『吸血鬼カーミラ』の中の飲み物 チョコレート

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平井呈一氏の格調高い翻訳が堪能できる、レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』(創元推理文庫)。 ある令嬢の、19歳の時に起きた出来事を回想する手記形式の物語ですが、その中に登場する飲み物チョコレートの話です。

D・H・フリストンによる挿絵 1872年
D・H・フリストンによる挿絵 1872年
目次

小説『吸血鬼カーミラ』で飲まれるもの

幼い頃、ひとり眠る寝室に現れた美しい女性。

女性はその場から消えてしまいますが、主人公の心に不安の影を落とします。

D・H・フリストンによる挿絵 1872年
D・H・フリストンによる挿絵 1872年

引用元:D・H・フリストンによる挿絵

D・H・フリストンによる挿絵(ベッドの中のヒロイン) 1872年
D・H・フリストンによる挿絵(ベッドの中のヒロイン) 1872年

引用元:D・H・フリストンによる挿絵

成長した主人公は、女性とうり二つの美少女カーミラと出会います。

まるで恋情のような友情を示すカーミラに、次第に魅入られて行く主人公。

同じ頃近隣の村では異変が起こります。

そして不可解な行動をとるカーミラ…。

彼女の正体は「吸血鬼」でした。

吸血鬼が特定の人たちに、しだいに激しく取り付いていくのは、恋情によく似ております。いったんこうと思いさだめた目当てのものには、たとえどんな邪魔が起ころうと、じつに執念ぶかい忍耐と計略をもって追いかけてまいるのです。思いを果たすまで、舌なめずりして、自分が求める犠牲者の命を吸いとってしまうまでは、けっして止めません。そのくせ、そういうばあいには、大牢の美味をいやが上にもおいしくするために、殺人のたのしみをなるべく先へのばして、巧妙な口説きの手でそろりそろりと近づきながら、よけいたのしみを大きくするのでございます。そういう時には、へんに同情とか同意みたいなものを求めるふうをいたします。

レ・ファニュ(著).平井呈一(訳).『吸血鬼カーミラ』.創元推理文庫.

 …こわい。

始終血しぶきが飛ぶとか、ゾンビ集団に追いかけ回されるのではありませんが、じわじわ来ます。 

主人公は、スチリア(第一次欧州戦争以前にあった、オーストリアの州)の城にイギリス人の父親と住んでいます。

物語中、何度かお茶やコーヒー、チョコレートを飲む場面が出てきます。

カーミラもチョコレートを口にしていました。

屋敷の中でのティータイムについて、令嬢はこう述べています。

気づまりするほど物々しい部屋ではなく、お国ぶりの懐かしさにいつもここでみんなしてお茶をいただくのです。
父はイギリスの飲みものは、本来はコーヒーかチョコレートを出すのがほんとうだといつも申しておりました。

レ・ファニュ(著).平井呈一(訳).『吸血鬼カーミラ』.創元推理文庫.

イギリスといえば紅茶、と単純に思ってしまいましたが、主人公の父上の、「本来はコーヒーかチョコレートを出すのがほんとう」とは( ゚Д゚)

何度読んでも飽きない耽美な怖さ。何よりこの和訳が好きです。お読みでないならぜひ。現代のホラーとは比べ物にならない格調の高さ、美学があると思います。

「イギリスといえば紅茶」では?

チャールズ2世妃キャサリン・オブ・ブラガンザ 1664年頃 ピーター・レリー ロイヤル・コレクション蔵
チャールズ2世妃キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638年-1705年) 1664年頃 ピーター・レリー ロイヤル・コレクション蔵

引用元:チャールズ2世妃キャサリン・オブ・ブラガンザ

1662年に英国王チャールズ2世と結婚したポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが、英国の宮廷に喫茶の習慣を根付かせました。

チャールズ2世、「その当時最高の治療」を受ける。

有名なエピソード過ぎて、既にこの時点で「イギリスといえば紅茶」の印象です。

イギリスに紅茶が入ってきたのとほぼ同じ頃、コーヒーとチョコレートも「舶来飲料」として入って来ました。

「健康に良い飲み物」チョコレート

チョコレートは、いわゆる「新世界」からヨーロッパにもち込まれました。

最初、その位置づけは嗜好品ではなく薬。

そこに富の象徴でもあった砂糖を入れて飲みやすくし、スペイン、イタリアに拡がります。

フランスには17世紀にスペインから嫁いだふたりの王女たちがココアを携えて来たことから、宮廷に広まりました。

17世紀前半スペイン宮廷のチョコラーテ

フランスでは一般に受け入れられるのに時間がかかりましたが、

イングランドでは少なくとも一時は、富裕層はコーヒーよりチョコレートを好んだ。その理由のいくぶんかは、おそらくチョコレートの方が高価だったからである。

レイ・タナヒル(著). 栗山節子(訳). 2008-11-25. 『美食のギャラリー』. 八坂書房. pp. 177-178.

かつてイギリスの富裕層は好んでチョコレートを飲んでいたとのこと。

主人公の父上の「本来はコーヒーかチョコレートを出すのがほんとう」は、この家族が本物の富裕層、上流階級に属しているから出る言葉なのですね。

18世紀英国でのチョコレート

イギリスにチョコレートが入って来たのは17世紀。

ロンドンの「チョコレート・ハウス」で飲み物として売り出されました。

一七〇二年、ロンドンにはコーヒー・ハウスが一説では三〇〇〇店もあったといわれるのに、チョコレート・ハウスは僅か五件しかなかった。おまけにチョコレートは一杯二ペンスで、コーヒーやティの値段のちょうど二倍もした。文芸評論家アディソンは、流行を追う当代の御婦人方は毎朝ベッドでチョコレートを飲んでいる、とのべていたが、中産階級以下の人びとのあいだには、値段が高いこともあって拡がらなかった。 

角山栄(著). 2008-11-25.『茶の世界史-緑茶の文化と紅茶の世界』. 中公新書. p.71.

引用されているアディソン氏の言葉に、「流行を追う当代の御婦人方は毎朝ベッドでチョコレートを飲んでいる」とありました。

18世紀の上流階級の貴婦人たちは、イギリスでもフランスでも同様だったのでしょう。

では、そんな貴婦人生活の朝の一コマをご紹介します。

上流階級の御婦人はベッドの中でチョコレートを飲む

『朝のチョコレート』( La cioccolata del mattino ) 1775年-1780年 ピエトロ・ロンギ カ・レッツォーニコ

『朝のチョコレート』( La cioccolata del mattino ) 1775年-1780年 ピエトロ・ロンギ カ・レッツォーニコ
『朝のチョコレート』 1775年-1780年 ピエトロ・ロンギ カ・レッツォーニコ

引用元:『朝のチョコレート』

風俗画を多く描いたイタリアの画家、ピエトロ・ロンギ( Pietro Longhi, 1701年11月5日頃-1785年5月8日)の絵です。

毎晩社交で遅い奥様。朝は滋養のあるホット・チョコレートをいただきます。

赤い上着の男性の前には軽食(?)も置かれているようですね。

『朝のチョコレート』( La cioccolata del mattino ) 1775年-1780年 ピエトロ・ロンギ カ・レッツォーニコ
『朝のチョコレート』 カ・レッツォーニコ

引用元:『朝のチョコレート』

18世紀のフランス上流社会では、貴婦人はご機嫌伺いにやってくる恋人や取り巻きをベッドでお出迎えしていたのです。

ホットチョコレートを飲むために招待されることは名誉なこととされていました。この会はたいてい午前十時ごろに開かれていましたが、なんと招いた主人はベッドにはいったままだったのです!

クロエ ドゥートレ・ルーセル(著).宮本 清夏・ボーモント 愛子・松浦 有里(訳).2009.『チョコレート・バイブル 人生を変える「一枚」を求めて』.青志社.

きっと、寝間着もいつもファッショナブル。

翌朝即お客様をお迎えできる素敵なものを着て寝ていたのでしょうかね。

チョコレート、英国の人気飲料から脱落

「舶来飲料」茶・コーヒー・チョコレートの中で、最初に人気飲料から脱落したのがチョコレートでした。

値段が高価であることに加えて、1727年、ジャマイカをはじめ西インド諸島をハリケーンが襲い、イギリス領のココアが全滅します。

その結果、チョコレートが脱落。コーヒー、茶が 残る一因となりました。

「イギリス=紅茶」が定着するまでに、思っていた以上に様々な変遷があったようです。

主な参考文献
  • 角山栄(著). 2008-11-25.『茶の世界史-緑茶の文化と紅茶の世界』. 中公新書.
  • レ・ファニュ(著).平井呈一(訳).『吸血鬼カーミラ』.創元推理文庫.
  • 角山 榮 ・川北 稔 (編).1982.『路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史』.平凡社.
  • クロエ ドゥートレ・ルーセル(著).宮本 清夏・ボーモント 愛子・松浦 有里(訳).2009.『チョコレート・バイブル 人生を変える「一枚」を求めて』.青志社.
  • レイ・タナヒル(著). 栗山節子(訳). 2008-11-25. 『美食のギャラリー』. 八坂書房.
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