ジャン=レオン・ジェロームによる『アレオパゴス会議のフリュネ』。『クニドスのヴィーナス』のモデルといわれる古代に生きた女性を描いています。
『アレオパゴス会議のフリュネ』( Phryne vor dem Areopag ) 1861年 ジャン=レオン・ジェローム ハンブルク美術館蔵
引用元:『アレオパゴス会議のフリュネ』
19世紀のフランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる歴史画。
裁判中、古代ギリシャの高級娼婦フリュネが衣服をはぎ取られる場面です。
このフリュネがモデルを務めたといわれるのが、『クニドスのヴィーナス』像です。
今回の『アレオパゴス会議のフリュネ』が表紙になっています。
フリュネがモデル『クニドスのヴィーナス』
『クニドスのヴィーナス』( Aphrodite of Knidos ) 紀元前4世紀半ば プラクシテレス(にもとづくローマ時代の彫刻) ヴァチカン美術館蔵
引用元:『クニドスのヴィーナス』
水浴の儀式のために身に着けたものを取り去り、恥部を隠す「恥じらいのヴィーナス」のポーズ。
オリジナルは古代ギリシャの彫刻家プラクシテレスの作品ですが、こちらはヴァチカン美術館にあるローマ時代の模刻、通称「コロンナのヴィーナス」です。
この彫刻作品には、実際にモデルがいたのはほぼ確実だと考えられている。理想の美を具現化したものではなく、生身の人間をモデルにしたことから、それ以降、この作品を模範として描かれたヴィーナスたちも、ぐっと人間味が感じられる姿になったのだろう。しかしこの《クニドスのヴィーナス》にオリジナル作品は存在しない。現在残るものは、ローマ時代につくられた模刻のひとつである。プラクシテレスは偉大な彫刻家であったから、おそらくオリジナル作品はもっとすばらしい出来だったに違いない。
池上英洋(監修). 池上英洋, 川口清香, 荒井咲紀(著). 2013-2-12. 『禁断の西洋官能美術史』. 宝島社. p.26.
プラクシテレスによるオリジナル、見てみたかったですね。
『ヌードの美術史』ではこのコロンナのヴィーナス像についてこのようにあります。
愛と美の女神にふさわしく神々しさと官能性をそなえた像だが、ここで注目したいのは、衣を脱ぎ去って完全裸体になったとたんに、陰毛も性器も姿を消してしまったこと。つるりとした陰部の造形は、生殖と豊穣を言祝ぐ身体機能よりも、性的な快楽への連想を掻き立てる。
美術手帖(編). 2012-3-30. 『ヌードの美術史 身体とエロスのアートの歴史、超整理』. p.38.
引用元:『クニドスのヴィーナス』 Marie-Lan Nguyen
これも『クニドスのヴィーナス』です。
ローマ時代の模刻(胴と腿)で、頭部、腕、脚、手にしている服などは後世の復元とのこと。
『pen 2013 No.528 』によると、古代ギリシャで女性の裸体像が作られるようになったのは男性の裸体像よりもずっと後のことでした。
男性の均整の取れた身体の像は社会的にも賞賛されましたが、恋愛や性を意識した裸体彫刻で女性を表現することは避けられていました。
このタブーを破ったのが『クニドスのヴィーナス』でした。
ふたつの女神像
ある時、プラクシテレスはコス島の人々から女神像の注文を受けます。
プラクシテレスは自分の愛人だったフリュネをモデルに、ふたつの像を制作しました。
ふたつの像、それは着衣ヴァージョンと、そのレプリカである裸体ヴァージョン。
プラクシテレスが最初に制作した女神像は、慎み深く布をまとっていました。
女神は人に欲望を抱かせる存在などではなく、はるか遠くから崇めるものだったのです。
しかし、これでは愛人の肉体の魅力を表現しきれていないと考えたのか、彼は布を着けていない女神像を制作しました。
プラクシテレスの『クニドスのヴィーナス』以前にも全身裸体のヴィーナスの小像はあったそうですが、等身大の裸体像は初めてでした。
完成した裸体のヴィーナス像の出来栄えは素晴らしく、どちらを引き渡すか迷ったプラクシテレスは、両方を注文主であるコス島の都市の議会に送りました。
全裸の女神像を見たコス島の人々は仰天。
女神像の受け取りを巡り、激しい議論となってしまいます。
論争の末、コス島の人々は裸体版は受け取らず、着衣版のみを入手しました。
受け取りを拒否された裸体版は、「革新的な都市」クニドスが購入します。
近隣の帝王(ヘレニズム期のニコメデス王)が、クニドスの国家債務を肩代わりするのでこの像を譲ってほしいと申し出ましたが、クニドス島の人々は断りました。
裸体の女神像は、人々が船に乗って見学に来るほどのブームになったそうです。
クニドス島民、見る目ありますね( ̄▽ ̄)。
引用元:紀元前4世紀にクニドスで発行された硬貨(20世紀のエングレービング)
コインには、プラクシテレスの『クニドスのヴィーナス』像が描かれています。
フリュネの「顔」
引用元:『アレオパゴス会議のフリュネ』
腕に隠されて、フリュネの顔が見えません。
一体どんな顔だちだったのでしょうか。フリュネの容貌が気になります。
ヴァチカン美術館の『クニドスのヴィーナス』はオリジナルに忠実だといわれていますから、こんな顔をしていたのかもしれませんね。
引用元:『クニドスのヴィーナス』
ヴィーナスの「色」
『恋する西洋美術史』(光文社新書)によると、「ギリシャ彫刻は多くの場合ブロンズ(青銅)で作られており、ローマ時代にはそれを大理石で模刻することが流行した。」とあります。
現在私たちが鑑賞している古代の大理石像は多くの場合「白」色をしていますよね。
作られた当時、像は彩色されていましたが、長い年月の間に風化し、退色して行きました。
昔々の人びとが見ていたものは「青い海をバックに映える白い大理石像」ではなかったのです。
しかし白の印象が強過ぎて、私には俄かに「色付きの状態」が想像できません(;’∀’)。なんかぴんと来ない。
下はアファイア神殿の西側破風の彩色版です。参考までに。
古代人が目にしていた像はこんな感じだったんでしょうかね。
引用元:アファイア神殿の西側破風、彩色再現( Bunte Götter 展、2004年、ミュンヘン) Marsyas CC-BY-SA-2.5
プラクシテレスの『クニドスのヴィーナス』像の場合、
くぼみのついた両肩および陰影のある胸は、パロス島産の大理石がもつ鮮やかな色調を帯び、頭髪は金箔と金粉で装われ、双の眸には青緑色のトルコ石がはめ込まれ、ベルトとサンダルには宝石がちりばめてあった。足の爪と唇は深紅色に染めてあり、ガウンは青色で銀糸のレースがついていた。したがって、純朴な市民や地方人が、輝く若きフィリーネのこの等身大のレプリカを見たとき、すくなからず男心が騒いだろうことは、想像にかたくない。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.13
フィリーネはフリュネのことです。
完成した像はとってもおカネがかかっていそう(;´∀`) 鮮やかだったようですね。
美しく彩られた等身大の女神像に、性的な狼藉を働いた青年もいたとか…。
彼らは新しい彫像を見るたびに、あたかも生身のマリリン・モンローに接するのと同じような反応を起こした。人びとはヴィーナス像のまわりに密集して、その腕をもてあそんだり、顔を愛撫しようと身を伸ばしたりするのだった。そして、トゥニカ(古代ギリシア・ローマ人の衣服)のひだが、大理石であるがため脱がせることができないとわかると、フラストレーションのあまり、卑猥な言葉で毒づき、そのあげく、石像のお尻をつねりあげようとして、自分の指にあざをつくる始末だった。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.13.
熱狂のあまりべたべた触られたらどんなビッグスターもイヤに決まっていますが、ちなみに、こちらはアメリカの女優マリリン・モンロー様。
引用元:1954年のマリリン・モンロー
映画『七年目の浮気』の、地下鉄の風でスカートが吹き上げられるシーンが有名です。
小さい頃、大人になったら自然にマリリンや不二子、ハニーのようになるんだと思っていたら、現実は違いました。
マリリン・モンロー様の映画では『バス停』『お熱いのがお好き』『百万長者と結婚する方法』『帰らざる河』が好きです。
フリュネの「人生」
美術史上に名前を残すモデル・フリュネ。
栄誉と金銭をこよなく愛したフリュネの物語を、『巨匠のモデル』を参考にご紹介します。
紀元前4世紀、ひとりの女の子が生まれました。
一夜泊まっただけの「父親」は軍の将校だったといわれ、女児はテーベ近くの小さな養鶏場で母親によって育てられました。
15歳ほどで親族によってアテネの娼家に売られ、以降高級娼婦(ヘタイラ。ヘタイライなどとも)の道を歩むことになります。
※ヘタイラ( hetaira )、ヘタイライ( Hetairai )、日本語では「遊女」。書籍によっては「エタイラ」と表記されているかもしれません。
引用元:若い男性がヘタイラに財布を差し出しているところ Marsyas CC-BY-SA-2.5
『巨匠のモデル』によると、あだ名である「フリュネ」の意味は「ざる」。
金持ちの愛人に湯水のように財産を使わせたのがその名の由来であるとなっていますが、彼女の黄色っぽい顔色から来ているという説もあります。書籍等見つけましたら追記します。
どちらが本当の由来だとしても、後世の娼婦たちはフリュネの幸運にあやかるべく、率先してこの名を名乗ったのではないかと想像します。
十五才のとき、叔父の一人にさらわれるようにしてアテネに連れてこられ、高級娼婦に売られた。このようにして娼婦を集めるのは別に珍しいことではない。誘拐されたこの娘もろくに異議を申し立てなかっただろうと思われる。というのも高級娼婦というのは、当時この国で唯一の教養ある女性だったからだ。かくて「接待用女性」の一人として、彼女はどちらかといえば楽しくて贅沢な生活を送ることになったろう。それと同時に、当然のこととして束縛からも自由になった。つまり、一般の女性が人目を避けて、自分の部屋にとじこめられるというそのころの生活習慣をまぬかれて、彼女は、由緒あるアテネ市民の妻や娘や母親たちと同様に、男性と交際できたからであった。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. pp.8-9.
当時のアテネ女性の地位は低いものだったと言われています。
祭や演劇などの他は外出する機会も少なく、家にいて家事に専念していました。
フリュネは、当時の高名な画家であるアペレスの目に留まることを考え始めます。
アペレスによって描かれた女性は誰もが名声と富が約束されたのです。
画家アペレスの目にとまるために
フリュネはたくさんの男性が海岸に集まる海神ポセイドン(ネプチューン)の祭りの日を選び、裸のまま一種の洗礼の儀式として海に入って行きました。
居合わせた人びとの目を釘付けにし、喝采を浴びるフリュネ。
アペレスは見通しの良い高い所から祭りの光景を描いていましたが、女神のようなフリュネを見て「『海から上がるヴィーナス』のモデルは彼女だ!」と心に決めました。
引用元:ポンペイの壁画
「古代絵画の傑作」といわれたアペレスの絵、実物も見てみたかったですね。
フリュネによる「アペレスの目に留まる大作戦」の他、家の排水管の故障で公衆浴場に出掛けて行ったフリュネを、たまたまモデルを探していたアペレスが目にしたとの説もあります。
『ヴィーナスとして公衆浴場に行くフリュネ:アイスキネスに罵倒されるデモステネス』( Phryne Going to the Public Baths as Venus: Demosthenes Taunted by Aeschines ) 1838年 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー テート・ブリテン蔵
引用元:『ヴィーナスとして公衆浴場に行くフリュネ:アイスキネスに罵倒されるデモステネス』
19世紀英国のウィリアム・ターナーの作品。
広く続く風景の中に小さく人間たちがいます。
『エレウシスにおけるポセイドニアのフリュネ』( Phryne at the Poseidonia in Eleusis ) 1889年 ヘンリク・シェミラツキ ロシア美術館蔵
引用元:『エレウシスにおけるポセイドニアのフリュネ』 Shakko CC-BY-SA-4.0
適切な邦題が見つからなかったので、上のタイトルは私が直訳しました。
絵の英語のタイトルが『 Phryne on the Poseidon’s celebration in Eleusis 』になっているものがあり、「ポセイドニア」( Poseidonia )を「海神ポセイドンの祭り」( Poseidon’s celebration )とした方がわかり易いかなとも思いましたが、ここは一旦 Wikipedia でのタイトルに倣うことにしました。
次は有名彫刻家プラクシテレス
画家アペレスの次は彫刻家プラクシテレスの出番です。
アペレスの絵を見たプラクシテレスは、モデルとしてフュリネを使いたいと考え、彼女を誘い出しました。
しかしこのモデルの仕事はフリュネにとって良い稼ぎにはならなかったようです。
プラクシテレスは「フリュネに愛を告白しさえすれば、モデル代のことなど帳消しになるだろうと踏んでいた形跡がある」と『巨匠のモデル』の筆者は書いておられます。
プラクシテレスの言葉を意訳すると、「偉大な彫刻家であるボクが捧げた愛こそがモデル代さ」という感じ?
「ボクの愛」だけでは足りなかったフリュネは考えました。
現金の代わりに彼の彫刻を一点手に入れよう。
そこで彼女は、一計を案じます。
ある日の深夜、寝ているプラクシテレスを「仕事場で火が出た」といって叩き起こしました。
飛び起きたプラクシテレスは「キューピッド像を救い出さねば!」と叫び、その言葉を聞いたフリュネは「キューピッド像を手に入れなくちゃ」と決心したのです。
その後像を自分のものにしたフリュネはこれを高値で売却。
「後年、ユリウス・カエサルは、それを手に入れローマに持ち帰った」そうです。(『巨匠のモデル』)
『フリュネにキューピッド像を贈るプラクシテレス』( Praxiteles Giving Phryne his Statue of Cupid ) 1794年 アンゲリカ・カウフマン ロード・アイランド・スクール・オヴ・デザイン・ミュージアム蔵
プラクシテレスは「男前」と『巨匠のモデル』にありますが、果たして…?
不敬の罪に問われるフリュネ
プラクシテレスの元に、コス島から女神像制作の依頼が来ました。
プラクシテレスはフリュネをモデルに、着衣姿と全裸体ふたつの像を制作します。
クニドスが購入した裸体像は大評判。
一方、プラクシテレスの少年モデルたちの妬みを買ったフリュネは、「不信仰」、神に対する「不敬」の罪に問われることとなります。
ギリシア人にとって、それは死に値する重大な罪であった。そもそも、偉丈夫で、髭をたくわえ、雄のかたまりのようなプラクシテレスには、少年のモデルたちが想いを寄せていた。この少年たちが、嫉妬心からフィリーネとの仲を裂こうとして、つくり話を流して歩き、それが彼女に対する悪評判をいっそうかきたてたのだ。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.14.
少年モデルたちを気遣っていたプラクシテレスは、日頃から物心両面で彼らを援助してやっていました。
少年モデルたちには生活の心配は無かったものの、女性であるフリュネと、この偉大な彫刻家の愛や自分がモデルとなった作品が神殿の重要な場所に奉納される栄誉を競わなくてはならなくなりません。
そのことに不満を抱いていた彼らは、アテネ人女性が敬虔に執り行う「エレウシスの秘儀」を、フリュネが嘲笑している、といいふらしたのです。
「エレウシスの秘儀」とは、古代ギリシアのエレウシスにおいて、豊穣・結婚の女神デーメーテール(デメテル)とその娘ペルセポネー(ペルセフォネ)崇拝の祭典のこと。
紀元前318年5月10日、フリュネは裁判の場に引き出されます。
フリュネの裁判
夜、沢山の松明の灯りに照らされ、最高法廷でフリュネの裁判が始まりました。
501人のアテネ市民(男性)が裁判官です。
ジェロームの絵画のタイトルにある「アレオパゴス会議」( Areopagus )とは古代アテネの政治機構です。
参加した501人の中には彼女の客だった男性もいたことでしょう。
アテネ国家の検事エウタイスも彼女に求婚してはねられた男の一人であった。彼の述べた舌端火を吹く起訴理由は、現在でも法律修辞学の教科書的手本として残っている。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.15.
『食卓の賢人たち』の著者アテナイオスは、フリュネを弁護したのは雄弁家のヒュペレイデスであると伝えています。
以前からフュリネに想いを寄せていたヒュペレイデスは、危機に陥った彼女を救い自分の価値を認めて貰うべく、ひとり弁護に立ちました。
不利な状況の中、ヒュペレイデスはフュリネを裁判官たちの前に押しやると、彼らの前で彼女の衣服をはぎ取る行動に出ます。
「ヴィーナスを崇拝する諸君、愛の女神がひょっとして自分の妹と認めるかもしれぬこの女を一目見たまえ。それでもあえてできるなら、彼女に死を与えよ!」この事件の記録によれば「裸身を現したその美しい肉体を一見するや、感嘆の声が一斉にあがり、彼女は全員一致で釈放が決まった」とある。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.16.
引用元:『アレオパゴス会議のフリュネ』
引用元:『アレオパゴス会議のフリュネ』
非常にドラマティックな場面で、法廷サスペンスの大どんでん返しを見ている気になりますね。
しかし他の「結末」は少し異なっていて、フリュネは裁判官一人一人の手を取り、涙ながらに自分の弁護をしたという話もあります。
美しい裸を見て心が変わったので釈放したという件(くだり)に一瞬「え?」となった私としては「こっちがほんとなんでは…」と思ってしまいます。
その後のフリュネ
フリュネと彼女の危機を救ったヒュペレイデスはどうなったか。
気になりますよね。
ドラマなどと違って(?)、有能な弁護士と美しい依頼人の間には何も起きませんでした( ̄▽ ̄)。
一財産を築いた後、フリュネは権力志向に傾いていったようです。
金絵具で描いた自分の肖像画を歴代王の胸像にまじえてアテネの神殿内に飾ってもらおうと画策して、しきりに求めつづけていた永遠不滅を、金銭で買おうと目論んだこともあった。また、テーベの城壁がマケドニアの軍勢に破壊されたあとのことだが、各城門に「アレキサンダーが壊したが、フィリーネが再建した」と銘を彫りこんだ飾り額をはめこんでくれさえしたら、その修復費用を引き受けてもよいと申し出たくらいだ。この提案は拒絶され、その打撃からフィリーネは二度と立ち直れなかった。
ミュリエル・シーガル(著). 小山昌生(訳). 1977-10-11. 『巨匠のモデル』. 白水社. p.17.
立ち直れなかったけれど、相変わらずの美貌で男たちを惹きつけ、70歳くらいまで恋愛生活は続いたそうです。
フリュネが亡くなった時、デルフォイの神殿にフリュネの彫像が置かれ、このような献辞が添えられたとあります。
「あらゆる芸術家と恋人に刺激を与えたフィリーネのために」
残念ながらオリジナルのヴィーナスの全裸像も着衣像も失われてしまいましたが、ローマ時代に盛んに作られたコピーによって、古代のひとりの女性の名が現代まで残る。姿も残る。時空を超えたロマンを感じますなあ。
最後にもう一枚、ジェロームの作品を掲載します。
『アレオパゴス会議のフリュネ』を背後から見たのかな?と思ってしまうような絵、『ローマの奴隷市場』です。
品定めする買い手の視線に、腕で顔を隠す女性。
直立ではなく左右の足を前後に少しずらすことで、くびれが強調されるウエスト。
『クニドスのヴィーナス』も片方の膝が前に出て、ウエストにくびれと艶めかしさを与えていますよね。
引用元:『ローマの奴隷市場』
お肌の質感が美し過ぎて目が離せません。
『ローマの奴隷市場』『アレオパゴス会議のフリュネ』掲載
コメント
コメント一覧 (2件)
ぴーちゃん様
今回もコメント有難うございました。
夜勤に入る前にすぐに返信した筈が…無い…多分またコメント送信ボタンをちゃんと押さなかったのかと思います。誤字や誤コピペチェックしていて気付きました。
遅くなって本当に申し訳ありません。
確かに美人は得ですよね!
ウワサに聞いた姿を想像するしか出来ませんが、そんなにスゴイ美人・パーフェクトボディの持ち主だったんですかねえフリュネって。
バーグマン様は高貴な美貌をお持ちでしたね。私は『汚名』と『オリエント急行殺人事件』が好きですねぇ。
母の影響で古い映画もよく観ましたが、他に好きな女優はキャサリン・ヘップバーン、シャーロット・ランプリングかな。男優はウォルター・マッソーとかダーク・ボガードが好きでした。
あっという間に一年がまた過ぎようとしています。
私の仕事は年末年始も関係ありませんので、子供の頃感じた「年の瀬」「お正月」というような雰囲気はありません(-ω-)/。
ただ、何とか無事に今年も一年生き延びた、という思いです。
気が滅入るようなニュースばかりが耳に残りますが、来年はすっごく良いニュースが多く聞けるといいですね。
ぴーちゃん様とご家族の皆様にとっても「想像以上」の素敵な年になりますように。
今年もお世話になりました。
また来年もよろしくお願い致します。
ハンナさん、こんにちは。
ご無沙汰しております。
今日も、興味深いお話をありがとうございます。
裸体の女性像は、男性像より後に作られたのですね。
クニドスに住んでいる人は、進取の意気に富んだ人たちですね。
こんな人たちのもとで、文化は発展していくのですね。
ギリシャ人って、みんな美人の印象があります。
その中でも特別の美人フリュネの顔って想像つきません(笑)
因みに、わたしの美人だなぁ、と思う人はイングリッド・バーグマンか、ダイアナ妃です。
しかし…裁判の話は…
裁判の話は…
美人って、得ですね!!(笑)