美術手帖 1977年1月号で「象徴主義の画家たち」が特集されました。アルノルト・ベックリン(アーノルト・ベックリン)も見開きで紹介されています。
アルノルト・ベックリン(Arnold Böcklin, 1827年10月16日 – 1901年1月16日)
1977年の美術手帖では、「アーノルト・ベックリン」表記です。
美術手帖 1977年1月号 monthly art magazine bijutsu techo vol.29 no.415 january
- 「象徴主義の画家たち」特集。
- 執筆:麻原雄+池内紀+岡田隆彦+小川栄二+隠岐由起子+酒井忠康+潮江宏三+末永照和+千足伸行+高見堅志郎+本江邦夫+山梨俊夫
アーノルト・ベックリン
スイスのバーゼルに織物業者の息子として生まれた。父親は一介の織工から経営者に出世した者だが、その秘訣は「本物そっくりの輸出用トルコ帽子の色づけに成功した」からであるという。少なくともこの点、父親も絵画的問題に無縁ではなかったわけである。ベックリンはギムナジウムを二年余して中退した(のち、古典的なテーマにおける彼の非ドグマ的な扱い方が、古典教養の不足の結果と非難されたものだ)。デュッセルドルフでシルマーに学び、一八四八年、パリに赴いたが、「フランスとフランス的なものに対する深い嫌悪」とともに帰郷。一八五〇年、初めてローマを訪れた。八歳年長のヤーコプ・ブルックハルトと知り合ったのもこの滞在中である。翌年、ブルックハルトは二十三歳のこの画家について、ある書簡に記している。「今日はまだ無名の画家でしかない。だが、十年後には、必ず注目を集めているでしょう」。十年を要さなかった。一八五九年、ミュンヘンで展示された「葦の中の牧神」によって、ベックリンの名は一躍知られた。のちのベックリン絵画の大蒐集家シャック男爵が登場するのもこの時期である。この間にもしばしばイタリアを訪れ、一八七〇年以降はほぼフィレンツェに定住した。
美術手帖 1977年1月号 monthly art magazine bijutsu techo vol.29 no.415 january. p.68.
※ヨハン・ヴィルヘルム・シルマー(Johann Wilhelm Schirmer, 1807 – 1863)はドイツの画家。
※ヤーコプ・ブルクハルト (Carl Jacob Christoph Burckhardt, 1818 – 1897) は、スイスの歴史家、文化史家、美術史家。代表的な著作は『イタリア・ルネサンスの文化』。
※アドルフ・フリードリヒ・フォン・シャック (Adolf Friedrich von Schack、1876年以降 Adolf Friedrich Graf von Schack、1815 – 1894) はドイツの詩人、芸術史家、文学史家。
古い貴族の出で、1876年にプロイセン王(当時はドイツ皇帝兼プロイセン国王ヴィルヘルム1世)より公式に伯爵(Graf)の地位を授けられたため、名前に「Graf」が加わりました。
ベックリンは、シャック伯爵の支援を受け、1860年から1862年にかけてヴァイマールのザクセン大公美術学校 (Großherzoglich-Sächsische Kunstschule Weimar) で教鞭を執っています。(Wikipedia:Arnold Böcklin)
※「葦の中の牧神」:ノイエ・ピナコテークPan im Schilf, 1858
ノイエ・ピナコテークの解説では、本作はシャック・コレクション。「1859年にルートヴィヒ1世が、画家本人から購入。1923年以降はヴィッテルスバッハ補償基金が所蔵」とあります。
「葦の中の牧神」は1859年3月に広く知られるようになり、1862年に描かれた「ディアナの狩り」は、ベックリンにとって、最初の大きな依頼作品となったそうです。(参考:Wikipedia:Arnold Böcklin)
※「ディアナの狩り」:バーゼル美術館Die Jagd der Diana
バーゼル市立美術館が所蔵する最初のベックリン作品(ベックリンはバーゼル生まれです)。本作は1862年にバーゼル市立美術館によって購入されました。

引用元:Pan in the Reeds

引用元:Diana’s Hunt
ベックリンの絵画は生前から烈しい毀誉褒貶にさらされていた。一方に強い嫌悪があり他方に熱烈な賞讃があった。初期の風景画は十九世紀絵画の牧歌的な理想化の性格をおび、とまれ鋭い自然観察者の目につちかわれ、その生み出す雰囲気はロマン派に属するものである。古代の神話的素材が精力的に採用され、その幻想とリアリズムによりシュルレアリズムの先駆者とみなされる作風が定着したのは、一八七〇年以後のことであろう。生と死のアレゴリックな象徴性は時代思潮に及んで、たとえば薔薇十字結社の神秘学に大きな影響を与えた。ベックリンは晩年の大作「ペスト」に至るまで、生と死の原体験のイデアに憑かれていたといえよう。彼の神話学はきわめて個性的な、いわば体験された物語に似ており、その神々は審美学に属しても宗教学とは かかわらない。「死者の島」が複製として、一八八〇年代の市民の居間の必需品となるまでに流布したのも、ニーチェの哲学やワグナーの楽劇に色どられた時代の汎神論的雰囲気に見事に対応したからであろう。
美術手帖 1977年1月号 monthly art magazine bijutsu techo vol.29 no.415 january. p.68.
※フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 – 1900)はドイツの哲学者・古典文献学者。1869年から1879年にかけて、スイスのバーゼル大学で教鞭をとっていたこともあります。著作は『ツァラトゥストラはかく語りき』『善悪の彼岸』『アンチクリスト』『この人を見よ』ほか。ヴァイマールで死去。
※ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813 – 1883)は、作曲家、指揮者、思想家。「楽劇王」。『タンホイザー』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『ニーベルングの指環』ほか。
※汎神論(はんしんろん):万物は神の現れであり、万物に神が宿っており、一切が神そのものであるとする宗教・哲学観。
文中に「死者の島」とありますが、「死の島」?
『死の島』は第5バージョンまであり、20世紀半ばのヨーロッパでは大変有名で、多くの家庭の中でこの絵の複製画が飾られていたそうです。

引用元:The Plague
バーゼル美術館Die Pest

引用元:『死の島』
バーゼル美術館Die Toteninsel (Erste Fassung)
さらにベックリンにおける象徴の独自さがある。「ヴァイオリンを弾く死神にともなわれた自画像」について、解釈の多様さを認めたうえでホーフシュテッターは述べている。「画家は不意に制作の手を休め、ある音に聴き入っている。いま一つの世界から響きくる音であり、その世界こそ彼が霊感を受けている世界にほかならない。画面全体が耳をすまし、この精妙な音の 執拗な力を受けとめている。感覚と共鳴にさしつけられたこの要素によってのみ、この自画像は象徴的なのだ。さもなければアレゴリーにとどまる」。ノルデやキリコのみならず、カンディンスキーにとってもまたベックリンは「偉大なる先行者」であった。一九一〇年、「大いなる抽象と大いなる写実」を論じた中で、ベックリンの作品を「対象にかかわりながら事物を異様の相の下に配置して、抽象絵画における効果とひとしい成果を生み出すもの」と記している。
(池内)
美術手帖 1977年1月号 monthly art magazine bijutsu techo vol.29 no.415 january. pp.68-69..
※ハンス・H・ホーフシュテッター(Hans H. Hofstätter, 1928 – 2016):美術史家。著書に『象徴主義と世紀末芸術』(種村季弘訳)。
※エミール・ノルデ(Emil Nolde, 1867 – 1956)は、ドイツの画家。本名はエミール・ハンゼン(Emil Hansen)。
※ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888 – 1978)は画家、彫刻家。
※ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky, 1866 – 1944)は、ロシア出身の画家。
美術手帖のアルノルト・ベックリン解説ページでは、『春の夕暮れ』『自由(スイス)』が掲載されています。
『春の夕暮れ』 (Spring Evening)

引用元:Spring Evening
ハンガリー国立美術館Spring Evening
ベックリンの絵画には、人魚、ケンタウロス、ニンフといった神話上の生物が多く登場します。
ここでは笛を吹くパン (Pan)、その調べに聴き入る森のニンフたち (nymphs of the forest (dryads)) がいます。
Born in Switzerland, Arnold Böcklin travelled to Rome for the first time in 1850 at the suggestion of the renowned art historian Jacob Burckhardt. Böcklin later returned to Italy on several occasions, and the countryside around Rome and the relics of the past had a profound impact on his art. In 1874, he moved to Florence for a number of years, and it was here that his elegiac composition Spring Evening was painted.
Spring Evening
美術史家ヤーコプ・ブルクハルトの勧めで、ベックリンは1850年に初めてローマを訪れます。
その後ベックリンは幾度となくイタリアを訪れ、1874年に移り住んだフィレンツェで数年間を過ごしました。美
術館の解説によると、ローマ近郊の田園風景や過去の遺跡はベックリンの芸術に大きな影響を与え、『春の夕べ』はこの地で描かれた、とあります。
『自由(スイス)』 (Die Freiheit (Helvetia))

チューリッヒ美術館Die Freiheit (Helvetia)
寓意画。1983年から、ベルリン国立美術館(旧国立美術館)からの永久貸与。
ベックリンの絵画は、下記の自由主義のページで使用されています。(「die Freiheit」は「自由」の意味)
『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像』『ケンタウロスの戦い』『二人の牧羊神に覗かれる眠るディアーナ』『海辺の別荘』は口絵カラーページで使用されています。
『死の島』もモノクロで掲載されていますが「テンペラ」とあり、バーゼル美術館所蔵の『死の島 第一バージョン』は「キャンパスに油絵」。それ以外はサイズ(111 x 155 cm)、制作年(1880年)も同じです。
『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像』 (Selbstbildnis mit fiedelndem Tod)

旧国立美術館Selbstbildnis mit fiedelndem Tod
制作の手を止めて、死神の囁き、または彼が奏でる音楽に耳を傾ける画家。
本作が描かれた1870年代は、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー (1788 – 1860) の影響が強い時期でした。
旧国立美術館の解説に、ベックリンは時折ショーペンハウアーの言葉を引用しており、この自画像はショーペンハウアーの悲観主義の観点からも解釈できる、とあります。
しかし、ショーペンハウアーは代表作『意志と表象としての世界』の「天才について」という章で、ショーペンハウアーの思想を支持したジャン・パウルに明確に言及しています。
1898年に本作が旧国立美術館に買い上げられたあと、時代は、「Memento mori(死を想え)」から、死があるからこそ「Memento vivere(生を想え)」の風潮へ。
生と死は表裏一体。恐ろしい「死」は、芸術家にとってのミューズ、インスピレーションへと姿を変えて捉えられ、解釈されたのです。
Die siebziger Jahre, in denen Böcklin sein »Selbstbildnis mit fiedelndem Tod« malte, standen zudem ganz im Zeichen Schopenhauers (den Böcklin gelegentlich zitierte); auch von dessen Pessimismus her ließe sich das Selbstbildnis deuten. Schopenhauer aber bezieht sich in dem Kapitel »Vom Genie« seines Hauptwerkes »Die Welt als Wille und Vorstellung« ganz ausdrücklich auf Jean Paul.
Nach seinem Ankauf für die Nationalgalerie 1898 fand das Bild im Sinne der herrschenden Lebensphilosophie eine ähnliche, überbiographische Deutung als Inspirationsdarstellung. Im »Pan« konnte man lesen: »Dies Bild ist nicht auf die Tonart des ›Memento mori‹ gestimmt. Vielmehr klingt aus seinem Pathos ein hoheitsvolles ›Memento vivere‹ heraus. […] zum Musageten metamorphosiert sich Freund Hein für den Künstler« (4. Jg., 1898, H. 4, S. 238 f.). | Angelika Wesenberg
Selbstbildnis mit fiedelndem Tod
※『意志と表象としての世界』 (Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819)
※ジャン・パウル(Jean Paul, 1763 – 1825)は、ドイツの小説家。本名は、ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter)。
『ケンタウロスの戦い』 (Kentaurenkampf)

バーゼル市立美術館Kentaurenkampf
1870年から1871年にかけての普仏戦争を背景に、オウィディウスの『変身物語』(第12巻、210~231行)に描かれているケンタウロスとラピタイ族の戦いという古代神話から着想を得て制作。
Stattdessen zeigt er die Kampfhandlung als tödliche Konfrontation zwischen Kentauren auf einer schneebedeckten Bergkuppe und damit als Metapher des Kampfes eines jeden gegen jeden. Neuere Forschungen kontextualisieren das Basler Gemälde vor dem Hintergrund der Debatte um den Kampf des Daseins, die durch die Veröffentlichung durch Charles Darwins Schrift “Über die Entstehung der Arten” ebenso aktuell wurde wie Diskussionen um Pessimismus und Vitalismus, die von Arthur Schopenhauers Philosophie befördert wurden.
Kentaurenkampf
ベックリンは、雪に覆われた山頂でのケンタウロス同士の死闘として戦いを描き、「万人の万人に対する闘争のメタファーとして提示」(Google翻訳)しています。
「近年の研究では、バーゼルの絵画は生存競争をめぐる議論の文脈に位置づけられており、この議論はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』の出版や、アルトゥル・ショーペンハウアーの哲学によって煽られた悲観主義と生命主義の議論によって重要性を増した」(Google翻訳)とのこと。
本作は 1873年のウィーン万国博覧会で展示されるとセンセーションを巻き起こし、銅メダルを受賞。3年後にバーゼル美術館で展示され、ヤーコプ・ブルクハルトの要請により、同年(1876年)バーゼル美術委員会がこの作品を購入しました。
『二人の牧羊神に覗かれる眠るディアーナ』 (Die schlafende Diana, von zwei Faunen belauscht)

引用元:Sleeping Diana Watched by Two Fauns
クンストパラスト美術館Die schlafende Diana, von zwei Faunen belauscht
美術手帖 1977年1月号では「Kunstmuseum der Stadt Düsseldorf」と記載、Wikipedia(2026年10月現在)では「デュッセルドルフ美術館」表記。
クンストパラスト美術館の来歴欄に、「2010年に、州都デュッセルドルフの支援を受け、ノルトライン=ヴェストファーレン州首相、NRW芸術財団、ドイツ連邦州文化財団、および連邦政府文化メディア担当官(BKM)の支援を受けて購入」(Google翻訳)とあり。
『海辺の別荘』 (Villa am Meer)

引用元:Villa by the Sea
ヴィンタートゥール美術館Villa am Meer
本作は『海辺の別荘』シリーズの5作め。ほかに、ノイエ・ピナコテーク(準備)、シャックギャラリー、シュテーデル美術館、シュトゥットガルト国立美術館に収蔵されています。
表紙はジョージ・フレデリック・ワッツの『希望』。私はこの表紙のものを持っています
ベックリンの解説を執筆された池内紀先生の著作です。ほんの一部ですが、載せておきます。勉強になるのでぜひ!

