古代ギリシアの英雄として知られるテミストクレス。しかし、古代ギリシアには彼以上の最強の男がいた!その男とは一体誰?
大王クセルクス1世
.父ダレイオス1世の死後、後を継いだペルシア帝国のクセルクス(紀元前519年 – 紀元前465年)。
クセルクスは大規模なギリシア遠征を企て、4年という時間をかけて準備を整えます。
紀元前480年、「第三回ペルシア戦争」が始まろうとしていました。
このときのペルシア軍は百万をこえていたと古代の記録はつたえているが、信憑性はまったくない。とはいえ、海陸あわせてその四分の一、つまり約二十五万の兵力と仮定したとしても、それでもその数はノルマンディ上陸作戦のDデイのときまでにヨーロッパが目撃した最大規模の侵攻兵力になる、ということは念頭に入れておくべきだろう。同様に、ペルシア軍騎兵の軍馬は八万頭以上だったという古代の報告も納得できるものではない。馬匹をその半分と見積もったとしても、それでも一世紀半後のアレクサンドロス大王がアジア征服に動員した騎兵の兵力のほぼ五倍なのである。ペルシア軍の作戦の真意は、こうした大軍を集中して、まるごとギリシアにおくりこむことにあった。
ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林. pp.119-120.
クセルクス大王の侵略に対し、ギリシア側は協議を重ねます。
やがて、スパルタが指揮する陸軍がテルモピュライで防御にあたることが決まりました。ギリシア陸軍はテルモピュライの隘路で敵をくいとめることを約束。
海軍国のアテネがギリシア海軍を担当し、ペルシア艦隊がスパルタ軍の背後に上陸することを阻止する作戦でした。
テルモピュライの戦い(テルモピレーの戦い Battle of Thermopylae )
スパルタではカルネイア祭の時期でしたが、他の同盟諸国も同じ様な状況でした。オリュンピアの祭典に重なったのです。
各ポリスは戦争に積極的ではありませんでした。
しかし、スパルタの王レオニダスは自ら300人の兵を率いて出撃、諸ポリスの参戦を促します。
遠征指揮官マルドニオスは、陸軍と海軍の連携をとりながら、戦闘船約1500隻、兵站支援船約3000隻の大艦隊をもってギリシャ半島の沿岸を前進した。
ペロポネソスのギリシャ軍は、一戦も交えることなく北部ギリシャを放棄した。そしてレオニダス王のギリシャ軍約7000は、テルモピュライの険に計画通り防御線を構成した。
一方、テミストクレス提督の指揮する約330隻のアテネ海軍は、テルモピュライの真東で、エウポイアの北東海岸のアルテミシオン沖に展開して、スパルタ陸軍と連携した。
松村劭(著). 『戦争学』. 文藝春秋. p.74.
テルモピュライは山に囲まれた狭い街道で、レオニダスは前進してすぐ後退、追ってきた敵に対して反転し、長槍で撃退する戦法を選択。ペルシアの不死隊もこの戦法に苦戦した。
『ゼロからわかる古代ギリシア』. Gakken. p.72.
陸軍と海軍はほぼ同時に開戦。
テルモピュライでは激戦となりますが、スパルタ軍は大軍を相手に善戦しました。
しかし、裏切りによって状況は一変します。
地元のギリシア人がペルシア軍に間道の存在を教えてしまい、後方に回り込まれてしまうのです。
レオニダスは降伏を受け入れず、スパルタ兵、そしてレオニダスらを見捨てられなかったテスピアイ人部隊と共に最後まで戦いました。
引用元:『テルモピュライのレオニダス』
Léonidas aux Thermopyles ルーヴル美術館
フランスの新古典主義の画家ダヴィッドによる歴史画。
死を覚悟した戦いに赴くレオニダスたちを描いた傑作です。
アルテミシオンの海戦( Battle of Artemisium )
テルモピュライの戦いと並行して行われたのが、「アルテミシオンの海戦」です。
アルテミシオンに接近したペルシア艦隊は猛烈な嵐に遭い、戦力が半減します。
しかし、数で劣るアテネ艦隊も慎重になり、両者は決戦を避けていました。
そこに、テルモピュライ陥落の報告がアテネ艦隊にもたらされます。
BC480年、「第三回ペルシア戦」において、天険テルモピレーは陥落し、主将スパルタ王レオニダスとその軍隊は全滅した。その陸軍と呼応して中部ギリシア東岸アルテミシオンの海峡でペルシア海軍を迎撃していたギリシア海軍は、テルモピレーでのスパルタ軍玉砕の知らせを聞き、アテネ西方サラミス湾にしりぞき作戦会議を開いた。
是本信義(著). 『2時間でわかる図解「孫子の兵法」を身につける本』. 中経出版. p.196.
テルモピュライは突破され、ペルシアの大軍がギリシア本土へなだれ込みました。
南下を続けるペルシア軍は各地のポリスを焼き払います。
アテネ艦隊で指揮を執っていたテミストクレスは、市民のうち婦女子をサラミス島に避難させます。
戦闘可能な男子市民は全員、艦隊に乗り組んで戦うことになりました。
アテネの政治家テミストクレスは、非戦闘員をサラミス島周辺に避難させてから残りの戦闘員を乗せた200隻の艦隊で出港。ついにペルシア軍がアテネを占拠した。
『ゼロからわかる古代ギリシア』. Gakken. p.72.
引用元:テミストクレスの胸像のイラスト
この件(くだり)、『戦争学』ではもう少し詳しいです。
レオニダス王は最後の一兵とともに敢闘して戦死し、残余のギリシャ軍はペロポネソス半島入口のコリント地峡まで退却した。アテネは無防備に放り出された。
この報告を聞いたテミストクレス艦隊は急いでアテネに引き返し、市民を出来るだけ多くペロポネソス半島に避難させた。
ペルシャ陸軍は無防備になったアテネを占領して破壊した。テミストクレスは、約700隻のペルシャ艦隊がペロポネソス半島の後方に上陸して陸軍と協同することを恐れた。
松村劭(著). 『戦争学』. 文藝春秋. p.55.
さて、勝利に勝ち誇ったペルシア軍は南方を一掃し、一週間ほどでアッティカ地方に進撃した。ところが、ここはすでに撤退が完了し、放棄されていた。この歴史的な決定は以後の百五十年間、さまざまな余波をのこすことになった。アテナイ ー 首都の周辺に支えとなる城砦をめぐらしていなかった ー はテミストクレスと海軍に最後の望みを託して、都市を放棄したのである。
ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林. p.123.
「マラトンの戦い」の後
ここで話は紀元前490年の「マラトンの戦い」に遡ります。
ギリシア側の勝利となったマラトンの戦いは、ペルシア戦争を終結させたかに見えました。
しかし、テミストクレスは当時、まだこの先も戦争は続くと考えていたのです。
そのような時、次のペルシアとの戦いをどうすべきかについて、「木によって戦え」というデルフォイの信託が出ました。この文言をめぐり、「アクロポリスに柵を作れ」ということだとする解釈と、テミストクレスの主張する「軍艦を建造し、海上で戦え」ということだとする解釈が対立しましたが、彼は強引に軍艦を建造させます。
関眞興(著). 『30の戦いからよむ世界史 上』. 日経ビジネス人文庫. p.47.
結局、テミストクレスは、柵ではなく軍艦建造を決定します。
紀元前四八〇年代末にテミストクレスはアテナイ人を説得して、あらたに発見されたラウレイオンの銀山からの収入を二百隻の艦隊の建造費用にあてさせたが、これは賢明な策だった。
ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林. p.127.
テミストクレス以外には、都市国家をすくえるのは艦隊だけだ、と思っていたギリシア人はほとんどいなかった。海軍は金がかかることもあり、紀元前五世紀以前では戦略的重要性はまったくもっていなかった。
ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林. p.126.
結果としてテミストクレスの予想は的中しました。
サラミスの海戦( The Battle of Salamis )
テルモピュライ陥落の知らせを聞き、ギリシア海軍はアテネ西方のサラミス湾に退いて作戦会議を開きます。
…、やがて大勢はアテネ防衛を放棄し、ペロポネソス半島(スパルタのあるギリシア南部)に撤退へと意見が傾きつつあった。
この撤退案に唯一人反対したのが、アテネの名政治家でもある提督テミストクレスであった。
是本信義(著). 『2時間でわかる図解「孫子の兵法」を身につける本』. 中経出版. p.196.
サラミスでの決戦を望むテミストクレスはアテネ防衛を主張。
こう言って脅しをかけました。
「ふみとどまるべきだ。さもなければ、我らアテナイ人は別の地に都市を再建し、同盟軍とは一切手を切る」。
連合軍の総指揮官エウリュビアデスはアテネ海軍の離脱を恐れて承知しますが、会議は紛糾しました。
そこでテミストクレスは内通する振りをして、クセルクスに使者を送ります。
「ギリシア海軍は、テルモピレーの敗戦を聞き戦意喪失、浮足立って南方へ退却しようとしている。ペルシアにとって、サラミスに集結中に攻撃するのが最良の策である」と伝えさせた。
この時クセルクスは艦隊をそのままアテネ市に向けて、進撃中の陸軍と呼応して同市を挟撃するか、また邪魔者のアテネ海軍をまず片付けるかで大いに迷っていた。
このテミストクレスの内通に喜んだクセルクスは、信頼する女提督アルテミシアの強い助言もあり、艦隊決戦を決心、夜のうちにサラミスを封鎖してしまった。
是本信義(著). 『2時間でわかる図解「孫子の兵法」を身につける本』. 中経出版. p.196.
アテネ艦隊「背水の陣」
アテネ艦隊の艦船数に対し、ペルシア艦隊は約2倍。
そのペルシア艦隊のペロポネソス半島への侵攻を阻止するため、テミストクレスはサラミス海峡に入りました。
自ら全軍を袋のネズミとしたのです。
引用元:アテネ艦隊「背水の陣」の動き
サラミス海峡の入り口にある、プシュッタレイア島( Psyttaleia シッタレイアと表記するものもあり)。
この小さな島を挟み、ペルシア艦隊主力500隻が東西に分かれ、アテネ艦隊を封鎖します。
また、ペルシア軍の命令を受けたエジプト艦隊により、海峡の西側の出口も封鎖されました。
クセルクス大王はサラミス本島に上陸し、玉座からアテネ艦隊を見下ろしていました。
…、ギリシアの船体は優美さではおとるかもしれないが、甲板が高く、つくりも頑丈だった。したがって、作戦展開が困難なせまい海域でも、ギリシアの船団なら、民族も寄せあつめで、せますぎて自由がきかないペルシアの無敵艦隊を封鎖し、目標をさだめ、激突することができた。そして、沈没した船団から浜辺にうちあげられた残存兵は、重装歩兵が槍で刺し殺す。戦いの成否は、アテナイの船団が敵の全艦隊を本土とサラミス島のあいだの海峡にさそいこめるかどうかにかかっていた。海峡の出入口はせまく、ギリシアの船団であふれかえっていた。ペルシア艦隊には、作戦の余地はたいしてのこされていなかったのである。そして、罠におちた。
ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林. p.125.
引用元:三段櫂船(復元)
テミストクレスは、小島を挟んで東西に分かれているペルシャ艦隊がサラミス海峡に入って合流し、態勢を整えるときに混乱が生ずるだろうと予測し、その機会に乗ずることが、唯一の勝機であると判断していた。
大部隊が狭い地域に入ることは、「大魚が網にかかった」のと同じであり、前後左右へ軽快に身動き出来ない。その結果、劣勢な戦力が敵の一部分と戦っても、他の敵が容易に応援に来られず、勝つことが出来る。
(『戦争学』 P56)
しかし、自軍にも退路はありません。この戦法は正に「捨て身」なのです。
そして、その機会が来ました。
彼は叫びました。
「勝利の秘剣は計画の中にあり。神は不注意を決して許さないことを思い知れ!」
アテネ艦隊は、狭い海峡にペルシャの大艦隊が押し入って陣形が乱れ、身動きがとれなくなったところを襲いかかって撃滅した。
(『名将たちの戦争学』 松村劭(著) 文春新書 P138)
レオニダス同様、テミストクレスも部下と共に戦いました。
激戦は約7時間に及び、ペルシャ艦隊は約250隻が沈没。何千もの水兵が溺死しました。
それに対し、ギリシア軍の三段櫂船の損失は40隻以下でした。
ペルシア側780隻に対し250隻と半数以下の劣勢にありながら、ギリシア海軍は敢闘した。祖国防衛の念に燃える闘志と操艦術は、多民族からなり統制を欠くペルシア海軍を終始圧倒し、午後から吹き始めた西風が、強い向かい風となってペルシア海軍を混乱させたこともあり、「サラミスの海戦」はギリシア方の大勝で終わりを告げたのであった。
『2時間でわかる図解「孫子の兵法」を身につける本』 P198)
勝利の立役者はアテナイ人とアイギナ人。
紀元前480年9月、ギリシア軍の一方的な勝利でした。
引用元:サラミスの海戦
陶片追放
サラミスの海戦で煮え湯を飲まされたクセルクス大王は、テミストクレスの首に莫大な賞金をかけました。
一方、海戦後のテミストクレスはアテネの城壁の建設など、防衛の強化に尽力しました。
しかし、アテネの政治家の嫉妬を買い、また自らの強欲のせいもあり陶片追放によりアテネを追われてしまいます。
ヘロドトスの『歴史 下』にこのような記述もあります。
一一二 テミストクレスはなおも私腹を肥やすことをやめず、先にペルシア王の許に送ったと同じものたちを使者に立てて他の島々へも威嚇的な申し入れをし、金銭を要求した。もしこちらの要求するものを与えねば、ギリシア軍をさし向け、包囲して占領すると伝えさせたのである。テミストクレスはこのような言辞を弄して、カリュストス人やバロス人らから多額の金を集めたのであるが、これらの住民はアンドロスがペルシア側に加担したために攻囲をうけたこと、またテミストクレスが指揮官中で最も令名の高い人物であることなどを聞き、恐れをなして右の金を送付してきたのであった。
松平千秋(訳). 2010-12-6. 第43刷発行. 『ヘロドトス 歴史(下)』.岩波文庫. pp.348-349.
恐喝かな?
ただしカリュストス人の場合は、そのようなことをしたにもかかわらず、災厄が猶予されたわけではなかった。バロス人はしかし金によってテミストクレスを宥めることに成功し、攻撃を免れたのである。このようにテミストクレスはアンドロスを基地とし、他の指揮官には内密で島嶼民から金銭をまき上げていた。
松平千秋(訳). 2010-12-6. 第43刷発行. 『ヘロドトス 歴史(下)』.岩波文庫. p.349.
英雄から金を巻き上げられる島嶼(とうしょ)民…気の毒。
引用元:陶片追放に用いられたオストラコン Marsyas CC-BY-SA-3.0-migrated
陶片追放(とうへんついほう)とは:古代ギリシアの僭主防止制度。紀元前五世紀、アテナイで施行された。僭主となるおそれのある人物の名を陶片に書いて投票させ、規定を超えた得票のあった人物は、一〇年間国外に追放された。ただし、財産の没収と市民権の剥奪はなかった。(陶片追放(とうへんついほう)とは – コトバンク)
各地を放浪し、行き場のなくなったテミストクレスは、なんとペルシアに亡命。
クセルクスはテミストクレスに対し、「自分で自分の首を持って来た」として莫大な報奨金を与え、以後自分の側近として用います。(クセルクスの息子で次代の王アルタクセルクセス1世との説もあります)
引用元:大王を前にしたテミストクレス
しかし、後にペルシア王からアテネ遠征を命じられた彼は祖国に弓を引くことを拒み、自害したとのことです。
『戦争学』では、逃れた先のマグネシアで「貧困のうちに悲惨な65歳の生涯を終えた。」と結んでいます。
テミストクレス以上に強い男
古代ギリシアのアテネで、「市民」とは男性のことであり、女性は市民として認められていませんでした。
女性は家にいて、糸をつむいだり、機を織ったり、家庭を守るために働くべきだとされてきたようです。
一般家庭では、少年が7歳になると学校へ通うようになりますが、子どもを育てるのも女性の仕事でした。
スパルタの女子は健全な子孫を生むためにきびしい訓練をうけたが、結婚後は自由であった。そして、健康な子供を育てるのを誇りとした。
これに対してアテナイの婦人の地位は低く、祭や演劇などの他は外出することも少なく、家事に専心した。アテナイを形成したイオニア人は優美で典雅な、あくまで女性的なものを特徴としたが、スパルタはドーリア人の簡素で剛健な男性的であった。それは服装の上にもよく現れている。
ホメロスの詩にも、機械織りをする女王から衣服の洗濯をする女を監督する女王まで、その作品の題材にしている。
妻が無視されている一方、高級売春婦、つまり妾(hetaera ヘタエラ)は需要が多かった。
『西洋化粧文化史』 青木英夫(著) 源流社 P33
このように女性の生活の場はほとんど家のなかに限られていましたが、衣服や髪型はきちんとしたものだったそうです。入浴の習慣もあり、脱毛など体の手入れもしていました。
ギリシアの家では、はさみ、爪みがき、かみそり、そしてギリシア神話を美しく絵画化した浮彫のある青銅の鏡などがあった。また、香料用の小さなビンや香油用のフラスコ、化粧品用の小さな入れ物などが置かれていた。
『西洋化粧文化史』 P35
引用元:紀元前5世紀のギリシアのヘアピン クリーブランド美術館蔵 CC-Zero
女性が自分の境遇をどう思っていたのか、夫を愛していたのか、それはわかりません。古代ギリシャの証言はほぼすべて男性の書いたもので、男性側の意見しかないからです。しかし、その中にも、かの有名な将軍テミストクレスのこんな言葉があります。
「ギリシャで一番強い男がこの俺だって?違うね。それは俺の息子さ。確かに、全ギリシャを指揮するのはこのアテナイ人で、そのアテナイ人を指揮するのはこの俺。だけどその俺に命令出してるのは俺のカミさん!でもって、そのカミさんは息子のいいなりだから!息子が全ギリシャで最強なんだよッ!」
(プルタルコス『テミストクレスの生涯』18節15行目以下)
このエピソードから、テミストクレスが家庭内では奥さんの言うことをある程度聞いている姿が垣間見れるのです。
藤村シシン(著). 2015-10-21. 『古代ギリシャのリアル』. 実業之日本社. pp.244.-245.
あまり高くないとされる古代のアテネの妻、女性の地位。本当に英雄の夫に命令を出していたのでしょうか?
ホントのところが大いに気になりますが、ホントだとしたら、妻にあれこれ言われる古代のアテネの英雄が、ぐっと身近に感じられませんか?
別館 hanna and books の記事 極彩色の古代ギリシャ『古代ギリシャのリアル』
- 水村光男(著). 2016-6-10. 『要点解説 世界の歴史 〈人類の誕生と歴史の始まり〉〈ヨーロッパ・アメリカの歴史〉編』. 知的生きかた文庫.
- 松平千秋(訳). 2010-12-6. 第43刷発行. 『ヘロドトス 歴史(下)』.岩波文庫.
- ヴィクター・ディヴィス・ハンセン(著). 遠藤利国(訳). ジョン・キーガン(監修).2003-2-10. 『図説 古代ギリシアの戦い』. 東洋書林.
- 『戦争学』 松村劭(著) 文藝春秋
- 『ゼロからわかる古代ギリシア』 Gakken
- 『2時間でわかる図解「孫子の兵法」を身につける本』 是本信義(著) 中経出版
- 『名将たちの戦争学』 松村劭(著) 文春新書
- 『30の戦いからよむ世界史 上』 関眞興(著) 日経ビジネス人文庫
- 藤村シシン(著). 2015-10-21. 『古代ギリシャのリアル』. 実業之日本社.
- 『西洋化粧文化史』 青木英夫(著) 源流社
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