今回は前編です。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘で、ネーデルラント17州総督を務めたマルグリット・ドートリッシュの前半生をご一緒に見て参りましょう。

マルグリット・ドートリッシュ( Marguerite d’Autriche, 1480年1月10日-1530年12月1日)

引用元:マルグリット・ドートリッシュ
1480年、マルグリットはブリュッセルで生まれました。
父はハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。
母はブルゴーニュ女公マリー(マリー・ド・ブルゴーニュ)です。
父・神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( Maximilian I, Holy Roman Emperor )

引用元:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
母・マリー・ド・ブルゴーニュ( Marie de Bourgogne )

1477年にマリーの父フィリップ突進公が戦死し、好機とばかりにフランスがブルゴーニュ公国を狙い、手を伸ばして来ます。
フランス国王ルイ11世は自分の息子(後のシャルル8世)とマリーを結婚させようとしますが、マリーは拒否。
マリーはマクシミリアンに救援を頼み、マクシミリアンもこれに応えます。
政略結婚ではありましたが、仲睦まじいふたりの間にはフィリップとマルグリットの子どもが生まれました。
兄・フィリップ美公( Philippe le Beau )

豊かなブルゴーニュ公国で、仲の良い両親の間に生まれたマルグリット。
しかし、1482年、妊娠中の母マリーが落馬事故が元で亡くなってしまいます。
領民から愛されたマリーがいなくなってしまえば、公国でのマクシミリアンの立ち場はオーストリア出身の「外国人」です 。
ブルゴーニュ公国の貴族、富裕な商人たちはマクシミリアンを追い出してしまいました。
彼らは4歳のフィリップを君主に祭り上げ、2歳のマルグリットを人質として手元に置くことにします。
ガンやブリュージュやブリュッセルの市民からみれば、マクシミリアンは「われらがお姫さまの婿」でしかなかった。ブルゴーニュ公家の血脈は「お姫さま亡き後もフィリップさまに受け継がれている」というのが彼らの独善的な論理だった。とすれば他国者のマクシミリアンなど、もう必要ないではないか。
普通であれば嗣子フィリップが成長して丁年の一五歳に達するまで、父が後見の役割を果たすのが筋である。ところがフランドルのなかでも反抗的なガンの市民たちは、それさえ拒絶した。フィリップの身柄を護衛し、少年を錦の御旗としておし立てて、マクシミリアンを排斥しようとした。こうした動きはガンやブリュージュなどの急進的な都市から、次第に公国全体へと燎原の火のように拡がっていった。
注目すべきは、このような活動の多くが、フランス王の指金で行われていたことである。「蜘蛛」とあだ名されるルイ十一世は執拗に反ハプスブルクの手をゆるめず、隣家の火事につけこんであの手この手でマクシミリアンに攻勢をかかけた。ここぞとばかりにネーデルラントを内乱状態にもちこませるとともに、まだ年端もゆかない公女マルガレーテをフランスに拉致するようにして連れてきて、息子シャルルと婚約させた。
江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社. p.52.
※マルガレーテはマルグリットのドイツ語読みです。
※ガンという地名が出てきますが、 現在のベルギーの都市「ヘント」(Gent)です。
フランス語由来の言い方では「ガン」(Gand)、英語由来では「ゲント」(Ghent)、ドイツ語由来では「ゲント」(Gent)です。
義祖母・マーガレット・オブ・ヨーク( Margaret of York )

引用元:マーガレット・オブ・ヨーク
マーガレット・オブ・ヨークはイングランド王国ヨーク家の出身で、国王エドワード4世の妹です。
シャルル突進公(無鉄砲公)と結婚し、マリー・ド・ブルゴーニュの継母としてマリーを愛情込めて養育しました。
母を亡くした幼いフィリップとマルグリットも、彼らの扱いが決まるまでの間マーガレットがメヘレンの宮廷で養育します。
マルグリット(Marguerite)の名はこのマーガレット(Margaret )にちなんで付けられました。
(略)マーガレットは、島国英国の偏狭な政治的内紛を超えたヨーロッパの地政学に決して少ないとは言えない関与をなした。マーガレットのフランドルでの権威が確立されていたことは、シャルルの死後、彼女をゲントから追い出そうとするフランスに対してゲント市が強固に反対したという点からも判断できる。無鉄砲公シャルルに嫁いだ妻マーガレットは、ブルゴーニュ公妃として、国民国家と帝国の境界を横断し英国の諸党派およびハンザ同盟といった多種多様な政治領域・区分にまたがるポリティカル・エコノミーに関与していた。夫シャルルとは異なるやり方で、ブルゴーニュ公妃マーガレットはフランス王ルイ11世の強要しようとする縁組から継娘マリーを守り、神聖ローマ帝国内に領土を有するハプスブルク家を低地諸国に招じ入れるべく骨を折った。実際、1479年にゲントの人々はフランスの支配に反逆し、自分たちはマリーとマクシミリアンおよび彼らの2人の子どもマルグリットとフィリップ端麗公を支持すると宣言するのだが、フランスのフランドル侵攻を阻止するのにマーガレットは一役買っているのだ。
大谷伴子(著). 『マーガレット・オブ・ヨークの「世紀の結婚」 英国史劇とブルゴーニュ公国』. 春風社, p.90.
マリー・ド・ブルゴーニュの死によってマクシミリアンの立ち場は一変してしまいましたが、マーガレットは幼い子どもたちに何度も、遠く離れた所にいる、勇敢なマクシミリアンのことを話して聞かせます。
そのために、とりわけ小さなマルガレーテは、父のことを極めつきの英雄として心に刻みつけて、一生の間、英雄といえば父のことと思い続けた。なにしろ彼女は、子供のころ、めったに父に会わなかったにもかかわらず、彼には特に深い愛情を抱いていた。彼女は読み書きができるようになると、幼いながらの筆跡で長い手紙を書き、自分の小世界で起こった出来事をもれなく報告した。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.38.
ちなみに、彼女の姪は後にヘンリー7世妃となるエリザベス・オブ・ヨークです。
エリザベスもシャルル8世と一時婚約していたことがあったようです。

引用元:エリザベス・オブ・ヨーク
ルイ11世によるマルグリットの「拉致」
ルイ11世( Louis XI )

引用元:ルイ11世
ブルゴーニュ公国の隣国であるフランスの国王ルイ11世、あだ名は「蜘蛛」です。
前王シャルル7世は、実の息子であるルイによる毒殺を恐れて食を絶ち、最後は餓死同然に亡くなっています。
(関連記事:15世紀の寵姫アニェス・ソレルのファッション(ジャン・フーケの『ムランの聖母子』)
かつてマリー・ド・ブルゴーニュを息子の嫁にと考えていたルイ11世は、マリーの遺児・マルグリットをフランスへ連れて行き、フランスの宮廷で教育しようとします。
その時、マルグリットの婚資として国境のアルトワその他の領地を割譲させ、フランス王と結びたいブルゴーニュ公国の有力者たちは喜んでこれに賛同します。
ルイは幼児を「拉致」した上に、領土までフランスに持って行ったのですね。
突然最愛の妻を失い、呆然としていたマクシミリアン1世には為す術がありませんでした。
この後マクシミリアン1世が巻き返すまでにもう少し時間を要します。
最終的にブルゴーニュ公国は分裂。
ハプスブルク家は、今日のベネルクス三国に相当するネーデルラントを確保します。
マルグリットの未来の夫・シャルル8世( Charles VIII )

引用元:シャルル8世

引用元:シャルル8世 コンデ美術館蔵
ルイ11世の息子・シャルルは「幼い頃から病弱で、器量の劣った子ども」だったそうです。
シャルル8世の立ち場からこの結婚を見れば、自分の妻になる筈だった女性(マリー)から生まれた娘(マルグリット)を自分の嫁にする図。
親の言うまま、自分の意見など政略結婚には関係ありません。
シャルルの姉アンヌ・ド・ボージュー( Anne de Beaujeu )

引用元:アンヌ・ド・ボージュー
ルイ11世の娘のひとり・ブルボン公ピエール2世妃アンヌです。
父譲りの切れ者で、1483年にルイ11世が亡くなると、王位に就いた弟のシャルル8世がまだ若かったため、夫とともに1491年まで摂政を務めました。
1483年4月、3歳のマルグリットは、その当時王宮のあったアンボワーズに連れて来られ、シャルル(シャルル8世。当時13歳)と婚約の儀式に臨みます。
故国からついて来た従者は、乳母一人を除いて全て追い返されました。

引用元:アンボワーズ城 Quality Images by Martin Falbisoner CC-BY-SA-3.0

引用元:ロワール川に建つアンボワーズ城 Владимир Шеляпин CC-Zero
マルグリットはシャルルの姉であるアンヌ・ド・ボージューによって育てられ、未来のフランス王妃になるために教育されます。
1483年7月22日、マルグリットとシャルルは結婚の儀式を挙げました。
周囲の人々は、愛らしいマルグリットが成長して、本当のお妃となるのを楽しみにしていました。 虚弱体質の王家に、丈夫で健康的なマルグリットの血が入るのです。
マルグリットは利発で、父・マクシミリアンに似て明るい性格の持ち主でした。
詩を覚えて暗唱しては人々を楽しませ、常に冷静な態度のアンヌ・ド・ボージュ―にも臆することなく接し、冗談を交えて楽しく話をするため、アンヌも思わず笑ってしまうほどだったそうです。
やがて、マルグリットは、アンヌが花盛りの国内をあちらこちらへ遠乗りする時のお供を許されるようになります。
親子ほども年令のかけ離れた、性質の異なる二人の女性が、神や世界について話をした。アンヌは彼女にフランスとネーデルラントの歴史を、まるで童話でも話すように物語った。子供は熱心に耳を傾けた。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.47.
マリー・ド・ブルゴーニュの美貌を受け継いだ兄のフィリップは「美公」と呼ばれますが、マルグリットは父方の祖母で、ポルトガル王女だったエレオノーレに似てふっくらした愛らしい少女だったそうです。

マクシミリアン1世の明るい性格は母エレオノーレ譲りだったと言います。
マルグリットの性格もこの女性から来ているのかもしれませんね。
(関連記事:神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇后エレオノーレの衣裳)
ルイーズ・ド・サヴォワ( Louise de Savoie )との出会い
マルグリットはフランス語やそれ以外の言葉も習い、日々勉強に励みます。
貴族たちは自分の息子や娘をアンボワーズ城に送り、立派な紳士淑女に教育しようとしました。
貴族の子女が学ぶ宮廷で、マルグリットは、弟のフィリベール(フィリベルト)と共に来ていたルイーズという少女と友だちになります。
ルイーズとフィリベールは、シャルル(シャルル8世)とアンヌのいとこでした。

引用元:ルイーズ・ド・サヴォワ

引用元:フィリベルト2世
ルイ11世の妃はシャルロット・ド・サヴォワといい、サヴォワ家の出身でした。
王妃はルイーズとフィリベールの叔母に当たります。
マルグリットは父のマクシミリアンと祖母マーガレットに宛てて、よく手紙を書きました。
内容は、フランスでの生活や故郷へ帰りたいという想いを綴ったものだったそうです。
マクシミリアンはそこでの日常生活の過ごし方について知り、それが信じがたいほど贅を極めたものであることを知った。少女は父に報告している。以前は薄暗かったお城の冷たい壁が、とても高価なタピストリーで覆われ、ベンチや椅子にはやわらかいクッションが取りつけられたこと、ワインは磨きあげられたヴェネチアングラスに注がれること、贅をこらした銀の器がテーブルや食器棚を飾っていること。珍しい小鳥類が金色の鳥篭に飼われていて、子どもたちを楽しませていること。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.48.
しつけと秩序を重視したアンヌ・ド・ボージューは、少女たちに「貞潔」の大切さを教え込みます。
実際の貴族たちは貞潔とは真逆の生活でした。
アンヌは誘惑から若い娘たちを遠ざけるため、黒い服を着せていました。
マルグリットは未来のフランス王妃になることが決まっていましたが、少年たちからはとても人気があったそうです。
夫となるシャルルとはほとんど顔を合わせていませんでしたが。
父マクシミリアン1世の「再婚」
父の婚約者アンヌ・ド・ブルターニュ( Anne de Bretagne )

引用元:アンヌ・ド・ブルターニュ
1490年12月、マクシミリアンはブルターニュ女公であるアンヌ・ド・ ブルターニュと「結婚」します。
戦略上実に魅力的な領地を持つブルターニュ公を継承したアンヌは、当時14歳でした。
勿論フランスを東西から挟撃するための政略結婚ですが、トルコとの戦いですぐに迎えに行くことが出来なかったマクシミリアンは代理を立て、アンヌと代理結婚したのです。
しかし、この結婚を知ったフランス側が行動に出ます。
ブルターニュとフランスは地続きですから、この地をハプスブルク家に取られてしまうと、ネーデルラント、オーストリア、スペインから挟まれる格好になり、国家の一大事だからです。

引用元:ブルターニュ GwenofGwened CC-BY-SA-4.0

引用元:フランスの地図
その頃、対フランスのブルターニュの同盟国であるスペインでは、カトリック両王はグラナダ包囲戦の最中(アンヌにとってアラゴン王フェルナンド2世は大叔父に当たります)、「夫」のマクシミリアン1世はまだ東方で戦争中。
シャルル8世は軍を構成し、首都レンヌに向かいます。
アンヌ・ド・ブルターニュとシャルル8世の結婚
イングランドとカスティーリャの援軍はフランス軍に敗北し、レンヌはフランス軍によって包囲されてしまいました。
アンヌはマクシミリアンに手紙を書き、彼の援軍を最後まで期待して待ち続けます。
しかしついに望みは絶たれ、アンヌはフランス軍に降伏します。
シャルル8世は許婚だったマルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄し、直ちにアンヌ・ド・ブルターニュと結婚しました。
1491年12月6日、アンヌ14歳、シャルル21歳でした。

引用元:ランジェ城でのシャルル8世との結婚 _ Tango7174 _ CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0
マルグリット、婚約を破棄される
城の外で起きていることなど何も知らず、アンボワーズ城で過ごしていたマルグリット。
シャルルとアンヌ・ド・ブルターニュが結婚した、というニュースを、一体どんな思いで聞いたのでしょう。
本当の床入りはまだでしたが、マルグリットは王妃になるためにフランスに連れて来られ、彼女の周囲の人々もそれを望んでいたのです。
シャルルとアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚はアンヌ・ド・ボージューの考えだったと言われていますが、マルグリットはシャルルに非があると思っていたようです。
婚約破棄の知らせを聞いて女官の腕で泣いたマルグリットは、ふたりの結婚式から2週間後、アンボワーズ城でシャルル8世とアンヌ・ド・ブルターニュに対面します。アンヌは足が不自由でした。
シャルル8世(21歳)は目に涙を浮かべて、かつての「妻」マルグリット(11歳)に別れを告げます。
思うにまかせぬ結婚をしたけれど、いつまでも貴女を愛している、と。
新妻アンヌ(14歳)はアンヌで、どう思っていたのでしょうか。
「夫」であった筈のマクシミリアンは、自分を助けに来られませんでした。
今、自分の目の前にいる少女はかつての「夫」の実の娘で、新しく夫となった男の元「妻」です。
健康そうで、宮廷の皆に好かれているマルグリット。
自分はといえば、無理矢理武力で奪われた身。
ここで全てを失うよりは、いっそフランス王妃となる方がまだマシだと、アンヌは覚悟を決めたのかもしれません。
アンヌはシャルルに、マルグリットを故郷へ追い返すように強く要求しました。
マルグリットも父に宛てて、「ネーデルラントへ帰れるように取り計らって欲しい」と書き送ります。
しかし、フランス側はこの価値ある人質をすぐに返そうとはしませんでした。
マクシミリアンは娘を取り戻すべく、イングランドのヘンリー7世やスペインのカトリック両王、ドイツ諸侯に支援を要請しますが、もし戦争となれば莫大なカネが掛かります。
同情はされても具体的な手助けは得られませんでした。
マルグリットはアンヌ・ド・ボージューが黒幕だとわかっても、アンヌとの親しい関係を続けていました。
摂政の役目を終えたアンヌの住む城に滞在して楽しく過ごしていましたが、ある時、シャルル8世ができるだけ早く自分をフランスのある貴族と結婚させようとしていることを知ります。
マルグリットは父に帰郷を懇願する手紙を送ります。
1493年、サンリスの和約がマクシミリアン1世とシャルル8世の間に結ばれ、ようやくマルグリットはフランスを離れることになりました。
シャルル8世が涙を浮かべているのを見て、マルグリットは旧友として彼と別れます。
マルグリットの帰郷
故郷では民衆が喜んで出迎えてくれ、マルグリットは懐かしい兄と再会します。
帰郷の前に、マルグリットは故郷の言葉であるフラマン語を学び直していました。
父のマクシミリアンは、彼の父である神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が危篤だったためリンツにいて不在でしたが、マルグリットはマーガレット・オブ・ヨークの宮廷で過ごしました。
やがてマクシミリアンも、1494年に再婚した妻・ビアンカ・マリア・スフォルツァを伴ってやってきます。
ネーデルラントは毎日が祝宴続き、お祭り騒ぎでした。
しばらくして、マルグリットに新たな縁談がやって来ます。
お相手は、スペイン王子、アストゥリアス公フアン (フアン・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ、1478年6月28日-1497年10月4日)。
カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の長男です。
スペイン王子フアンとの結婚
フアン・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ( Juan de Aragón y Castilla )

引用元:アストゥリアス公フアン
「カトリック両王」カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド

引用元:カスティーリャ女王イサベル1世

引用元:アラゴン王フェルナンド2世
フアンの両親、カスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世です。
教皇アレクサンデル6世によって「カトリック両王」の称号を授けられました。
夫妻の娘たちのうち長女のイサベルと三女マリアはポルトガルに、末娘カタリナはイングランドに嫁ぎます。
次女のフアナは、1496年10月20日にマルグリットの兄・フィリップ美公と結婚します。
マルグリットはフアナの兄・フアンと結婚。
フランスを挟む格好となる、ネーデルラントとスペインの二重結婚でした。
ネーデルラントとスペインは相互相続契約を結びます。
もし一方の家が断絶した場合、その領地は片方の家のものになるというものでした。
(関連記事:19世紀の歴史画に描かれたカスティーリャ「狂女王」フアナ)
(関連記事:狂女王フアナの子供たち、と孫娘『デンマークのクリスティーナ』)

引用元:フアナ
途中、嵐に遭いながら、フアナはフランドルの地に上陸します。
フアナは恐ろしい航海で生きた心地もなしにフランドルの岸辺にたどり着いたが、そこでマルガレーテからスペイン語で話しかけられた時には、義妹を抱き締めたい思いだったことであろう。これで垣根が取り払われた。言葉を介して、性格をまったく異にする二人の女性は親しくなり、親愛感はいつまでも失われることがなかった。暗い内向的な娘は、楽しげで活力のあふれたマルガレーテに魅せられた。フィリップとの結婚後も、このような親しい関係は続いた。マルガレーテははるかなスペインへ旅立つ日まで、兄の宮廷に住んでいたからである。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.59.
代理結婚も終わり、マルグリットは兄の見送りを受け、フアナを乗せてきた船に乗り込みます。
スペインへ向かう船は来た時と同様に嵐に襲われましたが、彼女は勇敢でした。
高価な装身具を取りまとめて布にくるみ、これをしっかりと腕に巻き付け、その布に大きな字で自分の名を書きました。
もし溺死し、遺体が岸辺に漂着してもそれが誰なのか判るようにです。
それとは別に、自分のための墓碑銘も書きました。
ここに死して横たわれるは、二度も結婚しながら
処女たるを失わなかった王女マルガレーテである。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.61.
この様子を見た船乗りたちは「この嵐に平気とは、たいしたものだ」と驚いたそうです。
マルグリットたちは無事にスペインに到着しました。
そこには花嫁の到着を待ち切れなかったフェルナンドとフアンが馬で迎えに来ていました。
フェルナンドは嫁のマルグリットを気に入り、それは姑となるイサベルも同じでした。
病弱な王子フアンに健康的でしっかりした妻をと望んでいたイサベルは、マルグリットを実の娘のように可愛がります。
スペインはアラゴン王国とカスティリア王国が、フェルナンドとイサベラの結婚によって国家として統一されてから、まだ日が浅かった。その国家の次代を担うのがフアンであり、マルガレーテは彼の妃として重要な役割を果たすべく期待されていた。王も女王も、まだ十七歳の花嫁と対面してみて、明るく利発そうな様子にことのほか喜び、すっかり彼女が気に入った。押し出しの立派なフェルナンド王と、おおらかなイサベラ女王に優しく声をかけられて、緊張していた異国の花嫁の心もなごんだ。
江村洋(著). 『ハプスブルク家の女たち』. 講談社現代新書. p.57.
フアンはすっかりこの花嫁に夢中になり、片時も側を離れようとしませんでした。
1497年4月3日、ふたりはブルゴスの大聖堂で結婚します。
マルグリットは父に宛てて手紙を書いています。
「私の夫は雅やかで、とても愛情のこまやかな方なので、私はすぐに不安など少しも感じなくなりました。ここ数日のうちに私は、とても不思議なことを経験しました。今では「ミンネ」(愛情)という言葉にどのようないとしい思いが込められているか、理解できるようになりました。でも私には、このことをどのように言い表したらよいのか分かりませんから、これ以上は何も書きません。ここに書いたことを思うと涙があふれてきますから。でも私は悲しくて泣いているのではありません。」
江村洋(著). 『ハプスブルク家の女たち』. 講談社現代新書. p.63.
もの静かだったフアンがマルグリットに出会って生き生きしてきたことは喜ばしいのですが、宮廷医はイサベルにこのように進言します。
「女王様、宮廷医として、ひとこと申し上げねばなりません。王子の健康をお考えになるのなら、今、フアン王子をマルガレーテ王女から、しばしの間、お離しになるのがよろしいかと、存じ上げます」
王子の健康は、王女とともに過ごせない程、弱っていたのです。が、イサベル女王は譲りませんでした。
「神が結びつけたものを、人の力で離すことは、できないのです」
西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ』. 彩流社. p.70.
間もなくマルグリットは懐妊し、宮廷の喜びは絶頂に達します。
聡明なイサベルは、フアンの関心がマルグリットにしかないことに不安を感じていました。
そこで、フアンとマルグリットに、将来の任務の準備としてポルトガルへ旅をさせてみることにしました。
ところが、ポルトガルに赴く途中のサラマンカで、フアンの健康状態が悪化します。
高熱が出て痙攣する彼に、医師たちは瀉血を施します。
患者の血液中に在る「病気の元」を体外に出せば治る、という考えに基づく「医療行為」なのですが、著しく体力が落ちている患者にそれを行っては、その患者の命を縮めることになります。
マルグリットとの結婚から半年後、1497年10月4日、フアンは19歳という若さで亡くなってしまいました。
当時、王子は新妻に持てる全ての精力を傾けて愛し過ぎたせいで亡くなったのだと言われたようですが、実際には結核だったようです。

引用元:フアンの墓の像
息子の死に呆然とするイサベルとフェルナンド。
しかし、まだ希望は残っています。マルグリットのお腹にはフアンの子どもがいるのです。
ふたりは嫁の身体を今まで以上に気遣い、世話をしました。
それからの数週間、マルガレーテはそれ以前にもましてイサベラへの親愛感を深めた。重要な事があれば、かならず彼女に付き従った。そしてこの精力旺盛な女性がいかに偉大な政治能力に恵まれているかを、よく認識した。イサベラは悲嘆にくれながらも、彼女に仕える従者たちのごく些細な事柄でも世話を怠ることがなかった。彼女は自分の存在が必要と思われる所には必ずいたし、誰にも援助と助言を惜しまなかった。マルガレーテはすでにアンヌ・ド・フランスの女丈夫ぶりを目にしてきたが、イサベラのことはすばらしい女性であり、君主であるとして賛嘆の念を禁じえなかった。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.64.
死産
分娩の日が近付いたある日、マルグリットは突然の激痛に見舞われます。
2週間後、マルグリットは男の子を死産しました。
カスティーリャの王位継承権は、ポルトガルのマヌエル1世に嫁いだ長女・イサベルに移ります。

イサベルは、1498年、男児ミゲル・ダ・パスを産んだその日に産褥死し、王位継承権は生後間もないミゲルに移ります。
そのミゲルも1500年7月に亡くなり、カトリック両王の次女であるフアナに王位継承権が回って来ます。
夫妻はフアナを次期女王として呼び戻すことにしました。
イサベルとフェルナンドは優しく、マルグリットが望めばスペインの宮廷に留まることもできました。
宮廷の人々も、マルグリットがイサベルの次の女王になることを期待していたようです。
ある日マルグリットの元へ父と兄の使者がやって来ます。
ネーデルラントへの帰郷を勧められ、マルグリットは故郷に帰ることを決意しました。
別れの日が来たとき、マルガレーテは彼女のまわりに殺到する群衆に出発を妨げられることのないように、夜まで待たなくてはならなかった。彼女を見送ろうと皆がやってきた。旅行く道々は凱旋行進のようだった。ある年代記作者はこう書いている。
彼女は大変な人気があったから、夜が来るのを待って、オリーブの樹々の影を伝ってやっと小都市や館にたどりつかざるをえないといったことがしばしばだった。民衆は彼女の輿のまわりに殺到し、イサベラには一言の挨拶もせずに、彼女に向かって「我々が女王に戴きたいのはマルガレーテ様ばかり」と叫んだ。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.65.
甥カール誕生
マルグリットは陸路でネーデルラントへ戻ります。
それにはフランスの国内を通過しなければならないため、折衝には時間がかかりました。
途中のパリで、彼女は嬉しい知らせを聞きます。
兄の妃のフアナが2人目の子どもを妊娠し、その代母役に自分が選ばれたというのです。
マルグリットは急いでガン(ヘント)に向かいます。
当時、兄夫婦はその地に居住していて、ふたりの間には1498年に生まれたレオノールがいました。

引用元:レオノール・デ・アウストリア
1500年2月24日、フアナは男の子を出産します。
後のブルゴーニュ公、神聖ローマ皇帝、スペイン王となるカール(フランス名はシャルル)です。
カール(シャルル)の名は、フィリップ美公の母であるマリー・ド・ブルゴーニュの父、シャルル突進公から取られました。

引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
マルグリットの再婚
1500年。未亡人とは言え、マルグリットはまだ20歳。
父マクシミリアンは娘の結婚相手を探していました。
ナポリ王は結婚適齢期ではない。
イングランド王ヘンリー7世の跡取り息子アーサーは、カトリック両王の末娘カタリナ(英語名はキャサリン。キャサリン・オブ・アラゴンのこと)と婚約中。
スコットランド王は貧し過ぎる。
ハンガリー王には妻がいる。
ポーランド王は「取るに足らない」。
特に、
フランス王ルイ十二世などは問題外だった。マクシミリアンは彼のことを、妻を離縁したがっている、ひどいならず者と見なしていた。マクシミリアンは、マルガレーテの早産はルイが毒を盛ったせいと信じていた。
ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林. p.67.
フランス王シャルル8世は1498年に亡くなっており、当時はルイ12世の治世でした。
ルイ12世の妃はルイ11世の娘・ジャンヌ・ド・フランスです。
ルイ11世の命令で結婚したのですが、ルイ12世はジャンヌと離婚したいと考えていたのです。
マルグリットの夫としてなかなかちょうど良い男性がいませんでしたが、1499年、ある男性の妻が若くして急逝します。
その男性とは美貌で名高く、武芸に秀でた、シャルル8世の従弟。
マルグリットと同じ年に生まれた、サヴォイア公フィリベルト2世でした。

アンヌ・ド・ボージューの宮廷で一緒だった男の子のひとりで、友人のルイーズの弟です。
マルグリットは1501年12月2日、このフィリベルト2世と再婚し、サヴォイア公妃となります。
後編へ続きます。

アンヌ・ド・ブルターニュのその後
シャルル8世の治世の終わり頃、王妃となったアンヌ・ド・ブルターニュはアンボワーズ城に住んでいました。
1498年4月7日、 シャルルが鴨居に頭をぶつけ、事故死します。
シャルルのそばについて休息も食事も取らなかったアンヌでしたが、王の死で、ブルターニュ公国の全権を回復しました。
次のフランス王となったのは、オルレアン公だったルイ12世でした。
ヴァロワ朝第8代の王・ルイ12世( Louis XII )

引用元:ルイ12世
ルイ12世はルイ11世の命令でルイ11世の娘・ジャンヌ・ド・フランスと結婚していましたが、ブルターニュ領を手に入れるべく、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込み、ジャンヌと離婚します。

引用元:ジャンヌ・ド・フランス

引用元:アレクサンデル6世
ローマ教皇アレクサンデル6世(ロドリゴ・ボルジア)は、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドに「カトリック両王」の称号を授けた人物でもあります。
アレクサンデル6世の庶子に、チェーザレ・ボルジアとルクレツイアがいます。
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実はアンヌとルイ12世は、以前からの知人・友人の間柄でした。
1499年1月、シャルル8世の妃だったアンヌは、新しいフランス国王であるルイ12世とナントで結婚します。
アンヌは22歳、ルイは37歳でした。
前王シャルルとは異なり、ルイは堅実で、魅力的で、輝かしく、洗練されていた。一四八四年から一四八八年にかけて、彼は何度もブルターニュに滞在していたので、ルイとアンヌには共通の思い出があり、苦難の時期の共犯意識もあった。多分、彼は個人的にアンヌを「愛して」いた。外交官としてフランスに来ていたマキァヴェリが、その言葉を『フィレンツェ史』第九巻で記している。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 2017-7-25. 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.26.
アンヌとルイ12世の間に生まれた子どもたちのうち、成人したのは女の子ふたりだけでした。
長女クロード・ド・フランス( Claude de France )

引用元:クロード・ド・フランス
クロード・ド・フランスは母アンヌの死後ブルターニュ女公を継承します。
1515年に親戚のフランソワ(ルイ12世の次のフランス国王フランソワ1世)と結婚し、アンリ2世らの母となります。
ブルターニュ公国がフランスに併合され、フランスの一部となったのは1532年のことでした。

引用元:フランソワ1世
ルイ12世は娘のクロードを気にかけていたようです。
しばしば彼女の生活するブロワを訪れ、
もっと大きくなったとき、彼女は父に連れられて狩猟に行った。大使アンドレア・ダ・ボルゴからマルグリット・ドートリッシュ〔ネーデルラントの女性統治者〕への手紙がそれについて報告している。おそらく鷹狩りだったと思われるが、彼女は従者が跨る馬の後尻に乗せてもらってついて行くことができた。
阿河雄二郎・嶋中博章(編). 2017-7-25. 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂. p.47.
次女ルネ・ド・フランス( Renée of France )

引用元:ルネ・ド・フランス
次女のルネ・ド・フランスは、1528年4月、フェラーラ公エルコレ2世・デステと結婚します。

引用元:フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ
エルコレ2世はアルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの長男、教皇アレクサンデル6世の孫に当たります。
(関連記事:ルクレツィア・ボルジアの結婚記念画『神々の饗宴』)
「サン・バルテルミーの虐殺」でユグノー虐殺の先頭に立ったアンリ・ギーズはエルコレとルネの孫です。
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引用元:ギーズ公アンリ1世
ルイ12世、イングランド王女メアリー・テューダー( MaryTudor )と再婚
アンヌ・ド・ブルターニュは1512年に男子を死産した後、健康状態が悪化します。
1514年1月にアンヌが亡くなると、同じ年の10月、ルイ12世は年の離れた、イングランド王ヘンリー7世の娘・メアリー・テューダー(フランス名はマリー・ダングルテール)を次の妃に迎えました。

王女メアリーには意中の男性がいましたが、政略結婚を受け入れ、ルイ12世に嫁ぎます。
結婚から間もなくルイ12世は亡くなり、メアリーはかつての恋人と再婚しました。
このふたりの孫が、イングランドの9日間女王レディ・ジェーン・グレイです。
(関連記事:ルイ12世妃マリー・ダングルテールの「胎児管理人」)
(関連記事:1553年、9日間女王「レディ・ジェーン・グレイ」(前))
後にヘンリー8世の二番目の妃となるアン・ブーリンは、メアリー王女のフランスへの輿入れに伴い、留学先のマルグリット・ドートリッシュの宮廷から、フランスのクロード王女の宮廷へ移ったと言われています。
(関連記事:アン・ブーリン マルグリット・ドートリッシュの私設学校への留学)
(関連記事:アン・ブーリンはレオナルド・ダ・ヴィンチの姿を見掛けたか?)
参考文献
- 岩崎周一(著).2017.『ハプスブルク帝国』.講談社現代新書.講談社.
- 江村洋(著).1990.『ハプスブルク家』.講談社新書.講談社.
- 大谷伴子(著). 『マーガレット・オブ・ヨークの「世紀の結婚」 英国史劇とブルゴーニュ公国』. 春風社,
- ジクリト=マリア・グレーシング(著). 江村洋(訳). 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』. 東洋書林.
- 江村洋(著). 『ハプスブルク家の女たち』. 講談社現代新書.
- 西川和子(著). 2003-3-3. 『狂女王フアナ』. 彩流社.
- 阿河雄二郎・嶋中博章(編). 2017-7-25. 『フランス王妃列伝 アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』. 昭和堂.
コメント
コメント一覧 (16件)
ハンナさん、初めまして。なかなか骨の有るブログに辿り着いたので、
一言お礼が言いたくてコメントします。
私はいわゆるミーハーで、ハプスブルク家に関する物語が好きな一主婦です。
ハプスブルク家の繁栄はルドルフから始まって、とどの本にも書いて有りますが、まさかマルグリットがここまで深く関わっているなんて、初めて知りました。
カール5世が繁栄を誇っていたのも、マルグリットありきだったのですね。
美術館巡りが大好きなので、こういった歴史を知るのは楽しいです。
他の記事も読んでみますね。宜しくお願いします。
ラッキー様
初めまして。
コメント有難うございました。
とても嬉しく拝読致しました。
「ルドルフから始まって」というところ、大いに共感です!
マルグリット・ドートリッシュという女性の人生はとても興味深いのに、言及している書籍はとても少ないように感じます。
マルグリットも歴史上の女傑のひとりには違いありませんが、彼女の義理の姉妹であるカスティーリャ女王フアナ、フランソワ1世の母后ルイーズと絡み合う運命の不思議には、小説以上の面白さです。
彼女が夫に愛されて一生を全うしていたら、欧州の歴史は変わっていたのではないかと思う程です。
ラッキー様も美術館巡り大好きとのこと、そうですようねえ、楽しいですよねえ!わかります。
このブログを見つけてくださって有難うございます。
ルーヴル美術館収蔵品オンリーのブログもやっておりますので、お暇のある時に覗いていただければ嬉しいです。
またどうぞよろしくお願い致します。
ハンナさん はじめまして。以前、ブルージュにて母のマリアさんの柩とメッヘレンにて銅像を観てからマルグリット・ドートリッシュに興味を持ち、自分自身でもメモを作り、フランス、ベルギー、スペインの地図、彼女を取り巻く人々の肖像画を検索しては楽しんできました。
昨年末ハンナさんのアートブログにてマルグリットさん始め、今迄興味は有りながら近づいてこなかった歴史上のスーパーレディ達について詳しくて知る事が出来て嬉しくてコメントさせて頂きました。お忙しい中、調べた事柄を惜しみも無く公開して頂き有難うございます。未だ全ページ拝読出来てはおりませんが、ゆっくり拝見させて頂きたく思っています。
今後も益々のご活躍を期待しています。
YUSAN様
有難うございました。
コメントとても嬉しく拝読しました。
以前「マルグリット・ドートリッシュ」に興味を持ったとき、彼女について書かれている書籍を探したのですが、なかなか読みたいものに出会えませんでした。
ネットで調べても出典が記されているものが少なく、書籍を探し出すのにとても苦労しました。
私もYUSAN様と同じようにずっとメモやノートを取っていましたが、私が得た書籍情報を公開することで、「マルグリット・ドートリッシュ」の業績に興味を持つひとが増えるとか、「本を読んでみたいけど、どの本を読んだらわからない」と思った方が簡単にたどり着ければいいなと思い、ここまでの分をブログにまとめてみました。
この記事は「狂女王フアナ」「アン・ブーリンの留学」「ヘンリー7世」など他の記事とも密接に関連します。
書籍をご紹介すると共に、今後も「ルイーズ・ド・サヴォワ」や他の人物についてもまとめた記録を掲載して行きたいと思っております。
どうかまたお付き合いいただけますようお願い致します。
有難うございました。
ぴーちゃん (id:gracedusoleil2525)様
こちらでキャッチさせていただきました。コメント有難うございました。
備忘録にお付き合いくださって、嬉しいです。
こちらこそ、有難うございます。
世界史という授業は受けたことがなく、以前はシャルルとかルイ、メアリーというポピュラーな名前に翻弄され、「政治史」には何も興味が持てなかったのですが、家具や衣裳を調べたり、肖像画を観たりするうちに、最近ようやくなんとなーくわかってきました(遅い)。
歴史とは出来事ばかりではなく、人間の「思い」の積み重ねだと思ってみています。
名前や資料が残っている王侯貴族がどうしても中心になりますが、翻弄されても皆必死に生きていた姿が見える気がします。始まりは政略結婚であっても、夫婦として国を守るチームになれたラッキーなひとたちもいた、と思うと、人間の縁て不思議だなあ、面白いなあと思います。
でもこの時代に生まれたいかと訊かれれば、貴族でも庶民でもちょっと…。どちらも大変そうで、私なんかすぐ死んじゃうと思います。
読んで下さって、有難うございました。
改めて、ハンナさん、こんにちは。
いつも、興味深い記事を読ませていただいてありがとうございます。
無理してお読みしているわけではありませんので、ご心配なさらずに。
系図は紙に書く方が、分かりやすいですね。
どうも、ハプスブルグ家は多産のようですから(笑)
私は、ヨーロッパはルネッサンス以降は、スペインのカトリック両王の時代、イギリスのビクトリア女王の時代くらいを時代の区切りとして、その前の時代その後の時代というような感覚で、頭に入っていました。
正しいのかどうかはわかりませんが。
高校だと、政治史は、無味乾燥な政策一辺倒だけど、ハンナさんの記事をお読みするとその中に愛憎の世界も垣間見られて、面白いです。
でも、お姫様でもこの時代には生まれたくないです。
お見合い写真が絵なんて…。
しかも、窮屈そうですし。(笑)
これからも、楽しく拝読させてください。
いつもありがとうございます。
ko-todo (id:ko-todo)様
も~(≧◇≦)お優しいお言葉かたじけない!
お気遣いありがとぉです。
ピントも外れてないぉ。だいじょぶだぁ。
いやね、ko-todo さんの言うことは正しいのだ。
確かに、私のものなので、いいと思うのですよ好きに詰めて。他の方もね。
でもね、ちょっとでも「読まれても構わない」「読んで欲しい」と思って非公開でなく公開で投稿するのであれば、他人様にも読みやすいことを心掛けた方がいいと思うのだ。
まぁ、備忘録なので詰め込みはするけれど(笑)(しかも雪崩の危険があって、命がかかっている)、やっぱり改善できるところくらいはね。せめて、まとめ方とか。
例えば、広告があり過ぎて、なかなか本文までたどり着くのが大変!と思われたら、せっかく有益な記事を書いても、ちゃんと最後まで読んで貰えないこともあるものね。
鴨居も注意だけど、私も153くらいしか無いから、満員電車だと酸素エリアに届かなくてねぇ。目の前リュックとか背広だから。酸欠だよ。小さ過ぎて他人には見えない…ことはないだろうけど、思いがけない事故には巻き込まれるかもしれない。
とにかく健康で長生き。これよ。
いぁいぁ…
私に、そもそもの知識が無さ過ぎて「どちら様でしたっけ?」になっちゃうだけだから^^;
(カタカナが苦手なお年頃ww)
ハンナさんのブログは、備忘録でもあるから…。
ここは、ハンナさんのブログだから…。
好きに書いて良いと思うぉ^^
本の雪崩に巻き込まれない様、いっぱい詰め込まないと…ね。
こちらこそ、ピントのずれたコメントばかりで、かたじけない_(._.)_
うんうん!
鴨居には気をつけるっす!
身長145cmなので、大丈夫だとは思うけれど、事故だか事件だかわからない事に巻き込まれるかもしれんしな…うんうん… … … ん?
ko-todo (id:ko-todo)様
今回も読んでくれて有難ぉです。
しかし、はっ!しまった!やっぱり詰め込み過ぎたか(゚д゚)!すまなかった!
お伝えしたい、というより、自分が覚えておきたいことが多過ぎて暴走したわ(-_-;)
後半出す前に聞けて良かったです。かたじけない!!
はい、とにかく丈夫で長生き。健康第一です。
最後まで生きていた者が勝つんですね。まとめていてしみじみ思いました。善人てだけでは絶対生き残れない。
お互い鴨居に頭をぶつけて死なないように気を付ましょう( ̄▽ ̄)。
鴨居注意!!
えんちゃんぐ (id:ennchang)様
はい、まだ前半です。濃い人生に、つい盛り沢山になってしまい、少々反省しております(/ω\)。
楽しみにしてくださるなんて、嬉しい(≧◇≦)。つい調子に乗ってしまう。
えんちゃんぐさんも体調には気を付けてね。とにかく生き残ったもん勝ちですから。
今回も有難うございました。
id:happy-ok3様
コメントをくださって有難うございます。読んでいただけるだけで有り難いので、スター等どうかお気遣いなくお願い致します💦
政略結婚でも良い相手、仲良くやれる相手に当たったひとたちはラッキーですよね。自分で選ぶ自由すらないなんて。
産褥死、事故死、病死と、あっという間にひとが亡くなります。
とにかく丈夫で長生き。生き残った者が勝ちですね。
有難うございました。
情報が多すぎて何が何だか…
かたじけない_(._.)_
ただ…
王族って、丈夫で用心深くないと生き残れないっぽい…。
血の濃さも有るのだろうけれど…。
そもそもの病弱っていうのも、怪しいと思えば怪しいし…。
女性は、単なる勢力争いの道具だし…。
政略結婚であっても仲睦まじく、幸せかと思いきや…。
用が無くなればお払い箱って…。
なんて世の中だっ!ww
これはまだ前半戦なんですね。
マルグリットの目の回るような慌しい半生に、ただだだ驚くばかりです。
最後は幸せに落ち着いた生活を送れるのでしょうか?
後半も楽しみにしています。
…しかし、凄い情報量。
短期間にまとめ仕上げるのはとても大変ですよね‼️
少し涼しくなり、幾分過ごしやすくなりましたが、季節の変わり目には違いありません。
無理は禁物ですよ(^^)
森下礼 (id:iirei)様
今回もコメント有難うございます。
コロンブスを支援したのが、まさにスペインのイサベル女王ですもんね。1498年、1500年…なんて出てくると、「日本はこの頃なにやってたっけ…ええと、1492イヨクニ燃えるコロンブスだから…」などと思い出しています。
マルグリット、世界史的にそれなりに重要人物だと思うのですが、彼女について書かれた書籍はあんまり多くないように思います。
仕方ないので、別の人物(フアナやヘンリー7世、イサベル女王)についての本から人物像を探っていくのですが、同じ出来事でも、フアナから見るか、マルグリットから見るかでかなり印象が違いますね。この時代、正直な善人だと生き残れない気がします。
とにかく丈夫で長生き。
最後に生き残っていれば勝ちではないかと思います。
読んで下さって有難うございました。
こんにちは。
詳しく有難うございます。
>「政略結婚ではありましたが、仲睦まじいふたり」
いいですね。
日本もですが、昔は、多くの国で、権力や領土争いのため、政略結婚が多かったです。
その人物の肖像画を載せて下さって、詳しい記事が、より鮮明になります。有難うございます。
また、子どもが成人するまで、元気でいるというのも、あたり前ではない時代。
この時代の、この環境にいた女性たちは、今より大人の考えをもっていた人も多いですね。
本当に、詳しく、素敵な記事を有難とうございます。
「閨閥」という言葉がありますが、マルグリットは、そんな他人の意図に翻弄された前半生を送ったのですね。なんだか同情しちゃいます。縁談、結婚がほとんど無に帰す淋しさを味わ尽くしたのでしょうね。さて、後半生は?
それにしても、中世末のヨーロッパの宮廷はあいかわらず「好いた惚れた」と政略がないまぜになっていますね。その状況からいち早く抜け出すのがスペイン、ポルトガル。1492年のコロンブスの新大陸(?)発見から、目と体がヨーロッパから抜け出す・・・フランスも、オーストリアも、ネーデルランドも、出遅れましたね。