バスティーユ牢獄の食事が意外に豪勢だった、というハナシです。
バスティーユ牢獄
1789年7月14日は、フランス革命におけるバスティーユ陥落の日です。
中世、1300年に建てられたバスティーユは、元は要塞でした。
引用元:バスティーユの見取り図
バスティーユはルイ13世の時代に国事犯の収容所となり、次のルイ14世の頃には、王制を批判した学者なども収容されるようになりました。
ここに投獄されるのは凶悪犯ではなく、『百科全書』のような「物」であったり、文筆家や非行貴族のような地位・身分ある犯罪者でした。
「サディズム」という言葉の由来となったマルキ・ド・サド(サド侯爵、Marquis de Sade, 1740年6月2日-1814年12月2日)も収容されていたことがあります。
引用元:サド侯爵
牢獄と聞くと、寒くて狭い場所で、一日一回の質素な食事…と想像してしまうのですが、このバスティーユ牢獄はそのイメージから遠く、囚人は一日三回の食事をとることができました。
鉄格子ははまっているものの、部屋は狭くもなく、気に入りの家具も持ち込めました。
服装も自由。好きな生地やデザインでオーダーすることも可能だったようです。
『ジビエの歴史』によると、「囚人たちはおおむね自由な生活が許されて」いました。
プロテスタントだったため、宗教的迫害をおそれてオランダへ逃げた、文筆家ルネ・オーギュスト・コンスタンティン・ド・レンヌヴィル( René Auguste Constantin de Renneville, 1650年-1723年)は、フランスに戻って来たところを逮捕され、バスティーユ牢獄に送られます。
そのレンヌヴィルの食事の内容というのが、
国費でまかなわれる食事も悪くなかったし、金をはらえばもっと豪勢な食事もできた。あるときレンヌヴィルは、なんと、ウェイターやソムリエの役を務める看守に給仕されながら、7皿のコース料理を楽しんだ。内容は、レタスの飾りを添えたエンドウ豆スープ、ニワトリの四半分に続き、上等なビーフステーキにグレイビーソースをたっぷりかけてパセリを散らしたもの、また、「スイートブレッド(膵臓や胸腺)・雄鶏のとさか・アスパラガス・マッシュルーム・トリュフを詰めたフォースミートパイが4分の1切れ、さらにヒツジの舌のシチューが出され、どれもひじょうにおいしかった」。さえない文筆家のために太陽王がこの豪華な食事代を負担しているのだと思うと、レンヌヴィルの痛快な気分はいや増した。
ポーラ・ヤング・リー(著). 『ジビエの歴史』. 原書房. p.50.
私も入るならここがいいな…。
このバスティーユ牢獄生活がかなり快適なため、出たがらない人もいたそうです。
もし病気になったら?
その時は、太陽王の侍医が診察してくれるんだそうですよ!
引用元:ルイ14世の肖像
グルメな貴方にお勧めしたい『食の図書館』シリーズ。ジビエに馴染みが有る無しに関わらず、人と食、人と動物についても考えさせられる内容ですが、私は人間の食の歴史としてとても興味深く拝読しました。
ジャン・オノレ・フラゴナールが描いたバスティーユ牢獄の内部
引用元:フラゴナール画
引用元:フラゴナール画
なんだかかなり自由な雰囲気ですね。
ジャン・オノレ・フラゴナール( Jean Honoré Fragonard, 1732年4月5日-1806年8月22日)
ロココの軽快で優雅な雅宴画を描いたフランスの画家、ジャン・オノレ・フラゴナールの自画像と代表作です。
引用元:ジャン・オノレ・フラゴナール
バスティーユ牢獄内を描いた上の絵二枚は 1785 年とありますから、その四年後にフランス革命が起こることになります。
引用元:『ぶらんこ』
バスティーユ牢獄の実際の囚人
1789年7月12日日曜日、財務総監のネッケルが罷免されたとのニュースがパリの街を駆け抜けました。
国王の命令で、スイス人部隊とドイツ人部隊が我々を殺しにやってくる!市民諸君、武器を取れ!との呼びかけに、民衆は武装。
13日には国民衛兵隊が組織されます。
七月十四日朝、人々はまずアンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ、三万二〇〇〇丁の銃と二四門の大砲を手に入れた。それから、さらなる武器弾薬を求めて、人々はバスチーユ要塞に殺到した。アンヴァリッドからバスチーユまでは、約四キロだった。
バスチーユ要塞は、もともとは、ここがまだパリの東の境界であった十四世紀に、首都防衛のために構築されたものだった。その後、パリは少しずつ大きくなってゆき、東の境界がずっと先のほうに移動してしまうと、すっかり市街地に取り込まれたバスチーユ要塞は首都防衛という軍事的機能を失い、主として政治犯を収容する監獄になった。ここに収監するには、べつに理由はいらなかった。国王が気紛れに出す封印状があれば、いつでもだれでも投獄できた。しかも、そうして理由も示されずに投獄された囚人たちは、裁判にかけられることもなく、そのまま死ぬまで何十年も独房の中に放っておかれることもあった。しかし、革命当時は、バスチーユ要塞は政治犯を収容する監獄ではなくなっていた。実際、この七月十四日、中にいた七人の囚人が解放され、人々の歓呼の中を凱旋行進したが、政治犯は一人もおらず、その内訳はと言えば、有価証券偽造者四名、精神異常者二名、家族の依頼によって収監されていた放蕩息子一名であった。
安達正勝(著). 2008-10-30. 『物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』. 中公新書. p.51.
この後、よく知られる「バスティーユ陥落」に繋がって行きます。
市民にとっては国王による圧政の象徴だったバスティーユですが、収容されていたのが思想に燃えた政治犯ではなく、偽造犯に放蕩息子だったとは…。
- ポーラ・ヤング・リー(著). 2018-10-22. 『ジビエの歴史』. 原書房.
- 安達正勝(著). 2008-10-30. 『物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』. 中公新書.
コメント