薔薇を手にして笑みを浮かべるイングランド王。
16世紀初めに描かれたこの肖像画は、現代でいうお見合い写真のようなものでした。
これは誰に向けて描かれたものなのでしょうか。
そして、彼が着けている首飾りにはどのような意味があったのでしょう。

ヘンリー7世(1457年1月28日-1509年4月21日)の肖像画

引用元:ヘンリー7世
この絵を描いた人物について、中野京子氏の『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』(光文社新書907)では「伝ミケル・シトウ画」となっています。
ミケル・シトウ(Michel Sittow)はエストニア生まれの画家で、カスティーリャ女王イサベル1世やハプスブルク家などの宮廷画家として、スペイン、ネーデルラントで活躍しました。
高橋裕子氏は著書『イギリス美術』の中で、上の『ヘンリー7世』の肖像画を挙げ、このように書かれています。
こちらはエストニア生まれでフランドルで修業したミヒール・シットウの作とされていたが、所蔵美術館の最近の刊行物では、単に「ネーデルラントの画家」作となっている(16,7世紀のイギリスの肖像画の本格的研究はまだ緒に就いたばかりとは言え、作品の作者判定もモデル判定もしばしば変化するので油断がならない)。
(『イギリス美術』 高橋裕子(書) 岩波新書 P30)
ミケル・シトウが描いた肖像画
以下は、ミケル・シトウの作品とされているものです。

引用元:フェルナンド2世

フェルナンド2世は最初の妻・カスティーリャ女王イザベル1世と共に「カトリック両王」と呼ばれた人物です。
「狂女王」フアナとキャサリン・オブ・アラゴンの父親で、神聖ローマ皇帝カール5世とフェルディナンド1世の祖父でもあります。
また、息子・フアンの妻となったマルグリット・ドートリッシュにとっては、義父に当たります。

引用元:デンマーク王クリスチャン2世
クリスチャン2世は、「狂女王」フアナの娘であるイサベル・デ・アウストリアの夫です。
フェルナンド2世から見れば孫娘の夫。
そしてホルバインの肖像画のモデルとなった、「デンマークのクリスティーナ」の父親です。
ヘンリー7世の宮廷の「台所事情」
彼は一市民のように、出納簿を綿密につけた、『カルタで王の負け、9ポンド。…テニスの球の紛失、3シリング。…小唄作曲の褒美として道化役に…』。
しかしこれとて正確な計算書ではあっても、守銭奴のそれではない。彼の宮廷の豪奢、彼の宝石の美しさ、金襴の裏をつけた紫の天鵞絨の服、それらはミラノとスペインとの使節を驚かした。事の真相は、このチュードル家最初の王が金銭を愛したのは、いまや封建社会が崩壊して、金銭が力の新しい表徴となったが故と思われる。16世紀にあっては、もし王が貧乏であれば、貴族及び議会に屈する弱い王とならざるをえなかった。
(『英国史〔上〕』 アンドレ・モロワ(著) 新潮文庫 P277)
(※チュードルとはテューダー、天鵞絨はビロードです)
薔薇戦争(1455年~1485年)に勝利した「彼」ヘンリー7世は、薔薇戦争後のイングランドの経済を安定させ、息子に莫大な財産を遺しました。
ヘンリー7世の「見合い肖像画」は誰に向けて描かれたのか?
どう見ても「タダモノではない」感が漂うヘンリー7世。
この微笑みの意味は…と勘ぐってしまいます。
いいひとそうに見せているけど、確実に腹に一物持っていそう、と。
そんなふうに(私に)思わせてしまうヘンリー7世、いったい誰に送るために「お見合い肖像画」など描かせたのでしょうか。
この絵は、当時、最初の妻エリザベスに死別していた48歳のヘンリー7世が、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの娘に求婚するための「見合い肖像画」として、1505年に制作されたものであるが、皇帝父娘もこの容貌に信用ならぬものを感じたのか、縁談はまとまらなかった。
(『イギリス美術』 P30)
その皇帝父娘がこちらです。

引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世

引用元:マルグリット・ドートリッシュ
肖像画でヘンリー7世が着けている首飾りの意味
画中のヘンリーは立派な首飾りを着けていますね。
画中のヘンリーは、深緋色のベルベットに金糸を織り込んだ正衣を纏い、その下襟は白い毛皮で縁取りされており、ガーター勲章を授与されたブルゴーニュ公からの答礼の品、金羊毛勲章が襟元を飾っていた。頭にはいつものごとく黒いフェルト帽を被り、白いものの混じる黒髪は肩まで届いていた。また、長い闘病生活のため頬はこけていたが、固く結ばれた口元とよく締まった顎からは、意思の強さが窺えた。
(『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 トマス・ペン(著) 陶山昇平(訳) 彩流社 P228)
金羊毛勲章はこちらです。

引用元:金羊毛勲章(頸飾)
間に羊が吊るされています。
1430年に、ブルゴーニュのフィリップ善良公(ル・ボン)は自身の結婚に際し、イングランドのガーター騎士団に倣って金羊毛騎士団を作りました。
このフィリップ善良公の孫娘が、マリー・ド・ブルゴーニュです。

引用元:マリー・ド・ブルゴーニュ
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、フィリップ美公とマルグリット・ドートリッシュの母となりました。
夫と子供たちに囲まれた幸せな結婚生活でしたが、落馬事故が元で亡くなります。
マリーの息子・フィリップ美公の頸飾もご覧くださいませ。立派な金羊毛勲章を着けています。

引用元:フィリップ美公
ヘンリーと神聖ローマ皇帝マクシミリアンとの仲は今ひとつでしたが、マクシミリアンの息子であるブルゴーニュ公フィリップ美公はヘンリーに金羊毛勲章を贈った人物です。
お見合い相手・マルグリット・ドートリッシュ
ヘンリー7世のお見合い肖像画が描かれた1505年、マルグリット・ドートリッシュは25歳でした。
マルグリットは2回結婚し、2回とも夫と死別しています。
最初の夫であるフアンはカトリック両王の長男でした。
フアンの姉妹に「狂女王」フアナ、カタリナ(英語名キャサリン・オブ・アラゴン)がいます。
マルグリットとフアンは仲睦まじい夫婦でしたが、フアンは急死。
マルグリットは懐妊していましたが子どもは死産でした。
二人目の夫サヴォイ公フィリベルトとの間にも子どもはなく、フィリベルトの死後、マルグリットは帰国しました。
マルグリット・ドートリッシュの肖像画
1505年の夏、ブルゴーニュ大使がイングランドを訪れました。
大使がキャサリン・オブ・アラゴンを表敬訪問した際、「王のご覧に入れるためマルグリット・ドートリッシュの肖像画を持参している」と話すと、キャサリンはぜひ見てみたいと言います。
直接面識は無くとも、キャサリンから見ればマルグリットは「兄の妻」であり、「姉のフアナの夫フィリップの実妹」です。
覆いを外して絵を観たキャサリンは、(なかなかの絵ではあるけれど、)ミケル・シトウであれば、もっと巧く描くだろうに、という感想を持ったようです。(参考:『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 彩流社)
これが本当にキャサリンの漏らした感想だとしたら、ミケル・シトウの肖像画が当時からいかに高く評価されていたかと思います。
キャサリン・オブ・アラゴンにも求婚?
キャサリン・オブ・アラゴンはヘンリー7世の嫡男・アーサーと結婚するため、スペインから嫁いできました。
しかし、1502年にアーサーが病死し、キャサリンは10代半ばで未亡人となってしまいます。
通常なら花嫁は持参金と共に帰国するところなのですが、ヘンリー7世はキャサリンを帰国させませんでした。
キャサリンの持参金の返却を惜しんだためもあるのか、とにかく、スペインとの縁を切りたくないヘンリーは、妻エリザベス亡き後、自らキャサリンの夫に名乗りを挙げます。
しかしこれについてはスペイン側が態度を硬化させたため、断念せざるを得ませんでした。
後に、キャサリンは彼の次男であるヘンリーと結婚します。
このヘンリーが、次代のイングランド王ヘンリー8世です。
娘の縁談も同時進行
ヘンリー7世のもうけた男子のなかで生き残ったのは次男のヘンリーただ一人でした。
チューダー朝の安泰のためにも、もう一人男子が欲しい。
ハプスブルク家とも縁を保っておきたい。
彼はマルグリットとの縁談を真剣に考えていたようです。
同時に、ヘンリー7世は、自分の次女メアリー王女と、フィリップ美公の遺児カール(フランス名シャルル)との縁談も進めていました。
…ヘンリーはメアリー王女と、ブルゴーニュ大公夫妻の世継ぎシャルルとの縁組交渉を再開していたのである。さらに、フィリップ大公の妹で、サヴォイ公に先立たれたばかりの裕福なマルグリット(マルグリット・ドートリッシュ)と自身の縁談も並行して進めていた。ヘンリーの金満ぶりに目が眩んだ大公と皇帝は、この縁談に前のめりになっていたが、肝心のマルグリットはあまり乗り気でなかったようである。
(『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 P228)

引用元:メアリー・テューダー

結局、メアリーとシャルル(カール)の縁談は実現しませんでした。
メアリーはフランスのルイ12世と政略結婚しますが3ヶ月程で死別し、元恋人と再婚します。
このメアリーの孫が、後のレディ・ジェーン・グレイ。
イングランド初の女王で、「9日間女王」と呼ばれた女性です。
ヘンリーがこの首飾りをつけた肖像画を描かせた理由
イングランドにはガーター騎士団の頸飾(けいしょく)が存在します。
それにもかかわらず、なぜヘンリー7世はこの首飾りをつけた肖像画を描かせたのでしょうか。
もし彼が、単にイングランド国王の立場として、マルガレーテに肖像画を贈っていたならば、彼の首に着けられたのは金羊毛騎士団の頸飾(けいしょく)ではなく、自らが主催者を務める、イングランド最高位のガーター騎士団の頸飾であったはずなのだ。
(中略)
本来なら、イングランド国王であるヘンリは、この騎士団の頸飾を着けて肖像画を描かせるのが筋であろう。ところが、あえて金羊毛騎士団の頸飾を目立つように着けて、しかもイングランドの画家にではなく、ネーデルラントの画家に描かせたということは、「自分はあなた方(ハプスブルク家)の同盟者なんですよ」とのメッセージに他ならない。さらにこの栄誉を与えてくれたのは、マルガレーテの実の兄なのである。その兄フィリップの妻は、皇太子ヘンリの妻に予定されていたキャサリンの実の姉にあたる。
(『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』 君塚直隆(著) 光文社新書482 P34)
彼のこのメッセージは伝わらなかったのか、マルグリット(マルガレーテ)は肖像画を返却してきました。
過去の「お見合い肖像画」は、肖像画を送った相手の国の美術館にあることが多いです。
しかし、イングランド国王ヘンリー7世の肖像画をロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで観ることが出来ます。
それはこの絵がヘンリー7世の元(イングランド)に戻ってきたからなのですね。
ヘンリー7世の妻・エリザベス・オブ・ヨーク(1466年2月11日-1503年2月11日)

引用元:エリザベス・オブ・ヨーク
ヨーク朝のイングランド王エドワード4世の王女であり、ヘンリー7世妃エリザベス・オブ・ヨーク。
エリザベスが手に持っているのはヨーク朝の白いバラです。
一方、ランカスター朝の流れを汲むヘンリー7世は、肖像画では赤いバラを持っています。
薔薇戦争(1455年~1485年)を終結させテューダー朝を開いたヘンリーは、ヨーク家のエリザベスを妻に迎えました。
政略結婚ではありましたが、その結婚生活の中でふたりは愛し合っていたといいます。
長男アーサーの突然の死の知らせに、
訃報に接したヘンリーは、真っ先にエリザベス王妃に使者を出し、自室に呼び出した。「心からの悲しみ」の淵にあるヘンリーと対面したエリザベスは、夫を慰めようと努めた。王妃の示した態度は夫の悲しみを癒やし、また理性的でさえあった。彼女は夫に向かって、自分たちには「頼もしく、器量に優れた」王子と美しい二人の王女がいることを忘れてはいけないと語りかけたのである。さらに、王には妻たる自分がおり、「私たちはまだ十分若く」これから子に恵まれることもあると告げたのだった。落ち着きを取り戻したヘンリーは妻に感謝の言葉をかけた。そして、王妃は侍女たちを随えて自室に戻ると、その場で泣き崩れたのだった。それから先ほどの光景が再現された。今回はヘンリーが「時宜を得た早さで」エリザベスの許を訪ねて慰めの言葉をかけたのである。これは「真の優しさと誠実さに支えられた愛情」から出たものだった。そして、ヘンリーは先ほど妻から受けたばかりの助言を、今度は彼女に与えたのだった。
(『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 P95)
エリザベスはその後実際に妊娠します。
しかし、彼女自身の誕生日の2月11日、37歳で産褥死します。
産み落とされ、キャサリンと名付けられた女の子も程なく息を引き取りました。
ヘンリーはその後リッチモンドへ向かい、宮殿内の自室で泣き崩れました。
ヘンリーとエリザベスの結婚は、実利的な観点から行われたものではあったが、波乱に満ちた18年間をよく耐え抜き、実りあるものとなっていた。互いに惹かれ合い、愛情と敬意に満ちた「真の愛情」によるこの結婚から、ヘンリーは大きな力を得ていたようである。実際、二人の次男ヘンリー王子が理想とし、終生追い求めることになるのは、両親の結婚生活の残影だったといえる。
(『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 P95)
エリザベスの死はアーサーの未亡人・キャサリン・オブ・アラゴンにとっても大きな悲しみをもたらしました。
スペイン語習得に努めるなど、義理の娘となったキャサリンを気遣ってくれたエリザベス。
才色兼備、穏やかな人柄で、誰からも好かれていた女性でした。
テューダー朝を託すべき長男を失くし、最愛の伴侶を失ったヘンリー。
彼は生涯この喪失感から立ち直ることはできなかった、と『冬の王』では語られています。
これ以降彼は次男のヘンリーを次期国王と決め、神聖ローマ皇帝マクシミリアンに数年に渡り総額34万ポンドの金銀・宝石などを贈り、若きヘンリーの後ろ盾になってくれるように働きかけるのです。
そして、テューダーの血は、ヘンリー8世の娘のエリザベス1世に受け継がれて行くのでした。
- 『イギリス美術』 高橋裕子(書) 岩波新書 P30
- 『名画で読み解く イギリス王家 12の物語』 中野京子(著) 光文社新書907
- 『英国史〔上〕』 アンドレ・モロワ(著) 新潮文庫
- 『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』 君塚直隆(著) 光文社新書482
- 『冬の王 ヘンリー7世と黎明のテューダー王朝』 トマス・ペン(著) 陶山昇平(訳) 彩流社
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