フランチェスコ・アイエツの絵画『接吻』からイタリア統一運動を見ていきます。
フランチェスコ・アイエツの『接吻』( Il bacio )
とてもロマンティック、ドラマティックな絵画。 「 Il bacio 」、英語では「 The Kiss 」です。
『接吻』 1859年
引用元:『接吻』
女性の艶やかなシルクのドレス。
顔に添えられた男性の手。
接吻を受ける彼女の表情と、彼の体に回す手に目が行きますよね。
ひと気の無い石造りの階段での「逢引き」シーンですが、彼が階段にかけた足に慌ただしさを感じます。
女性の頭部にそえられた男の手。相手に体をあずけた女性の体が描く曲線。女性のドレスの、まばゆいばかりのシルクの光沢。本作品はそのドラマティックさと卓越した描写力のため、これまで映画や広告などで何度も再生産されてきた。当時のイタリア統一運動を背景に、このキスがイタリアとフランスの同盟を暗示するとの見方もある。
池上英洋(著). 『官能美術史』. 筑摩書房. p.137.
この男女のキスが「イタリアとフランスの同盟」を暗示している、と?
この作品は、さして根拠はないものの、〈ロメオとジュリエット〉の愛称でも広く知られている。彼らの衣装が北イタリアの昔の男女を思わせるのか(かなり実際とは異なるが)、あるいは人目を盗んでの逢引き場面が、ヴェローナでの悲恋物語を想像させるのだろう。この逢引きが人目を忍ぶものであることは、場面が地下の薄暗い場所であることの他に、左奥の開口部に第三者の影らしきものが描かれていることによっても暗示されている。
池上英洋(著). 『官能美術史』. 筑摩書房. p.139.
池上英洋氏は『恋する西洋美術史』(光文社新書)でも同様に述べておられますが、『美少女美術史』(ちくま学芸文庫)では、「社会主義運動のシンボル」として「ジュリエッタ」を挙げ、このように仰っています。
ジュリエッタ(英語圏ではジュリエット)が社会主義運動のシンボルとなったのは、イタリアのロマン主義画家フランチェスコ・アイエツが〈キス〉(ミラノ、ブレラ美術館)でイタリアとフランスの同盟を男女のキスであらわし、さらにその男女がロメオとジュリエッタとみなされたからである。
池上英洋・荒井咲紀(著).2017.『美少女美術史 人々を惑わせる究極の美』.ちくま学芸文庫.筑摩書房.p.153
この『接吻』(『キス』)には別ヴァージョンがあります。
『接吻』 1859年 – 1860年
引用元:『接吻』
『接吻』 1861年
引用元:『接吻』
1850年、アイエツは、ブレラ美術館の館長に任命されました。
1859年の『接吻』について、ブレラ美術館の説明文から一部引用します。
It is one of the emblematic images of the Pinacoteca and perhaps the most widely reproduced Italian painting of the whole of the 19th century, created with the aim of symbolizing the love of the motherland and thirst for life on the part of the young nation that had emerged from the Second War of Independence and which now placed so many hopes in its new rulers. It proved an immediate and resounding success both for its patriotic values and for the medieval inspiration of the subject, typical of the Romantic taste of the time; the public was enthusiastic about the daring
kiss but also recognised the patriotic message enshrined in the colours: the red stockings, green lapel on the cloak and blue and white gown allude to the flags of Italy and France.
Hayez painted other versions of it, now in various European collections.( The Kiss Pinacoteca di Brera (ブレラ美術館『キス』)
(Google翻訳:これは、ピナコテカの象徴的なイメージの1つであり、おそらく19世紀全体で最も広く再現されたイタリアの絵画であり、第二次独立戦争から浮上し、新しい支配者に非常に多くの希望を置いた若い国の祖国への愛と生命への渇望を象徴することを目的として作成されました。それは、その愛国的な価値観と、当時のロマン派の味の典型的な主題の中世のインスピレーションの両方に対して、すぐに大成功を収めました。大衆は大胆なキスに熱狂しましたが、赤いストッキング、マントの緑の襟、青と白のガウンがイタリアとフランスの国旗を暗示する色に祀られた愛国的なメッセージも認識しました。
ハイエズはそれの他のバージョンを描き、現在、さまざまなヨーロッパのコレクションにいます。)
前掲の『官能美術史』からの引用のなかに、「イタリアとフランスの同盟」との言葉が出て来ました。
絵の中の男性のストッキングの赤、外套の襟部分の緑、女性の衣装(ガウン)の青と白、これらの色がイタリアとフランスの国旗を意味するのだそうです。
愛国的なメッセージが、そこには強く込められているようです。
引用元:『接吻』(1859年版 部分)_ Miguel Hermoso Cuesta _ CC-BY-SA-4.0
男性の外套の襟の色がちょっと見づらいですね。
イタリアの国旗(緑・白・赤)は、元々フランスの国旗(青・白・赤)を起源としています。
『接吻』で男性が身に着けているのが赤と緑、女性は青ですから、ここでは男性がイタリアを、女性がフランスを表していると読むことができます。
フランチェスコ・アイエツ( Francesco Hayez, 1791年2月10日 – 1882年2月11日)
引用元:『88歳の時の自画像』
フランチェスコ・アイエツは、ヴェネツィア出身の画家です。
1810年から1814年にかけてローマで修行し、この頃ローマ留学中だったフランス新古典主義の画家ドミニク・アングルと出会っています。
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その後アイエツはジョアシャン・ミュラに任命され、『アルキノオスの法廷にいるユリシーズ』制作のためにナポリに移りました。
参考にさせていただいた池上英洋氏の『恋する西洋美術史』『官能美術史』と、別冊宝島のムック本『禁断の西洋官能美術史』では、アイエツは「新古典主義」の画家となっていますが、『美少女美術史』では「ロマン主義」の画家となっています。
ジョアシャン・ミュラ( Joachim Murat, 1767年3月25日 – 1815年10月13日)
この頃、既にジェノヴァ共和国、旧トスカーナ大公国もナポレオンのフランス帝国の一部となり、ナポレオン・ボナパルトの妹婿であるミュラがナポリ王に就位します。
こうして半島全域が名実とともにボナパルト王朝の領地となり、イタリアの解放も統一も独立も夢物語となった。イタリア経済はフランスに従属させられ、イタリア市民は徴兵されてナポレオンの戦場に引っ張り出された。トリーノのサヴォイア王家がサルデーニャ島に、ナポリのブルボン王家がシチリア島に、それぞれ逃れて辛うじて余喘を保ったが、それも地中海の制海権を握るイギリス艦隊の庇護によって初めて可能だったのである。
藤沢道郎(著). 2006-9-10. 『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』. 中公新書. p.288
引用元:ジョアシャン・ミュラ
ミュラはナポレオン・ボナパルトの側近で、1800年にナポレオンの妹カロリーヌと結婚。
1806年にベルク大公に、1808年にナポリ王となり、ジョアッキーノ1世を名乗ります。
騎兵としてはとても優秀だったようですが指揮官としては資質を欠いていました。
しかし権力への執着が非常に強く、次第にナポレオンとの間は不仲になっていきます。
1815年、ルイ18世の命により処刑されますが、その際伊達男で名高かった彼らしく、「顔は撃つな」でした。
この肖像画を描いたフランソワ・ジェラール(1770年5月4日 – 1837年1月11日)はフランスの新古典主義の画家です。
ジェラールは、皇帝ナポレオン、レカミエ夫人の肖像画も手掛けています。
このブログでは『プシュケーとキューピッド』(1798年)を掲載しています
皇帝ナポレオンは失策を重ね、ロシア遠征で大敗します。
囚われたエルバ島から脱出したナポレオンはワーテルローの戦いに臨みますが、これも大敗。
皇帝はセントヘレナ島に送られます。
イタリアではなおナポリ王ミュラが、独自の行動を企てて権力を保とうとしたが空しく、復辟したブルボン王家の軍に逮捕銃殺され、半島のナポレオン体制は完全に崩壊した。
藤沢道郎(著). 2006-9-10. 『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』. 中公新書. p.289.
軍隊に動員され多くの犠牲を出すなど、イタリアの払った犠牲は決して少なくありませんでしたが、ナポレオンの侵略はマイナスの面ばかりをもたらしたのでも無かったといいます。
ナポレオンの意図がイタリア解放でなかったとしても、
彼の行動はこの国を隷属状態から解放するための刺激を与え、その土台を造ったのである。一口でいえば、それは政治・経済・文化の全分野での「近代化」の契機となった。
藤沢道郎(著). 2006-9-10. 『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』. 中公新書. p.290.
ナポレオンの失脚によって、亡命していた君主たちが返り咲きます。
「イタリア統一運動」へ
フランスに代わって支配権を握ったのはオーストリアでした。 時の宰相はメッテルニヒです。
しかし、一部のイタリア人たちは18世紀の平和な眠りから目醒めてしまいました。
彼らは祖国の統一と独立を要求し、未だ眠っている多くのイタリア人たちの目を覚まそうとします。
この運動が後に「リソルジメント Risorgimento」、「覚醒」を意味するイタリア統一運動(1815年 – 1871年)に発展していきます。
フランチェスコ・アイエツの作品
『シチリアの晩鐘』 1846年
引用元:『シチリアの晩鐘』
アイエツは1821年にも『シチリアの晩鐘』を描いています。
1842年にミケーレ・アマーリ(1806年 – 1889年)の『シチリアの晩禱』が出版され、「オペラ王」ジュゼッペ・ヴェルディ(1813年 – 1901年)の同名のオペラの着想に影響を与えました。
ヴェルディの『シチリアの晩鐘』の初演は1855年6月13日でした。
ジュゼッペ・ヴェルディ〔一八一三~一九〇一〕が『ナブッコ』を作曲したのは一八四二年のことである。その第三幕の「行け、わが想いよ」はオーストリア支配下のミラノにあって、「美しくも、失われた祖国」の再興をイタリア人に鼓舞するものであった。
彼は、一八四三年には異邦人支配からの解放のメタファーとして『十字軍のロンバルディア人』、一八四九年には祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』を作曲した。特に、後者は、第一次独立戦争直後であったことから、神聖ローマ帝国のドイツ人に対して「ロンバルディア同盟」が勝利をおさめた戦いを想起させ、オーストリアからの独立を鼓舞する意図が込められていた。
一八五四年には『シチリアの晩禱』を作曲している。それは一二八二年三月にシチリア島で起こったフランスのアンジュー家支配に対する反乱を扱ったものであり、異民族支配に抗して戦った愛国心を想起させ、それを鼓舞するものであったことは言うまでもない。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.143.
(「イタリア」誕生の物語』では「晩禱」と表記)
歴史的な戦いを描いた絵画は、リソルジメントの記憶を固定するのに貢献した。フランチェスコ・アイエツ〔一七九一~一八八二〕が、一八二一年に続いて、再度同じテーマで『シチリアの晩禱』を描いたのは一八四四~一八四六年のことである。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.144.
『瞑想』 1850年
引用元:『瞑想』
『瞑想』 1851年
引用元:『瞑想』
1848年、ヨーロッパ各地で革命が起こり、やがてウィーン体制の崩壊を招くことになります。
同年ミラノでも、オーストリアの支配に対し、「ミラノの五日間」と呼ばれる事件が起きました。
第1次イタリア独立戦争の契機となる、ミラノ市民による反乱でした。
オーストリア軍は教会国家に一八五九年まで、トスカーナ大公国に一八五五年まで駐屯した。オーストリアが直接支配するロンバルド・ヴェネト王国では、ラデツキー将軍が行政と軍事の権力を一手に収めた。彼は革命の温床になるとしてパヴィア、パドヴァの両大学を一年間閉鎖したばかりでなく、公安秩序を乱すものに死刑を科す特別法を布告した。「ミラノの五日間」の蜂起に加担した貴族階層、富裕階層の人々には多大な罰金が科せられた。出版活動も厳しく制限され、多くの人々が亡命した。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.148.
『名画 絶世の美女 ヌード』では、アイエツの『瞑想』(1851年)が紹介されています。
アイエツは、この反乱とイタリア統一への思いを込め、悩める「イタリア」自体の寓意としてこの絵を提示したのです。
平松洋(著).2014.『名画 絶世の美女 ヌード』.中経の文庫. KADOKAWA.p.106
「イタリア」の寓意像である女性が持つ本には、 赤い字で「イタリアの歴史」と書かれています。
首相 カミッロ・カヴール( Camillo Benso, conte di Cavour )
引用元:カヴール伯爵カミッロ・ベンソ
イタリア統一に貢献したカヴール伯爵カミッロ・ベンソ
前首相 マッシモ・ダゼーリョ( Massimo d’Azeglio )
引用元:マッシモ・ダゼーリョ
詩人、上院議員 アレッサンドロ・マンゾーニ( Alessandro Manzoni )
引用元:アレッサンドロ・マンゾーニ
マンゾーニの著作に『いいなづけ』があります。
サルデーニャ王国では、独立戦争敗北の責任を取り、カルロ・アルベルト王が退位。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が国王として即位します。
引用元:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
新しい国王が最初に取り組まねばならなかったのはオーストリアとの講和条約であった。しかし、オーストリアとの徹底抗戦を主張する民主主義者が多数を占めた下院で、屈辱的な講和条約の批准が否決された。
講和条約の批准を下院で認めさせる難局を任されたのが、ピエモンテ人でありながら「頭脳と心がイタリア人」と言われたダゼーリョである。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.149.
サルデーニャ王国で議会政治が定着したのはダゼーリョとカヴールの二人の政治家に負うている。両者は、決して国王に追従することなく、国王の気まぐれな政治介入をコントロールし、国王を統一のシンボルとして押し出し、イタリア王国の樹立へと導いた。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.150.
内閣が崩壊し、首相の座から降りたダゼーリョは、後任としてカヴールを推薦します。
国王は反対しましたが、カヴール以上の適任者はいませんでした。
1852年、カヴールは首相に就任。 以後外交による「イタリア統一戦争」を進めていきます。
カヴールには、サルデーニャ単独では、オーストリアに勝利しイタリア統一を達成することは困難であることはわかっていました。
そこで、クリミア戦争に参戦するなど国際社会におけるサルデーニャの地位向上に努めます。
1858年7月、フランスに太い人脈を持っていたカヴールは、フランスのナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結びます。
フランス北東部にあるプロンビエールで、カヴールとフランスのナポレオン3世が会談し、密約を結んだのです。
引用元:ナポレオン3世
「太い人脈」とは、カヴールのいとこにして美貌のカスティリオーネ伯爵夫人
ナポレオン3世は若い頃イタリア独立戦争に加わったことがあり、関心を保持していました。
カヴールは、対オーストリアの戦争にフランス軍を参戦させる約束を取り付けます。
そのフランスの軍事支援の見返りとして、サルデーニャ王国が飲まなければならなかった条件とは、
一つは王家発祥の地サヴォイア(サヴォワ)とニッツァ(ニース)をフランスに割譲することである。もう一つは放蕩三昧の生活を送っていた中年男のナポレオン公ジェロームと一五歳になったばかりの信仰心の篤いサヴォイア王家の王女クロティルデの結婚である。非情なカヴールは、目的実現のためにはやむなしと、渋る国王に冷酷にも圧力をかけて、それらを承認させた。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. p.172.
1859年1月、サルデーニャ王国とフランスは同盟協定を締結しました。
ここで、この記事の一番上の『接吻』の描かれた時期(1859年)がポイントになります。
同盟協定締結の前年の1858年7月に、カヴールとナポレオン3世は密約を結びました(プロンビエールの密約)。
秘密の会見なのですから、男女でいう「人目を忍ぶ逢瀬」ですね。
そのため、アイエツの『接吻』はイタリア(男性)とフランス(女性)が、他者には秘密の接吻(結び付き、密約)を交わしていると読むことができるのです。
サヴォイア王女クロティルデも出てきます
1859年から1861年まで
1859年4月27日、サルデーニャとフランスの同盟軍の対オーストリア戦(第二次独立戦争)が始まります。
1860年、千人隊を率いたガリバルディが活躍。
そしてついに1861年3月17日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国成立を宣言します。
ここに「イタリア」は地理的名称から国家の名前となり、そのなかに住む人々はイタリア国民となった。
藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社. pp. 202-203.
当時のイタリア王国旗です。
Wikipediaの記事より
Wikipediaの記事では、『接吻』は Alfonso Maria Visconti di Saliceto(アルフォンソ・マリア・ヴィスコンティ・ディ・サリシュート伯爵)という人物の依頼によって描かれたとあります。
また、1861年版では女性の衣裳が白に変わっていることについては、この年にイタリア王国が成立していることからそのことを暗示していそうです(白は王国の旗の色)。
1859 -1860年版のふたりの足元には白い衣類が落ちており、男性の外套の内側には「イタリア」を象徴する色、はっきりした緑が使われています。
「(Google翻訳)油絵版が最も有名ですが、ハイエズは油絵と水彩画の2つの他の絵のバージョンを制作しました。2番目のバージョンは1861年にミリウス家のために描かれ、1867年の万国博覧会に展示するためにパリに送られました。2008年、そのバージョンはサザビーズで780,450ポンドで販売されました。2枚目の絵と前の絵の違いは、女性のドレスが白く着色されていることです。3番目のバージョンは、紙に水彩画でレンダリングされた唯一のバージョンです。1859年に描かれた楕円形で、ハイエズからカロライナ・ズッキに寄贈されました。現在、ミラノのアンブロジアーナ美術館に展示されています。」
以前この一連の『接吻』についてもっと知りたいと思い、Amazon などで日本語または英語で書かれた書籍を探したのですが、どれもイタリア語のものばかりで一旦諦めました。
このブログでは様々な文化史関連本を、普段その手の本に馴染みがないという方にご紹介したいという思いから、ある程度容易に入手できて、できれば平易な日本語で書かれている「書籍(電子書籍)」を取り上げていきたいと考えております。
今後も時に参考にすることはあっても、ネット上にある出典不明のものを容易に掲載することは避けたいと思っておりますが、今回は詳しく解説された書籍を見つけることができなかったので、「本ではないけれど、Wikipediaにこういう記事もあります」と、ご紹介させていただくことにしました。
私のうろ覚え(「読んだんだけど何処に書いてあったか思い出せない」)である場合はその旨明記して参ります。また、論文や新しい書籍等を目にしたら、こちらに追記したいと思っております。
編集時のコピぺのミス等も見付け次第直して参りますので、おかしな表現や訳、「勘違い?」など、なにか気がつかれた事柄が有りましたらお知らせくださると有り難いです。 よろしくお願いいたします。
- 池上英洋・荒井咲紀(著). 2017.『美少女美術史 人々を惑わせる究極の美』.ちくま学芸文庫.筑摩書房.
- 『官能美術史』 池上英洋氏(著) 筑摩書房
- 平松洋(著).2014.『名画 絶世の美女 ヌード』.中経の文庫. KADOKAWA.
- 藤澤房俊(著). 2012-8-10.『「イタリア」誕生の物語』. 講談社選書メチエ.講談社.
- 藤沢道郎(著). 2006-9-10. 『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』. 中公新書.
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