ビールは案外偉いんです。人類を皆殺しにしようとした女神を酔わせ、虐殺の使命を忘れさせてくれました。おかげで人類は滅亡から救われたのです。
女神による人間皆殺し計画
古代エジプト神話では、人間が自分に反抗的になったと感じた太陽神ラーは、ハトホルを地上に送り、人類を抹殺しようとします。
獰猛な雌ライオンに変身して人間を襲い、殺戮するハトホル。
その残忍さに、人類抹殺計画を思い直すラー。
もし本当に全人類を抹殺してしまっては、自分を崇めるものがいなくなってしまうのです。
そこで、ラーは大量の赤いビールを用意させました。
ハトホルはそれを人間の血だと思い込み、飲み始めます。
酔っ払ったハトホルはすっかり任務を忘れて眠ってしまいました。
そのおかげで人類は全滅を免れたのです。
血に見立てた、赤いビール…。グロいと思いつつ、美味しいのかな、と考えてしまう私。
『ファラオの食卓 古代エジプト食物語』(小学館ライブラリー)には、「ラーの目」であるハトホルが下界に下りて行き、行く先々で人間を殺したという話が出てきます。
「獰猛なセクメトと化したハトホル」にビールを飲ませるところでは、
「…さらにラーは女神に言った。『ここにお前のために用意された酒壺がある。それをお前を新年の祭りのたびに眠りたいという気持ちにさせるだろう。その酒壺の数は、私の侍女の数に準じているのだ』
それ以来、人々はハトホルの祭りの際に、彼女を眠くするビールを造るのを習慣としており、造られる壺の数は、ラーの侍女の数に従ったのである」
この神話の中で、ビールは、獰猛な女神セクメトを、酒好きな、美しい愛の女神ハトホルに変えている。そして古代エジプトでは、エジプト暦年の最初の月であるトトの月には、ハトホル女神のために盛大な祝宴が催されていた。
吉村作治(著). 1992-12-20. 『ファラオの食卓 古代エジプト食物語』. 小学館ライブラリー. p.195.
女神セクメト、女神ハトホルか
女神セクメト
引用元:ツタンカーメン王の胸飾り Jean-Pierre Dalbéra CC-BY-2.0
ツタンカーメン王の胸飾の中央に立つのはツタンカーメン王本人です。
ツタンカーメンは黒い顔色をしていますが、古代エジプトでは黒は豊穣の色とされていました。
ここにあるツタンカーメンの胸飾りにも、神から生命を授けてもらっている場面が描かれている。ウラエウス・コブラがついた青冠をかぶり、両手に殻竿と牧童の杖を持つツタンカーメンが中央に立っている。顔はすでにオシリスになったように豊穣の黒い色をしている。
仁田三夫(著). 『図説ツタンカーメン王』. 河出書房新社. p.54.
向かって右は創造神プタハ、左にいるのがプタハの妻セクメトです。
太陽神ラーの片目から生まれたというセクメトの頭部は、雌ライオン。
ここでは彼女はツタンカーメンに祝福の手を向けており、その頭上には灼熱の太陽を表す円盤があります。
引用元:セクメトの像 Captmondo CC-BY-SA-3.0
女神ハトホル
『世界を変えた6つの飲み物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史』(インターシフト)ではこのように紹介されています。
エジプトの神話には、ビールのおかげで人類は滅亡の危機から救われたとするものさえある。太陽神ラーは、人間たちが自分に対して反乱を企てていることを知り、彼らを懲らしめるために女神ハトホルを地上に送る。しかしハトホルのあまりの残忍さに、ラーはこのままでは自分を崇拝する者がいなくなってしまうのではないかと不安になり、人間たちに情けをかける。ラーはビールを大量に用意し - 七〇〇〇つぼとする話もある - これを血のような赤色に染めて地上に撒いた。赤いビールは巨大な鏡のように光輝いた。そこに映る自分の姿にしばし見とれたハトホルは、腰をかがめてそのビールを飲む。ハトホルは酔っぱらって寝入り、人類虐殺の使命を忘れてしまった。こうして人類は救われ、ハトホルはビールと醸造の女神になったという。これと似たような話が、ツタンカーメン、セティ一世、ラムセス二世をはじめとするエジプトの王の墓に刻まれているのが見つかっている。
トム・スタンデージ(著). 新井崇嗣(訳). 2007-3-20. 『世界を変えた6つの飲み物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史』. インターシフト. P37.
本書によると、地上に送られたのはハトホルで、「ハトホルがセクメトに変身して」ではなく、終始ハトホルとして行動しているようです。
ハトホルはラーの娘とされることもありますが、母とも妻とも言われます。また、ハトホルは、愛・美・豊穣の女神であり、牝牛の姿でも表されます。
引用元:ハトホル像 Rama CC-BY-SA-2.0-FR
酒飲みの祭り(『古代エジプト王国 トラベルガイド EGYPT IN THE YEAR BC1214』)
『古代エジプト王国 トラベルガイド EGYPT IN THE YEAR BC1214』(創元社)のコラムには、「酒飲みの祭り」についても書かれています。
この祭りはハトホル女神を讃える行事のことで、新年の祭りから20日経った頃に行われているとのことです。
この祭りは5日間つづき、その名前からもわかるように、大量のビールやワインを飲み干すことが、おもな行事になっています。
シャーロット・ブース(著). 月森佐知(訳). 2010-3-10. 『古代エジプト王国 トラベルガイド』. 創元社. p.101.
素晴らしいですね。
ハトホル女神と交流する手段として、人々は酒を飲んで酩酊状態になります。
この祭りは最初に、ライオンの頭をもった女神たち(ムト、またはセクメト)に供物を捧げるところから始まります。そのあと、赤い色に染めたビールを飲みます。これはセクメト女神がかつて人類を滅亡させようとしたときに、困った神々が生き血を好む女神をだまし、血の色に染めたビールを飲ませて酔っ払わせ、人間への憎しみをとりのぞいたという神話にちなんでいるのです。
祭りはそのあと、村に移って、家族単位のお祝いになっていきます。
シャーロット・ブース(著). 月森佐知(訳). 2010-3-10. 『古代エジプト王国 トラベルガイド』. 創元社. p.101.
セクメトが酩酊するほど飲んだのは、生き血の色をしたビール。この赤い色は「ザクロの色」説もあります。
大酒飲みのハトホル(『酒の起源 最古のワイン、ビール、アルコール飲料を探す旅』)
『酒の起源 最古のワイン、ビール、アルコール飲料を探す旅』でも、ハトホル神と交流すべく酒を飲み酩酊状態になる「酒飲みの祭り」について記述があります。
その中に、気になる「血の色ビール」の赤についても気になる箇所が。
「大酒飲みの愛人」とも呼ばれるエジプトの女神ハトホルは、シュメールでいえばビールの女神ニンカシのようなものだった。ハトホルは、「ビールをつくる」下級の女神メンケトと近い関係にあった。エジプト中部のデンデラに位置するハトホル神殿で行われるハトホルをたたえる祭りは、「大酒飲みのハトホル」というふさわしい呼称をもち、ハトホルが獅子頭の女神セクメトに化けて暴れ回り、反抗的な人類を滅亡させようとしたときの物語を再現する。そのとき太陽神ラーが氾濫していた大地を赤いビールで満たすと、それを見たハトホルはみずからの目的を達成したと思い込み、暴れ回るのをやめる。そしてビールを飲みすぎて、人類滅亡の任務を忘れてしまうのだ。デンデラで毎年行われるこの祭りは夏にナイル川が氾濫する時期と重なり、スーダンのアトバラ川から鉄分の多い赤土が流れ込むので、川の水は赤いビールのように見える。祭りでワインとビールを両方飲み、音楽やダンスで祝福することによって、人々はハトホルが穏やかな猫の女神バステトに化ける体験を共有するのだ。
『酒の起源 最古のワイン、ビール、アルコール飲料を探す旅』. p.384.
赤土による赤さなのかな? なるほど、有り得そうな気がします。
ライオン頭をした女神
女神ムト
メトロポリタン美術館:Head of a goddess, probably Mut, for attachment to a processional barque (?)
ムトとは、神々の王アメン神の妻で、「国家の母」とも称される女神です。
「母」と聞くと、優しい顔に見えますね。
夫は太陽神であるアメン。
女神テフヌト
引用元:テフヌト CC-PD-Mark
セクメトと同じ雌ライオンの頭部を持つ女神に、湿気の女神テフヌトもいます。
夫は大気の神シュー。
猫頭の女神バステト
セクメトとよく同一視される女神ですが、頭部はライオンに比べおとなしい、「猫」。
先に引用した『酒の起源 最古のワイン、ビール、アルコール飲料を探す旅』の中に、「祭りでワインとビールを両方飲み、音楽やダンスで祝福することによって、人々はハトホルが穏やかな猫の女神バステトに化ける体験を共有するのだ。」とあります。
バステトは手にシストルムと呼ばれる楽器やカゴを持ち、子猫を連れていることもあります。
家に居着き、穏やかな猫。
古代エジプト人はネズミなどを獲ってくれる猫を大事にしていました。
人びとから聖獣として大切に扱われていたため、神殿に奉納された猫のミイラも多く出土しています。
古代エジプトの女神がアフロディテ、ヴィーナスの源流に
神話の中で、外観や性格、気質によって同一視されたハトホル、セクメト、バステトたち。
この女神たちが、古代ギリシアやローマの美の女神たちの源流になったと言われています。
古代エジプトでは、太陽神ラーが人の血を貪る天空神ハトホル(獰猛なライオンとなって人間の血肉を貪る神であり、のちにアフロディテ、ヴィーナスに姿を変えて信仰される)から人々を守るために、血の色をした「ワイン」をつくったと説明された。
宮崎正勝(著). H20-9-20. 『知っておきたい「酒」の世界史』. 角川ソフィア文庫. p.24.
引用元:『クニドスのヴィーナス』
美味しいビールを飲んだ後
『ワインの世界史』には、ワイン造りの場面と並んで、正体をなくして棒のようになっている酔っぱらいを運び出している場面(ベニ・ハサンの第11王朝時代のケティの墓)が挙げられています。
もったいないので、飲んだら吐くな! 吐くなら飲むな! と個人的には言いたいところですが、テーベ西岸、新王国の墓の壁画に描かれた女性が宴会の席で吐いている場面も同書に紹介されています。
『イシスの娘』にも宴会で酔っ払って吐いている女性の絵が。
そんなに珍しくない光景だったのでしょうかねー。
我々は飲みすぎに注意して、ハトホル神やセクメト神に献杯致しましょう。
- トム・スタンデージ(著). 新井崇嗣(訳). 2007-3-20. 『世界を変えた6つの飲み物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史』. インターシフト.
- シャーロット・ブース(著). 月森佐知(訳). 2010-3-10. 『古代エジプト王国 トラベルガイド』. 創元社.
- 吉村作治(著). 1992-12-20. 『ファラオの食卓 古代エジプト食物語』. 小学館ライブラリー.
- 山本博(著). 2018-3-1. 『ワインの世界史』. 日経ビジネス人文庫.
- 宮崎正勝(著). H20-9-20. 『知っておきたい「酒」の世界史』. 角川ソフィア文庫.
- ティルディスレイ(著). 細川晶(訳).『イシスの娘 古代エジプトの女たち』. 新書館.
- 仁田三夫(著). 『図説ツタンカーメン王』. 河出書房新社.
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