画家の娘 ジュリー・ルブラン

  • URLをコピーしました!
 ※当ブログのリンクには広告が含まれています。
 ※画像の左下にある「引用元」のリンクから元のファイルをご覧になることができます。

18世紀フランスの画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、何度も愛娘ジュリーの姿を描いています。そのジュリーの肖像画と人生です。

『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵
『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵
目次

『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵

『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵
『鏡を見るジュリー』 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵

引用元:『鏡を見るジュリー』

メトロポリタン美術館Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror

18世紀フランスの女性画家 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの一人娘、ジュリーです。

利発さが感じられる美少女ですね。 こちらを見るような、鏡の中のジュリーの眼差しにドキッとします。

メトロポリタン美術館の解説を引用します。

In 1787 she submitted to the French Royal Academy’s Salon three portraits of her daughter, Julie, including this one—a tacit nod to the fact that her ability to create encompassed but was not limited to motherhood. Julie is shown both in profile and straight on through the inclusion of a mirror. The deliberately impossible perspective results in a double image that draws on earlier artists’ allegorical figures of Sight and debates about reality versus illusion in painting.

(Google翻訳:1787 年、彼女はフランス王立アカデミーのサロンに、この絵を含む娘ジュリーの肖像画 3 点を提出しました。これは、彼女の創造力は母性だけに限られるものではないことを暗黙のうちに示しています。ジュリーは、鏡を挟んで横顔と正面の両方で描かれています。意図的に不可能な遠近法によって、以前の芸術家による視覚の寓意的表現や、絵画における現実と幻想についての議論を想起させる二重像が生まれています。)

『鏡を見るジュリー』 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン Collection Michel David-Weill

『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン Collection Michel David-Weill
『鏡を見るジュリー』( Julie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror ) 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン Collection Michel David-Weill

引用元:『鏡を見るジュリー』

メトロポリタン美術館の作品とは、髪の長さが違うジュリー像。(でも可愛い)

一枚でジュリーの可愛らしい横顔と正面からの顔の両方が見られますが、メトロポリタン美術館の解説の、「以前の芸術家による視覚の寓意的表現」という箇所で、この作品が思い浮かんだ方もおられたのではないかと思います。

『鏡を見る哲学者』( Philosopher with Mirror ) 1600年 - 1652年 画家不詳(リベラにちなむ) アムステルダム国立美術館蔵
『鏡を見る哲学者』( Philosopher with Mirror ) 1600年 – 1652年 画家不詳(リベラにちなむ) アムステルダム国立美術館蔵

引用元:『鏡を見る哲学者』

アムステルダム国立美術館蔵Philosopher with Mirror

下記のサイトで紹介されています。

画家 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン( Élisabeth Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日 – 1842年3月30日)

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン自画像 1781年-1782年頃 キンベル美術館蔵
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン自画像 1781年 – 1782年頃 キンベル美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像

キンベル美術館Self-Portrait, c. 1781

パリ生まれの画家 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン。

ルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットお気に入りの肖像画家です。

マリー・アントワネットの肖像 1778年 ヴィジェ=ルブラン 美術史美術館蔵
マリー・アントワネットの肖像( Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日 – 1793年10月16日) 1778年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 美術史美術館蔵

引用元:マリー・アントワネットの肖像

美術史美術館Erzherzogin Marie Antoinette (1755-1793), Königin von Frankreich

マリア・テレジアに捧げられた肖像画

ヴィジェ=ルブランによる1778年のマリー・アントワネットの肖像画

母が再婚し、義父と折り合いが悪かったエリザベート=ルイーズ。

親切にしてくれた画家兼画商の ジャン=バティスト=ピエール・ルブランに求婚されます。

ギャンブル好きで女性関係も派手だったルブランに対しては特に愛情も無く、画家として稼ぎもあったエリザベート=ルイーズには結婚の必要性も無かったといいますが、承諾し、1776年に結婚。

ルブランとの間に 1780年に女児 ジュリーを出産しています。

ジャン=バティスト=ピエール・ルブラン( Jean-Baptiste-Pierre Le Brun, 1748年 - 1813年) 1795年 - 1796年の間 私蔵
ジャン=バティスト=ピエール・ルブラン( Jean-Baptiste-Pierre Le Brun, 1748年 – 1813年) 1795年 – 1796年の間 私蔵

引用元:ジャン=バティスト=ピエール・ルブラン自画像

ジュリー・ルブラン( Jeanne Julie Louise Le Brun, 1780年 – 1819年)

『芸術家の娘、ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ルブラン、当時2歳』 1782年 スウェーデン国立美術館蔵

『芸術家の娘、ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ルブラン、当時2歳』( Jeanne Julie Louise Lebrun, konstnärens dotter vid 2 års ålder ) 1782年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン スウェーデン国立美術館蔵
『芸術家の娘、ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ルブラン、当時2歳』 1782年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン スウェーデン国立美術館蔵

引用元:『芸術家の娘、ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ルブラン、当時2歳』

スウェーデン国立美術館Jeanne Julie Louise Lebrun, konstnärens dotter vid 2 års ålder

ジュリー・ルブランは、1780年2月12日、パリで生まれました。

娘ジュリーとの自画像 1786年 ルーヴル美術館蔵

娘を抱いた自画像 1786年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ルーヴル美術館蔵
娘を抱いた自画像( Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819) ) 1786年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ルーヴル美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像

ルーヴル美術館Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819)

1786年の自画像はルーヴル美術館シュリー翼で鑑賞できます

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『自画像』(1786年)他

1787年 「マリー・アントワネットとその子供たち」

フランス王妃マリー・アントワネットとその子供たち 1787年 ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿
フランス王妃マリー・アントワネットとその子供たち 1787年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿

引用元:マリー・アントワネット

1785年の「首飾り事件」で失墜した王妃のイメージを回復するため、描かれた作品。

画面の中では、王太子は空の揺りかごを指さしています。

マリー・アントワネットは幼い娘を亡くしており、この絵は王妃への同情を買うはずでした。

しかし民衆による王妃らへの反感は止まず、革命の足音は着実に近づいてきます。

娘との自画像 1789年 ルーヴル美術館蔵

娘との自画像 1789年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ルーヴル美術館蔵
娘との自画像( Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819) ) 1789年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ルーヴル美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像

ルーヴル美術館蔵Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819)

優れた絵画を購入し、博物館構想を抱いていたダンジヴィエ伯爵の依頼で制作。

この作品は、「革命後に没収され、ルーブル美術館のコレクションに収蔵された。」そうです。(Wikipedia : ヴィジェ=ルブラン夫人と娘のジャンヌ=リュシー=ルイーズ

当時流行の古代ギリシャ風の衣装に身を包んだ母親は優しく子供を抱き締め、子供の方も自然な表情で「大好きなお母さん」を抱き締めています。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『自画像』(1786年)他

ジュリー・ルブラン 1789年 ボローニャ、国立絵画院蔵

ジュリー・ルブラン( Julie Lebrun ) 1789年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
ジュリー・ルブラン 1789年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ボローニャ、国立絵画院蔵

引用元:ジュリー・ルブラン

革命が間近に迫り、ヴィジェ=ルブランも身の危険を感じ始めました。

夫に内緒で貯めた金を手に、ヴィジェ=ルブランは娘と家庭教師を連れてパリを脱出します。

 ヴィジェ=ルブランは九月に入って亡命の準備にかかった。邸にやってきた国民衛兵は出発せぬよう脅したが、そのなかにサン=キュロットの服装をした近隣の住民がいて、「つじ馬車で行きなさい。自家用馬車は危険です」とささやいてくれた。辻馬車の座席が取れた一〇月六日深更、ヴィジェ=ルブランは九才の娘ジュリとその家庭教師と三人で馬車に乗った。ジュリを腕に抱いた自画像《母の愛》を、ダンジヴィレ伯爵のために制作してから幾月も経っていなかった。奇しくもこの日、国王ルイ一六世と王妃マリ=アントワネットと子供たちは、ヴェルサイユ宮殿から民衆の女たちによってパリに連れ戻されていた。ヴィジェ=ルブランにとっても王室にとっても、先の見えない日々が始まったのである。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. pp.84-85.

画家ユベール・ロベール、ヴィジェ=ルブランの実弟エティエンヌ、夫ルブランに見送られ、ヴィジェ=ルブランは イタリアに向かいました。

ヴィジェ=ルブランによる画家ユベール・ロベールの肖像画

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『自画像』(1786年)他

国立絵画院(ボローニャ)のHP。ジュリーの肖像画を探しましたがよくわかりませんでした。わかったらまた追記します

1790年 ヴィジェ=ルブラン自画像

1790年の自画像 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ウフィツィ美術館蔵
1790年の自画像( Self-portrait ) エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ウフィツィ美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像

ウフィツィ美術館Self-portrait

ウフィツィ美術館収蔵の自画像。 美人ですね。

パリを離れ、フィレンツェを訪れたヴィジェ=ルブラン。

彼女の名声は各地に行き渡っており、行く先々で大歓迎されます。

1789年、彼女はキャリアの絶頂期に、革命蜂起を逃れるためにパリを離れました。ローマ旅行の途中でフィレンツェに立ち寄り、ピッティ宮殿とウフィツィ美術館を訪れ、17世紀にレオポルド・デ・メディチ公が開館した自画像コレクションを鑑賞しました。彼女は特に、同時代のスイス人画家アンゲリカ・カウフマンの自画像に心を奪われました。ウフィツィ美術館の館長ジュゼッペ・ベンチヴェンニ・ペリは、この機会を捉えて、エリザベートの作品を権威あるコレクションに加えるよう依頼し、エリザベートは熱烈にこれを受け入れました。

(ウフィツィ美術館Self-portrait Google翻訳)

『水浴びをする女性』 1792年 個人蔵

『水浴びをする女性』( La bañista ) 1792年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 個人蔵
『水浴びをする女性』( La bañista ) 1792年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 個人蔵

引用元:ジュリー・ルブラン

HA!La bañista

『水浴びをする女性』(浴女)というタイトルですが、モデルはジュリーです。

小さくて、あどけなかった幼女が、美しく変身しています。

当時12歳。まだ大人になる前の、とても瑞々しい印象ですね。

彼女は親しみを込めてブルネットと呼ばれていました(ブルネットはフランス語で黒髪を意味するため、おそらく髪の色から、あるいは彼女の名字に対する愛称だったのかもしれません)。

( HA!La bañista Google翻訳)

「浴女」を主題にしていますが、この「困惑」「恥じらい」の表情、仕草で、聖書の美人妻「スザンナ」を彷彿とさせませんか?

彼女のポーズについて、このような記述もあります。

慎みと恥じらいのしぐさとして、彼女は胸を覆い、私たちの視界の彼方に怯えた視線を向けている。その何かとは、聖書の物語に登場する二人の老人、貧しく貞淑なスザンナを弄ろうとした老人に他ならない。ヴィジェ=ルブランはこのエピソードからこの絵のインスピレーションを得たようだ。この場面では、画家は同名の画家アルテミジア・ジェンティレスキとは異なった描き方をしている。二人の老人はキャンバスから姿を消し、少女の反応にのみ注目が集まっている。ジュリーの姿は、当時の新古典主義の潮流に沿って、古典的なイメージ(ナイトガウンのドレープとローマ風の髪型によって強調されている)として際立っている。

( HA!La bañista Google翻訳)

スザンナの物語については、

フランチェスコ・アイエツの『水浴のスザンナ』とドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』

目利きの枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼとボルケーゼ美術館のコレクション

17世紀の女性画家 アルテミジア・ジェンティレスキ

アルテミジア・ジェンティレスキ( Artemisia Lomi Gentileschi )

ヴィジェ=ルブランはロココ時代の画家ですが、時代は新古典主義へと移ります。「ロココから新古典主義へ」(【hanna and books】の記事に飛びます)

知識ゼロからでも大丈夫! 「西洋絵画史入門」

『ジュリー・ルブランの肖像』 1792年 パルマ国立美術館蔵

『ジュリー・ルブランの肖像』( Ritratto della figlia ) 1792年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン パルマ国立美術館蔵
『ジュリー・ルブランの肖像』( Ritratto della figlia ) 1792年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン パルマ国立美術館蔵

引用元:『ジュリー・ルブランの肖像』

パルマ国立美術館Ritratto della figlia

1792年7月15日、パルマ美術アカデミーはルイーズ・エリザベート・ヴィジェ=ルブランを「名誉教授」に迎え入れました。慣例に従い、彼女はこの機会のために特別に制作された、署名と日付が入ったこの小さな絵画を寄贈しました。この任命は、18世紀から19世紀にかけてフランスおよびヨーロッパの上流社会を描いた、高く評価された肖像画家であったこの画家の名声をさらに高めるものでした。彼女はアンジェリカ・カウフマンと共に、当時最も著名な芸術家の称号を分け合っていました。(Google翻訳)

パルマ国立美術館Ritratto della figlia

先に挙げたウフィツィ美術館の解説にも アンゲリカ・カウフマンの名が出ていました。カウフマンについての記事は【hanna_and_art’s blog】ではまだ少ないですが、よろしければ下記の記事をどうぞ

『クニドスのヴィーナス』のモデル、フリュネ

18世紀の名優デイヴィッド・ギャリックを描いた画家たち

1789年、革命から逃れるためジュリーを連れてパリを脱出したヴィジェ=ルブラン。

ローマとナポリなど、イタリアに滞在したあと、ウィーン、ロシアに渡ります。

パルマには亡命期間中に短期間、2回滞在したそうです。

これらの華麗な作品とは比較にならないものの、国立美術館所蔵の絵画は確かにマイナーな作品ではあるものの、それでも美しく描かれ、ルブランの絵画様式を代表する重要な作品である。この絵画はルブランの娘を描いており、同じくボローニャ・アカデミー(彼女は1789年から会員であった)への 歓迎品として送られた絵画もルブランの娘を描いている。この絵画もルブランの娘と非常によく似ており、アプローチも非常に似ており、おそらく同時期に制作されたと考えられる。実際、この絵画には1732年7月1日にパルマから書かれた手紙が添付されており、その中で作者は「これは娘の肖像だ」と明確に述べている(Zamboni 1979, p. 297参照)。さらに、これらの作品と、ルーヴル美術館所蔵の華麗な「娘と自画像」など、子供が描かれた他の作品とを単純に比較するだけでも、ある種の顔立ちの類似性が浮かび上がる。パルマの絵画では、少女は半身像で描かれ、少し後ろを向いており、唇は開いて視線は空を向いています。彼女は、ネックラインに沿って薄い金色の刺繍で軽く装飾された直線的な形の赤いドレスと黄土色のショールを着ており、これはルブランが生前も作品中も好んで着ていた服装と一致しています。(Google翻訳)

パルマ国立美術館Ritratto della figlia

このジュリー・ルブランの肖像画、上方を見上げ、唇を薄く開き、夢想するような表情は、ヴィジェ=ルブランが影響を受けたとされる画家 グルーズの少女像に似ている気がしません?

デュ・バリー夫人による注文『壊れた甕』(グルーズ作)

鮮やかな赤を除けば、落ち着いた色調がカンバス全体を支配している。背景には、空がかすかに感じられるものの、基本的にはニュートラルな色合いが見られる。これらの色調は、顔の肌色において特に繊細に表現されており、柔らかな筆致と巧みな陰影によって、いつものようにはっきりと描き出されている。彼の女性像の多くに見られる特徴である、大きくやや細長い目が際立っている。その甘くメランコリックな表情は、ルブランにしばしば見られるグルーズ風の感傷性を想起させるだけでなく、すでにロマン主義的な感受性を予感させるようにも見える。しかしながら、この情緒は表面的なものにとどまり、やや反復的な表現形式(開いた唇、俯いた顔など)と画家の技巧に委ねられており、感情の領域を真に捉えきれていない。このことが、クインタヴァッレが既に指摘しているように、この絵画にやや型にはまった性格を与えている。これは、ルブランが常に最大限の力を発揮できたわけではない、目まぐるしいペースで制作を続けていたことにも起因している。(Google翻訳)

パルマ国立美術館Ritratto della figlia

華やかなドレスや大きな羽根飾りを付けたロココ・スタイルと異なり、髪も衣装も、「自然な感じ」に見えますよね。

1789年に描かれた『娘との自画像』(ルーヴル美術館蔵)のヴィジェ=ルブラン自身、古代ギリシャ風の衣装を身に着けています。

ロココ期の後に興る、新古典主義芸術のスタイルが見て取れます。

マリー・アントワネットが着ていた装飾的なドレスから、モスリンのゆったりしたドレスへ。

過剰な装飾を削ぎ落し、理知的な美しさを重んじた新古典主義の精神が宿る、簡潔なシルエットですね。

『ギターを弾くジュリー・ルブラン』 1797年 – 1798年頃 ズボフ財団蔵

『ギターを弾くジュリー・ルブラン』( Julie Le Brun jouant de la guitare ) 1797年 - 1798年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ズボフ財団蔵
『ギターを弾くジュリー・ルブラン』( Julie Le Brun jouant de la guitare ) 1797年 – 1798年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ズボフ財団蔵

引用元:『ギターを弾くジュリー・ルブラン』

ズボフ財団蔵Julie Le Brun jouant de la guitare

17、18歳頃のジュリーの姿です。衣装は完全に古代風。

彼女は愛娘ジュリー(ここでは古典様式で描かれています)がギターを弾く姿をしばしば描いています。ズーボフ伯爵夫人は、この絵画に滲み出る母性愛にきっと心を打たれたことでしょう。(Google翻訳)

ズボフ財団蔵Julie Le Brun jouant de la guitare

『アタランタの姿をした少女の肖像画(画家の娘ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ル・ブラン(1780-1809)と言われている)』 1799年頃 個人蔵

『アタランタの姿をした少女の肖像画(画家の娘ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ル・ブラン(1780-1809)と言われている)』( Portrait of a young girl in the guise of Atalanta, said to be Jeanne Julie Louise Le Brun (1780-1809), the artist's daughter ) 1799年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 個人蔵
『アタランタの姿をした少女の肖像画(画家の娘ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ル・ブラン(1780-1809)と言われている)』( Portrait of a young girl in the guise of Atalanta, said to be Jeanne Julie Louise Le Brun (1780-1809), the artist’s daughter ) 1799年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 個人蔵

引用元:Portrait of a Young Woman as Atalanta

sothebysPortrait of a young girl in the guise of Atalanta, said to be Jeanne Julie Louise Le Brun (1780-1809), the artist’s daughter

アタランタ(アタランテー、アタランテ) は、ギリシア神話に登場する、超足が速い女性の狩人。

『花の女神フローラとしてのジュリー』( Julie as Flora, Roman Goddess Of Flowers ) 1799年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン セントピーターズバーグ美術館蔵

『花の女神フローラとしてのジュリー』( Julie as Flora, Roman Goddess Of Flowers ) 1799年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン セントピーターズバーグ美術館蔵
『花の女神フローラとしてのジュリー』( Julie as Flora, Roman Goddess Of Flowers ) 1799年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン セントピーターズバーグ美術館蔵

引用元:Julie as Flora, Roman Goddess Of Flowers

ジュリーの肖像画を探しましたがよくわかりませんでした。わかったらまた追記します

1799年8月 ジュリーの結婚

ヴィジェ=ルブランは、2人目の子供を出産後まもなく亡くしています。

ジュリーは実質「ひとりっ子」でした。

娘をとても愛していたヴィジェ=ルブラン。

きっと彼女にとってジュリーは、最大の「幸福」であり「誇り」であったことでしょう。

ヴィジェ=ルブランは、ジュリーにも自分と同じように芸術家になることを望んでいました。

ジュリは当時一九才、各地で一流の教育を受けて、イタリア語に堪能、歌も上手でピアノとギターも弾き、画才もあり、しかも大きな眼とほっそりした姿態の完璧な娘に成長していた。ヴィジェ=ルブランはロシアでは若い娘だけに用いていた神話風の演出でジュリの肖像画を描いている。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. p.266.

ヴィジェ=ルブランはジュリーの結婚相手に、新古典主義の画家 ピエール=ナルシス・ゲラン(1774年 – 1833年)を考えていましたが、ジュリーが選んだのは、ガエタン=ベルナール・ニグリ(1766年頃 – 1831年頃)という青年でした。

ニグリは、イヴァン・グリゴリー・チェルニシェフ伯爵(1762年 – 1831年)の秘書でした。

ヴィジェ=ルブランはニグリが見かけだけの凡庸な青年であることを見抜き、この結婚に反対します。

しかし、ジュリーは反抗。結局、母親の反対を押し切ってしまいます。

ヴィジェ=ルブランはついにパリの夫ルブランの法的な承認を取り付け、相当な持参金や生活費は自分で用意してやり、一七九九年八月末二人は結婚した。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. p.266.

しかし、結婚後まもなくジュリーは夫に幻滅し、愛情も冷めてしまったようです。

自分も結婚で苦い思いをした母エリザベトにとって痛恨の極みとなったのも、娘の結婚であった。娘ジュリーはサンクト・ペテルブルクの宮廷劇場支配人の秘書をしていた得体の知れない男に入れあげ、母の反対を押し切って20歳の時、この男と結婚。画家の「回想録」によると、「自分の娘、ひとり娘を才能もなく、財産もなく、名前もない男にやると思うと胸が張り裂けそうでした」。「私にとってもっと辛かったのは、娘が私から遠ざかり、私への信頼感をなくしていったことでした」。「(娘の結婚で)私の生きる喜びは取り返しがつかないほどついえました。娘を愛するという喜びをもはや感じなくなったのです」。これらの短い言葉に、最愛の娘を赤の他人に取られ、いわば精神的に亡くした母親の心痛が読み取れるが、これまた母親の、今度は突き放したような言葉によれば、「ふたり(=娘夫婦)の愛が冷めるのに2週間もあれば十分でした」。

千足伸行(著). 2021-4-15. 『画家たちのパートナー その愛と葛藤』. 論創社. pp.29-30.

反対したけれど、結局ふたりの結婚を許し、協力したヴィジェ=ルブラン。

それに対し、娘ジュリーの態度は「冷ややか」なものだったそうです。

その後ジュリーは天然痘に罹患。

ヴィジェ=ルブラン自ら看病し、ジュリーには痕が残ることなく回復しましたが、母娘の仲が元に戻ることはありませんでした。

1800年10月、ヴィジェ=ルブランはモスクワに旅立ちました。

この後ヴィジェ=ルブランは、長年手中のたまのようにいつくしんできた愛娘と離ればなれに生活するようになった。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. p.267.

モスクワで、ヴィジェ=ルブランはパリのルブランから、「ジュリーをサンクト・ペテルブルクに置き去りにした」との非難の手紙を受け取りますが、これに反論しています。

その後、ヴィジェ=ルブランは自分の名が「亡命者リスト」から抹消されたことを知ります。

彼女が懐かしい故郷 パリに帰還できたのは、1802年のことでした。

ジュリーは夫ニグリとともに1804年にパリに戻り、グロ=シュネ通りのルブラン館に身を寄せます。

ジュリは二五才、その美貌と才気は母を満足させたが、一方でヴィジェ=ルブランが容認できない人々と交際していたため、ルブラン館に同居させることはできなかった。ジュリにはある程度の画才もあって、ロシア皇妃のパステルの肖像画を制作したこともあったが、本格的な画家といえる仕事はしてこなかったし、またその意志もなかった。ヴィジェ=ルブランは毎日のように娘に会っていたが、母娘が本当に和解することはなかった。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. pp.338-339.

1805年。ヴィジェ=ルブランは滞在先の英国から帰国。

ジュリーと夫との間は冷え切り、ジュリーにはマルテスト侯爵という愛人がいました。

1804年、ジュリー・ルブランはパリに戻り、8年間の結婚生活の後、二人は別れた。

ジュリー・ルブランは芸術で生計を立てようとし、1811年に サン・ラザール通りの展覧会に「ニグリ嬢」という名前で出展した。(Google翻訳)

( Wikipedia : Julie Le Brun

1812年、ニグリは国外へ去り、愛人との仲を正式なものにできないジュリーは、「身持ちの悪い女」との評判だったそうです。

ジュリーには生活力がなかったため、両親による生活費の援助が必要でした。

父のルブランは娘婿(ニグリ)に金を貸していましたが、それを回収する当てはありませんでした。

1813年、ルブランが死去。 ずいぶん以前に離婚していましたが、元夫の死に、ヴィジェ=ルブランはショックを受けました。

1819年12月8日 ジュリーの死

私のなかでずっと、ジュリーは「ヴィジェ=ルブランの娘」でしたが、あるとき検索した Wikipedia の記事に、「画家」とあり、ちょっと驚きました。「画家? どんな絵を描いていたっけ」と、彼女の作品が思い浮かびませんでした。

人気画家ヴィジェ=ルブランの娘で、確かな審美眼を持つ画商兼画家ルブランの娘でもあるジュリーに、画才が無いわけない、と思う。

同時に、「これ、他人はそう思うけど、本人には「そう思われたくない」ことだったかもしれない」と思いました。偉大で、有名で、才能ある両親を持ってしまった子にありそうな。

ジュリーの心情はわかりませんが、『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』によると、やはり「娘時代の彼女は絵が上手で、音楽の才も」あったそうです。

普段から美しいものに囲まれ、親が教師で、親の仕事を見て育ったジュリーに、

「画才がまったくなかったとしたら、その方が不思議であろう」(『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』)。 うん。私もそう思います。

 とはいえ、何ごとにも素質のほかにモティベーションというものが必要であることはいうまでもない。ジュリにはそれがなかった。各国の社交界で少女時代を過ごし、高名な画家の美貌びぼうの娘ということでもてはやされ、完璧な少女として偉大な母に崇拝され、しかも最終的にどの環境にも落ちつくことのない生活が子供をスポイルする確率は高い。ジュリは男癖が悪かったように言われているが、それ以前に彼女には生活の核となる何かがなかったのである。ニグリと結婚してからの母娘は数年間会うことなく、娘はロシアで、母はヨーロッパ各地で暮らしていた。あるときヴィジェ=ルブランは、娘が自分をロシア人と思っているのかフランス人と考えているのかさえわからないと記している。ジュリのアイデンティティの欠落は職業だけではなく国籍にまで及んでいたのである。

鈴木杜幾子(著). 令和2年1月27日. 『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』. 角川選書. pp.394-395.

夫ニグリは国外に去り、恋人マルテストは当てにならない。

父は鬼籍。母とは折り合いが悪い。

ジュリーは「身寄りのない女性が暮らす下宿のような宿に身を寄せ」ます。

健康を害し、梅毒で39歳という若さで病没。

彼女は最期に何を思ったのでしょうか。

ヴィジェ=ルブランは、娘を看取ることはできませんでした。

『回想録』では、

しかし、この打撃(夫の死)は、娘の死の時に私が味わった残酷な悲しみに比べれば、はるかに小さなものでした。娘の病状を聞くとすぐに駆けつけましたが、病状は急速に進行し、娘を救う望みが全く消え去った時、どんな気持ちだったかは言葉では言い表せません。最後の日に娘に会いに行った時、ひどく落ち込んだ顔を目にした時、私は気を失いました。旧友のノワヴィル夫人が、悲しみの床から私を救い出してくれました。足がもつれそうになった私を支え、家に連れて帰ってくれました。(Google翻訳)

( Wikipedia : Julie Le Brun

愛娘の死がヴィジェ=ルブランに与えたショックが、どれほど大きいものだったのか…。

聖ジュヌヴィエーヴ』 1821年頃 マルリー=ル=ロワ美術館プロムナード

『聖ジュヌヴィエーヴ』( Saint Genevieve ) 1821年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン マルリー=ル=ロワ美術館プロムナード
『聖ジュヌヴィエーヴ』( Saint Genevieve ) 1821年頃 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン マルリー=ル=ロワ美術館プロムナード

引用元:Sainte Genevieve

聖ジュヌヴィエーヴを描いていますが、2年前に亡くなった娘ジュリーの面影がある肖像画です。

聖ジュヌヴィエーヴ、または羊を飼っている聖ジュヌヴィエーヴ羊飼いの聖ジュヌヴィエーヴ、またはナンテールの平原で羊を飼っている聖ジュヌヴィエーヴとしても知られるこの絵画は、エリザベート・ヴィジェ・ルブランによって制作され、聖枝祭の日曜日 (1822 年 3 月 31 日) にルーヴシエンヌのサン・マルタン教会に寄贈されました。

この聖人は、2年前に亡くなった芸術家の娘ジュリーの特徴をとっている。この絵画は現在、マルリー遊歩道美術館に所蔵されています。(Google翻訳)

(Wikipedia : Sainte Genevieve, 1821, by Elisabeth Vigee Le Brun)

仲が良かった頃のジュリーの姿なのかな、と勝手に想像。

この絵は『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』にも掲載されています。

ヴィジェ=ルブラン、カウフマン、グルーズのパートナーも載っています

一冊まるごとヴィジェ=ルブラン

ヴィジェ=ルブラン自画像、マリー・アントワネットの肖像画の話も読むことができます

『ベルサイユのばら』の池田理代子先生によるフランス革命期に生きた女性たち

ルブラン夫人(ヴィジェ=ルブラン)も前半に登場しています

フランス絵画の歴史。おすすめの一冊

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次