画家ヴァン・ダイクの名が付いたレースとヒゲ(ヴァンダイク・ブラウンの項に追記しました)

名画と歴史の中のブリオッシュ

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印象派の画家マネやロココ期の画家シャルダンの作品にも描かれているブリオッシュ。「パンがなければお菓子を食べればいい」という言葉に出てくるお菓子とはブリオッシュのことだと言われています。

『ブリオッシュ』( Brioche ) 1870年 エドゥアール・マネ メトロポリタン美術館蔵
『ブリオッシュ』( Brioche ) 1870年 エドゥアール・マネ メトロポリタン美術館蔵

画像の上でクリックまたはタップすると大きい画像が出ます。また、画像の左下にある「引用元」のリンクをクリックしていただければ、元のファイルをご覧になることができます。「引用元」の表示が無いものは、この記事内に掲載したpublic domain の元ファイルから、解説のために必要な部分を拡大したものです。

目次

マネの絵画のブリオッシュ

『ブリオッシュ』( Brioche ) 1870年 エドゥアール・マネ メトロポリタン美術館蔵

『ブリオッシュ』( Brioche ) 1870年 エドゥアール・マネ メトロポリタン美術館蔵
『ブリオッシュ』 1870年 エドゥアール・マネ メトロポリタン美術館蔵

引用元:『ブリオッシュ』

メトロポリタン美術館の解説はこちらです。

メトロポリタン美術館の解説によると、この作品は18世紀フランスの画家シャルダンの絵に触発されて描かれたもののようです。

目を引く白のナプキン、柔らかそうな桃、ぷるんとしたプラム、磨かれたナイフに赤い箱に囲まれたブリオッシュ。

美味しそうです。

ブリオッシュのトッピングには香りの良い花が飾られています。

『洋梨のあるブリオッシュ』( Brioche with Pears ( Nature morte, brioche, fleurs, poires )) 1876年 エドゥアール・マネ ダラス美術館蔵

『洋梨のあるブリオッシュ』( Brioche with Pears ( Nature morte, brioche, fleurs, poires )) 1876年 エドゥアール・マネ ダラス美術館蔵
『洋梨のあるブリオッシュ』 1876年 エドゥアール・マネ ダラス美術館蔵

引用元:『洋梨のあるブリオッシュ』 Artbook

『牡蠣とレモン、ブリオッシュ』( Nature morte, huîtres, citron, brioche ) 1876年 エドゥアール・マネ Dickinson Gallery, London and New York

『牡蠣とレモン、ブリオッシュ』( Nature morte, huîtres, citron, brioche ) 1876年 エドゥアール・マネ Dickinson Gallery, London and New York
『牡蠣とレモン、ブリオッシュ』 1876年 エドゥアール・マネ Dickinson Gallery, London and New York

引用元:『牡蠣とレモン、ブリオッシュ』

『ブリオッシュのある静物』( Still Life with Brioche (Nature morte à la brioche ) 1880年 エドゥアール・マネ カーネギー美術館蔵

『ブリオッシュのある生物』( Still Life with Brioche (Nature morte à la brioche ) 1880年 エドゥアール・マネ カーネギー美術館蔵
『ブリオッシュのある生物』 1880年 エドゥアール・マネ カーネギー美術館蔵

引用元:『ブリオッシュのある生物』

カーネギー美術館蔵のサイトはこちらです。

エドゥアール・マネ( Édouard Manet, 1832年1月23日-1883年4月30日)

エドゥアール・マネ( Édouard Manet, 1832年1月23日-1883年4月30日) ナダール撮影
エドゥアール・マネ( 1832年1月23日-1883年4月30日) ナダール撮影

引用元:エドゥアール・マネ

パリの裕福な家庭に生まれたマネ。

『草上の昼食』『オランピア』と、物議をかもした作品を生み出します。

『草上の昼食』 1863年 エドゥアール・マネ オルセー美術館蔵
『草上の昼食』 1863年 エドゥアール・マネ オルセー美術館蔵

引用元:『草上の昼食』

マネは毎週火曜と木曜に自宅に友人を招き、夕食会を開いていました。

流行を取り入れた夕食会は大変評判が良く、お茶会も素敵なものだったようです。

 夕食会同様、お茶会も有閑ブルジョワジーのたしなみであった。幼児の頭くらいある大きなブリオッシュにバラの花を挿し、テーブルの中央に置く。さらにブリオッシュを囲むように、サブレやマドレーヌのような茶菓子をびっしりと並べ、これらのスイーツを紅茶やハーブティーなど、さまざまな種類のお茶と一緒に楽しむのが当時のスタイルであった。

山本ゆりこ(著). 2012-11-25. 『芸術家が愛したスイーツ』. ブロンズ社. pp.34-35.

とーっても招かれたい。

『芸術家が愛したスイーツ』では、「花を飾ったブリオッシュ」の写真とレシピが載っています。

表紙は文豪デュマの愛した「サヴォワ風ビスキュイ」。

掲載されている花や建物、食卓の写真がとにかく美しい。

見ているとケーキ店に走りたくなりますし、美術展帰りのカフェでは必ずお茶したくなります。

甘いもの断ち中とかスイーツが苦手な方も、芸術家たちの人生の一端を覗いてみてはいかがでしょうか。

ブリオッシュはパン?お菓子?

現代のブリオッシュ
現代のブリオッシュ

引用元:現代のブリオッシュ Brioche, by Rainer Zenz. CC-BY-SA-3.0-migrated

パンの定義とは?

お菓子の定義って何?

一体どこからがパンで、どこからがお菓子というものなのか。

バターたっぷりのパン生地のブリオッシュが、この境目にあるのだそうです。

『芸術家が愛したスイーツ』にもこのような記述があります。

 ブリオッシュは、主食のバゲットとは違い、水の代わりに牛乳を加え、さらにバターと卵もたっぷりと練り込んだリッチなパンだ。材料が焼き菓子に近いため、フランスではスイーツとして見なされる場合もある。

山本ゆりこ(著). 2012-11-25. 『芸術家が愛したスイーツ』. ブロンズ社. p.35.

ブリオッシュの歴史自体はとても古く、最古の記述は15世紀に遡るとのこと。

1696年の書籍では、「焼き菓子」とされています。

1750年発行の『食物辞典』には、「小麦粉と卵、バターで作られる繊細な菓子」と。

で、ブリオッシュ、使われる生地は同じでも、形は千差万別なのだそうです。

もっとも一般的なのは雪だるまのような形をしたもので、これはブリオシュ・ア・テトと呼ばれる。テトは頭の意味で、頭つきのブリオシュである。頭のないプレーンな形のものも多いし、ガトー・デ・ロワやパン・ベニのようにリング形をしたものもある。

長尾健二(著). 2017-12-22. 『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』. 築地書館. p.173.

シャルダンの作品に描かれたブリオッシュはこの「テト」付きで、「この時代にすでにテトの形があったことがわかる」と『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』にあります(p.174.)

『ブリオッシュ』( La Brioche ) 1763年 ジャン・シメオン・シャルダン ルーヴル美術館蔵

『ブリオッシュ』( La Brioche ) 1763年 ジャン・シメオン・シャルダン ルーヴル美術館蔵
『ブリオッシュ』 1763年 ジャン・シメオン・シャルダン ルーヴル美術館蔵

引用元:『ブリオッシュ』

ルーヴル美術館の解説はこちらです。

磁器や果物の中央に置かれたブリオッシュ。

昔々、初めて見た時にそれを食べものだと思わずに、「花器かな?」と思ったんですよねえ…。

ブリオッシュ生地を使ったお菓子・クグロフ

クグロフ
クグロフ

引用元:クグロフ Vargenau CC-BY-SA-3.0-migrated CC-BY-2.5

クグロフは、通常のパン生地とブリオッシュ生地の中間にあるような生地で作られます。

クグロフは17世紀頃生まれたお菓子で、オーストリア、ポーランド、ドイツなどアルザス地方で食べられていました。

フランス語で Kouglof, ドイツ語で Gugelhupf (グーゲルフプフ / グーゲルフップフ)。

ドイツ語の「Gugelhupf」の「Gugel」(グーゲル)は「僧帽」、「hupf」(フプフ / フップフ)は「ビール酵母」の意味ですが、アルザス地方ではビール酵母でつくられていたそうです。

マリア・テレジア統治時代のウィーンでは、クグロフは「ハレの日」の朝食に出されていました。

大森由紀子氏の『物語のあるフランス菓子 おいしいレシピとエピソード』(NHK出版)にもクグロフ誕生時の話が書かれており、「このエピソードの信憑性は高くない」としながら、クグロフは本来クリスマスに食されるものだと仰っています。

ここでは同じ著者の書籍『フランス菓子図鑑 お菓子の名前と由来』からクグロフ誕生秘話(?)を引用させていただきます。

 このお菓子は、16~17世紀ごろ生まれたといわれているが、その型の存在が明確に認められるのは、18世紀になってからである。そして、クグロフとして現在のものに近い完璧なレシピが見出されるのが、19世紀初頭ということである。とはいえ、お話好きのアルザス人は、クグロフ発祥について、あるひとつの物語を語り継いでいる。それは、昔むかし、リボーヴィレ村に住む陶器職人が、キリストの誕生を祝うため、東方からベツレヘムへ向かう3人の聖人を自分の家に泊めた。すると、聖人たちは、職人が作った珍しい型でお菓子を作ってお礼としたという話である。

大森由紀子(著). 2013-8-1. 「フランス菓子図鑑 お菓子の名前と由来』. 世界文化社. p.93.

確かに信憑性は低そうですが、物語としてはロマンティックですよね。

この職人が「グゲル」という名だったからこの名が付いたという話もあるようです。

ポーランド王だったレシチニスキ(レクチンスキー、レグザンスキーなどとも表記)や、フランス王妃マリー・アントワネットもこのクグロフがお気に入りでした。

ポーランド・リトアニア共和国の国王およびロレーヌ公、スタニスワフ1世レシチニスキ( Stanisław Leszczyński, 1677年-1766年) 1727年-1728年頃 ジャン=バティスト・ヴァン・ロー ヴェルサイユ宮殿
ポーランド・リトアニア共和国の国王およびロレーヌ公、スタニスワフ1世レシチニスキ( Stanisław Leszczyński, 1677年-1766年) 1727年-1728年頃 ジャン=バティスト・ヴァン・ロー ヴェルサイユ宮殿

引用元:スタニスワフ1世レシチニスキ

芸術に親しみ、大変な食通でもあった元ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキ(スタニスラス・レクチンスキー)。

レシチニスキは「マドレーヌ」「ババ」などのお菓子とも大変関係が深い人物です。

ババ
ババ

引用元:ババ Popo le Chien CC-BY-SA-4.0

いやぁ、良い照り具合ですね。

クグロフとは異なり表面がなめらかな円錐形の型でつくります。

19世紀中頃にはババを改良したサバランというお菓子も登場しました。

ババについては、歯が悪かったレシチニスキのために、お抱えのパティシエがクグロフをお酒(マラガ酒)に浸けてやわらかくして提供したのが始まりであるといわれています。

固いナッツ類は入れず、たっぷりのお酒(ラム酒のシロップ)に浸す。

聞いただけでかぶりつきたくなりますね。

「ババ」という名は、レシチニスキの愛読書『千夜一夜物語』に出てくるアリババから取られています。

レシチニスキには娘がいて、彼女はフランス国王ルイ15世の妃になりました。

寵姫であるポンパドゥール侯爵夫人に向いたルイの心を取り戻すため、レシチニスキは素晴らしい料理のレシピを娘マリーに教えています。

王妃マリー・レクザンスカ 1748年 ナティエ ヴェルサイユ宮殿
ルイ15世妃マリー・レクザンスカ( Marie Leszczyńska, 1703年-1768年) 1748年 ナティエ ヴェルサイユ宮殿

引用元:マリー・レクザンスカ

お菓子の由来が楽しいです。お店で買ったケーキをチェックしたくなります。

クグロフやババ、マドレーヌ、美味しそうなケーキやお菓子の美しい「断面図」を掲載。

レシチニスキの話も載っています。

下はドイツのクリスマス・マーケットで購入したクグロフの型、のオーナメント。

100円玉くらいの大きさです。

ドイツのクリスマス市で買ったミニチュアのオーナメント
ドイツのクリスマス市で買ったミニチュアのオーナメント

フランス王妃マリー・アントワネットの発言

ルイ16世妃マリー・アントワネットの好物

『バラを持つマリー・アントワネット』 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ( Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日-1793年10月16日) 1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴェルサイユ宮殿

引用元:マリー・アントワネット

オーストリアから、かつて敵対していたフランスに輿入れしたマリー・アントワネット。

ホームシックになると、お茶の時間にクグロフやキプフェル、ブリオッシュなど故郷で食べていたお菓子を食べていたそうです。

『ハプスブルク家のお菓子 プリンセスたちが愛した極上のレシピ』(新人物文庫)によると、マリー・アントワネットの時代のキプフェルは形は現在のものとほぼ同じでも、バターの含有量は少なかったとのこと。

 クグロフはヴェルサイユの地でも彼女が毎週かかさず食べた一品だったといわれています。父フランツ1世がいたアルザス地方では、クグロフが誕生した当時、ビール酵母で発酵させた生地を使ったといいます。

遠藤雅司(著). 2018-3-29. 『英雄たちの食卓』. 宝島社. p.154.

クグロフはマリー・アントワネットによってフランスに伝えられ、18世紀後半のフランスで大流行した、といわれますが、『英雄たちの食卓』にも既に1700年代前半にフランス料理本に登場しているとの記述があります。

クグロフのレシピも載っています。

見ているとカフェに行くためにウィーンへ飛びたくなります。「ハプスブルク家のキプフェルン」「カイザー・グーゲル・フプフ」のレシピも載っています。

キプフェル

キプフェルン(左は塩付きのもの)
キプフェル(左は塩付きのもの)

引用元:キプフェル Hu Totya CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0

クロワッサンの原型といわれるハンガリーの伝統的なペストリー、キフリ( Kifli, 「ねじり」「三日月」の意味)。ドイツ語ではキプフェル( Kipferl )、キッフェルなどといいます。

「三日月形のパン」というのは古代からありました。

キプフェルの三日月形がイスラム軍の紋章に由来するなど諸説あるようですが、ここでは『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』からキプフェルの起源伝説をご紹介します。

 一六八三年、ウィーンの市街はオスマン・トルコのイスラム軍によって包囲されていた。イスラム軍は精鋭ぞろいで非常に強力だったが、ウィーンの城壁も堅牢強固でなかなか攻略の糸口が摑めない。業を煮やしたイスラム軍はついにある奇襲策を敢行した。城壁の下にトンネルを掘ってそこから一気に攻め込もうというのだ。さっそくトンネル掘りが夜を徹して始まった。一方、ウィーンの市内では誰もそのことに気づかない。しかし、夜中に起きて仕事を始めるパン屋だけは別だった。彼は地下から響いてくる不気味な物音に気づき、それがイスラム軍の奇襲の前触れだということを察知した。すぐにウィーンの政府にそのことを伝えると、ただちに反攻が始まった。こうしてイスラム軍の計略は失敗に帰し、ウィーン軍は街の防衛を果たすことができた。通報したパン屋はイスラム軍打倒の功労者として讃えられ、褒賞として敵方の紋章である三日月の形をしたパンを作ることを認められた。これがキプフェルの始まりである。

長尾健二(著). 2017-12-22. 『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』. 築地書館. p.171.

なかなか面白い話ですよね。

第二次ウィーン包囲という歴史上の事件を期末テストや受験のために覚えるのは何だか味気ないけれど、こうした興味深い起源伝説と絡んで覚えると楽しいのではないでしょうか。

キプフェルとかクロワッサンを見るたび、「オスマン・トルコ」「第二次ウィーン包囲」などの単語が浮かびそうです。

私は「第二次ウィーン包囲」の言葉を目にすると、コーヒーが飲みたくなってお腹が空いてきます。

クロワッサン
クロワッサン

引用元:クロワッサン SKopp CC-BY-SA-3.0

いつしかフランス風にクロワッサンの名で呼ばれるようになったキプフェル。

クロワッサンというとボウルに入ったカフェオレ、フランスの朝食というイメージですが、ミルク入りコーヒーの始まりはウィーンのカフェだったようです。

それもこの「第二次ウィーン包囲」絡みです。

ミルク入りコーヒー

カフェ文化の香り高いウィーン。

今では紅茶やコーヒーは飲みもの、嗜好品ですが、ヨーロッパには最初は薬として入ってきました。

『お菓子でたどるフランス史』によると、1686年にパリで最初のカフェが開かれた時は、まだ砂糖もミルクも入れず、コーヒーはそのまま飲まれていました。

「ミルク入りのコーヒーの飲み方をヨーロッパに伝えた」のは、コルシツキーというポーランド人通訳だったそうです。

ゲオルク・フランツ・コルシツキー(コルシツキーはドイツ語名。イェジ・フランチシェク・クルチツキ( Jerzy Franciszek Kulczycki ))はトルコによる1683年の「第2次ウィーン包囲」の際、カール・フォン・ロートリンゲン大公(ロレーヌ公国のシャルル大公)への密使を買って出ます。

彼はトルコ人の服装に身を固め、トルコ兵士に出会っては適当なトルコ語会話を交わしつつ戦線を潜り抜け、連合軍のカール・フォン・ロートリンゲン大公との連絡に成功する。八月十五日、早朝のことであった。結局、ドイツ・ポーランド連合軍は九月十二日総攻撃を開始し、トルコの軍勢は敗走を余儀なくされるのである。

臼井隆一郎(著).2004-4-25.『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』.中公新書. p.97.

かつてレヴァント商人の通訳をしていたコルシツキーは得意のトルコ語を駆使し、トルコ軍の包囲を突破。

援軍を要請するメッセージを届けることに成功します。

攻め込んできた連合軍によってトルコ軍は逃げ出し、後には膨大な量のコーヒー豆が残されていました。(『お菓子でたどるフランス史』には「500袋のコーヒー」とありました。)

これに目をつけたコルシツキー。功績の報酬としてそれらを貰い受け、ウィーンに最初のカフェを開きます。

 彼は、翌年、そのコーヒーを利用し、聖シュテファン大聖堂わきにウィーン最初のカフェを開きました。そしてコーヒーのおりしてミルクを加え、さらに三日月形のブリオッシュ菓子(クロワッサン)と一緒に食べるというやり方を考案したのです。このカフェオレの飲み方が、ロンドン、パリにも伝わり、そしてやがてミルクばかりか砂糖を入れる甘いコーヒーも広まっていきました。ちなみにブリオッシュというのは、砂糖、バター、卵、そして水か牛乳を混ぜ発酵させた小麦粉の生地で作られる、軽くてふくらんだパン菓子の総称で、さまざまな形のものがあります。

池上俊一(著). 2015-10-5. 『お菓子でたどるフランス史』. 岩波ジュニア新書. p.102.

ところで、このコルシツキーという人物、本当に密使役を務めたのかというと、実際にはよく判らないようです。

同じような仕事をした人は複数いたとも考えられ、その中の一人を象徴的に「英雄」としたのかもしれません。

『食で読むヨーロッパ史』によると、「実際のコルシツキーは1680年から1682年にかけて、通訳あるいはオーストリアのスパイとして、ウィーンとコンスタンティノーブルの間を往復したといわれているだけで、第二次ウィーン包囲の時には何をしていたのかわかっていない」とのこと。

また、ウィーン発のコーヒーハウスやミルク入りコーヒーについては、

 記録に残っているウィーン初のコーヒーハウスは、アルメニア人のヨハネス・ディオダートが、1865年に開設し、営業を開始したものです。オーストリアでのコーヒー売買は、アルメニア人が一手に引きうけていました。

 1697年には、ウィーンで認可を受けたギルドである、コーヒー職人兄弟団が創設され、コーヒーにミルクを加える飲み方が提唱されました。具体的には、お客はコーヒーの色を見ながら、好みの濃さになるようミルクを加えていく飲み方です。ミルク入りコーヒーの始まりです。

遠藤雅司(音食紀行)(著). 2021-8-30. 『食で読むヨーロッパ史2500年』. 山川出版社. p.140.

個人的にコーヒーはブラックもミルク入りも好きなので、誰が発案して提唱しても良いでーす。

美味しい飲み物を有難う!ロマンあふれる起源伝説を有難う!という感じで。

もしかしたら、また新たな学説が発表されるかも。

謎が解き明かされる、その日を楽しみに待ちたいと思います。

マリー・アントワネットの名が付いた紅茶

ピンク色が可愛らしいですよね。ティーバッグだけでなく他にも種類があります。

香りは好き嫌いが分かれるかもしれません。缶は小物入れとしても使えます。

画像をクリックすると Amazon のサイトに飛びます。

NINA’S マリーアントワネットティー

    マリー・アントワネットの父フランツ・シュテファン

    フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)(恐らくマイテンス画)
    神聖ローマ皇帝フランツ1世(フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(1745年9月13日 – 1765年8月18日)) (恐らくマイテンス画)

    引用元:フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン

    マリー・アントワネットの父フランツは、ロレーヌ公家に生まれました。

    マリア・テレジアと結婚するにあたり、フランツは家領であるロレーヌ(ドイツ語ではロートリンゲン)公国をフランスに割譲しなければなりませんでした。

    ふたりの結婚によってハプスブルク家とロレーヌ公家が結び付き、夫妻の間に生まれた子どもたちの名は「ハプスブルク=ロートリンゲン」となっています。

    (例えば、マリー・アントワネットのフルネームはドイツ語で「マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン」、フランス語で「マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ( Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine )」。)

    フランス国王ルイ15世妃の父・スタニスワフ・レシチニスキは1代限りのロレーヌ公としてロレーヌで余生を過ごし、彼の死後ロレーヌはフランス王国に併合されました。

    「パンがなければお菓子を食べればいい」

    重税にあえぐ民衆に怒りの火をつけた、「パンが食べられなければお菓子を食べればいい」という王妃マリー・アントワネットの発言。

    この「お菓子」というのがブリオッシュだったそうです。

    しかし、この言葉をマリー・アントワネットは言っていないといいます。

    マリー・アントワネットは母マリア・テレジアに宛て、1775年7月14日にこのような手紙を書いています。

     出産も婚礼もいっぺんにお祝いするはずなのですが、祝典はごくささやかなものになる予定です。お金を節約するためです。でも一番大切なことは、民びとにたいしてお手本を示すことです。パンの値段が上がってたいそう苦しんでいるからです。でも、うれしいことにまた希望が湧いてきました。麦の育ち具合がとても順調だったものですから、収穫のあとはパンの値下がりが見込まれているのです。

    パウル・クリストフ(編). 藤川芳朗(訳). 2007-2-15. 『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』. 岩波書店. pp.184-185.

    「お金を節約」という言葉が出てきましたよね。

    パンの値段が上がって苦しむ国民を気にかけているようです。

    『食で読むヨーロッパ史2500年』でもこのように書かれています。

    先に挙げたマリー・アントワネットの手紙を引用した後、

     これを読むと、まったく正反対の姿がうかがえます。パンの値段が上がり生活が苦しい民衆を慮って、お金を節約したいと考えていたり、収穫後にパンの値下がりが見込まれて嬉しいと感じている純粋なマリー・アントワネットの姿がみてとれることがわかるでしょう。

    遠藤雅司(音食紀行)(著). 2021-8-30. 『食で読むヨーロッパ史2500年』. 山川出版社. p.156.

    ジャン・ジャック・ルソーの『告白』6巻(1765年刊行)

    現代では「パンがなければ」というのはマリー・アントワネットが発した言葉ではなく、後世の誰かによる意図的な誤用ということになっています。

    「浪費三昧のあのオーストリア女なら言いかねない」という思いが「それくらいのこと、言いそうではないか」になり、「いや、きっと言ったに違いない。言ったに決まってる」といつの間にか「マリー・アントワネットが言った」にされたことは容易に想像がつきます。

    「パンがなければブリオッシュを」の言葉の大元は、ルソーの自伝的作品『告白』6巻にあったようです。

    ジャン=ジャック・ルソー 18世紀 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール Musée Antoine-Lécuyer蔵
    ジャン=ジャック・ルソー 18世紀 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール Musée Antoine-Lécuyer蔵

    引用元:ジャン=ジャック・ルソー

    この中にブリオッシュのことも書かれていて、

     当時世話になっていたある屋敷でおいしいワインを飲んだことがきっかけとなってルソーはそのワインをこっそりと盗み飲む習慣を身につける。しかし、問題は彼がパンなしにはワインを飲めないことだった。そのパンを手に入れる方法がない。使用人を使いにやってパンを買ってこさせるのはその屋敷の主人に対してあまりに無作法だし、かと言って自分で買いに行くなどもってのほかだ。いやしくもかたわらに剣をかまえるような立派な紳士が、どうして一個のパンのためにブーランジェ(パン屋)の店の入り口をくぐれるだろうか。不可能だ!どうするか?

      そうして私は最後に、領地の人びとがパンがないと言っているという話を聞いてそれに答えたある大公妃の心ない言葉を思い出した - それなら彼らにブリオシュを食べさせなさい。

     この言葉にヒントを得てルソーはブリオシュを買い求めることになるのだが、これがまた簡単ではない。街中を走り回って三〇にもおよぶパティシエの店の中から自分が入れそうな店を探し出し、苦心の挙句にようやくブリオシュの調達に成功する。それから屋敷に戻って自室に引きこもり、食器棚の奥に隠しておいたワインを注意深く取り出すと読書をしながらブリオシュとともにワインを楽しむのである。

     この一節は若き日のルソーの性癖を知る上でなかなか面白い部分なのだが、それはともかくとしてここにはブリオシュに関して非常に興味深い内容が含まれている。

    長尾健二(著). 2017-12-22. 『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』. 築地書館. pp.164-165.

    ブリオッシュ入手、なんだかとても大変そうな印象を受けますね。

    ここで気付くのが、ブリオッシュはパティシエの構える店で売られているということ。

    立派な紳士はパン屋には行かないものだけれど、パティシエの店ならば入ることができる。

    ということは、パン屋よりパティシエの店の方が「格上」、パンよりブリオッシュの方が高級と思われていたのですよね。

     このパティシエとブーランジェの格差は、そのままブリオシュとパンの格差にも当てはまる。ブリオシュは酵母で発酵させて作るからパンの仲間みたいなものだけれども、世の中の身分で言えば決してパンではないのである。ここにルソーの著述がマリー・アントワネットに対する中傷に利用された下地もある。

    長尾健二(著). 2017-12-22. 『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』. 築地書館. p.165.

    『告白』6巻は1765年に刊行されたそうですが、マリー・アントワネットは1755年生まれですから、嫁入り前の、まだ10歳くらい。大公妃ではなくてただの元気な王女様ですよ。

    「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったと後世の人から思われていたなんて、麦の育ち具合を気にかけていたマリー・アントワネットが聞いたら、とても心を痛めたかもしれませんね。

    気の毒に、と思う一方、ひとの家のワインを盗み飲みするヤツには心の中でチョップをお見舞い。

    現代ではパン屋さんで美味しそうなブリオッシュも購入することができます。

    香りの良い薔薇を一輪とお気に入りのカップを用意し、自分のためのお茶会を楽しみましょう。

    私の場合多分薔薇は、ブリオッシュには直接飾らずに、小さなガラスの花瓶に活けると思います。

    主な参考文献
    • パウル・クリストフ(編). 藤川芳朗(訳). 2007-2-15. 『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』. 岩波書店.
    • 長尾健二(著). 2017-12-22. 『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』. 築地書館.
    • 池上俊一(著). 2015-10-5. 『お菓子でたどるフランス史』. 岩波ジュニア新書.
    • 山本ゆりこ(著). 2012-11-25. 『芸術家が愛したスイーツ』. ブロンズ社.
    • 遠藤雅司(著). 2018-3-29. 『英雄たちの食卓』. 宝島社.
    • 遠藤雅司(音食紀行)(著). 2021-8-30. 『食で読むヨーロッパ史2500年』. 山川出版社.
    • 関田淳子(著). 2011-2-13. 『ハプスブルク家のお菓子 プリンセスたちが愛した極上のレシピ』. 新人物文庫.
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    コメント

    コメント一覧 (1件)

    • ハンナさん、こんにちは。
      マリーアントワネットの「パンがないならお菓子を食べたら」という言葉は、実はマリーアントワネットが言った言葉ではなかったのですね。
      本当は国民のことを、ちょっとでも考えていたという事を知って、かわいそうになりました。
      首飾り事件だって、マリーアントワネットは関係ないのに…。
      色々と誤解されていた王妃だったのかもしれませんね。
      ところで、お菓子と言えば、むしろフランスよりオーストリアのほうがお洒落な印象があります。
      初めて、ウインナーコーヒーを飲んだ時…あのボリュームのあるホイップしたミルクに圧倒されました。(笑)
      今日も、興味深い記事をありがとうございました。

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