1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機

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世界史には「アンリ」という名前がよく出てきます。今回はフランス王の「アンリ」の恋と、彼の親戚のコンデ公「アンリ」の逃避行のお話です。

シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの肖像 1610年 ピーテル・パウル・ルーベンス
シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの肖像 1610年 ピーテル・パウル・ルーベンス

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目次

アンリ4世と王妃マルゴ

フランス王アンリ4世(1553年12月13日-1610年5月14日)

アンリ4世 1622年より前 フランス・プルビュス ヴェルサイユ宮殿
アンリ4世 1622年より前 フランス・プルビュス ヴェルサイユ宮殿

引用元:アンリ4世

フランス、ブルボン朝初代の国王アンリ4世(Henri IV、フランス王在位:1589年8月2日-1610年5月1日)です。

ナバラ王アンリは幼くしてカルヴァン主義プロテスタント「ユグノー」の盟主となりますが、対立するユグノーとカトリックとの融和を図るため、1572年8月17日、フランス王女マルグリット・ド・ヴァロワと結婚します。

マルグリット・ド・ヴァロワ(1553年5月14日-1615年5月27日)

アンリ2世王女マルグリット・ド・ヴァロワ(またはマルグリット・ド・フランス) フランソワ・クルーエにちなむ絵 16世紀 コンデ美術館蔵
アンリ2世王女マルグリット・ド・ヴァロワ(またはマルグリット・ド・フランス) フランソワ・クルーエにちなむ絵 16世紀 コンデ美術館蔵

引用元:王妃マルゴ

文豪アレクサンドル・デュマの小説『王妃マルゴ』のヒロインとなったマルグリット・ド・フランス(Marguerite de France)は、フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれました。

兄弟たちとの近親相姦、従者たちとの淫行と、自由奔放なマルゴは夫のアンリを好きになれず、それぞれに愛人を抱え、ふたりの間には子供はいませんでした。

1572年8月24日、サン・バルテルミの虐殺

日本語では「聖バルテルミーの虐殺( Massacre de la Saint-Barthélemy )」、「聖バーソロミューの虐殺( St. Bartholomew’s Day Massacre )」とも表記されます。

アンリとマルゴの婚礼から6日後の「聖バルトロマイ」( バーソロミュー、Bartholomew the Apostle )の日、婚礼で集まっていたユグノーをカトリック教徒が大量虐殺するという事件が起きます。

女性や子供を含めて多くの人々が犠牲になりました。

その数は1万人から3万人とも言われています。

『ある朝のルーヴル宮城門』 1880年 エドワール・ドゥバ・ポンサン ロジェ・キリオ美術館蔵
『ある朝のルーヴル宮城門』 1880年 エドワール・ドゥバ・ポンサン ロジェ・キリオ美術館蔵

引用元:『ある朝のルーヴル宮城門』

宮殿の外に転がるユグノー教徒の死体を見る母后カトリーヌ・ド・メディシスを描いた、後世の画家による歴史画です。

中央の黒衣の女性が、「火付け役」とされたカトリーヌ・ド・メディシスです。

この事件で寿命を縮めたためか、1574年5月にフランス王シャルル9世が死去。

次の王となったアンリ3世は1589年8月に暗殺されます。

王たちの母であるカトリーヌ・ド・メディシスは 1589年1月に亡くなっていました。

アンリ3世の死でヴァロワ朝は断絶。

当時35歳のナバラ王アンリが「アンリ4世」としてフランス王位を継承、ブルボン朝が始まります。

1598年、アンリ4世はナントの勅令を発布し、カトリックとユグノーとの国内融和に努め、国内を平定します。

アンリ4世の寵姫ガブリエル・デストレ(1571年-1599年4月10日)

寵姫ガブリエル・デストレ 17世紀作者不明
寵姫ガブリエル・デストレ 17世紀 作者不明

引用元:寵姫ガブリエル・デストレ

美貌のガブリエル・デストレ( Gabrielle d’Estrées )は、21歳で18歳年上のアンリの愛妾となりました。

アンリとの間には3人の子供がいます。

『ガブリエル・デストレとその姉妹』 フォンテーヌブロー派 16世紀末 ルーヴル美術館蔵
『ガブリエル・デストレとその姉妹』 フォンテーヌブロー派 16世紀末 ルーヴル美術館蔵

引用元:『ガブリエル・デストレとその姉妹』

ルーヴル美術館にあるこの絵をご覧になった方も多いでしょう。

よく似た女性がふたり浴槽に入っています。

左の女性が右の女性の乳首をつまんでいますね。

右の女性は左手に指輪をつまんでいます。

これがアンリ4世の寵姫ガブリエルで、左の女性は彼女の姉妹(妹?)ではないかと言われています。

夫人が指輪を持ち、妹は実の姉の乳首をつまんでいることから、夫人がアンリ四世の子種を懐妊した宮廷内ニュースのアレゴリーとされています。

井出洋一郎(著). 2011-6-26. 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』. 中経の文庫. p.210.

(略)ともかく、ルーヴル美術館も一応この名で呼んでいますが、実は当時流行の新プラトン主義を背景にした「双子のヴィーナス」の図象だとする田中英道先生の説も有力です。お風呂に入っているのは実は海の意味で、二人は天上のヴィーナスと地上のヴィーナスだと考えるのです。宮廷人の暗躍する政治の世界から、急にエーゲ海の晴れやかな神話のヴィーナスがよみがえってくるではないですか。

井出洋一郎(著). 2011-6-26. 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』. 中経の文庫. p.211.

※「この名」とは、『ガブリエル・デストレとその姉妹』のこと。 

敬虔なカトリックだったガブリエルは心身共にアンリ4世に尽くし、フランス各地の反乱軍と戦うアンリも4世も彼女の影響を受け、1593年に正式にカトリック教徒となります。

1594年にガブリエルは長男セザール・ド・ブルボンを出産。

1599年、アンリ4世とマルゴは正式に離婚します。

カトリックは離婚が認められない筈なのですが、ローマ教皇が認めれば、「これは離婚ではなく、もともと結婚自体が無効」ということも可能です。(参考:『名画で読み解くブルボン王朝12の物語』 光文社新書 P26)

同じ年の復活祭に結婚式が行われることになり、妊娠5ヶ月のガブリエルはその準備のためにパリへ向かいました。

しかしパリに到着したその夜、晩餐の後ガブリエルは気分が悪くなり、更には陣痛が始まってしまいます。

復活祭の前日、ガブリエルは息を引き取りました。

アンリ4世はその死の瞬間に間に合いませんでしたが黒い衣裳に着替え喪に服しました。

当時のフランス王が黒一色に身を包む慣習はなく、アンリ4世が如何にガブリエルを深く愛していたか想像することができます。(参考:『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』.光文社新書. p.167)

王妃マリー・ド・メディシス(1575年4月26日-1642年7月3日)

妻ヘンリエッタの母で、フランス国王アンリ4世妃。マリー・ド・メディシス(1575年-1642年) 1622年 ルーベンス プラド美術館蔵
マリー・ド・メディシス 1622年 ルーベンス プラド美術館蔵

引用元:マリー・ド・メディシスの肖像

イタリアのフィレンツェから、莫大な持参金と共に、マリー・ド・メディシス( Marie de Médicis, イタリア語名はマリア・デ・メディチ)がアンリ4世のもとへ嫁いできました。

マリーは名門メディチ家の出身で、前出のカトリーヌ・ド・メディシスとは親戚です。

フランス語も上手くなく、カトリーヌほど頭も切れず、好色なアンリ4世の好みのタイプでもありませんでしたが、マリーはアンリの子供たちを妊娠・出産します。

長男は後のルイ13世となりました。

ちなみに、アンリ4世には庶子も含めて多くの子供があり、彼自身、誰が誰の子供か覚えきれず、子供の容姿の特徴、名前、生母などが記入されたリストを持ち歩いていたそうです。い過ぎ(-_-メ)。

『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」 ピーテル・パウル・ルーベンス ルーヴル美術館所蔵
『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」 ピーテル・パウル・ルーベンス ルーヴル美術館所蔵

引用元:『マリー・ド・メディシスの生涯』

こちらの絵画も大変有名ですね。

ルーベンスによる『マリー・ド・メディシスの生涯第9図』の 『マルセイユ到着』です。

マリーが叔母のトスカナ大公妃、姉のマントヴァ公妃に付き添われて船から降りるところである。金の百合紋をちりばめた青いマントの「フランス」、城壁型の冠をかぶった「マルセイユ」が出迎えている。海中には3人の海の精、三叉鉾を持つ海神ネプトゥヌス、その従者の老プロテウスやほら貝を鳴らすトリトンが現われて、花嫁の到着を祝っている。海の精たちの豊麗さと生命感は女主人公の存在をかすませているように見えるかもしれない。しかしルーベンスが本来の主題を疎かにしたというわけではなく、むしろ高揚した喜びを体現するこの海の精の存在によって、マリーの到着の祝祭的気分の伝達がはじめて可能になったといえるだろう。なお、黒衣のマントヴァ公妃は、ルーベンスのイタリア時代の主君の夫人で、ルーベンス自身マントヴァ公の随員として1600にフィレンツェで行われたフランス王(の代理)からマリーへの指輪の贈呈式に参席していたという因縁がある。

(『NHKルーブル美術館 V バロックの光と影』 P81 日本放送出版協会)

アンリ4世の新しい恋のお相手「シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー(当時14歳)」

シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー( Charlotte-Marguerite de Montmorency, 1594年5月11日 – 1650年12月2日)

シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの肖像 1610年 ピーテル・パウル・ルーベンス
シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの肖像 1610年 ピーテル・パウル・ルーベンス

引用元:シャルロットの肖像

シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー 17世紀 ピーテル・パウル・ルーベンスにちなむ
シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー 17世紀 ピーテル・パウル・ルーベンスにちなむ

引用元:シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー

50代半ばの「恋多き王」アンリ4世は1609年、また新たな女性に恋をします。

1月に王妃マリー・ド・メディシスが催した舞踏劇で、美貌のシャルロットに目をつけたのです。

アンリ4世の旧友、アンヌ・ド・モンモランシー大元帥の孫娘シャルロットは当時14歳でした。

若い頃のアンヌ・ド・モンモランシー(1493年-1567年) 1530年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵
アンヌ・ド・モンモランシー(1493年-1567年) 1530年頃 ジャン・クルーエ コンデ美術館蔵

引用元:アンヌ・ド・モンモランシー

当時シャルロットには、男らしく魅力的な好青年との結婚話が持ち上がっていました。

「バソンピエールと結婚だと?」となったアンリ4世は考えました。

どうせ誰かと結婚させなければならないなら、誰がいい?

そうだ。病弱で陰気で不器用な男にくれてやることにしよう。名案!

ちょうどぴったりなのがいるじゃないか。

自分の従兄の息子だ。

人畜無害。

王族だし、モンモランシー家は断らないだろう。うん。

じゃ、コンデ公アンリに決定!!

コンデ公アンリ2世(アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ)( Henri II de Bourbon-Condé, 1588年9月1日-1646年12月26日)

アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ(1588年9月1日-1646年12月26日) 17世紀 画家不明(レンブラントの工房に帰属)
アンリ2世・ド・ブルボン=コンデ(1588年9月1日-1646年12月26日) 17世紀 画家不明(レンブラントの工房に帰属)

引用元:コンデ公アンリ2世

自分の知らない所でシャルロットの花婿に白羽の矢が立ってしまった、コンデ公アンリ2世。

父の死後に生まれ、誕生後ただちに第3代コンデ公となりました。

アンリ4世はシャルロットに婚約を解消させ、彼と結婚させることにしたのです。

コンデ公は痩せた弱々しい人物で、同性愛者らしいとの噂だった。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.147.

「突然だけど、YOU結婚しちゃいなよ!」

「…は?」

というのは私の楽しい想像ですが、国王の命令には逆らえる筈がなく、

若いコンデ公は結婚後に自分がおちいる面倒な状況を察して少し抵抗したが、結局は折れた。結婚式は1609年5月17日にシャンティイ―であげられた。

パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.182.

この時のコンデ公の胸中や如何に…。

五月、一五歳の誕生祝いとして、シャルロットは盛大なセレモニーとともにコンデ公へ嫁いだ。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.147.

アンリ4世はどうしたか。

人妻となったシャルロットに熱烈な恋文を送り付け、山のように高価な贈り物をしました。

アンリ4世の誤算

アンリにとっては不運だったのは、まったくの脇役にすぎなかった花婿が、王が思っていたほど従順ではなかったことだ。王の寝取られ男コキュにされ、公然と恥をかかされるというのは、花婿には屈辱的なことだ。婚礼の日から一ヵ月、公は妻を連れて領地へ向かいたいと王に許可を願い出た。王の答えは明快だった。「許さぬ!」

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.147.

怒ったコンデ公は王に向かって「暴君!」と呼びます。

「許可なく宮廷を離れれば公への歳費を停止するぞ」と脅されましたが、構わずに妻を連れて逃げてしまいました。

するとアンリ4世は、ガブリエル・デストレとの恋に身を焦がした若い頃のように、狩人に変装し、コンデ公の領地をうろついたのです。

かつての相思相愛の間柄では良かったのかも知れませんが、

とにかくシャルロットには不評だった。庭園を散歩中みすぼらしい狩人姿の王に出くわした彼女は、金切り声を上げて走って逃げた。コンデ公は王が現れたことを知り、妻を連れて国外に逃げなければと悟った。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.148.

11月の終わり、コンデ公とシャルロットは北へ向かい、スペイン支配下のブリュッセルに到着しました。

当時はスペイン国王フェリペ3世の治世。

反フランスのフェリペ3世はコンデ公への支援を約束します。

これが「罪なき誘拐」とよばれるエピソードである。フランスの敵、スペイン・ハプスブルク家の大公たちはコンデ公夫人の身柄を預かることを喜んで承諾したが、政治的波紋を懸念して、夫を公式に受け入れることは少々躊躇ちゅうちょした。フランスでは国王アンリは怒り心頭に発していた。王族であるコンデ公が国王の許可なくして国外に出ることは禁じられているのに…。美しいシャルロットをなんとしてもとりもどさねば、とアンリ4世は息巻いた。これこそ、彼が戦争をしかけようとしたほんとうの理由である、とささやかれた。

パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房. p.182.

実は、この頃のドイツにあった、クレーフェ公国とユーリヒ公国の継承問題で国際紛争が持ち上がっていました。

欧州の平和は常に、カトリックとプロテスタントの争いや、強国の領地拡張主義によって脅かされるものです。

神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の軍隊がユーリヒの町と城塞を占拠すると、スペインは拍手喝采しますが、フランスでは戦争の気運が高まります。戦争は領土拡張の絶好の機会でもあります。

フランス国王アンリ4世は軍隊の再結集を準備し、自らが軍を指揮して、神聖ローマ皇帝の軍隊と戦って領土を征服すると宣言しました。 

国王アンリ4世とコンデ公アンリ2世、スペイン国王フェリペ3世、教皇に調停役を依頼する

さて、アンリ4世、フェリペ3世、コンデ公はそれぞれローマ教皇に相談を持ち掛けます。

フランスとスペインと仲違いしたくなかった教皇は調停役を務めようとします。

一五歳の娘に執着するアンリと、妻を王に委ねるのを頑なに拒絶する夫。数カ月間ヨーロッパの政治情勢は、この二人を中心に回った。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.148.

どうしてもシャルロットの身柄を確保したい。その強迫観念に苛まれるアンリ4世。

その様子や行動を、妻マリー・ド・メディシスや息子(ルイ13世)はどう思っていたのでしょうか。 

1610年3月。

シャルロットの父親が法廷に訴え出ます。

娘との結婚無効を娘婿に要求するというものでしたが、娘婿であるコンデ公はこれに同意します。

モンモランシー公アンリ1世 1567年 Circle of フランソワ・クルーエ ロンドン、The Weiss Gallery
モンモランシー公アンリ1世 1567年 Circle of フランソワ・クルーエ ロンドン、The Weiss Gallery

引用元:モンモランシー公アンリ1世

シャルロットは王の愛妾になることを決意し、帰国することになりました。

コンデ公にはもはやフランス王と争う力がなかった。もしかするとシャルロット自身が、退屈な亡命生活よりも華やかな宮廷生活を望んだのかも知れない。けれども、アンリの敵は彼の勝利を望まなかった。帰国するのに必要な旅券をスペインはシャルロットに発給しなかった。アンリはスペインに宣戦布告し、軍を招集した。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.149.

軍隊が国境に集結する中、ブリュッセルの大公たちは最終的に、アンリ4世の軍隊が領地を通過することを認め、同時にコンデ公夫人シャルロットをフランスに返す方法を模索していたのでした。(参考:『王たちの最期の日々 上』  p.185.)

このシャルロットとコンデ公アンリの結婚の話について、このような記述のものもあります。

アンリ4世には、後のルイ13世となる息子がいるのですが、

国王夫妻に男児が授かり世継ぎができたことを、歓迎しなかった者も少なからずいた。明らかに失望した者の一人が、国王の父アントワーヌの弟の血を引く筆頭王位継承権者コンデ親王アンリ2世だった。アンリ4世と元妃マルグリットの間に子どもができない以上、次の国王は自分だと確信していたからだ。おまけに1609年に国王が、浮気の相手にするつもりで、シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーと自分を結婚させたうえで、誘惑の手を伸ばしてきたとあっては、宮廷にとどまるわけにはいかない。そこで親王は新妻を連れてスペイン領南ネーデルランドのブリュッセルに逃げ込んだというのだから、まるで作り話のようなエピソードである。親王はブリュッセルにシャルロットを残してイタリアのスペイン軍に合流。

(『図説 ブルボン王朝』 長谷川 輝夫 (著)  河出書房新社 P14)

 この解説だと、少しラノベ感が薄まる気がしますね。

1610年5月14日、アンリ4世暗殺

馬車に乗ろうとしたアンリ4世は、狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤック( François Ravaillac )に刺され、即死しました。

それでシャルロットはどうなったかといいますと、

シャルロットはしょんぼりと夫のもとへ帰った。それから、嫌味なほどへりくだった書簡を送って、未亡人になったマリー王妃と和解した。皇太子が成年に達するまでは、王妃が摂政として国を治める。すなわち、王妃こそフランスの最高権力者だった。

エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ. p.149.

シャルロットの本心はわかりませんが、この後夫のコンデ公との間に、2男1女をもうけます。

夫婦仲は良かったと言われています。

コンデ公は、

アンリ4世が没して幼いルイ13世が即位し、王太后が摂政に就任すると、フランスに舞い戻り、摂政になれない不満からほかの貴族たちを巻き込んで叛乱を起こすことになる。

(『図説 ブルボン王朝』 P14)

コンデ公とシャルロットのその後

マリー・ド・メディシスの寵臣コンチーノ・コンチーニ

コンチーノ・コンチーニ 1614年 ダニエル・デュモンスティアー コンチーノ・コンチーニ 1614年 ダニエル・デュモンスティアー ルーヴル美術館蔵
コンチーノ・コンチーニ 1614年 ダニエル・デュモンスティアー コンチーノ・コンチーニ 1614年 ダニエル・デュモンスティアー ルーヴル美術館蔵

引用元:コンチーノ・コンチーニ

王太后マリー・ド・メディシスの寵臣、コンチーノ・コンチーニ(1575年-1617年)とその妻は宮廷に絶大な影響力を持つようになりました。

アンリ4世の元側近たちは宮廷の重要ポストから遠ざけられ、代ってコンチーニ夫妻と懇意の者たちがその職に就きます。

コンデ公は他の貴族とともにアンクレ侯爵コンチーノ・コンチーニと対立し、シャルロットとともに逮捕されます。

ふたりの長女アンヌは投獄されたヴァンセンヌ城で生まれました。

叛乱を繰り返すコンデ親王の逮捕とヴァンセンヌ城内の監禁に抗議して宮廷から去ったブイヨン公やヌヴェール公、マイエンヌ公、ヴァンドーム公(アンリ4世とガブリエル・デストレの非嫡出子)など大貴族たちが地方で蜂起。国務会議を牛耳るコンチーニに非難の「マニフェスト」を出し、王太后を威嚇した。

(『図説 ブルボン王朝』 P25)

コンチーニを憎んでいたのはルイ13世も同じでした。

1617年4月24日、コンチーニは国王自らのクーデターによって殺害されます。

ルイ13世は父アンリ4世の側近たちを国務会議に復帰させ、母マリー・ド・メディシスと、ルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭だったリシュリューをブロワ城に幽閉してしまいました。

リシュリュー枢機卿 1633年から1640年の間 フィリップ・ド・シャンパーニュ ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
リシュリュー枢機卿 1633年から1640年の間 フィリップ・ド・シャンパーニュ ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:リシュリュー

コンチーニの被保護者であったリシュリュー。

政争で一時期失脚しますが後にルイ13世によって呼び戻され、ルイ13世と王太后マリー・ド・メディシスとの和解に尽力します。

1632年、シャルロットの弟・モンモランシー公アンリ2世処刑

モンモランシー公アンリ2世 1625年と1630年の間 画家不詳 カルナヴァレ美術館蔵
モンモランシー公アンリ2世 1625年と1630年の間 画家不詳 カルナヴァレ美術館蔵

引用元:モンモランシー公アンリ2世

シャルロットの実弟のアンリです。

1632年、モンモランシー公アンリ2世はリシュリューに対し叛乱を起こします。

リシュリューはそれを徹底的に弾圧し、アンリを処刑。 

アンリの死でモンモラシー公位はシャルロットが継承し、その後モンモランシー公位はコンデ公家の称号の一つとなりました。 

コンデ公アンリの紋章

コンデ公アンリの紋章
コンデ公アンリの紋章

引用元:コンデ公アンリの紋章 Carlodangio CC-BY-SA-4.0

コンデ公妃シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの紋章

コンデ公妃シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの紋章
コンデ公妃シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの紋章

コンデ公妃シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシーの紋章 Songsblame CC-BY-SA-3.0

コンデ公夫妻の子どもたち

アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン=コンデ (Anne Geneviève de Bourbon-Condé, 1619年8月28日-1679年4月5日)
アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン=コンデ ( Anne Geneviève de Bourbon-Condé, 1619年8月28日-1679年4月5日)

引用元:アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン=コンデ

コンデ公ルイ2世(大コンデ公)(ルイ2世・ド・ブルボン)(Louis II de Bourbon, prince de Condé, Duc d'Enghien, 1621年11月8日-1686年11月11日)
コンデ公ルイ2世(大コンデ公)(ルイ2世・ド・ブルボン)( Louis II de Bourbon, prince de Condé, Duc d’Enghien, 1621年11月8日-1686年11月11日)

引用元:コンデ公ルイ2世

コンティ公アルマン(アルマン・ド・ブルボン=コンティ)(Armand de Bourbon-Conti, prince de Conti, 1629年10月11日-1666年2月21日)
コンティ公アルマン(アルマン・ド・ブルボン=コンティ)( Armand de Bourbon-Conti, prince de Conti, 1629年10月11日-1666年2月21日)

引用元:コンティ公アルマン

ルイ13世の治世以降、コンデ公夫妻の3人の子どもたちの名も歴史に登場してきます。 

長男ルイ2世は30年戦争に参加し、1646年に父が亡くなると、コンデ公・モンモランシー公位を継承しました。

主な参考文献
  • 井出洋一郎(著). 2011-6-26. 『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』. 中経の文庫.
  • 木村泰司(著). 2010-11-20. 『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』. 光文社新書.
  • 『NHKルーブル美術館 V バロックの光と影』 日本放送出版協会
  • パトリス・ゲニフェイ(編). 神田順子・谷口きみ子(訳). 2018-6-1. 『王たちの最期の日々 上』. 原書房.
  • 『名画で読み解くブルボン王朝12の物語』 中野京子(著) 光文社新書 
  • エレノア・ハーマン(著). 高木玲(訳). 2005-12-30. 『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』. KKベストセラーズ.
  • 『図説 ブルボン王朝』 長谷川 輝夫 (著)  河出書房新社
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コメント

コメント一覧 (28件)

  • 佐馬鷹 (id:coatsofarms)様
    お忙しい中コメント有難うございました。
    聖バルテルミの時のコンデ公はユグノーだったと思いますが、コンデ公アンリ2世は宗教はカトリックとなっていました。
    私にはどうしても自分のものとしてぴんと来ない「宗教」の深さ、壁の高さです。
    紋章、最近特に注目するようになってしまいました。
    特に、シャルロットがモンモランシー公位を継承し、その長男がコンデ公・モンモランシー位を継承。その紋章はこうなるというのを見ると、改めて面白いなあと。
    見ていただけて良かったです。
    またよろしくお願い致します。

  • ko-todo (id:ko-todo)様
    お忙しいところリクエストしてすみませんでした。有難うございました。
    王様の横暴にもホドがあるというお話でしたが、こうした横暴って他にもあったんでしょうねえ。
    臣下だと国王に反抗するのは難しかったかもしれませんが、コンデ公は王族だったからある程度は出来たのか…。
    ひとを見掛けで判断してはいかん、ひとをバカにしちゃいかんと改めて思いました。
    興味深いご考察、有難うございました。

  • だるころ9216 (id:darucoro9216kun)様
    忙しいのに、見て下さって本当に有難うございました。私は全然迷惑なんかじゃないです!
    会話が楽しく、あと言い忘れていたことがあって、急いで付け足しです。
    前のYahoo!ブログが無くなり、旧ブログをこちらに移転させ、もうひとつ本ブログを開設しました。
    これは元々備忘録から始まって、「データベース」の形態を目指すものです。
    記事が一定量になったらはてなから移転させることを念頭に作っていて、恐らくその時に全部の分野がひとつになると思います。
    現時点では大雑把な構想しかありません。
    でも、そうか、そうやって分析し、考えながら読んでくださっているんですね。
    うんうん。いいと思います。
    ルイ14世胸像はもう少し後になるのでまだ内緒ですが、ヘンリー7世の肖像画について少々。
    この肖像画はお見合い用ですが、相手から返却され、本国英国にあります。
    その相手というのが、とか、彼の首にある飾りものというのはね…というのが、私にはツボでした。
    彼の奥様(ヘンリー8世の母)についてはこの先またメインで出てきます。
    そんな感じにエンドレスに続いて行きます。
    どうかまたお付き合いくださると嬉しいです。有難うございました。

  • わー余計な事を言って、かえってご迷惑だったかもですね(反省)
    「なぜ?その絵が描かれたのか?なぜ?その美術館に保管されているのか?」
    そんな部分に興味を持つと、調べるのが大量になりますよね。
    その時代の背景を知ると必然的に絵の正体が浮き彫りになるって事ですよね。
    「強い王」ばかりの歴史なんて面白く無いですもんね。「弱い王」を周りが守るのもまた王国の歴史の中で必要不可欠な部分だと思います。
    「絵」「世界史」「彫刻」のバランスを考えているんですね。
    3つの良いバランスが保たれているときは自然に振舞える。
    そのバランスが崩れたら…..?
    そこが心配なんです。
    病気はせき止められてる時は問題ない。
    けれど、少しでも穴が空くと瞬く間に崩壊してしまう。
    答えは身近なところにあるのかも知れませんね。
    種明かしは謎解きですか?
    ルイ14世の胸像はメインにしても良い部分だけどあっさり通り過ぎた。
    そこではなく、ボルゲーゼ美術館からベルニーニの「聖テレサ」に繋げたかった。
    「自分は自分なのだ!」と言う事ですね。僕には良く分かりますよ。しっかり答えになってる気がします。
    勝手に心の中に入り込んでしましました。(本業のセラピストとしての癖です….いけない使い方をしてしまいました)
    「気遣いは無用」と言う事なので…この辺でやめておきます。
    僕も、長くなってしまいました。
    ※過去の記事を見て下さったり、忙しいのに覗いてくれたり感謝です。
    無理のない様に覗きに来てください。

  • ことぶ㐂(ことぶき) (id:lunarcarrier)様
    コメント有難うございました。
    いくら善政を行った王様でも、変な執着が原因でほんとに戦争になったらシャレになりません。でも自分に権力があったとしたら…ロクなことにならない気がします。
    今回も見てくださって有難うございました。

  • よくぞまとめてくださいました。
    紋章も、ありがとうございます。
    それにしても、つくづく思う。
    ヨーロッパの歴史はカトリックの黒歴史だ、と。
    は〜。
    元信者としては、読めば読むほどため息が出ます。

  • だるころ9216 (id:darucoro9216kun)様
    見て下さって有難うございます!
    うん、すごい観察力です。
    すごく嬉しく有り難く拝読しました。有難うございました。
    私のこのブログ、『美術関係(絵画などについて書かれている本を紹介する)』と、『世界史系(出来事、人物相関図について述べる)』にすごく大きく分けることができます。
    世界史系の方が多いのは、「それを知らないよりは、知っている方が、絵が描かれた背景を理解しやすい」からです。だからあちこち過去記事リンクがあるんですね(^_-)良かったら見ておいてください的に。
    ナニゲに大きく余白が取られている時は、後から書いた関連記事をそこに張ろうとしているからです(笑)。(後でやろうと思ってやりっぱなしになっているのも結構あるのですが。)
    例えば、「冬の王 ヘンリー7世」は「ヘンリー8世」「クレーフェ公女アン」「アン・ブーリン」「キャサリン・ハワード」とリンクします。
    この記事の場合、絵画そのものより時代背景、「なぜその絵が描かれ、なぜその美術館にあるのか」が私にとっては非常に興味深く、ツボでした。
    そしてヘンリー7世を出すとなると、同時代の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、狂女王ファナ、マルグリット・ドートリッシュに触れないわけには行きません。ヘンリー7世妃、カトリック両王、アレクサンデル6世は勿体ないのでまだ残してあります。
    そして息子のヘンリー8世の時代になると、美術史上絶対外せないハンス・ホルバインががんがん出てきます。(これは私の好きな画家なので、すっごく熱が入ると思います。)
    ヘンリー8世の宮廷にいた彼はご存知のようにイングランド人ではありませんので、イングランド人として偉大な画家といえば、更に後世のホガースを待たなければいけません。
    まあ、人物関係(夫婦とか親子)、時代背景をある程度知っていると、より面白い(と私は思う)というわけです。
    『アウグスト弱王』も父親の「強王」よりも、弱王の娘が、誰の親になったかの方が私には面白いのです。この時代の国や人間同士の確執、政治上の思惑がその後の人間ドラマを面白くさせているのです。
    アウグスト強王をやる時は、彼の愛人関係にはあまり興味が無いので、マイセンの話で出すと思います。
    あ、コメントまで長くなってしまった💦
    すみません。
    一応、世界史ばっか、絵画ばっか、彫刻ばっかにならないようにしてはいます。
    そして時々、次の予告的なものがその記事内に混ざる時がある…。敢えてあまり言及せずにおいて、次の機会に多くやる時もある…。
    ボルケーゼ美術館の話の後にベルニーニの『聖テレサ』が続いたのは正しくそれでして(笑)、ルイ14世胸像や『ペルセフォネの略奪』もやけにあっさりしてると思いませんでした(笑)?
    答になったかわかりませんが、種明かしはこんなところです。
    もしご不明な点があれば是非お知らせください。傷つくなんてとんでもない、だるころさんが優しくて真面目な方なのはよく知っています。どうかお気遣いなく。
    お答えできることはお答えします。
    コメント、有難うございました。またよろしくお願い致します。

  • Pちゃん (id:hukunekox)様
    相変わらず返信遅くてごめんなさいなり。
    そう、これ実話なんですよ。例え一時でも、こんな騒動に巻き込まれた当時のひと達は大変だったと思う…。そして王妃と王太子(妻と長男)の目にはどう映ったのでしょうねえ。
    あと、「つまむ」やつね!
    すみません、これの真の意味はナゾなんです。
    フォンテーヌブロー派を代表する超有名絵画なのでまたやりますが、ナゾのままです。
    ただ、ガブリエルは王様の子どもを産んでいるので、乳首→妊娠、母乳なイメージではないかと言われているのです。
    でも何故つまむのだ!と言われたら、そこに絶対に!どうしても!注目させたかったのだろうかと私は勝手に推測致します。
    初めて観た時は衝撃で、見ちゃいかんものを見た気になったなりよ。
    こちらこそ今回も長いの読んでくれて有難うです🍩

  • id:kagenogori様
    今回も読んで下さって有難うございます。返信遅くなって申し訳ありません。
    アンリ4世、人気ある王様なのですが、好色として有名です。
    権力のあるひとが恋に狂ったら、というか、思い通りにならない相手にストーカー状態になったら、「ここまでするか??」という例ですね。同時代にもそう思ったひとはいたでしょうね。
    やったことはともかく、頭が切れて、努力もしていたという点で、実はカトリーヌ・ド・メディシスが歴史上の人物ではかなり「好き」なんです。(男性ではカルタゴのハンニバル将軍が好き)
    世界史ではあまり詳しくやらないスキマの「事件」をまた追いかけたいと思っています(笑)。ほんと、ひとの歴史って奥が深いですね。興味が尽きません。
    次回はもう少し短めにまとめたいです💦。
    またよろしくお願い致します。
    有難うございました。

  • まーたる (id:ma-taru)様
    もー返信遅くて本当にすみません。
    『王妃マルゴ』、美術がすごく綺麗、アジャーニがひたすら綺麗という印象だけが残っています。一体何観てたんでしょうか私…。多分、アンリ4世や兄王役の俳優が好きだったので、そちらを見ていたのだったか…( ゚Д゚)。
    ひとを救うものと思っていたのに、宗教が原因で虐殺に至るというのが、知識としてはあっても、相変わらずぴんと来ません。ただ、自分と違うものを、暴力で排除するという思考に対する怖さを感じます。
    今回も長くなってしまって(/ω\)、それを貴重なお時間を使って目を通してくださる。本当に有り難いと思っています。
    まーたる様も健康にはどうかお気をつけて。
    またブログにお邪魔致します。
    有難うございました。

  • どう思われますかと聞かれても…
    私は、この辺の歴史がさっぱり解りませんww
    ただ…
    政治家のスキャンダルとか暴露されるけれど…。
    品行方正な無能と破天荒な有能ならば、後者の方が国益に適うと…。
    コンデ公は…
    愛だの恋だの嫌がらせだの…ではなく、彼の自尊心の問題かなぁ…と。
    誰かが得をしたのであれば、黒幕説もあるかも?だけれど…。
    そんな風でも無いし…。
    シャルロットも、傾国の美女にありがちな、野心的な貪欲や無邪気な悪意みたいなものをあまり感じませんし…。
    (知らないだけかも?しれないけれど…)
    他者の尊厳や自尊心を軽んじたアンリ4世の誤算かと思われまする^^

  • ko-todo (id:ko-todo)様
    アンリ4世、それでも「善王」なんですのよ。それなりに功績もあるの。フランスでは人気王のひとりなの。女好きだけど。
    それを見て同じようになる息子もいれば、正反対の道に進む息子さんもいる…。
    私的にはコンデ公の本心が気になります。
    騎士道精神からやった?それとも王に対して嫌がらせ?本気で恋をしてしまった?当のシャルロットはどう思っていたんでしょう?
    書く人によってニュアンスが変わってくるので、出来るだけ公平に取り上げてみましたが、その卓越した洞察力で、ko-todoさんはどう思われます?

  • 森下礼 (id:iirei)様
    今回も読んで下さって有難うございます。
    あの謎の絵、LGBTですか!?
    隠喩や暗号のようなものがあるのだろうとは思いますが、それは考えませんでしたね。
    フォンテーヌブロー派の特集の時またやろうと思っていますが、少なくとも王の寵姫とその妹姉なんだな、くらいで、私的にはLGBTでも全然問題ありませんけどね。
    ところで、ヨーロッパ連合と戦って、日本側が勝てる?それ、結構嬉しい響きなんですが(笑)。

  • 真ちゃん (id:shashinchan)様
    ルイ13世の治世以降「コンデ公」の名前がよく出てきます。その後世のコンデ公達の先祖になったシャルロットとアンリ2世にこんな話があったんだ~と初めて知った時思いました。
    この話は、アンリ4世について読んでいくと、ちょっことくらいは出てきます。
    恋する王様に対し、コンデ公の本心が気になりますが、いろんな取り方が出来て興味深いです。
    今回も読んで下さって有難うございました。

  • 滅茶苦茶ですね。
    当時はこれが普通だったのか・・・
    自分にこんな力があったらどうするのかな、なんて考えてしまいました(^-^;

  • schun (id:schunchi2007)様
    今回も有難うございます。
    私も「世界史」というのは「習って」ないんです。大学で外国史を履修したらその年はロシア史で、翌年も履修してみたら、その続きでした(笑)。
    世界史ではなく「文化史」という概念、分野があるのを知ったのは、アンティークジュエリーを好きになってからです。芸術・歴史が一緒になるっておトクですよね(^^)
    今回はアンリ4世について「女好き」の部分しか書きませんでしたが、いろいろ努力もしています。フランスでは人気王のひとりだったと思います。
    多分、また登場していただくことになりますね(笑)。
    読んで下さって有難うございました。

  • 「コンチーノ.コンチーニ」が夜だったから?
    「コンニチーハ.コンニチーハ」に見えてしまった。
    ダメだぁー映画のtaxi3で日本語を片言で喋ってる人を思い出してしまう。
    今回は読み直しても、絵に入り込めない。
    一癖も二癖も有る「顔」ばっかり。
    一人の女性が運命の歯車を変える。
    その女性を巡って国を動かそうとする…王ってなに?
    曹操みたいな人はヨーロッパにも居るんですね。
    傷つけるつもりはありませんが、いつものハンナさんの記事じゃ無い気がします。
    何か?単に疲れてるとか…そう言った類では無い訴えかける何か…。
    記事に入り込めない。ハンナさんの記事はもっと「芸術が好きぃー」ってイメージなのに…。
    (分かった様な事を言ってすいません)
    もう一度…明日読んでみます。

  • ハンナさん☺️✨
    こんばんは(*´∀`*)
    凄い、実話と思うと余計驚いてしまいます😲
    もう、ハチャメチャな王族といいますか💦
    やはり目がいきました、指輪を持つのはわかりますが
    乳首を持つ意味がわからないままです😂
    貴重な美術品、お話ありがとうございます😊✨

  • まさに魑魅魍魎の世界!
    とくにアンリ4世はヒドイもんですね^^;
    好きな女性のまわりを勝手にウロウロ………ストーカー以外の何モノでもないですね(^▽^;)
    しかも女性を追いかけたあげく戦争まで(笑)。
    オッサンなにやってんねん!ってカンジですな(ーー;)
    さすがのカトリーヌ・ド・メディシスも霞んでしまいます(笑)。
    ヨーロッパ史、奥が深すぎ(笑)。

  • おはようございます(o^^o)
    『王妃マルゴ』、昔映画で観たんですけど、激しい時代背景も加わってけっこう衝撃受けたことを思い出しています。
    聖バルテルミーの虐殺のシーンは特に印象的でした。カトリック教徒がユグノー教徒を虐殺する、本来宗教って人を救うものであると思っていたけれど、宗教によって諍いが起こることもあるんだと恐ろしくなった若い日のまーたるであります。
    今回の記事もとても読み応えがあり、ハンナさんの知識と見解の深さには毎回感嘆してしまいます。
    とても勉強になります。
    ありがとうございます(*☻-☻*)
    コロナがまた大変になってきましたが、お身体ご自愛くださいね(*´꒳`*)

  • おはようございます^^
    んまぁ~っ!!そんな事に権力の悪用…。
    飾り物の王妃と宮廷の実権を握る愛妾との確執とかも有ったり…。
    これ程の権力があれば、どんな手を使っても…ってなるのでしょうけれど…。
    ローマ教皇も、この頃は…ね。
    どいつもこいつも、欲望のままにやりたい放題…。
    なんじゃこりゃ歴史ですね。

  • 1609年といえば、日本では1600年「関ケ原の戦い」が起き、天下は徳川家康のもと、「一糸乱れなく」統一されたところ。こんなにヨーロッパが混乱していたのでは、もし当時の日本とヨーロッパ連合が戦っても、日本が楽勝したでしょうね。
    それにしても、入浴中の2人の女性、LGBTではないですか?まあ、女同士なら子供はできないから良いのでしょうね。

  • おはようございます!!
    僕世界史は取っていなかったので、ハンナさんの記事を見ると
    世界史の一片も見ることができてとてもお勉強になります。
    それにしても、アンリ4世って感じですね(笑)
    なかなかフランス王室ってキャラが濃い皆さんが多いなって拝読しながら感じました。

  • ハンナさん、こんばんは☆
    呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンです(*´▽`*)
    合図有難うございます。
    これまたスゴイ膨大な量をアップされてますね。ビックリです。
    昨日の涼しさで体調を崩されている方々が今日は多い日でしたが、
    こんなに沢山の内容、ハンナさん寝てない?って思えて心配になりますよ💦
    また今回も個人的な事を言ってしまうと、
    何と言っても王家のコレクションを元に作られたプラドが懐かしいです(*´▽`*)
    収集された内容、もう一度しっかり読み直させていただきますね。
    ハンナさん、ホントに寝てないのでは???
    私が皆さんに言われてたセリフをプレゼントしますね。
    「ハンナさん、寝て!」(笑)

  • 石山藤子 (id:genjienjoy)様
    わあ~!見て下さって有難うございます!
    これ、実話っていうのがスゴイですよね。
    関係者の本心まではわかりませんが、私怨でもって戦争スレスレにまでなるなんて。
    王に逆らって国外逃亡できてしまうのがまた、地続きならではだな~と思います(-_-;)。
    はい、離婚ではなく、「最初から無効」に持って行くようですね。
    「血が近すぎた!」とか。
    以前書いたヘンリー8世妃アンの場合、彼女が不美人という理由では離婚理由にならないので、「彼女が昔した婚約がまだ解消されてなかった!じゃあそっちが優先だから、こっちの結婚はナシだね!」みたいな。
    仰る通り、裏技、抜け道はあるものなんですね。
    また次回もお付き合いくださいませ。
    有難うございました。

  • ハンナさん、こんばんは😃🌃
    なんか…ハチャメチャですね。
    ひとりの女をめぐって国外逃亡したり戦争スレスレになったり
    ローマ教皇が調停に乗りだしたり😅
    結婚そのものを無効にできるのは初めて知りました。
    離婚に関して当時のカトリックは
    こんな裏技と言うか抜け道と言うか
    「手段」が用意されていたんですね。

  • だるころ9216 (id:darucoro9216kun)様
    お気遣いいただき有難うございます。
    だるころさんて、ほんとに義に厚い、良い方ですね。その優しさ、素晴らしいです。
    有難うございます。

  • 待ってたんです。
    でも…サラッと読んだけ…。
    紋章は佐馬鷹さんがまた喜んじゃいますね。
    コメントはまたゆっくり読んでからしまーす。
    今日はハンナさんの優しさに触れました。
    ブログ覗いて下さってありがとうございます。
    そして、読者登録ありがとうございました。
    また、遊びに来ます。
    (ちょっと覗いたので、ご挨拶です)

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