サルディーニャ王国首相カヴール伯爵カミッロ・ベンソ「プロンビエールの密約 」

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19世紀のイタリア統一運動に関わった人々の肖像画と写真を一緒に掲載しました。見比べてみるのも楽しいかもしれません。

首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソ(1810年8月10日-1861年6月6日) 1864年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵
首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソ(1810年8月10日-1861年6月6日) 1864年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵

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目次

イタリア海軍の軽空母カヴール(Cavour, C 550)

イタリア海軍の軽空母カヴール(Cavour, C 550)
イタリア海軍の軽空母カヴール(Cavour, C 550)

引用元:カヴール Gaetano56 CC-BY-SA-3.0

「カヴール」の艦名はイタリア王国の初代首相カミッロ・カヴールに由来します。

第一次世界大戦中にも、同じ首相カヴールの名にちなむ「コンテ・ディ・カヴール(カブール)」という戦艦がありました。

その名の由来になった方がこちら、通称「カミッロ・カヴール」「コンテ・ディ・カヴール(カヴール伯爵)」で呼ばれるカヴール伯爵カミッロ・ベンソです。

カヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ( Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella, 1810年8月10日-1861年6月6日)

首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真 1861年以前 Ludovico Tuminello(1824年-1907年)
首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真 1861年以前 Ludovico Tuminello(1824年-1907年)

引用元:首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真 1861年以前 Ludovico Tuminello(1824年-1907年)

首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソ(1810年8月10日-1861年6月6日) 1864年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵
首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソ 1864年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵

引用元:首相、カヴール伯爵カミッロ・ベンソ 1864年 フランチェスコ・アイエツ

1810年、カヴール侯爵の次男として、当時フランス領だったトリノで生まれました。

フランス語とピエモンテの方言を使う環境で育ち、10代で士官学校に入ります。

除隊後はパリやロンドンを回り、自由主義的な政治や経済の実態に触れて見聞を広めました。

帰国後、自らの家の所領経営にあたり、帳簿の作成や灌漑用運河の掘削といった革新的な手腕で、所領の生産高を飛躍的に増大させることに成功した。一八四七年には新聞『イル・リソルジメント』を創刊し、編集長としてサルディーニャ王国の近代化を訴えた。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.178.

1848年「ミラノの五日間」

1848年はヨーロッパ各地で革命が起きた年でした。

2月に「フランス二月革命」が起こります。

オーストリアでは三月革命が勃発し、宰相メッテルニヒが辞任。

3月、オーストリア帝国を構成していたロンバルド=ヴェネト王国のミラノで、オーストリア軍に対して市民が武力蜂起します。

反乱軍を支援したサルディーニャ軍はオーストリア軍に敗北しましたが、この事件は、後の「イタリア独立戦争」の契機となりました。

一八四八年革命の激動ののち、サルディーニャ王国はイタリア諸国家のなかで憲法と選挙によって選ばれた議会を維持する唯一の国家となった。また、革命に参加し、その後の旧体制の復活で亡命を余儀なくされた他国の人々を多く受け入れた。そのなかには実務能力に長けた有能な人々が数多く含まれていた。その結果、サルディーニャ王国はイタリア諸国のなかで最も自由主義的で、最も活力にあふれた国家へと急速に変貌を遂げた。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.176. 

この年、カヴールは議員に立候補し、選出されます。

そして1850年、マッシモ・ダゼーリョ内閣のもと農商相に就任。

翌年には海軍相と財務相も兼ねます。

ダゼーリョ首相によって農商相に抜擢されたカヴールは、

それまでの関税政策を見直し、自由貿易を推進することで自国の農産物輸出の拡大を図った。農業を基軸とした経済成長戦略である。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.177.

マッシモ・ダゼーリョ( Massimo Taparelli marchese d’Azeglio, 1798年10月24日―1866年1月15日)

マッシモ・ダゼーリョ(1798年10月24日-1866年1月15日) アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ(1819年-1889年)
マッシモ・ダゼーリョ(1798年10月24日-1866年1月15日) アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ(1819年-1889年)

引用元:マッシモ・ダゼーリョ アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

マッシモ・ダゼーリョ 1860年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵
マッシモ・ダゼーリョ 1860年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵

引用元:マッシモ・ダゼーリョ

ピエモンテの貴族出身。作家で画家、サルディーニャ王国の首相です。

トリノ出身の「ピエモンテ人」だったダゼーリョは「頭脳と心がイタリア人」と言われました。

王国での議会政治の定着にはこのダゼーリョとカヴールに負うところが多く、国王の気まぐれな政治介入をコントロールし、以後国王を「イタリア統一の象徴」として押し出して行きます。

1852年内閣が崩壊し、ダゼーリョは首相を辞任しますが、国王に対し後任としてカヴールを推薦しました。

サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世( Vittorio Emanuele II di Savoia, 1820年3月14日-1878年1月9日)

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1861年頃 Photograph by André Adolphe Eugène Disderi; owned and scanned by Tim Ross.
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1861年頃 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

引用元:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1861年頃 Photograph by André Adolphe Eugène Disderi; owned and scanned by Tim Ross.

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1856年 ガエターノ・フェリ ロイヤル・コレクション蔵
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 1856年 ガエターノ・フェリ ロイヤル・コレクション蔵

引用元:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 ガエターノ・フェリ

1849年に王位を継いだヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はカヴールの首相就任に反対でしたが、カヴール以上の適任者はいませんでした。

1852年、カヴールは首相に就任し、以後外交による「イタリア統一戦争」を進めます。

カヴールは、

議会内の左派勢力と連携し、議会の安定多数を確保した上での政権運営であった。鉄道建設の推進など積極的な経済政策や教会の権限を縮小する政策をとる一方で、国際社会でのサルディーニャ王国の地位を高めるため、外交に力を注いだ。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.178.

1853年 クリミア戦争

1853年クリミア戦争が始まり、サルディーニャ王国も英仏を支援するという名目で参戦しました。

参戦し、勝利することによって、国際社会におけるサルディーニャ王国の地位の向上を狙ったためと言われます。

1856年3月30日、パリ条約が成立します。

休戦後に開かれたパリ講和会議で、カヴールは英仏首脳と会談し、とりわけナポレオン三世の信頼を得ることに成功する。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.178.

歴史画『パリ講和会議』

パリ講和会議(1856年) エドゥアール・ルイ・デュビュフ ヴェルサイユ宮殿
パリ講和会議(1856年) エドゥアール・ルイ・デュビュフ ヴェルサイユ宮殿

引用元:パリ講和会議(1856年)

左にいるのがカヴール。右端は同席したピエモンテ大使ヴィラマリーナ侯爵。

1856年のパリ講和会議の全権大使たち。ブダペストのハンガリー国立博物館でMayer Piersonにより撮影。
1856年のパリ講和会議の全権大使たち。ブダペストのハンガリー国立博物館でMayer Piersonにより撮影。

引用元:1856年のパリ講和会議の全権大使たち Yelkrokoyade CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0 

1856年のパリ講和会議の全権大使たちです。

一番左がカヴール、その隣がピエモンテ大使ヴィラマリーナ侯爵。

皇帝ナポレオン3世( Napoléon III, 1808年4月20日-1873年1月9日)

ナポレオン3世と皇后ウジェニー(部分) 1865年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ
ナポレオン3世と皇后ウジェニー(部分) 1865年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

引用元:ナポレオン3世と皇后ウジェニー(部分) 1865年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

ナポレオン3世(1808年4月20日-1873年1月9日) 1865年 アレクサンデル・カバネル 
ナポレオン3世(1808年4月20日-1873年1月9日) 1865年 アレクサンデル・カバネル

引用元:ナポレオン3世 アレクサンドル・カバネル

ヴィクトル・ユゴーはナポレオン3世のことを、

「冷淡で青白く眠たそうな鈍い様子をした、見栄っ張りで、下品で、芝居がかった人物」としたが、温厚で聴き上手であり威厳がなくもなかった。知的で万般にわたって理解力があったので、宰相を置かずに自ら判断し、経済政策や都市開発についてすぐれた判断を示した。

 セーヌ県(パリ首都圏)知事オスマン男爵による大胆なパリ改造は、激しい抵抗にあったが、現在のパリの骨格をつくったものとして高く評価されている。さいわいにも最近では再評価が進み、北駅の近くにナポレオン三世広場が誕生した。

八幡和郎(著).2020.『日本人のための英仏独三国志』.さくら舎.p.238.

(『物語 パリの歴史』(高遠弘美(著) 講談社現代新書)にこの都市計画についてわかりやすい解説があります)

1867年のナポレオン3世

ナポレオン3世(高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年
ナポレオン3世(高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年

引用元:ナポレオン3世(高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年

なんか似てるような似てないような…。

カバネルのナポレオン3世がステキ過ぎるのでしょうか。

1867年のパリ万国博覧会には日本も参加し、徳川慶喜の弟・昭武あきたけを団長とする使節団がナポレオン3世に謁見しています。

使節団には渋沢栄一もいました。

パリ万博幕府使節一行。後列左端が渋沢栄一(渋沢史料館所蔵)。写真からのエングレービング
パリ万博幕府使節一行。後列左端が渋沢栄一(渋沢史料館所蔵)。写真からのエングレービング

引用元:パリ万博幕府使節一行

皇后ウジェニー・ド・モンティジョ( Eugénie de Montijo, 1826年5月5日-1920年7月11日)

ずっと独身だったナポレオン3世は1853年、スペイン貴族の娘エウヘニア・デ・モンティホ(フランス名:ウジェニー・ド・モンティジョ)と結婚します。

ウジェニー・ド・モンティジョ 1858年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ
ウジェニー・ド・モンティジョ 1858年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

引用元:ウジェニー・ド・モンティジョ 1858年 撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ

ナポレオン3世の妻ウジェニー・ド・モンティジョ (高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年
ナポレオン3世の妻ウジェニー・ド・モンティジョ (高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年

引用元:ナポレオン3世の妻ウジェニー・ド・モンティジョ (高嶋祐啓『欧西行紀』) 1867年

こけしが西洋人形の振りをしている…。

私の勝手な印象はともかく、ナポレオン3世の宮廷は華やかなものだったようで、

 スペイン出身のウージェニー皇后を中心とした彼の宮廷は、高級娼婦など怪しげな人物も多く出入りし、いかがわしくはあったが、華やかで楽しく、小説『カルメン』などで知られるメリメなど文化人も参加した。

八幡和郎(著).2020.『日本人のための英仏独三国志』.さくら舎.p.239.

1855年 パリ万国博覧会ではミレーの『オフィーリア』も展示

パリは繁栄し、1855年には万国博覧会が開かれました。

ラファエル前派を擁護したジョン・ラスキンは、絵画『オフィーリア』のモデルを務めたリジー(エリザベス・シダル)を、静養と絵の勉強を兼ねてパリ、南仏へ行かせます。

パリ万国博では、ジョン・エヴァレット・ミレーやウィリアム・ホルマン・ハントの絵が展示され、リジーはそこで『オフィーリア』と再会しました。

エリザベス(リジー)・シダル(1829年-1862年) 1860年頃の写真
エリザベス(リジー)・シダル(1829年-1862年) 1860年頃の写真

引用元:エリザベス(リジー)・シダル 1860年頃の写真

ヴィルジニア・オルドイーニ( Virginia Elisabetta Luisa Carlotta Antonietta Teresa Maria Oldoïni, 1837年3月22日-1899年11月28日)

カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ 1860年 ピエール・ルイ・ピアソン
カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ 1860年 ピエール・ルイ・ピアソン

引用元:カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ 1860年 ピエール・ルイ・ピアソン

カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニの肖像 1862年 ミケーレ・ゴルディジャーニ
カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニの肖像 1862年 ミケーレ・ゴルディジャーニ

引用元:カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニの肖像

1856年、皇后ウジェニーが出産のために欠席した舞踏会で、ある美貌の女性がナポレオン3世に引き合わされます。

その女性とはカヴールのいとこ、カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ。

カヴールによってナポレオン3世のもとに送り込まれたヴィルジニアはナポレオン3世の愛妾となりました。

自ら「今世紀一の美女」と称したヴィルジニア。

自分の美貌にしか関心はなく「頭はからっぽ」だったようで、

ナポレオンは従姉妹のマチルドにそっと打ち明けている。ヴィルジニアは「とても美しい。だが死ぬほど退屈な女だ」。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.82.

1858年

1858年1月 オルシーニ事件

フェリーチェ・オルシーニ伯爵は、フランス軍による教皇国家の防衛がイタリア統一を阻んでいると考え、パリでナポレオン3世を暗殺しようとします。

しかし失敗に終わり、処刑。

この事件は、皇后ウジェニーの政治介入のきっかけにもなりました。

イタリアでは、愛国者オルシーニに対する同情論が高まります。

1858年7月 プロンビエールの密約

1858年7月、カヴールはフランス北東部にあるプロンビエールでナポレオン3世と会談し、密約を結びます(プロンビエールの密約)。

オーストリアに対抗するためにフランスの支援を得る。

そのためにカヴールはサヴォイア(サヴォワ)とニッツァ(ニース)をフランスに割譲するという大胆な提案をします。

北イタリアのオーストリア支配からの解放のために、フランスがサルディーニャ王国を支援すること、サルディーニャ王国はロンバルディアやヴェーネト、さらにはアペニン山脈以北の教皇国家領などを併合して北イタリア王国を形成すること、支援の見返りにサヴォワとニースをフランスに割譲することが決められた。

 サヴォワとニースではフランス系住民が多数を占めていることがフランス領となる根拠とされたが、サヴォイア家の発祥の地を割譲してまでも北イタリアの統一を果たすという、カヴールの決意がそこには示されていた。

北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.p.179.

そしてもうひとつ、サルディーニャ王国の王女をナポレオン公ジェロームに嫁がせること。

もう一つは放蕩三昧の生活を送っていた中年男のナポレオン公ジェロームと十五歳になったばかりの信仰心の篤いサヴォイア王家の王女クロティルデの結婚である。非情なカヴールは、目的実現のためにはやむなしと、渋る国王に冷酷にも圧力をかけて、それらを承認させた。

藤澤房俊(著).2012.『「イタリア」誕生の物語』.講談社選書メチエ.講談社.p.172.
ナポレオン公ジェロームとクロティルデ 1859年 ロイヤルコレクション蔵
ナポレオン公ジェロームとクロティルデ 1859年 ロイヤルコレクション蔵

引用元:ナポレオン公ジェロームとクロティルデ 1859年 ロイヤルコレクション蔵

マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア(1843年3月2日-1911年6月25日) 1857年
マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア(1843年3月2日-1911年6月25日) 1857年

引用元:マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア

ナポレオン3世はカヴールの提案を受け入れ、統一を容認しましたが、その後、その外交の成果を

ウジェニー皇妃らカトリック派の圧力で中途半端な対応に転じて傷つけた。

八幡和郎(著).2020.『愛と欲望のフランス王列伝』.集英社新書.p.206.

イタリア統一については、サルデーニャ王国首相カヴールの従姉妹であるカスティリオーネ伯爵夫人が、ナポレオン3世の愛人となって工作に当たった結果といわれるが、ウジェニー皇妃が教皇の意を受けて邪魔したのも嫉妬が一因か。

八幡和郎(著). 2010-12-22. 『愛と欲望のフランス王列伝』. 集英社新書. p.208.

1858年のメッテルニヒ

クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン( Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein, 1773年5月15日-1859年6月11日)

クレメンス・フォン・メッテルニヒ 1855年
クレメンス・フォン・メッテルニヒ 1855年

引用元:クレメンス・フォン・メッテルニヒ 1855年

1858年のウィーン。

オーストリアの宰相だったクレメンス・フォン・メッテルニヒは、永年の経験や勘から、サルディーニャ王国首相カヴールがオーストリアを戦争に引きずり込もうという魂胆であることを感じ取っていました。

メッテルニヒは、カヴールの背後にいるフランスの、ナポレオン3世の影をも感じていたのです。

「挑発に乗らないように。いかなる戦争よりも、外交による話し合いの方が国家のためである」というメッテルニヒの忠告はオーストリアの首脳陣には届きませんでした。

大国の首脳陣は、小さなサルデーニャ王国など恐れていなかったのです。

しかし、メッテルニヒの推測どおり、野心家のナポレオン三世がサルディニアの方についていた。イタリアからオーストリアの勢力を追い払い、フランスの勢力を拡大しようとの野望を持っていたのである。そうなると相手はフランス・サルディニア連合軍で、戦争は危険である。

塚本哲也(著).2009-11-15. 『メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家』. 文藝春秋刊. p.385.

1859年1月

1859年1月、サルディーニャ王国とフランスの軍事同盟が発表されました。

カヴールはオーストリア軍を挑発します。

戦争の危機が迫り、

戦争回避の国際世論の高まりの中で、ナポレオン三世は動揺し、一時、戦争は止めようと、カブールの説得にかかった。

 やむなくカブールは従ったが、彼に幸いなことに、今度は、オーストリアが四月十九日なって宣戦布告をしてきたのである。ウィーンは罠に自ら足を突っ込んだ。

塚本哲也(著).2009-11-15. 『メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家』. 文藝春秋刊 .p.385.

挑発に乗らず、最後通牒を出さないようにというメッテルニヒの忠告は最後まで届かず、オーストリアは戦争の泥沼に入って行きます。

サルディーニャ王国との密約に基づき、5月にフランスがサルディーニャ側について参戦し、カヴールの狙い通り、第2次イタリア独立戦争が始まりました。

カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真
カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真 1861年

引用元:カヴール伯爵カミッロ・ベンソの写真

『接吻』 1859年 フランチェスコ・アイエツ

『接吻』 1859年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵
『接吻』 1859年 フランチェスコ・アイエツ ブレラ美術館蔵

引用元:『接吻』 1859年

この男女の人目を忍ぶ逢瀬とキスは、イタリア統一運動の時代を背景に、プロンビエールの密約を暗示していると言われます。

主な参考文献
  • 北村暁夫(著).2019.『イタリア史10講』.岩波新書.
  • 八幡和郎(著).2020.『日本人のための英仏独三国志』.さくら舎.
  • 高遠弘美(著).2020-1-20.『物語 パリの歴史』. 講談社現代新書. 講談社.
  • エレノア・ハーマン(著)・高木玲(訳).2005-12-30.『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』.KKベストセラーズ.
  • 八幡和郎(著). 2010-12-22. 『愛と欲望のフランス王列伝』. 集英社新書.
  • 塚本哲也(著).2009-11-15. 『メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家』. 文藝春秋刊.
  • 藤澤房俊(著).2012.『「イタリア」誕生の物語』.講談社選書メチエ.講談社.
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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ハンナさん、こんにちは。
    今回は、だいぶ時代が下ってきたのですね。
    最初の二つの絵は写真とポーズまでそっくりですが、写真を見ながら絵を描いたのでしょうか。
    ナポレオン3世と言う人は、ナポレオン1世のような精悍さは全く持っていないようですね。
    パリの万博へ、幕府の使節団が派遣されたのが、鎖国日本の時代の終わりを彷彿とさせます。
    幕府はフランス寄りでしたし。
    この頃のパリは、花の都と言うイメージそのものです。
    あららら~、フランスの話になってしまいました。
    すみませんm(__)m
    今日も、興味深い記事をどうもありがとうございました。

    • ぴーちゃん様

      今回も有難うございます。お返事遅くてすみません。

      これもぴーちゃんさんに見ていただきたく、肖像画と写真をセットで載せてみました。
      中世では写真はありませんが、いいですね19世紀(笑)。写真と肖像画が同時に存在して、両者を比較できます。

      どう見ても、カヴールさんやダゼーリョさんの肖像画は写真とそっくりですよね。
      明確に、「アイエツ氏は肖像画を描くにあたり、○年の写真を使用した」と書かれた書籍は見当たりませんでしたが、ダゼーリョさんのだけ、それっぽいことが書かれていたのを見つけました(Wikipedia)。
      誰の言葉なのか、ネット上にある出典が不明なものは掲載したくないため、私の感想も書きませんでしたが、やっぱり写真がお手本なんだろうなと思っています。

      ナポレオン3世はカバネルや印象派ともナニゲに関係あるよなという印象です。
      カバネルについてもそのうち投稿したいと思っていますが、その時は確実に登場して貰います。
      日本の使節団についても勿論興味があるのですが、あれもこれもで全然追いついて行きません…。

      今のパリも良いですが、この頃の「花の都」パリにも行ってみたいですねえ~(*’▽’)
      たくさんの有名画家や作家に会えそう(笑)。

      今回も読んで下さって有難うございました。

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