16世紀後半ヴェネツィア派を代表するパオロ・ヴェロネーゼの絵画で「色」の美しさを愛でる企画です。
『川から救われるモーセ』
旧約聖書に登場する、イスラエル民族の指導者であり、預言者、建国の父、モーセ。
イスラエル(ユダヤ)人はエジプトで奴隷として苦難の日々を過ごしていたにもかかわらず人口は増え続け、これに危機感を抱いたファラオ(国王)はイスラエル人の新生児のうち、男はすべてナイル川に投げ捨て、女の子は生かすようにとのお触れを出した。
千足伸行(監修).『すぐわかるキリスト教絵画の見かた』. 東京美術. p.24.
モーセの母親はパピルスで籠を編み、幼いモーセをその中に入れ、ナイル川の葦の茂みに隠します。
そこへ偶然水浴びにやってきたファラオの王女が籠を見つけ、中で泣いていた男の子を引き取って「モーセ」と名付けました。
という場面なのですが、まずファラオの王女の華麗な衣裳をご覧ください。
『川から救われるモーセ』( Moisés salvado de las aguas ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ プラド美術館蔵
引用元:『川から救われるモーセ』
プラド美術館:Moisés salvado de las aguas
あら?
なんだか「ファラオの娘」っぽくない。
なんか近い時代のヨーロッパっぽい。
そうです。時代考証無視です。
ヴェロネーゼの宗教画は、時代考証に重きを置かないというのも、ひとつの特徴だ。聖書の主題について描かれた作品だが、王女はヨーロッパ的な顔立ちで、着ている衣装も16世紀の貴族女性の流行にのっとっている。
『名画で読み解く「聖書」』. 世界文化社. p.51.
プラド美術館の解説には「豪華な真珠色の錦織のドレスを着たファラオの娘」とありました。
背景の、石造りの橋もヨーロッパ的ですね。その向こうの景色もエジプトっぽくない。
『プラド美術館 名作100選』の解説にはこのようにあります。
主題が極めて宗教色の濃いものであるのに対して、ヴェロネーゼはこれをまるで当時ヴェネチアの郊外でとある貴婦人に起きた出来事といった風に表現している。
『プラド美術館 名作100選』. p.74.
引用元:『川から救われるモーセ』
引用元:『川から救われるモーセ』
『モーセの発見』( The Finding of Moses, c. 1581/1582 ) 1581年-1582年頃 パオロ・ヴェロネーゼ ワシントン,D.C., ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵
引用元:『モーセの発見』
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート:The Finding of Moses, c. 1581/1582
ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの解説に、中央の女性(王女)の衣装が「銀と金色の錦のドレス」「金と宝石で縁取られている」とあります。
引用元:『モーセの発見』
真珠のネックレスを着け、髪にも宝石を散りばめた金のティアラ。
向かって右側の女性の髪にも真珠が飾られています。着ているものも「パフスリーブの青と白の縞模様のドレスを着て」います。
『川から救われるモーセ』( Moïse sauvé des eaux ) 1500年-1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ リヨン美術館蔵
引用元:『川から救われるモーセ』
ルーヴル美術館(リヨン美術館に寄託):Moïse sauvé des eaux
『川から救われるモーセ』( The finding of Moses ) 1500年代後半 パオロ・ヴェロネーゼ ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵
引用元:『川から救われるモーセ』
『川から救われるモーゼ』( The finding of Moses ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ ディジョン美術館蔵
引用元:ディジョン美術館の絵 Rama CC-BY-SA-2.0-F
『女性の肖像(ラ・ヴェッラ・ナーニ)』( Une patricienne de Venise, dit La Belle Nani ) 1560年頃 パオロ・ヴェロネーゼ ルーヴル美術館蔵
ルーヴル美術館:Une patricienne de Venise, dit La Belle Nani
袖の装飾が美しいですね。『川から救われるモーセ』のファラオの王女が着ている衣裳に似ているように思います。
ルーヴル美術館の解説では、女性の青いドレスは貴族の既婚女性のもの。「儀式用」で「祭りの際に」(Google翻訳)着用できるものとのことです。
ベルベットのドレスの胸元は大きく開き、袖は白地に青い模様が入った金襴で、肩には「淡い白のガーゼコート」を羽織っています。
真珠にゴールド、各種宝石がモデルの女性を美しく飾っています。
腰の上、ベルトが前に下がっていますが、これはイタリア語で「パーテルノステロ」と呼ばれます。(『世界服飾史』 美術出版社)
『女性の肖像(ラ・ヴェッラ・ナーニ)』も掲載されています
『聖カタリナの神秘の結婚』( MATRIMONIO MISTICO DI SANTA CATERINA ) 1565年-1570年頃 パオロ・ヴェロネーゼ アカデミア美術館蔵
引用元:『聖カタリナの神秘の結婚』
アカデミア美術館:MATRIMONIO MISTICO DI SANTA CATERINA
Wikipedia:聖カタリナの神秘の結婚 (ヴェロネーゼ、アカデミア美術館)
アレクサンドリアの聖カタリナと、キリストの神秘的な結婚の伝説から取られた主題で、元はサンタ・カテリーナ教会の主祭壇画として制作されたもの。
『ヴィーナスの着物を脱がすマルス』( Venus, Cupid and Mars ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ スコットランド国立美術館蔵
スコットランド国立美術館:Venus, Cupid and Mars
好色そうな戦いの神マルスが、美と愛の女神ヴィーナスの着ているものを脱がそうとしています。
ヴィーナスの輝くような肌、衣裳の光沢が素晴らしいですね。
犬は「忠実」を表しますが、この場合は「繁殖力」「肉欲」のシンボルなのでしょうか。
ヴィーナスの足下にはキューピッド。
マルスがヴィーナスの魅力に負けたとするなら「戦争」に対する「愛」の勝利ということなのかも知れませんが、庶民的な感じがするヴィーナスのせいで、ひたすら明るいエロスの世界にしか見えません。
ヴィーナスのモデル嬢はヴェネツィアの高級娼婦だそうです。
この絵、大好きです。
スコットランド国立美術館の解説によると、マルスは「(おそらくアシスタントによって)後になってデザインに組み込まれた可能性がある」とのことです。
『レダと白鳥』( Léda et le cygne ) 1585年頃 パオロ・ヴェロネーゼ ルーヴル美術館蔵
引用元:『レダと白鳥』
ルーヴル美術館(フェッシュ美術館で展示):Léda et le cygne
スパルタ王の妻レダの美しさに心を奪われたゼウスは、白鳥に変身して近付き、思いを遂げます。
レダは身ごもり、卵をふたつ産みました。
『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』( Mars and Venus United by Love ) 1570年代 パオロ・ヴェロネーゼ メトロポリタン美術館蔵
メトロポリタン美術館:『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』
キューピッド(愛)が、愛と美の女神と戦の神を結び付けています。
この作品は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のコレクシ ョンのひとつでした。
引用元:ルドルフ2世
アモル(キューピッド)が、軍神マルスとヴィーナスのふたりの足を結びつけている。後期ヴェネツィア派のヴェロネーゼの鮮やかな色彩がヴィーナスの肢体を輝かせる。
海野弘・平松洋(監修). 『性愛の西洋美術史』. 洋泉社. p.48.
『性愛の西洋美術史』では『アモルによって結ばれるマルスとヴィーナス』のタイトルになっています。
『ヴィーナスの着物を脱がすマルス』のヴィーナスのお肌の色味とはまた違った艶めかしさが漂いますね。お肌も素敵ですが、マルスのローブの輝きに目が眩みます。
『ヴィーナスとアドニス』( Venus y Adonis ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ プラド美術館蔵
引用元:『ヴィーナスとアドニス』
『ヴィーナスとアドニス』は『プラド美術館 名作100選』にも掲載。
青地に象眼模様をあしらったヴィーナスのマントや燃えるようなオレンジ色のアドニスの衣服に見られる豊かな官能的な色彩にも未来を予感させるものがある。オレンジ色は死を暗示する色で、この後に起こる惨事を象徴している。
『プラド美術館 名作100選』. p.76.
解説に、ヴィーナスの素敵な衣服に言及があって嬉しい。
本作はスペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが、1649年から1651年にかけての二回目のイタリア旅行で入手したものです。
1648年の終わり頃、ベラスケスは弟子のパレーハを伴い、ローマへ向かいます。
引用元:ディエゴ・ベラスケス自画像
ベラスケスには、スペイン国王フェリペ4世の命を受け、八角堂や鏡の間など改修工事後のアルカーサル内を新た飾る美術品獲得という目的がありました。
ヴィーナスのお肌と衣装の美しさに見惚れて気づきませんでしたが、プラド美術館の解説に、ヴィーナスのポーズは古代の彫刻「うずくまるヴィーナス」のポーズからインスピレーションを得ているそうです。
また、横たわるアドニスの服のオレンジ色についても解説があります。
Veronese created this bright hue by combining minium and the rare pigment realgar, the only pure orange pigment available at the time, which contained arsenic (it was used to kill rats). Orange is relatively frequent in the paintings of Veronese but was otherwise unusual at the time – it is more common in pictures from Venice than from other places
https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/venus-and-adonis/692667da-d0f5-4765-ba03-30fdce3513d1
(Google翻訳:ヴェロネーゼは、ミニウムと、ヒ素を含む(ネズミを殺すために使用された)当時入手可能な唯一の純粋なオレンジ色の顔料である希少な顔料リアルガーを組み合わせて、この明るい色合いを作成しました。オレンジはヴェロネーゼの絵画では比較的頻繁に使われていますが、当時はそれ以外は珍しいものでした。他の場所の絵よりもヴェネツィアの絵の方がよく使われています)
ミニウム( Minium )は「鉛丹」。古代ローマの時代には赤の塗料として使われていたそうです。名前にあるように「鉛」を含有しています。
リアルガー( Realgar )は和名を「鶏冠石」(けいかんせき)といい、ヒ素の硫化鉱物です。
引用元:Realgar 帰属: Rob Lavinsky, iRocks.com – CC-BY-SA-3.0
Wikipedia(英語版)を参考にさせていただくと、この鶏冠石(リアルガー)は、長時間光にさらされると、パラリアルガーとして知られる黄色の粉末に変化するそうです。
『聖ヘレナの夢』( Visione di S. Elena ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ ヴァチカン美術館蔵
引用元:『聖ヘレナの夢』
ヴァチカン美術館:Veronese, Visione di S. Elena
ローマ皇帝コンスタンティヌス(西暦306-337年)の母、聖ヘレナの眠る姿です。ドレスの光沢が素晴らしいですね。
もちろん背後の柱、キューピッドのお尻もすごいんですが。
The Vision of St Helena ( WEB GALLERY OF ART )によると、聖ヘレナの着ているガウンは16世紀風。
This painting is Veronese’s second version of the subject of St Helena, and it is quite different from the first version in the National Gallery in London both artistically and in content. St Helena is now crowned and wearing the splendid dress of an empress. Brightly gleaming columns with a statue between them ennoble the location of the event. However, in comparison with the London picture the choreography of the picture is rather superficial and calculated. The dating of the picture remains problematic. In her dress, she seems a figure taken wholly from the repertoire of the Feasts. Only the powerful colour contrasts and selective distribution of light, which resemble most closely the figure of Judith (Kunsthistorisches Museum, Vienna), generally dated to around 1582/83, justify the late dating.
The Vision of St Helena ( WEB GALLERY OF ART )
(Google翻訳:この絵はセントヘレナを主題としたヴェロネーゼの 2 番目のバージョンであり、ロンドンのナショナル ギャラリーにある最初のバージョンとは芸術的にも内容的にもかなり異なります。セントヘレナは現在、戴冠し、皇后のような華麗なドレスを着ています。明るく輝く柱とその間に彫像があり、イベントの場所を高貴に見せます。しかし、ロンドンの絵と比べると、この絵の振り付けはかなり表面的で計算高いものになっています。写真の年代には依然として問題がある。彼女のドレスを着ていると、彼女は完全に祝祭のレパートリーから取られた人物のように見えます。一般的に 1582 ~ 1583 年頃のものとされるジュディスの像 (ウィーン美術史美術館) に最もよく似ている、強力な色のコントラストと選択的な光の分布だけが、後期の年代指定を正当化します。)
ナショナル・ギャラリーの『聖ヘレナの夢』はこちらです
『ユディットとホロフォルネス』( Judith mit dem Haupt des Holofernes ) 1580年頃 パオロ・ヴェロネーゼ 美術史美術館蔵
引用元:『ユディットとホロフォルネス』
美術史美術館:Judith mit dem Haupt des Holofernes
ユディットによるホロフェルネス殺害シーンです。
ユディットの美しさ、剥き出しになった肌の美しさが印象的。
美術史美術館の解説には、「まさにこの光と闇、美しさと恐怖のコントラストこそが、この絵にマニエリスム的な魅力を与えている」とあります。
『ルクレティア』( Lukrezia ) 1580年-1583年頃 パオロ・ヴェロネーゼ 美術史美術館蔵
貞女の鑑(かがみ)として知られる『ルクレティア』は実在の人物ではなく、紀元前6世紀、古代ローマが王政から共和制に移行するきっかけとなったとされる、伝説の女性です。
美しい人妻ルクレティアは、夫の友人であるセクストゥス(王子)によって凌辱されてしまいます。
彼女は父と、戦地に赴いていた夫たちを呼び出し、自分の身に起こったことを打ち明けました。
そして男たちに復讐を誓わせた後、ルクレティアは短剣で自らを突き、自害しました。
この主題は多くの画家に好まれ、様々なルクレティアが描かれています。
とにかく布です、布!
数種類の布が画面に登場していますが、見事な質感ではありませんか。特に、後ろの緞帳と身体に纏った緑の衣裳。
次にルクレティアの身を飾る美しい宝飾品です。(私はそちらにばかり目が行って、彼女の持つ短剣にしばらく気がつかなかったことがあります)
ルクレティアは裸婦として描かれることも多いのですが、ヴェロネーゼはこのような豪華な宝飾品を着けさせることにより、彼女の美貌と徳を最大限に高めようとしたのかもしれない、とのことです。 (参考:『名画の美女』)
ところで。
アメリカの故ケネディ大統領の夫人・ジャクリーヌといえば、抜群のセンスで知られた女性です。
エレガントの代名詞のような彼女ですが、
そんな彼女の死に際し、担当デザイナーだったオレグ・カッシーニ氏はこのようなコメントを残しています。
「ドレスの色を決める際、『どのようなグリーンにしましようか?』という質問に対し、ジャッキーは『ヴェロネーゼのグリーンで』と答えました。そのようなことを言えるファースト・レディはジャクリーヌ夫人以外には考えられないでしょう」と。最大の賛辞です。
ヴェロネーゼが得意とした豊かな色彩で描かれた、このルクレティアの緑色の衣装。ウィーンを大統領のお供で訪れたことのあるジャッキーでしたが、彼女はこの画をウィーン美術史美術館で見たのでしょうか?はたしてジャッキーの「ヴェロネーゼのグリーン」は、このルクレティアが身にまとっているグリーンだったのでしょうか…。
『名画の美女』. p.61.
実物を間近で見たか否かはともかく、絵画に造詣が深くないと出てこない言葉ですよね。
自分が言うなら、なにがいいでしょうね。
フェルメールの青もいいし、ティツイアーノの赤も捨て難いですね。
でも緑を選ぶ場面ではこの台詞を使ってみたいです。
では、今回これを読んで下さった方もよろしければご一緒に。
「ヴェロネーゼのグリーンで」。
ヴェロネーゼ・グリーン
この魅力的なヴェロネーゼ・グリーン、『イタリアの色』(平凡社)では「ズメラルド( Smeraldo : Emerald Green )の項で色見本を見ることができます。
「ズメラルドは高価な宝石エメラルドの透明感のある青味をおびた緑色」と解説にありますが、エメラルド、美しいですよね。
引用元:エメラルド Аружан Жамбулатова CC-BY-SA-3.0
『色の知識』(青幻社)では、ヴェロネーゼ・グリーンは「バロック」の項にあります。
「塩基性酢酸同を主成分とする緑色で、別名スパニッシュ・グリーンともいわれる」とあります。
パオロ・ヴェロネーゼ( Paolo Verones, 1528年-1588年4月19日)
引用元:パオロ・ヴェロネーゼ自画像
どの絵も美し過ぎますね。
ヴェローナ出身の画家ヴォロネーゼは、ティツィアーノ、ティントレットと共に16世紀ヴェネツィア絵画黄金時代の巨匠と言われています。
アンニーバレ・カラッチ、ディエゴ・ベラスケス、ティエポロなど、後世の画家に大きな影響を与えました。
『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』、『美徳と愛の寓意 / ヘラクレスの選択』が掲載されています
- 『すぐわかるキリスト教絵画の見かた』 千足伸行(監修) 東京美術
- 『名画で読み解く「聖書」』 世界文化社
- 『性愛の西洋美術史』 海野弘・平松洋(監修) 洋泉社
- 『名画の美女』 木村泰司(監修) 洋泉社
- 『プラド美術館 名作100選』.
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