女性のファッションに変化が現れてきた、1670年代。
服や髪形に「過剰な装飾」が見られるようになってきます。

ハールーベアルー / ユルリュベルリュ
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ嬢のヘアスタイル
では、富豪の令嬢、アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ嬢の髪形をご覧ください。

髪全体を短く念入りにカールさせたハーリー・バーリー、またはハールーベアルーと呼ばれる髪型が流行した。七〇年代後半から八〇年代にかけて髪型のアレンジにはいっそう磨きがかかり、中央で髪を分け、こめかみの上に巻き髪を垂らした。
ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. p.295.
英語で「ハーリー・バーリー( hurly-burly )」、または「ハールーベアルー( hurluberlu ) 」と呼ばれる髪形は、ファッション史関連の本を見ると、フランス語で「ユルリュベルリュ」( hurluberiu )とされていたりします。
日本語では「キャベツ巻き」と書かれています。なんだかカワイイですね。
また、髪に花をさすことは、1671年にパリの美髪師がユルリュベルリュ(hurluberiu)と称するキャベツ巻きを考案した時に盛んに行われた。この髪型はしっかりと巻きつけた巻毛を頭のまわりに波立たせたものである。これを初めてみたセヴィニエ夫人はすっかり感心し、グリニャン伯爵夫人に、あなたもこのようになすったら、と手紙をかいた。さて、これにさす花であるが、ニノン・ド・ランクロスはショアズール夫人の頭を評して農家の庭のようなものだといったことから察せられよう。
青木英夫(著). 『西洋化粧文化史』. 源流社. p.67.
1670年代、女性のファッションに変化が現れました。
服にも髪形にも、前の時代には見られなかったような「過剰な装飾」が見られるようになってきたのです。
《アンナ・マリーア・ルドヴィカ・デ・メディチの肖像》について
『ヨーロッパ・ジュエリーの400年 ルネサンスからアール・デコまで』(2003年)では、シモン・ヴ―エによる「《アンナ・マリーア・ルドヴィカ・デ・メディチの肖像》 1690年頃 個人蔵(イギリス)」となっています。
シモン・ヴ―エ( Simon Vouet, 1590年1月9日-1649年6月30日)は、フランスの画家です。
海外のあるサイトでは、1675年頃の「ジェイコブ・フェルディナンド・フート( ヴォエット)( Jacob Fredinand Voet ) 」作となっていました。
ジェイコブ・フェルディナンド・フート( ヴォエット)( Jacob Fredinand Voet, 1639年頃-1689年9月26日)はフランドルの画家です。

引用元:マリー・マンシーニ
こちらはジェイコブ・フェルディナンド・フートが描いた、ジュール・マザラン枢機卿の姪マリー・マンシーニ(マリア・マンチーニ)の肖像です。
髪形はキャベツ巻きですね。
フォンタンジュ
「フォンタンジュ」は、元は「コワフュール・ア・ラ・フォンタンジュ」( Coiffure a la Fontange 「フォンタンジュ風髪飾りおよび髪型」)と言います。
フランス王ルイ14世の愛人だったマリー・アンジェリク・ド・スコライユ・ド・ルシーユ、つまりフォンタンジュ公爵夫人(1661年-1681年6月28日)に由来する言葉で、ある日、王に同行した狩りの最中に風で帽子を飛ばされてしまいます。
その時とっさに靴下留めのリボン(ガーター)で、乱れた髪を結いあげたことから始まった頭飾りのことです。
すると翌日、
その翌日、宮廷で皆、彼女と同じ髪形になったと伝えられている。
もっともこの話はビューシー・ラビタンという人の伝えたところであり、フォンタンジュ結びが流行したのは彼女が19歳の若さで死んでから2年後であった。
青木英夫(著). 『西洋化粧文化史』. 源流社. p.66.
おや?死後?

引用元:フォンタンジュ嬢
フォンタンジュ結びは針金やリボン、レースを使って高く結い上げるのですが、フォンタンジュ公爵夫人の髪形は「キャベツ巻き」ですね。
フォンタンジュ結びをするには、針金がフレームに使われた。フレームにそって髪を持ち上げ、リボンやレースでとめ、小さな蝶結びで飾りをつけた。
青木英夫(著). 『西洋化粧文化史』. 源流社. p.67.
こんな感じですね。

引用元:メアリー2世
『ファッションの歴史』でも、フォンタンジュ公爵夫人の方が「フォンタンジュ」の流行よりも先に亡くなっていたことに触れ、
言い伝えにはあまり信憑性がないとされているが、それでもこの呼び名だけは生き残っている。この頭飾りは、当時のたいていの女性が持っていたランジェリー・キャップをさらに入念に作ったものだった。それが今や、このキャップの正面にはラッフルやレースやリボンが何段にも飾られて、飾りの層はさらに上へ上へと積み重ねられ、ついには針金の枠で支えなければまっすぐ立たないほどに高くなった。キャニントンは、フォンタンジュとコモードを区別して、前者はキャップ本体と、倒れそうに高い上部構造を指し、後者はフォンタンジュを支える針金の枠を指すとしている。段々飾りの手前に、巻き毛(たいていはつけ毛)を積み重ねて塔のような形を作り出すこともよく行われた。
ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. pp.295-296.
フォンタンジュ流行の終わり
フォンタンジュが初めて登場したのはルイ14世の目の前でしたが、そのフォンタンジュに不快感を示したのも、ルイ14世でした。

引用元:ルイ14世の肖像
貴婦人が宮廷で身に着けるドレスの裾の長さも、過度な競争にならないよう、その長さは決められており、フランスの王女や親王妃たちは王との血筋の距離によって長さが決まっていました。
彼女たちの引き裾が5~9エレだったのに対し、最も長い引き裾を着けることができる王妃の引き裾は11エレ。
昔のフランスの1エレは1.2メートルだそうですから、相当長い裾だったのですね。
(参考:『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』. 河出書房新社)
裾の長さには決まりがありましたがフォンタンジュは相変わらず高く、ある時などはイギリス女性を驚かせます。
モンタギュー嬢は、特にヴィーンの婦人のフォンタンジュ(頭飾り)を最も奇抜なものと呼んだ。彼女はそれを、何エレもの厚手のリボンを3から4層にして1エレの高さにしてある、と書いている。何列もの厚みのあるダイヤモンドと真珠のついた飾り針が頭の上に約3ツォル〔1ツォルは約2.54センチ〕そびえ、建物を支えているように見えた。
『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』. p.52.
フォンタンジュがあまりにも高いため、モンテスキュー も1712年の書簡で、「貴婦人の顔が姿全体の中央に見えた」と述べるほどでした。
辟易したルイ14世が止めるように命令しましたが、
セヴィニエ公妃は1691年に娘宛てに、王がフォンタンジュを禁じたことで、ヴェルサイユ中が大混乱だ、と書いている。
『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』. p.52.
王が命令してもフォンタンジュの流行は止みません。
しかし、1714年。
それはシュールズベリー公妃が低い頭飾りで王に気に入られ、フランスの婦人方は自分たちがどんな風に見られているか、まるで分っていないのだ、そうでなかったら、彼らも同じ髪型にするだろう、と言った時だった。これによってフォンタンジュは最終的に消えた。
『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』. p.52.
『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』の著者マックス・フォン・ベーン氏は、この後、人々の興味はスカートへ向けられた、と述べています。
1715年にルイ14世が亡くなり、ルイ15世が即位。
時代はロココに向かって行きます。
ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人、ルイ16世妃マリー・アントワネットたちが、華やかなロココ文化を牽引しました。

引用元:ポンパドゥール夫人

引用元:マリー・アントワネット
- ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房.
- 『ヨーロッパ・ジエリーの400年 ルネサンスからアール・デコまで』(2003年)
- 『西洋化粧文化史』 青木英夫(著) 源流社
- 『モードの生活文化史2 18世紀から1910年代まで』マック・フォン ベーン (著) イングリート ロシェク (編集) 永野 藤夫 / 井本しょう二 (訳) 河出書房新社
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