ルーヴル美術館とキンベル美術館にあるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『いかさま師』。一枚の絵の中に見られる登場人物たちの「袖」のいろいろです。
「それはまた別の袖だ」
引用元:カッサパンカ Sailko CC-BY-SA-3.0
「それはまた別の袖だ」という言い方[「それはまったく別問題だ」のイタリア語の慣用表現]は中世という時代に始まったものだが、それは現実的必要性からか、その逆の装飾的要求からかはともかく、衣服と、それに付ける袖とを別々の収納箱(カッサパンカ)の中にしまえるようになった時代の産物だ。
キアーラ・ブルゴーニ(著). 高橋友子(訳). 『ヨーロッパ中世ものづくし メガネから羅針盤まで』. 岩波書店. p.154.
13世紀の初め頃、袖はリボンやボタンによって衣服と簡単に結ばれているだけだったようです。
裕福な女性や王妃たちが着脱可能な袖を着用したのは、もちろん必要からではなくモードとしてである。貴婦人たちはお気に入りの騎士に片袖を贈る習慣があり、騎士はそれをよろいに結びつけて旗印のようになびかせた。
キアーラ・ブルゴーニ(著). 高橋友子(訳). 『ヨーロッパ中世ものづくし メガネから羅針盤まで』. 岩波書店. p.154.
この項で、著者は17世紀のフランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール( Georges de La Tour, 1593年3月19日-1652年1月30日)の絵画を挙げ、「ジョルジュ・ド・ラトゥールのすばらしい絵画『ダイヤのエースを持ったいかさま師』を見ると、あらゆる種類の袖の結び目の例が見られる。」と書いておられます。
どのような袖の結び目かと言いますと、
- 左側のいかさま師の袖:ほどけたリボンの端をたらしている
- 女性勝負師の衣服の袖:ボタンで留められている
- 右側にいる、だまされることになる若者の服の袖:リボン結びで留められている。模様が織りこまれた贅沢な絹の胴衣と対照的な白の無地。
それでは描かれた「袖」を見てみましょう。
『ダイヤのエースを持ったいかさま師』( Le Tricheur à l’as de carreau ) 1635年頃 ジョルジュ・ド・ラトゥール ルーヴル美術館蔵
ルーヴル美術館:Le Tricheur à l’as de carreau
皆さん、邪心みなぎる迫力の目力ですね。
若者の袖のリボンもお洒落ですが、襟の刺繍も素晴らしい。クラバット、ベストも豪華。
中央の女性の手の動き、または目配せで、左に座るいかさま師がカードを腰の帯から引き抜こうとしています。
中野京子氏の著書『怖い絵』にも、
彼はまた、いかにもさりげなく右肘をテーブルに乗せている。疲れたのでちょっとだらしないポーズを取ったと言いたげな風情だが、その実、膨らんだ袖と肩から垂らした長いモールで自分の持ち金を隠し、相手に数えられないようにしているのだ。
中野京子(著). 『怖い絵』.角川文庫. p.14.
と、男性の袖に関する記述があります。
また、この男性、若いように見えて結構年を取っている?
当時の流行にならってこの悪党も髪をくるりと外巻きにカールし、若ぶったヘアスタイルをしているが、額の皺を見る限り、見かけより年を食っているに相違ない。
中野京子(著). 『怖い絵』.角川文庫. p.14.
うん、年食ってますよね。
そして勝負の勝ちを確信しているような若者の表情。
引用元:『ダイヤのエースを持ついかさま師』 Ferdine75
彼の前にはそれまでに獲得した金が。
引用元:『いかさま師』貨幣
カモられようとしている若者の衣装についても、このような記述があります。
凡庸さをカバーするかのように、若者は美々しく着飾っている。といっても、誰もが身分家柄にふさわしい衣服を身につけることが求められていた時代なので、彼が必要以上に派手にしているというわけでもない。高位貴族か、大商人の息子ならごくふつうの、だが庶民からすれば贅を凝らした装いである。鮮やかなオレンジ色に染めた大きな羽根付き帽、金糸銀糸で刺繍模様をほどこしたサテン地のベスト、赤いクラバットと肩袖の飾りは艶のある絹製だし、たっぷりした白地の袖のカフス部分は手の込んだ金糸銀糸で華麗に縫い取りされている。
中野京子(著). 『怖い絵』. 角川文庫. p.17.
この場から浮いて見えるほど、きらびやかな衣服の若者です。
『怖い絵』では、この時代に使われていたトランプのカードにも言及されています。
中央の女性が手にしているカードの裏は、白地。
ここに爪で傷をつけたり故意に汚れをつけるなどしていかさまの目印に使う、というわけですね。
引用元:『いかさま師』(ダイヤのエース)
『今をどう生きるか 古典絵画の読み解き方』によれば、このラ・トゥールの作品は貴族や画商向けに生まれたそうですが、
この絵が描かれた当時、パリではギャンブルが流行し、公営の賭博場が40件以上も設置されていたという。絵画の舞台となったのは、そうした賭博場か、どこかのサロンか ―。大人の世界へ仲間入りしようと着飾って背伸びした少年が、盛り場でカモにされているといったところだろう。誰しもが「この少年は大丈夫だろうか?」と心配になるはずだ。
トキオ・ナレッジ(編). 2019. 『今をどう生きるか 古典絵画の読み解き方』. GB. p.26.
カラヴァッジォ他多くの画家がカードをすり替える「いかさま師」または「カード詐欺師」本人を描く中、ラ・トゥールは、
“すり替える人物”に指示を与える黒幕を登場させた。怪しい視線で目配せし、不自然な指使いで男に合図を送る中央の女こそが、いかさまの親玉だ。この女の存在が、作品の提示する物語性に深みを与え、いかさま師を描いた過去の絵画にはなかったスリルを生み出している。
トキオ・ナレッジ(編). 2019. 『今をどう生きるか 古典絵画の読み解き方』. GB. p.28.
実行犯に指示を出す黒幕の存在。
黒幕と実行犯の、ふたりの関係性も個人的に気になりますね…。
中野京子氏のベストセラー。もしお読みでなければ、一般教養として目を通されることをおすすめ致します。
『クラブのエースを持ったいかさま師』( The Cheat with the Ace of Clubs ) 1630年-1640年頃 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール キンベル美術館蔵
キンベル美術館:The Cheat with the Ace of Clubs, c. 1630-34
同じ構図で描かれた、いかさま師、女性勝負師、そしてカモ君。
カモ君が着ている手触りの良さそうな布地に目を奪われてしまいます。
飯塚信雄氏の『ファッション史探検』(新潮選書)の「袖」の項を読んでも、15世紀、袖というのはドレス本体とは独立した衣服だったことがわかります。
本書によると、袖とは、「紐やボタン、ピンなどにより、一時的にとりつけられ、簡単にとりかえのきくもの」であり、イングランド女王のエリザベス1世への正月の献上品の目録にも入っていたそうです。(1589年、女王への献上品のひとつが「黒絹で刺したケイムブリック地の袖一対」)。
薄手で上等なリネン地。
どんだけ豪華で高価なんだか、見当もつきません。
それらは、ポイントやボタン、リボン、それに、ピンで(ドレス)本体のボディスにとめられたが、ポイントというのは、とめ金具のついたレースの紐のことである。
飯塚信雄(著). 『ファッション史探検』. 新潮選書.
「袖」の世界って、奥深いですね。
ところで、『モチーフで読む美術史 2』(ちくま文庫)にはこの二枚の絵について、このような記述もあります。
カモの青年の持つ札にも違いがあり、平泉千枝氏によれば、キンベル美術館の作品のほうでは、青年がこれから大逆転するチャンスも示されているという。
宮下規久朗(著). 『モチーフで読む美術史 2』. ちくま文庫. p.200
ギャンブルの世界もまた奥が深い…。
- 飯塚信雄(著). 『ファッション史探検』. 新潮選書.
- キアーラ・ブルゴーニ(著). 高橋友子(訳). 『ヨーロッパ中世ものづくし メガネから羅針盤まで』. 岩波書店.
- 中野京子(著). 『怖い絵』.角川文庫.
- トキオ・ナレッジ(編). 2019. 『今をどう生きるか 古典絵画の読み解き方』. GB.
- 宮下規久朗(著). 『モチーフで読む美術史 2』. ちくま文庫.
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