18世紀後半。ローマを訪れたサド侯爵が観たベルニーニの作品『聖テレサの法悦』『聖ビビアーナ』『福女ルドヴィカの法悦』と、ステファノ・マデルノの『聖チェチリア像』。サド侯爵の感想付きで鑑賞して参りましょう。
マルキ・ド・サド( Marquis de Sade, 1740年6月2日 – 1814年12月2日)
「サディズム」という言葉の元となった、18世紀フランスの貴族で作家、サド侯爵(マルキ・ド・サド)。
正式名を ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド( Donatien Alphonse François de Sade )と言います。
下は、画家ヴァン・ロー一家のひとり、シャルル=アメデー=フィリップ・ヴァン・ローによる若い頃のサド侯爵です 。
引用元:マルキ・ド・サド
虐待と放蕩の罪で刑務所や精神病院へ送り込まれたり、あのバスティーユ牢獄に入れられたりしたこともあります。 サドの数々の著作はこれらの獄中生活で生まれました。
バスティーユ牢獄内の様子
画家 シャルル=アメデー=フィリップ・ヴァン・ロー( Charles-Amédée-Philippe van Loo, 1719年 – 1795年)
フランス王家の肖像画を描いた、シャルル=アメデー=フィリップ・ヴァン・ロー。
後にベルリンのフリードリヒ2世の宮廷画家となりました。
弟子のひとりに、アレクサンドル・クシャルスキがいます。
アレクサンドル・クシャルスキによるマリー・アントワネット
「一杯のチョコレート」を楽しむパンティエーヴル公の家族と「9月虐殺」
サド侯爵の父、ジャン=バティスト・フランソワ・ジョゼフ・ド・サド伯爵の肖像
引用元:サド侯爵の父
サド伯爵は、外交官、宮廷人、放蕩者、そして文学者であった。この複雑で魅力的な人物は、息子の教育と成長において重要な役割を演じた。とにかく進歩的な伯爵は、まだ年若い息子ドナティアンが快楽の追及に浸るときの冷静さと熱狂、几帳面さと激高との混淆ぶりに、当惑しぞっとせざるをえなかった。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.18.
サド伯爵は、ルイ15世妃 マリー・レクザンスカや ルイ15世寵姫 ポンパドゥール夫人の友人であり、話し相手でもありました。
ポンパドゥール夫人って誰? と思われた方はこちらを
フランソワ・ブーシェが描く 1756年の『ポンパドゥール夫人』とその衣装
画家 ジャン=マルク・ナティエ( Jean-Marc Nattier, 1685年3月17日 – 1766年11月7日)
ジャン=マルク・ナティエは、ルイ15世の時代に肖像画家として活躍しました。
大変優美な画風で知られ、王妃マリー・レクザンスカの肖像や、女神に扮したルイ15世の王女たちの絵は特に有名です。
引用元:マリー・レクザンスカ
シャルル=アメデー=フィリップ・ヴァン・ローや ジャン=マルク・ナティエのような画家が近くにいる環境に身を置いているサド侯爵。
一流品に囲まれ、審美眼が更に磨かれて行くんですね。
1763年、七年戦争が終わり、サドの軍隊生活は終わりを告げます。
同年に結婚しますが、その後も放蕩は止まず、10月には不信心行為と度を超した放蕩のかどで、ヴァンセンヌ監獄に拘留されます。
1764年、最初の子供が誕生後間もなく亡くなり、1767年1月にわずかな遺産を遺し、父のサド伯爵が死去。
8月に長男ルイ=マリーが生まれます。
ルイ=マリーは1805年、『フランス国民史』第一巻を刊行。 1809年に暗殺されました。
1768年「アルクイユ事件」から
1768年4月3日復活祭の朝、「アルクイユ事件」が起きます。
サドはヴィクトワール広場でローズ・ケレルという女性に声を掛け、彼女をアルクイユに連れて行きます。
そこで衣服を脱がせ、鞭で打ち、部屋に監禁。
脱出したローズは警察に訴え、サドはリヨン近郊のピエール・アンシーズ要塞に拘留されました。
11月に釈放され、領地での謹慎を命じられます。
1769年5月、自由の身になったサドはパリに舞い戻ります。
6月には次男が誕生しました。
1769年9月25日から10月23日にかけて彼はネーデルラントを旅行し、『書簡体によるオランダ紀行』を執筆します。
フランス古典主義の作家ゲ・ド・バルザックや哲学者デカルト以来、オランダ訪問はフランスの知識人たちにとって不可欠の巡礼行であった。サドは次男が誕生したすぐあとの1769年にオランダ訪問を果たす。いっぽうイタリアは、1772年の夏に義妹のアンヌ・プロスペール・ド・ローネーとともに訪れたのが最初である。サドは彼女とともにヴェネチアやその周辺の都市を見てまわった。マルセイユのスキャンダルののちのこの逃避行は、人目を忍んで続けられた。エクス=アン=プロヴァンスでサド侯爵の人形(ひとがた)が焼かれているときに、彼はヴェロネーゼやティツィアーノの絵画を鑑賞する。肖像画芸術についてのサドの見解は、尋常ではない状況におそらく影響されて豊かになっている……。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.39.
1771年4月、長女が誕生。 9月には債務不履行で監獄に入れられています。
1772年6月、今度はマルセイユで事件を起こします。
四人の娼婦と従者のラトゥールと共に、鞭打ち、肛門性交、催淫剤のカンタリス入りボンボン使用といった性倒錯行為に、更に同日夜、別女性と同じ行為に及びます。
その後マルセイユの女性たちから毒殺未遂で告訴されたサド。
7月、妻の妹と共にイタリアへ向かいます。
妻 ルネ=ペラジー・ド・モントルイユ( Renée-Pélagie Cordier de Launay, 1763年 – 1810年)の妹です。
12月、妻の母の要請で、サルデーニャ王国官憲によって逮捕されます。
1773年4月、トイレの窓から脱獄。
その後フランスに戻ったり、一時イタリアに住んだりしました。
今度は1775年、使用人の親たちから裁判所に訴えられ、再びイタリアに向かいます。
一年をそこで過ごし、1776年夏、『イタリア紀行』の執筆を構想。
1777年逮捕、その後投獄…。
出たり入ったりと結構忙しい侯爵です。
『サド侯爵 新たなる肖像』に年表がありますので、執筆と事件と逮捕と投獄の歴史をお楽しみください(^^)
プラド美術館にあるティツィアーノ作品とルーベンスによる模写
ヴェロネーゼの作品
サド侯爵の『イタリア紀行』
フィレンツェでヴェロネーゼやティツイアーノの絵画を堪能したサド侯爵。
1775年10月21日土曜日午後3時にフィレンツェを発ち、10月27日午前11時、ローマに到着します。
サドは虚構の人物である「伯爵夫人」に宛て、このように書いています。
最初に見たのは、サン・ピエトロ大聖堂です。その正面(ファサード)は荘厳というよりもむしろ劇場のように見えましたし、想像していたほどびっくりさせられはしませんでした。とはいえ、この建物の広大さたるや信じ難いほどですし、その各部分のプロポーションが実に見事なために建物の巨大さにもあまり仰天しなくてすむのです。
マルキ・ド・サド(著). 谷口勇(訳). 『イタリア紀行 Ⅰ』. ユーシープランニング. p.139.
サドが見た、「ベルニーニによるローマ」。
ここでは ベルニーニの三つの作品と、マデルノの『聖チェチリア』を取り上げます。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ( Gian Lorenzo Bernini, 1598年12月7日 – 1680年11月28日)
引用元:ベルニーニ自画像
シピオーネ・ボルケーゼに見出された天才 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。
彼はカラヴァッジョの次の世代にあたり、バロック期のイタリアにおいて建築と彫刻の世界に長年君臨しました。今でも、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の内部装飾や列柱広場、ナヴォーナ広場やいくつもある噴水など、ベルニーニの作品に当たらないようにローマを歩くことは困難なほどです。
池上英洋(著). 『西洋美術史入門』. ちくまプリマ―新書. p.13.
ボルケーゼ美術館にあるベルニーニ作品
目利きの枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼとボルケーゼ美術館のコレクション
『聖テレサの法悦』 1647年 – 1652年
サンタ・マリア・デラ・ヴィットーリア聖堂、コルナーロ礼拝堂の『聖テレサの法悦』は、イタリアの巨匠、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって制作されました。
ベルニーニの代表作のひとつであるばかりでなく、バロック彫刻の演劇的絵画的理念を典型的に示す傑作である。礼拝堂の空間そのものが小さな劇場として構想され、中央で行われる奇蹟場面を両脇のギャラリー席から寄進者(ヴェネツィア出身のコルナーロ枢機卿)の一族が眺めるという設定になっている。場面は天使の矢によって射られ、キリストと神秘的な合一をとげる聖女テレーサ(1515~82年、スペインの聖女で跣足カルメル会の創始者)のヴィジョンを表わす。矢を持つ陽気な天使は愛の使者アモルのようであり、失神に近いテレーサの精神的法悦は官能的法悦と区別しがたい。大理石をろう細工のように扱うドレイパリーの表現はベルニーニのヴィルトゥオジズモ(名人芸)の極致を示している。
高階秀爾(監修). 『NHKルーブル美術館 Ⅴ バロックの光と影』. 日本放送出版教会. p.48.
ドレイパリー( drapery )とは「衣襞」のこと(『NHKルーブル美術館 V』)。
反宗教改革の偉大な聖人の一人であるアビラのテレサは、天使が燃える金の矢で彼女の胸を刺し貫くさまを次のように記述している。「その苦痛は非常に大きかったので、私は大声で叫んだ。しかし同時に限りない甘美さを感じ、その苦痛が永遠に続いてほしいと願った。その苦痛は身体にもある程度及んだとはいえ、肉体的ではなく、霊的なものだった。それは神によるもっとも甘美な魂の愛撫なのであった。」
H.W.ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン(著). 木村重信、藤田治彦(訳). 『西洋美術の歴史』. 創元社. p.296.
「アビラのテレサ」は、イグナティウス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、フィリッポ・ネリと共に、ローマ教皇パウルス5世によって列福されています。
「伯爵夫人」に宛てたサドの書簡です。
再びローマ市へ戻ると、フェリーチェの泉の脇に、マドンナ・デッラ・ヴィットーリアと呼ばれているカルメル会修道者たちの小さな教会が見えます。この教会は、ローマで最も贅を尽くした、最も装飾を凝らした教会の一つです。全体が大理石と金で覆われており、まるで壁画はほとんど消えているかのように見えます。左手の礼拝所はヴェネツィア出身のコルナーロ家に属するものですが、この礼拝所には天使から傷つけられんばかりになっている有名な恍惚の聖女テレサの彫像があります。これはベルニーニの傑作です。この作品は、それを特徴づけている迫真的雰囲気からしても至高なものです。けれども、これを眺める際に、聖女が描かれているのだということだけは肝に命じておかねばなりません。なにしろ、顔を炎に包まれたテレサの恍惚状態の様子から、これを勘違いし易いであろうと思われるからです。つまり、天使は愛神エロスとして、またテレサはエロスの母親として、つまりキューピッドの邪心の美しき犠牲者として、解釈されても一向にかまわないでしょう。それはともあれ、この彫像は賞賛に値します。ただ私には、聖女の衣紋表現に少々行き過ぎが目につき、また天使が矢を番えている様子にはあまりに気取りすぎた点があるように見えます。ですが、過度の凝り方がベルニーニに持ち前の欠点であることは周知のところなのです。そうは言っても、この彫像の置き場所をもっと良くしたらよいのに、と望まれるところでしょう。あまりに高く、しかもあまりに奥まったところにあるため、この作品を鑑賞するのに骨が折れるのです。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.161.
引用元:天使 Benjamín Núñez González CC-BY-SA-4.0
引用元:天使の矢 Benjamín Núñez González CC-BY-SA-4.0
引用元:聖テレサ Benjamín Núñez González CC-BY-SA-4.0
天使と、法悦の極みにある聖テレサ。
ベルニーニはその瞬間を目撃する観客たちもつくりました。
礼拝堂の両側面には劇場の桟敷席に似たバルコニーが設けられ、そこには私たちと同様に聖女の法悦を目撃するコルナーロ家の一族の大理石像が配されている。
H.W.ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン(著). 木村重信、藤田治彦(訳). 『西洋美術の歴史』. 創元社. p.297.
ヴェネツィア共和国で最も権力を持つ一族出身のフェデリコ・コルナーロ枢機卿は、この礼拝堂に今日の貨幣価値にして約50万ドルの大金をかけました。(参考:『ベルニーニ その人生と彼のローマ』 一灯舎)
引用元:フェデリコ・コルナーロ枢機卿 Didier Descouens CC-BY-SA-4.0
引用元:向かって左側の集団 Nina-no CC-BY-SA-2.5
引用元:『聖テレサの法悦』 Nina-no CC-BY-SA-2.5
アビラのテレサ
聖テレサが法悦の体験をしたのは44歳の時とされています。
『ベルニーニ その人生と彼のローマ』によれば、彼女がまだ存命中に描かれた肖像画というのは、「どちらかといえばずんぐりとした品格ある中年の修道女」で、ベルニーニの作品に描かれているような若い乙女ではなかったようです。
彫刻の聖女が身に着けているものも、裕福で世俗的な貴族女性の衣裳のようだ、と著者は書いています。
引用元:16世紀に描かれた聖テレサ
確かに、たっぷりとした布が、豪華なガウンのようにも見えます。
『聖女ビビアーナ像』 1626年
引用元:『聖女ビビアーナ像』 WikiPaintings CC-BY-SA-3.0
教皇ウルバヌス8世に依頼された聖ビビアーナ像。
聖ビビアーナは、4世紀のユリアヌス帝の治世、初期キリスト教の殉教者です。
引用元:『教皇ウルバヌス8世の肖像』
教皇の肖像画もベルニーニの作です。
聖ビビアーナ像に対し、ベルニーニの息子 ドメニコは後年、伝記のなかでこう書いています。
「その優しさと、あふれ出すような信仰心の双方において、これは芸術の奇跡である」とし、彼の父親が語ったこととして「私がこの彫刻を作ったのではなく、聖ビビアーナ自身がおいでになり、彼女の姿を大理石に刻まれたのだ」と記している。
フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.160.
引用元:『聖女ビビアーナ』 Sailko CC-BY-3.0
サドはサンタ・ビビアーナ教会を訪れます。
その近くにあるサンタ・ビビアーナ教会は、この聖女が住んでいた場所に建っていると言われています。教会を取り囲んでいる小さな庭に入ると、聖女が使用していたまさにその井戸を見ることができます。この教会は4世紀のものですが、17世紀に建て変えられました。祭壇の上の聖女の彫像はベルニーニの傑作と言われており、賞賛に値するものです。その衣紋は実に軽快かつ優美でして、この巨匠の作品にしか見られないものです。その石膏模造品は、ローマのフランス・アカデミーの若い画家たちにモデルとして役立っています。このようにモデルに選ばれたことは、いかなる賛辞にも勝るものでしょう。
数々の教団のうちでも最も聖なる女性に対して悪ふざけをする人びと、若く美しい殉教者の血もポンチ1杯分より興味を引かぬような鈍感な心の持ち主たちの一人、要するに一人のイギリス人が、彼女の手にしたシュロの葉を責め具と勘違いして、彼女を鞭打つための鞭を彼女に集めさせるとはあまりにひどい、と言い張りました。ですが、この推理は彼女の心をも、彼女の良心をも害していた以上、道理のないものです。なにしろ、そんな取り違えはなし得ないことですし、また同じ不幸に苦しむ人びとともに表現されているビビアーナは、仲間たち同様に、シュロの枝を我慢強さの褒賞として手にしているのですから。
マルキ・ド・サド(著). 谷口勇(訳). 『イタリア紀行 Ⅰ』. ユーシープランニング. p.187-188.
祭壇の下の、アラバスタ製の石棺の中には、「ビビアーナ以外に、彼女の姉妹と母親の遺体が納められている」そうです。
しかし、サドは、
実際、体刑の後で遺体はテーヴェレ川に投げ込まれるのがほとんど常だったのですから、これら殉教者の遺体が、この石棺におけるように、二人の姉妹とその母親が一緒にこうして同じ家におれるようにさんざん配慮して集められているなどという、可能性がどうしてあり得ましょうか。伯爵夫人さま、貴女さまのように哲学的精神をお持ちの方なら、こんな絵空事はお認めになり難いでしょう。白状いたしますと、私とてもこんな事を事実と想像することはほとんどできませんし、そんな事を信じている人びとの不条理さたるや、私に言わせれば、奇跡以上にもっとむかつかせます。
マルキ・ド・サド(著). 谷口勇(訳). 『イタリア紀行 Ⅰ』. ユーシープランニング. p.188.
上の絵画は、フランスの画家ポール・ドラローシュの作品『若き殉教者』です。 ルーヴル美術館には別ヴァージョンがあります。
物語の舞台はローマ時代、ディオクレティアヌス帝の治世。 偶像崇拝を拒否した彼女は、両手を縛られ、ローマ人によってティベリ川に突き落とされます。
暗がりの中、溺死した彼女の遺体はふたりのキリスト教徒によって発見される…という情景。
この絵のように誰かに見つけて貰えれば埋葬されることもあるでしょうが、ほとんどの場合そうではなかったことでしょう。
川に突き落とされたキリスト教徒たちの遺骸を回収、しかも母親とそのふたりの娘の遺体を集めて一つの墓所に安置する、というのは非常に難しいことだと思います。
サドは続けます。
同じ教会の扉の近くには、赤大理石による小さな円柱が一本置かれてあり、言われているところでは、体刑の際、この上で聖女が縛られたとのことです。このことに関しては、おそらく事実、この円柱が支柱として役立つことを否定する理由はありませんし、人がこれを見て感じる心は、美しくなくとも、ただその古さだけでいつも感銘を与える、古代の遺跡を見るときと同じなのです。
マルキ・ド・サド(著). 谷口勇(訳). 『イタリア紀行 Ⅰ』. ユーシープランニング. p.188.
【聖ビビアーナの薬指の欠損事件】2018年、美術館に貸し出されていた聖ビビアーナの右の薬指が欠けていることがわかりました。 「事件」に関してはこちらをご覧くださいませ。 2018.09.10 23:00 名作ゆえに起こる悲劇!?リスクある世界の旅をやめられない美術品の宿命 Text by Discovery編集部
しかし、サドはおのれの無神論のために「イエズス会の豪華さ」が嫌いになることはない。彼はイエズス会学校のもと生徒であり、そこで芝居に熱中した。宗教的迷信とその迷信の流布を促す華麗さとを同じように非難したフィロゾーフたちとは違って、サドは迷信にたいしてだけしか戦わない。舞台装置においては、迷信を信じる愚かさだけしか非難しないのである。サドは初めてサン・ピエトロ大聖堂に足を踏み入れたとき、まるで劇場のなかに入ったかのように思った。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.55.
フィロゾーフ ( philosophe ):フランス語で「哲学者」を意味する言葉であるが、特に18世紀の啓蒙時代において、啓蒙思想の担い手であった知識人を指す。実際に哲学者であった者は少なく、哲学のみならず、歴史、科学、政治、経済、社会問題などの多くの領域において、理性を主張して公的な活動をおこなった知識人たちがフィロゾーフと称された。(Wikipedia)
すべての過剰なるものがサドの賞賛を得、逆に、粗さや無味乾燥さは嫌悪感を抱かせるカテゴリーである、と『サド侯爵 新たなる肖像』では述べられています。
サドは手紙の中で、デューラーのある作品を「堅苦しい」、ナトワールの作品には「デッサンも不正確」との評価を与えています。
『福女ルドヴィカ・アルベルトーニの法悦』 1622年 – 1625年
引用元:『福女ルドヴィカ・アルベルトーニの法悦』 Photographs by User:Sailko CC-BY-3.0
引用元:福女ルドヴィカ ho visto nina volare CC-BY-SA-2.0
引用元:手元 ho visto nina volare CC-BY-SA-2.0
ルドヴィカ・アルベルトーニ( Ludovica Albertoni, 1473年 – 1533年)
ルドヴィカ・アルベルトーニはアヴィラの聖テレサと同様、奇跡を起こし、空中浮揚や恍惚を体験した女性苦行者でした。
貴族アルベルトーニ家に生まれ、貴族の夫ジャコモ・デッラ・チェテーラ( Giacomo della Cetera )と結婚。
夫と死別した後、貧しい人びとに対する献身から「貧しい者たちの母」と呼ばれます。
1671年、ルドヴィカは福者に列せられました。
時の教皇クレメンス10世はアルベルトーニ家と縁戚関係にありました。
ベルニーニに像の制作を依頼したのは、ルドヴィカの末裔であるアルベルトーニ枢機卿でした。(参考:『世界史リブレット77 バロック美術の成立』 山川出版社)
実際のルドヴィカ
『聖テレサの法悦』では、44歳の中年女性だったテレサは若くほっそりとした女性として彫られていますが、福女ルドヴィカも実際とは違っていました。
ベルニーニはルドヴィカを「皺のない柔らかな肌に覆われた完璧に整った顔と、優美でふっくらした手の持ち主として」描いていますが、実際のルドヴィカは、
長い期間にわたる絶食や極端な肉体的消耗によって、宗教に関わるようになってからは急激にやつれて衰弱していったと思われる。だから、死を迎えた60歳のときに彼女がどのように見えたかは想像に難くない。だが誰がベルニーニを責められるだろう。飢えで痩せ衰えた遺骸よりも、恍惚に身を捩じらす、完璧な白い肌をしたバロック期の豊満な美女を見たいと思うのは誰も同じである。
フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎. p.471.
ベルニーニは、ルドヴィカのこの像を無報酬で仕上げることを、ルドヴィカの玄孫であるパルッツォ・パルッツィ・アルティエーリ・デッリ・アルベルトーニ枢機卿に約束。
そして、ベルニーニは半年で像を仕上げます。
引用元:パルッツォ・パルッツィ・アルティエーリ・デッリ・アルベルトーニ枢機卿
その裏側には、ベルニーニの弟 ルイージの 性スキャンダルがありました。
この話は『ベルニーニ その人生と彼のローマ』に詳しく載っていますので、ご興味のある方は是非お読みください。
引用元:福女ルドヴィカ Torvindus CC-BY-SA-3.0-migrated _ CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0
引用元:アルティエーリ礼拝堂 Sailko CC-BY-3.0
下の色大理石はルドヴィカの棺、その上に白大理石のルドヴィカ像、その上に目をやると、聖母子と聖アンナを描いた絵、というように、
下から上にいくにつれ、肉体から魂、罪から救済というように、個別から普遍という変遷を示している。
宮下規久朗(著). 『世界史リブレット77 バロック美術の成立』. 山川出版社. p.83.
ローマを訪れたサドもこの教会に行き、同じようにこの彫刻を見、上を見上げたことでしょう。
サドがベルニーニ作の福女ルドヴィカ・アルベルトーニの彫刻に関して述べた批評によって、彼の審美的欲求を窺い知ることができる。つまり、芸術作品の優美さはその作品の力強さに役立つものでなければならないということである。
顔の表情はまさに憔悴そのものです。この芸術家はなぜ、残りのすべてにおいても同じように正確に従うことをしなかったのでしょうか。頭部を支えている二つの枕は、驚くほど真実味があります。しかし、両手の位置は凝りすぎています。人は息絶えるとき、これほど優美に両手を置いたりしないものです!いずれにせよ、これはマデルノ作の《聖女チェチリア像》に見られる驚くべき真実味とは雲泥のちがいです。
丸天井のもとでは、すべてが豪奢なる苦悩に彩られている。サドは、いまわの際の聖人や聖女たちがしっかりと緊縛され、血の気が失せ、瞳に涙を潤ませているさまに目を注ぐ。彼は犠牲者にして処刑人であり、闘技場で絶命する受刑者にして、饗宴の終わりに楽しみにやって来る皇帝なのだ。
「そのうえを歩みながら、当然ながら、『皇帝たちも私と同じようにかつてここに来たことがあったのだ!』と言ってよいのです」
サドがローマについて記した箇所は、異教世界がカトリック教会によって破壊されたことへの長い哀悼の言葉となっている。サドは訪れるどの教会についても、教会が古代の建造物を消し去っていることに言及している。
聖母マリアやらがらくたやらで、貴重な建造物が埋め尽くされてしまっているのを目にするのは、じつに嘆かわしいことです。
しかし、サドは当世のローマをくまなく歩きまわりながら、面影が残るだけとなってしまった異教世界を絶えず心の中で復元し続ける。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.56-59.
『聖チェチリア』 1600年 ステファノ・マデルノ
聖セシリア、セシル、 カエキリア ( Caecilia ) とも呼ばれる、2世紀頃の女性です。
汚れなき乙女にしか聴こえないという「天上の音楽」を聴くことができたチェチリアは、音楽の守護聖人。 彼女を示すアトリビュート(持ち物)は楽器です。
禁教時代に生きた人だが、キリスト教徒として育てられ、結婚はしたが性交渉なしという条件を相手に認めさせている。
池上英洋・荒井咲紀(著). 『美少女美術史』. ちくま学芸文庫. p.121.
その夫もまた、妻の影響でキリスト教徒となりました。
ふたりはやがて捕らえられます。
釜茹でにされたところを天使が救いますが、最後には夫婦そろって首を斬り落とされました。
ローマにあるサンタ・チェチリア・イン・トラステーヴェレ教会は、その名でわかる通り彼女に捧げられており、9世紀に地下墓所(カタコンベ)から彼女の棺が移されていた。そして1599年に、棺のなかから彼女の遺骸が発見されたのである。
池上英洋・荒井咲紀(著). 『美少女美術史』. ちくま学芸文庫. p.122.
伝説では、 処刑人が三度首を切りつけても首が離れなかったそうです。
遺体は伝説通りに首が切り離された状態で、頭部は布にくるまれていた。その状態から復元想像した姿を、1600年にマデルノが大理石像にしているが、そこでも首には切断痕がつけられている。
池上英洋・荒井咲紀(著). 『美少女美術史』. ちくま学芸文庫. p.122.
発見された当時 チェチリアの遺体はまだ白骨化していず、彫刻家ステファノ・マデルノはその姿をスケッチし、作品を制作したそうです。
ベルニーニは、『福女ルドヴィカ』像制作にあたり、
死にゆく女性の姿を祭壇上におくこの構成について、ベルニーニはそこからほど近いサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ聖堂にある前述のステファノ・マデルノによる聖チェチリアの祭壇を参照したのであろう。
宮下規久朗(著). 『世界史リブレット77 バロック美術の成立』. 山川出版社. p.84.
引用元:頭部 Warburg CC-BY-SA-3.0
引用元:手元 Maderno CC-BY-SA-3.0
引用元:聖チェチリア Miguel Hermoso Cuesta CC-BY-SA-4.0
サドの書簡より。
サンタ・チェチリア教会。この教会の最も美しい作品は疑いもなく、ステーファノ・マデルノの手になるこの聖女の寝像でして、それは主祭壇の飾り天蓋の下に置かれています。まさしく咲き始めるや刈り取られた一輪の美しい花の感がします。チェチリアはごく若くして結婚させられ、そしてこの結婚の初期に浴室で暗殺されたのでした。その負傷の跡は剥き出しになった美しい首の上に認められます。彼女が三回切り付けられた剣の跡が見えます。そこからは血が滴っておりますし、彼女が倒れて、疑いもなくこの非業の死で息絶えるに至った様子は、この芸術家の把握したとおりのものに違いありません。少なくとも、彼女がサン・セバスティアンのカタコンベで見つかったときと同じままに写し取られていることは確かです。彼女が浴室で身につけていたのと同じ下着が彼女を覆っています。それが形づくっている繊細な衣紋やその輪郭を垣間見させている巧みな手法は、まことに崇高の一字に尽きます。チェチリアは小柄で華奢でしたが、描くには掛け替えのない人物だったのです。芸術家はこのモデルのすべての優美な点を保持しましたし、彼女を悴ませる死は、こう言ってよければ、彼女をなお一層尊敬に値する者にしているかのようです。顔はたんなるハンカチーフで包まれたまま、やや無理な姿勢で地面のほうを向いたままですが、最期の苦悶いかばかりだったかはそこに感知できます。彼女の華奢な両手は前に垂れており、何本かの指は突然のひどい断末魔のせいででもあるかのように、悴んでいます。その場に投げ出された死体ながら、そこには、17ないしは18歳の、しっかりしていると同時に愛らしい少女の繊細さとしなやかさがそっくり今でもありありと現れています。この聖なる作品にはあまりにも真実味が際立っているために、人はこれを見て感動を覚えずにいられません。
シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社. p.302.
感想はこの後もまだ続きます。
そして更にベルニーニが手掛けた市中の作品も見て回るのですが、 美術に関するサドの感想を読むと、彼がとても教養のある人物だったことがわかります。
彼の熱心なガイドをナマで聴いてみたいものです。
建築家 カルロ・マデルノ
ベルニーニやフランチェスコ・ボッロミーニを育てた初期バロックの建築家、カルロ・マデルノ( Carlo Maderno, 1556年 – 1629年)は、 『聖チェチリア』の制作者、ステファノ・マデルノ( Stefano Maderno, 1576年頃 – 1636年) と兄弟だといわれていましたが、ふたりが兄弟であるという確かな証拠はないようです。
下は カルロ・マデルノによる サン・ピエトロ大聖堂のファサードです。
引用元:サン・ピエトロ大聖堂 CC-BY-SA-3.0-migrated
サド家の紋章
引用元:サド家の紋章 User:Spedona CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0
意外と強そうな紋章でした。
- シャンタル・トマ(著). 田中雅志(訳). 『サド侯爵 新たなる肖像』. 三交社.
- 高階秀爾(監修). 『NHKルーブル美術館 Ⅴ バロックの光と影』. 日本放送出版教会
- H.W.ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン(著). 木村重信、藤田治彦(訳). 『西洋美術の歴史』. 創元社.
- マルキ・ド・サド(著). 谷口勇(訳). 『イタリア紀行 Ⅰ』. ユーシープランニング.
- 中島智章(著). 『図説 バロック 華麗なる建築・音楽・美術の世界』. 河出書房新社.
- フランコ・モルマンド(著). 吾妻靖子(訳). 『ベルニーニ その人生と彼のローマ』. 一灯舎.
- 宮下規久朗(著). 『世界史リブレット 77 バロック美術の成立』. 山川出版社.
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