アン・オブ・クレーヴズの姉 ザクセン選帝侯妃ジビュレの肖像画

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イングランドのヘンリー8世妃アン・オブ・クレーヴズには姉がいました。ドイツの巨匠クラナッハが描いたザクセン選帝侯妃ジュビレの美しい姿をご覧ください。

ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ヴァイマル城
ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ヴァイマル城
目次

ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク( Sibylle von Jülich-Kleve-Berg, 1512年1月17日-1554年2月21日)

ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ヴァイマル城
ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ヴァイマル城

引用元:ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク

この華やかで魅力的な肖像画の女性の名前はジビュレ。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の長女としてデュッセルドルフで生まれ、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒの妃となりました。

この絵はジビュレの婚約(または結婚)時のもの。

ジビュレの妹はアンナ・フォン・クレーフェ( Anna von Kleve, 1515年9月22日-1557年7月17日)。

英語名はアン・オブ・クレーヴズ、イングランド王ヘンリー8世の四番目の王妃となった女性です。

『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』( Portrait d’Anne de Clèves, reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII ) 1539年頃 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵
『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』 1539年頃 ハンス・ホルバイン(子) ルーヴル美術館蔵

引用元:アン・オブ・クレーヴズ

ルーヴル美術館:Portrait d’Anne de Clèves (1515-1557), reine d’Angleterre, quatrième épouse de Henri VIII

ヘンリー8世妃アン・オブ・クレーヴズ(アンナ・フォン・クレーフェ)が着る1530年代のハイ・ファッション

実物より美人?『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』(ハンス・ホルバイン(子)作)

姉ジビュレの肖像画は、北方ルネサンスの巨匠・ルーカス・クラナッハ(父)。

妹アンの肖像画は、同じドイツ出身のハンス・ホルバイン(子)。

どちらも美術史、絵画史上に必ず名前が挙がる偉大な画家たちです。

姉妹の末妹アマーリエも、ハンス・ホルバイン(子)によるものです。

アマリア・フォン・クレーフェ 1532年頃? ハンス・ホルバイン(子) ロイヤル・コレクション蔵
アマリア・フォン・クレーフェ 1532年頃? ハンス・ホルバイン(子) ロイヤル・コレクション蔵

引用元:アマリア・フォン・クレーフェ

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘のひとり、アマリア(またはアマーリエ、Amalia of Cleves, 1517年10月17日ー1586年3月1日)は、生涯独身を通しました。

1995年、ジュビレの肖像画が盗まれる

1995年、ジビュレの肖像画は盗難に遭いました。

犯人はフランス人のウェイター、ステファン・ブライトヴィーザ―。

ブライトヴィーザーは2003年に逮捕されました。

彼が絵を盗んだ目的は転売のためではなく、自分が所有し、楽しむためだったようです。

七年以上にわたり、七つの国の百を超える美術館や博物館から窃盗を働いていたことが露見したのだ。彼の場合は、自身のコートの下に隠せる小さな絵だけを盗み、また警備設備が限られた小さな施設を集中して襲っていた。方法は単純なものだった。女友だちが見張りをするか、あるいは通りがかった警備員に慣れ慣れしくちょっかいををかけるかしている間に、ナイフを取り出した彼が額から絵を切り取り、それをもって歩み去るというものだ。彼が手に入れた最も価値ある作品は、ルカス・クラーナハがザクセン選帝侯の妃を描いた肖像画《ジビュレ・フォン・クレーフェ》だった。

 ブライトヴィーザーは、コレクションを母のフラットに保管していた。彼が逮捕されたとき、母親は証拠を隠滅しようと試みた。百点の作品を地元の運河に投げ込み、クラーナハを含む六十点の油彩画は切り刻んで台所のゴミと一緒に捨てるという方法で破壊した。

フィリップ・フック(著).中山ゆかり(訳).2016-12-22.『サザビーズで朝食を 競売人オークショニアが明かす美とお金の物語』. フィルムアート社. p.342.

切り取る?美術品を独り占めしようとするだけでも許せないのに、切り取るだと?切り刻むだと?

なんてバチ当たりな!!!許せん!!

1500年代前半の情勢

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国( Vereinigte Herzogtümer Jülich-Kleve-Berg )

1540年頃のユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公領の地図
1540年頃のユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公領の地図

引用元:1540年頃のユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公領の地図 Ziegelbrenner. CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国、英語表記だと「United Duchies of Jülich-Cleves-Berg」。

15世紀前半にユーリヒ公国とベルク公国が連合し、16世紀の政略結婚によってクレーフェ公国もその「仲間入り」をします。

ジュビレたち姉妹は、ベルク公国の首都デュッセルドルフで生まれました。

アンの結婚話

姉妹の宗教はプロテスタントです。

二番目の妃アン・ブーリンと結婚するために、国の宗教を変えたイングランドのヘンリー8世。

側近トマス・クロムウェルはヘンリー8世にはプロテスタントの王妃をと考え、アンを四番目の妃に迎えることを勧めます。

ヨーロッパでは、プロテスタントの小国がカトリックの大国スペインやフランスの脅威にさらされていた。そうした国の1つがドイツのクレーヴズだった。イングランドにとって、クレーヴズ公国はフランスとスペインに対する格好の同盟国になりそうだった。君主のクレーヴズ公ヨハン3世には2人の未婚の娘がおり、1538年、ヨハン公は年長のアンを国王ヘンリーの花嫁として差し出した。

ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 2010-6-30. 『ダークヒストリー イギリス王室史』. 原書房. p.138.
トマス・クロムウェル 1532年頃 ハンス・ホルバイン(子) フリック・コレクション蔵
トマス・クロムウェル 1532年頃 ハンス・ホルバイン(子) フリック・コレクション蔵

引用元:トマス・クロムウェル

1517年、マルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』

姉妹がまだ幼かった頃。

免罪符を売りさばくカトリック教会やローマ教皇に対し、神学者マルティン・ルターが抗議の声をあげます。

1517年、ヴィッテンベルク大学の教授だったルターが、大学内の教会の扉に『95ヶ条の論題』を記した紙を貼ったのです。

この声は多くの共感を呼びますが、教皇はルターを破門。

神聖ローマ皇帝カール5世は帝国議会にルターを召喚し、自説の取り消しをするよう求めます。

ルターはこれを拒否。

法的権利の剥奪や財産を没収され、ルターは窮地に陥りました。

マルティン・ルター(1483年11月10日-1546年2月18日) 1529年 ルーカス・クラナッハ (父)の工房 ウフィツィ美術館蔵
マルティン・ルター(1483年11月10日-1546年2月18日) 1529年 ルーカス・クラナッハ (父)の工房 ウフィツィ美術館蔵

引用元:マルティン・ルター

神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年2月24日-1558年9月21日) 1548年 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:カール5世

ルターに救いの手を差し伸べたのは、1464年にルターをヴィッテンベルク大学に招聘したザクセン選帝侯フリードリヒ3世でした。

フリードリヒはヴァルトブルク城にルターを匿います。

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 1532年以降 ルーカス・クラナッハ(父) リヒテンシュタイン美術館蔵
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 1532年以降 ルーカス・クラナッハ(父) リヒテンシュタイン美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯フリードリヒ3世

このフリードリヒ3世の肖像画はクラナッハの作品です。

ヴィッテンベルクに工房を持ち、フリードリヒ3世の御用絵師をしていたクラナッハは、ルターの友人でもありました。

ルーカス・クラナッハ(父)自画像 1550年頃 ウフィツィ美術館蔵
ルーカス・クラナッハ(父)自画像 1550年頃 ウフィツィ美術館蔵

引用元:ルーカス・クラナッハ(父)自画像

フリードリヒ3世の死後、弟のヨハンが跡を継ぎます。

兄と同じ路線をとり、ルターの宗教改革を支持しました。

ザクセン選帝侯ヨハン 1526年以降 ルーカス・クラナッハ(父) ドレスデン美術館蔵
ザクセン選帝侯ヨハン 1526年以降 ルーカス・クラナッハ(父) ドレスデン美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯ヨハン

ジュビレの夫、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ( Johann Friedrich (I.), 1503年6月30日-1554年3月3日)

ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1531年 ルーカス・クラナッハ(父) ルーヴル美術館蔵
ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1531年 ルーカス・クラナッハ(父) ルーヴル美術館蔵

引用元:ヨハン・フリードリヒ

1532年、父ヨハンの跡を継いでザクセン選帝侯となります。

ルターと親しく交流したヨハン・フリードリヒは、1531年、他のプロテスタントの諸侯たちとともに「シュマルカルデン同盟」を結成。

「反ローマ・反皇帝・反カトリック」を掲げ、皇帝カール5世と対立を深めていきました。

1530年代前半、

 この頃ルター主義は、東ドイツ植民によって生まれた土地の全域と北ドイツに、さらにはスカンディナヴィア半島に拡大する気配を見せていた。カトリックにはハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家の支配する領邦しか残っていなかった。

阿部勤也(著). 『物語 ドイツの歴史』. 中公新書. p.115.

1546年7月、ついにシュマルカルデン戦争が始まります。

カール5世の側についたのは、弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)、甥マクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世。フェルディナントの息子)、スペインからアルバ公、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ヴィルヘルム4世でした。

バイエルン公ヴィルヘルム4世(1493年11月13日-1550年3月7日) 1526年 アルテ・ピナコテーク蔵
バイエルン公ヴィルヘルム4世(1493年11月13日-1550年3月7日) 1526年 Hans Wertinger アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:バイエルン公ヴィルヘルム4世

ちなみに、ヴィルヘルム4世の息子はフェルディナントの娘と1546年に結婚しています。

ヴィルヘルム4世の実母クニグンデと、カール5世の祖父で神聖ローマ皇帝マクシミリアンは兄妹ハプスブルク家クニグンデ姫の「騙され婚」と1516年「ビール純粋令」

神聖ローマ皇帝カール5世とその兄弟狂女王フアナの孫娘『デンマークのクリスティーナ』

歴史画に描かれた狂女王フアナ19世紀の歴史画に描かれたカスティーリャ「狂女王」フアナ

1547年4月、「ミュールベルクの戦い」

ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1550年頃 ティツイアーノ・ヴェチェッリオ 美術史美術館蔵
ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1550年頃 ティツイアーノ・ヴェチェッリオ 美術史美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ

巨匠ティツィアーノが描いたザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒです。

体、大きいですね。

江村洋氏の著書『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』でもこのような記述があります。

 体をもてあましそうな選帝侯ヨーハン・フリードリヒは、肥満体そのままに動作が緩慢だった。物事の判断に迅速性を欠き、そのために決定的な瞬間をむなしく逃すという、はなはだ将帥にふさわしからざる行動を取ることがしばしばあった。よくいえば慎重、悪くいえば愚鈍。石橋をたたいて渡る型の人間である。

江村洋. 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房新社. p.273.

貫禄は十分、かな?

カール5世の皇帝軍と、ヨハン・フリードリヒのシュマルカルデン同盟軍は激しく衝突します。

1547年4月の「ミュールベルクの戦い」では皇帝軍がヨハン・フリードリヒの軍を打ち破り、勝利を収めました。

その日、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは油断していました。

カール5世率いる皇帝軍はまだ遠くにいると考えていましたが、実際にはカール5世と彼を守るスペインの近衛兵とともにエルベ川を渡り、ヨハン・フリードリヒの居る陣営まで迫っていたのです。

この数時間のあいだ、選帝侯ヨハン・フリードリヒが、敵軍の来襲に対して何一つ有効な手立てを打たなかったというのも、信じがたいことである。彼は皇帝軍がまだ遥か彼方にあるものと盲信していたから、早くも敵の部隊がエルベを渡り始めた、との第一報を河畔の守備隊から受けても、

「そのような馬鹿なことはあり得ない」

と高笑いしたほどだった。

江村洋. 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房新社. pp.287-288.

やがて事の重大さに気付いたヨハン・フリードリヒは退却を決意しますが、決断が遅過ぎました。

家臣に守られ、森の中に逃げ込んだヨハン・フリードリヒ。

しかしヨハン・フリードリヒは皇帝軍によって捕えられてしまいました。

敗北したザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとカール5世の遣り取りです。

ヨハン=フリードリヒはカールに「このうえなく慈悲深い皇帝陛下, 私は陛下の捕虜でございます」と言った。それに対してカールは, 「今では, 私のことを皇帝と呼ぶのかね」と答えた。これは, プロテスタント派の諸侯がカールのことを, 「皇帝を自称するガンのカール」と呼んでいたことへのあてこすりだった。

ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 遠藤ゆかり(訳). 2002-9-20. 『カール5世とハプスブルグ帝国』. 創元社. p.124.

「ガン」は、 現在のベルギーの都市「ヘント」(Gent)のこと。フランス語由来の言い方では「ガン」(Gand)、英語由来では「ゲント」(Ghent)、ドイツ語由来では「ゲント」(Gent)です。

戦いで顔に傷を受けたヨハン・フリードリヒは皇帝軍の捕虜となり、ザクセン選帝侯の位と領土は剥奪されました。

この遣り取りの前後も含めて、江村洋氏の著書がわかり易いです。

『カール5世騎馬像』 1548年 ティツイアーノ・ヴェチェッリオ プラド美術館蔵
『カール5世騎馬像』 1548年 ティツイアーノ・ヴェチェッリオ プラド美術館蔵

引用元:『カール5世騎馬像』

1547年4月24日のミュールベルクの戦いでの勝利を記念して描かれた『カール5世騎馬像』。

こちらも作者はティツイアーノです。

ジュビレ、防戦する

夫不在のヴィッテンベルクを包囲されたジュビレは、息子とともに防戦します。

カール5世からは無条件降伏を迫られましたが、囚われの身となっていた夫からは「決して城を明け渡すな」との指示が来ていました。

 この城を守っているのは、選帝侯の妃ジルヴィアと、父と同名の子ヨーハン・フリードリヒである。男勝りのジルヴィアはミュールベルクの敗戦と夫の捕縛を知った時は、さすがに天地が晦冥かいめいする思いで意気阻喪したものの、やがて気を取り直し、我が城と町を守り抜こうと決意を新たにした。

江村洋. 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房新社. p.292.

カール5世は無条件降伏の要求を無視するジビュレに対し、

「もしこれ以上、無駄な抵抗を続けるならば、夫の生命はないものと思え」

と告げられると、夫思いの彼女は途端にへなへなとくずおれてしまった。夫が処刑される、と聞いただけで居ても立ってもいられなくなった妃は、つい最前までの燃えるような敢闘精神はどこへやら、万斛ばんこくの涙を注ぎつつ、ひたすら皇帝に夫の生命乞いをした。

江村洋. 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房新社. p.292.

ヨハン・フリードリヒはカール5世により死刑宣告を受けていました。

ジュビレに対してもうこれ以上の時間を割きたくなかったのか、カール5世は刑を執行せず交渉に入ります。

しかしカール5世にヨハン・フリードリヒを処刑する気は無く、「死罪は避けられない」との姿勢は一種のポーズだったようです。

1547年5月19日、ヴィッテンベルク講和。

5月23日にヴィッテンベルクは無血開城し、皇帝軍に引き渡されます。

ヨハン・フリードリヒは自身と妻子の命を救うため退位を余儀なくされますが、刑は終身刑に減刑されました。

五月十九日のヴィッテンベルク講和で、ヨハン・フリードリヒは選帝侯位をモーリッツに引き渡し、また自領を息子たちに分与して、終身禁固刑に服すべく、しばらくのちに降伏したヘッセン伯フィリップともども、ネーデルラントへ連行されていった。いかなる脅迫もヨハンのルター派信仰を捨てさせることはできなかったといわれる。

瀬原義生(著). 2013-12-10. 『カール五世とその時代』. 文理閣. p.304.

ザクセン選帝侯モーリッツ( Moritz, 1521年3月21日-1553年7月9日)

シュマルカルデン戦争で皇帝側について戦った人物のなかに、ヨハン・フリードリヒのまたいとこに当たる「モーリッツ」という人物がいます。

下の肖像画はルーカス・クラナッハの息子の作品です。

モーリッツ(1521年3月21日-1553年7月9日) 1559年 ルーカス・クラナッハ(子) ドレスデン美術館蔵
モーリッツ(1521年3月21日-1553年7月9日) 1559年 ルーカス・クラナッハ(子) ドレスデン美術館蔵

引用元:モーリッツ ルーカス・クラナッハ(子)

モーリッツはカール5世のために働き、ザクセン選帝侯位と領地を授かりました。(ザクセン公(在位:1541年 – 1553年)、ザクセン選帝侯(在位:1547年 – 1553年))

シュマルカルデン同盟を敗北させたモーリッツですが、信仰はプロテスタント。

モーリッツは、シュマルカルデン戦争をヨハン・フリードリヒとともに戦ったヘッセン伯フィリップの娘アグネスを妻にしていました。

その後、カール5世は、敵に寝返ったモーリッツによって暗殺されそうになり間一髪でインスブルックに逃れます。

ザクセン選帝侯モーリッツ( Kurfürst Moritz von Sachsen ) 1578年 ルーカス・クラナッハ(父) ドレスデン美術館蔵
ザクセン選帝侯モーリッツ 1578年 ルーカス・クラナッハ(父) ドレスデン美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯モーリッツ

ドレスデン美術館:Kurfürst Moritz von Sachsen

ドイツ王室一〇〇〇年史

ドイツの歴史はなかなかに複雑です。あなたの知りたいことが本書にどんぴしゃで書いてあるとは限りませんが、入門編としては良いと思います。大雑把に概略を捉えたら、新書とか厚めの「ドイツ史」本に行くのがよろしいかと。こちらに君主たちの肖像画が載っているので、挿絵無しの本に行ってもイメージし易いです。このシリーズは他に英国編、フランス編もあります。

コペンハーゲン国立美術館にあるペアの肖像画

ヨハン・フリードリヒは1552年9月に釈放され、5年の不在期間を経て家族と再会します。

息子ヨハン・フリードリヒ2世はザクセン公の肩書きを有し、ジュビレは1554年2月21日に、ヨハン・フリードリヒは3月3日に亡くなりました。

ザクセン選帝侯妃ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルクの肖像 1533年 ルーカス・クラナッハ(父) コペンハーゲン国立美術館蔵
ザクセン選帝侯妃ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルクの肖像 1533年 ルーカス・クラナッハ(父) コペンハーゲン国立美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯妃ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルクの肖像

ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1533年 ルーカス・クラナッハ(父) コペンハーゲン国立美術館蔵
ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1533年 ルーカス・クラナッハ(父) コペンハーゲン国立美術館蔵

引用元:ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ

Portrait of a girl with forget-me-nots ( The Princess ) 1526年 ルーカス・クラナッハ(父)

Portrait of a girl with forget-me-nots (The Princess) 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ワルシャワ、ヴィラヌフ宮殿
Portrait of a girl with forget-me-nots (The Princess) 1526年 ルーカス・クラナッハ(父) ワルシャワ、ヴィラヌフ宮殿

引用元:Portrait of a girl with forget-me-nots (The Princess)

最後にご紹介する絵は、ジュビレの肖像画と同じ1526年に描かれたものです。

ジュビレの肖像画同様、婚約の絵と見なされていました。

すごく素敵な表情ではないですか?

私が高校生の時見た解説には「着ているのは花嫁衣装」みたいな言葉が書いてあったと思いますが、実際はどうなんでしょう。

書籍等ももう思い出せません…。

そして『ザクセン選帝侯妃ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク』が、あのアン・オブ・クレーヴズのお姉さんだったなんて(゚д゚)!

それを知った時の衝撃!

いやあ、知れば知る程、人間の歴史や絵画史って面白いなあヽ(^o^)丿

最後に疑問がひとつ。

ヘンリー8世は、肖像画と実物のアン・オブ・クレーヴズがかなり違っていたので「ちっとも美しくない!」と言って怒ったそうです。

ホルバインがアンの姿を美しく描き過ぎたためと言われますが、「そんなに違わない」説もあります。

アンの姉妹であるジュビレとアマリアの肖像画から、アンがそれ程の不美人とは到底思えません。

てことは、アンの姿はやっぱり実物に近い???

気になります。

実物より美人?『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』(ハンス・ホルバイン(子)作)

主な参考文献
  • フィリップ・フック(著).中山ゆかり(訳). 2016-12-22.『サザビーズで朝食を 競売人オークショニアが明かす美とお金の物語』. フィルムアート社.
  • ブレンダ・ラルフ・ルイス(著). 樺山紘一(日本語版監修). 高尾菜つこ(訳). 2010-6-30. 『ダークヒストリー イギリス王室史』. 原書房.
  • 江村洋. 2013-11-20. 『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』. 河出書房新社.
  • ジョセフ・ペレ(著). 塚本哲也(監修). 遠藤ゆかり(訳). 2002-9-20. 『カール5世とハプスブルグ帝国』. 創元社.
  • 瀬原義生(著). 2013-12-10. 『カール五世とその時代』. 文理閣.
  • 『物語 ドイツの歴史』 阿部勤也(著) 中公新書
  • 『ドイツ王室1000年史』 関田淳子(著) 中経出版
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