19世紀イタリアの画家フランチェスコ・アイエツの『水浴のスザンナ』と『オダリスク』。アイエツに影響を与えたドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』も掲載しました。
『水浴のスザンナ』( Susanna at her Bath )
引用元:『水浴のスザンナ』
引用元:『水浴のスザンナ』
フランチェスコ・アイエツ( Francesco Hayez, 1791年2月10日-1882年2月11日)
引用元:『88歳の時の自画像』
19世紀イタリアの画家、フランチェスコ・アイエツ。
アイエツはロマン主義の画家で、代表作に『水浴のスザンナ』『接吻』『瞑想』があります。
引用元:『接吻』
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イタリア統一運動の時代とフランチェスコ・アイエツの『接吻』『瞑想』
カヴール首相の肖像もアイエツが描いています
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『水浴のスザンナ』の絵にはだいたい彼女に言い寄る「老人たち」がいる
「ダニエル書」のなかで、スザンナというヘブライ人の人妻が水浴を終えたところに、2人の好色な長老たちがやってきます。
そして関係を迫り、「もし拒否すれば、お前が庭で青年と密会していたと告発するぞ」と言って彼女を脅しました。
スザンナはこれを拒絶。
彼女は逮捕され、あわや死罪に…というところを、ダニエルという青年によって救われます。
老人たちの卑劣な嘘が暴かれ、最後は「美徳」が勝つ、という物語です。
絵に描かれるときは大抵「好色爺さん」と一緒になっていることが多いのですが、アイエツの絵にはこの爺さんたちがいません。
水浴場面でも暗がりに潜む爺さんがいることがあり、いないと単なる美しいヌード、裸婦像に見えてしまいます。
『スザンナと長老たち』 1610年頃 アルテミジア・ジェンティレスキ
引用元:『スザンナと長老たち』
『スザンナと長老たち』 1650年頃 グエルチーノ
引用元:『スザンナと長老たち』
『スザンナと長老たち』 1607年 ピーテル・パウル・ルーベンス
引用元:『スザンナと長老たち』
『スザンナと長老たち』 1655年 ヘリット・ファン・ホントホルスト
引用元:『スザンナと長老たち』 Sailko CC-BY-3.0
女性画家アルテミジア・ジェンティレスキのスザンナは嫌悪に顔をしかめ、グエルチーノの絵ではスザンナは手をあげて老人たちの言葉を「拒絶」。
色ボケ老人たちはどれも醜く描かれています。
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『水浴のスザンナ』 1839年 テオドール・シャセリオー
引用元:『水浴のスザンナ』
こちらは19世紀の画家シャセリオーによる『水浴のスザンナ』。
神々しい裸体に目を奪われて、老人たちが一瞬何処にいるか判らないほどです。
テオドール・シャセリオーはドミニク・アングルの愛弟子ですが、同時代のドラクロワからも強い影響を受けています。
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アイエツ、1810年代のローマでドミニク・アングルに会う
ヴェネツィア生まれのアイエツは、1810年から1814年にかけてローマで修行中でした。
同じ頃、フランスの新古典主義の画家ドミニク・アングルもローマに留学していました。
アングルは、1801年、『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であるローマ賞を受賞。
その後数年を経て、ローマへ留学します。
アングルと出逢ったアイエツは彼から大きな影響を受けることになりました。
画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル( Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780年8月29日-1867年1月14日)
引用元:『24歳の自画像』
歴史画で知られるダヴィッドに師事していたアングルは1806年にイタリアを訪れ、ルネサンスの巨匠たちの作品に触れます。
アングルは1820年までローマに、その後フィレンツェに移り1824年まで活動し、ラファエロやミケランジェロなどを研究しました。
イタリアに着いたとき、彼は
「私はだまされていた。最初から勉強しなおさないと」
といったそうです。
本物のラファエロを目にした彼は、アカデミックな美学の基準よりも、自分の目で見たものを信じ、手本にしようとします。(参考:『鑑賞のための西洋美術入門』)
1789年にフランス革命が起き、それまでの貴族に代わって市民階級が力を持ちました。
アングルの師匠であるダヴィッドは、皇帝ナポレオンの姿を描いています。
『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 1805年-1807年 ジャック=ルイ・ダヴィッド
引用元:『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』
『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』 1801年 ドミニク・アングル
引用元:『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』
ルネサンスの巨匠ラファエロ『システィーナの聖母』とアングルの『ルイ13世の誓願』
引用元:『システィーナの聖母』
引用元:『ルイ13世の誓願』
アングルは1824年、長らく子供を授からなかったルイ13世が聖母マリアに誓いを立て、そしてついに待望の男児、後のルイ14世を授かる、という場面を表す絵『ルイ13世の誓願』をサロンに出品します。
大成功を収めたアングルは、ロマン派に対抗する新古典主義の「指導者」として迎えられました。
新古典主義とは
18世紀前半イタリアで古代ローマの遺跡が発掘され、古代ブームが起きます。
古代ブームの中で生まれた芸術様式「新古典主義」は、古代芸術の模倣を通じて、美の理想を達成しようというものでした。
アングルのライバル・ドラクロワの『キオス島の虐殺』
アングルが『ルイ13世の誓願』を出品したのと同じ年、ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワが『キオス島の虐殺』を完成させ、サロンに出品します。
引用元:『キオス島の虐殺』
ドラクロワの特徴はダイナミックなタッチとルーベンスやヴェネツィア派、イギリスの風景画家から学んだ強烈な色彩です。これはデッサンを基礎とする構図に色を重ねる新古典主義の厳密な描き方とは対照的なものです。
『鑑賞のための西洋美術入門』. 視覚デザイン研究所. p.114.
色彩を追求するロマン派のドラクロワと、デッサンを重視するアングル。
アングルは、色彩よりデッサンを重視し、安定した構図を好んだ点では新古典主義と共通していました。しかし、オリエンタルな主題を好んだ点ではロマン主義に近い性質も持っていたのです。
『鑑賞のための西洋美術入門』. 視覚デザイン研究所. p.107.
西欧諸国がアフリカ大陸やアジアに侵出した19世紀。
オリエンタルな主題を好んだ画家たちの多くが「オダリスク」と呼ばれる女性像を描いています。
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『グランド・オダリスク』(『横たわるオダリスク』 Grande Odalisque ) 1814年 ドミニク・アングル
『グランド・オダリスク』は、留学中のアングルがフランスに送った絵です。
オダリスクとは、オスマン帝国の皇帝に仕える後宮(ハーレム)の女性のこと。
まず、この美しいなだらかな曲線、そして肌のリアルな質感に目が行きますね。
次に、妙な違和感が…。
発表した当時、この絵は「デッサンが狂っている」と酷評されました。
解剖学的に不正確、つまり「脊椎が3つ多い」のです。
腕も長い。
また、実際にこのようなポーズを取るのは困難です。
しかし、アングルは、
正確な描写よりも、自身の美意識を優先し、女性の身体の丸みを強調するために、モデルの背中を実際よりも長く描いていたのだった。
高階秀爾(著). 『誰も知らない「名画の見方」』. 小学館101ビジュアル文庫. p.122.
アングルは新古典主義の規範に縛られるのではなく、自分の信じる理想の美を追求したのです。
アイエツがアングルと出逢った頃、アングルはこの『グランド・オダリスク』を製作中でした。
『誘う絵』で挙げられたアイエツの『水浴のスザンナ』(1850年)について、著者・平松洋氏は、
本作も全く同じく、背中を向けて座り、振り向いて鑑賞者と目を合わせています。つまりアイエツは、後宮(ハレム)に仕える愛妾のポーズをスザンナに転用していたわけで、多分、当初から誘惑者としてのスザンナを描こうとしていたのかもしれません。
平松洋(著). 2019-1-15. 『誘う絵』. ビジュアルだいわ文庫. p.226.
と仰っていますが、『スザンナ』の眼差しは紛れもなく誘惑者のものに見えます。
アングルの影響を受けた画家はたくさんいますが、アイエツもそのひとりでした。
アイエツの『オダリスク』
引用元:『横たわるオダリスク』
引用元:『本を読むオダリスク』
引用元:『オダリスク』
私の目には情感たっぷりのオダリスク。
オスマン帝国の後宮の女性っぽさはあまり感じられませんが。
その他のオダリスク
引用元:『褐色のオダリスク』
周囲の小物だけがオリエンタルな雰囲気をかもし出す、18世紀の画家ブーシェのオダリスク。
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引用元:『奴隷のいるオダリスク』
引用元:『オダリスク』
引用元:『ハーレムの浴場』
オリエンタリズムの画家ジェロームによる、ハーレムの情景。
肌、布、タイルの質感が超リアル。
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