませんでした。医療のレベルも現代と比較になりません。
この母后自身も多産でしたから、そのうち何回かは死にそうな思いもしたのではないかと思うのですが…。
信仰深く、数々の人間くさいエピソードを持つルイ9世。
十字軍の時に取った行動もすごいなと思うのですが、このような「母と嫁」の間に挟まれ、右往左往したという話も面白いものです。
ジョアンヴィル(『聖王ルイの世紀』では「ジョワンヴィル」)はこのように証言しています。
ジョワンヴィルによれば、彼の妻は夫を「変人」だといっていた。
アラン・サン=ドニ(著). 福本直之(訳). 2004-12-30.『聖王ルイの世紀』.白水社. p.75.
引用元:ルイ9世夫妻
上の絵も後世の画家によるものですが、絵の中では仲良く描かれています(^^)。
- アラン・サン=ドニ(著). 福本直之(訳). 2004-12-30.『聖王ルイの世紀』.白水社.
- 佐藤賢一(著). 2009-7-20. 『カペー朝 フランス王朝史1』. 講談社現代新書.
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