アルフォンソ・デステの注文で制作された『神々の饗宴』。神々の姿をしていますが、中央に描かれているのはルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ・デステだといわれています。
『神々の饗宴』(『神々の祝祭』 The Feast of the Gods) 1514年 / 1529年 ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵
引用元:『神々の饗宴』
『神々の饗宴』は、イタリアの画家・ジョヴァンニ・ベッリーニ(ベリーニとも表記 Giovanni Bellini )によって1514年に描かれました。
その後の1529年に、画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ( Tiziano Vecellio )によって加筆されています。
引用元:『神々の饗宴』(部分)
中央にふたりの神が座っています。
足元に置かれた三つ叉の鉾で、右の男性は海神ネプチューンとわかります。
左の女性は、大地の女神ガイア。
彼らの前には盛られた果物が有り、女神はマルメロの実を手にしています。
ネプチューンの手はガイアの腿に置かれており、ふたりの非常な親密ぶりが窺えます。
画面右側に、眠る女性の着衣の裾をめくるプリアーポスらしき男性。
好色で知られる半人半獣のサテュロスも、ここでは神々に給仕しているようです。
ネプチューンの仕草と言い、性的な暗示を多分に含んだ絵画のように見えます。
『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土 下』によると、ガイアが手にするマルメロの実は結婚のシンボルであり、ヴェネツィア派の結婚記念画によく登場するもの。
とすれば、ベルリーニのこの作品全体が、結婚記念画としての意味を持っていると言える。では具体的に、それは誰と誰の結婚であろうか。
高階秀嗣(著).2018-3-25.『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土 下』.中公文庫.p.180.
結婚を記念して描かれたものであれば、「夫婦仲良く円満に」「子宝に恵まれる」「子孫繁栄」のメッセージが含まれていて当然ですよね。
それでは、これは誰と誰の結婚なのでしょうか。
アルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの結婚
フェラーラ公アルフォンソ1世・デステ( Alfonso I d’Este, 1476年7月21日-1534年10月31日)
『神々の饗宴』に描かれた新郎は、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステ。
姉に才媛イザベラ(イザベッラ)、ベアトリーチェがいます。
引用元:アルフォンソ・デステ
引用元:イザベラ・デステ
引用元:ベアトリーチェ・デステ
ルクレツィア・ボルジア( Lucrezia Borgia, 1480年4月18日-1519年6月24日)
新婦は、ルクレツィア・ボルジア。
「悪魔が化けている」といわれたローマ教皇アレクサンデル6世の娘にして、イタリア統一を狙うチェーザレ・ボルジアの妹です。
フェラーラ公アルフォンソ・デステの二度目の妻であり、ルクレツィア自身は三度目の結婚でした。
『神々の饗宴』の女神とメダルのルクレツィアはよく似ています。
引用元:『神々の饗宴』(部分)
高階氏も著書の中で指摘しておられるように、引っ込み気味の顎が特徴的です。
このふたりの結婚は1502年に行われました。
高階秀嗣氏は『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土 下』のなかで、このふたりの結婚こそが、実はベルリーニの絵の隠された主題であると仰っています。
『ギリシャ神話は名画でわかる なぜ神々は好色になったのか』でも『神々の饗宴』の絵画が取り上げられ、画題とされているオウィディウスの『祭暦』の概略も掲載されています。
田園の神々が集まって酒を飲む。プリアーポスも来た。プリアーポスは庭の番人で鳥を追い払う「かかし」であり、同時に泥棒を勃起した性器で威嚇するマイナーな神(というか精のようなもの)である。シーレーノスもロバと一緒に宴にやってきた。
人々が眠ってしまうと、プリアーポスはニンフのローティスに(第六巻の記述では女神のウェスタに)欲情した。彼はローティスに近づくが、そのときロバが鳴いたため、一同は目覚める。そして勃起したプリアーポスをあざ笑う(第六巻では制裁しようとする)。
逸見喜一郎(著).2013-3-10.『ギリシャ神話は名画でわかる なぜ神々は好色になったのか』.NHK出版新書403. p.178.
プリアーポスという「野卑な」神が登場する、「野卑」で素朴な話です。
しかし、ベッリーニの絵には野卑さは感じられず、お題ではあるけれども、オウィディウスのことばを忠実に絵にしたとも思われません。
そもそもベッリーニはそれまで宗教画以外はほとんど描いていない。バノフスキーの記すところによれば、ベッリーニはあまりこの絵に乗り気ではなかったが、イザベッラ・デステが強引に描かせたとか。となれば「神々の饗宴」は、ほんとうに神話を描いた絵といってよいのだろうか。
逸見喜一郎(著).2013-3-10.『ギリシャ神話は名画でわかる なぜ神々は好色になったのか』.NHK出版新書403. pp.179-180
「「神々の饗宴」は、ほんとうに神話を描いた絵といってよいのだろうか。」
この問いを引き受けるものとして、『ドレスデン国立美術館―世界の鏡 2005年』展の図録の、この記述をご紹介したいと思います。
『神々の饗宴』は、イザベラとアルフォンソのために描かれたものでした。
もともとイザベッラ・デステとアルフォンソ・デステのために描かれたものであった。その表現は、オウィディウスの章句に関連し、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソの婚礼を暗示しているとも考えられている。
エヴァ・シュトレーバー.『ドレスデン国立美術館 - 世界の鏡 2005年』
ルクレツィア・ボルジアの三度の結婚
1480年、ルクレツィアはアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)と、愛人ヴァノッツァ・カタネイの間に生まれました。
同じ両親から生まれた兄弟に、チェーザレ、ホアン、ホフレがいます。
引用元:アレクサンデル6世
引用元:ヴァノッツァ・カタネイ
1493年。ルクレツィアはジョヴァンニ・スフォルツァと最初の結婚をします。
しかし、後にアレクサンデル6世は、彼にとって戦略的価値が無くなったジョヴァンニと、ルクレツィアを離婚させます。
ルクレツィアの結婚も離婚も、野心的な父と兄チェーザレの考えひとつでした。
この出来事で恥をかかされたジョヴァンニは、ルクレツィアが父や兄と近親相姦の関係であると言いふらしたのでした。
引用元:チェーザレ・ボルジアのスケッチ
アルフォンソ・ダラゴーナと再婚
ルクレツィアは、1498年、ナポリ王の庶子ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ( Alfonso of Aragon )と再婚します。
美男美女の仲睦まじいカップルでした。
引用元:7歳の頃のアルフォンソ
アルフォンソの妹サンチャはルクレツィアの兄弟ホフレの妻でしたが、チェーザレ、ホアンとも関係があったと言われています。
引用元:サンチャ
引用元:ホフレ・ボルジア
1500年、ヴァチカンでルクレツィアたちと夕食を共にしたアルフォンソは、その帰り途謎の刺客に襲われました。
瀕死のアルフォンソはルクレツィアの元に運び込まれます。
ルクレツィアとサンチャの懸命な介抱によって傷は快方に向かいますが、父に呼ばれたルクレツィアが部屋を離れた隙に再び襲われ、絶命します。
1497年に起きた次兄ホアンの暗殺に続き、夫アルフォンソの死。
人々の疑惑の目はもうひとりの兄チェーザレに注がれました。
フェラーラ公アルフォンソ・デステとの結婚
次にアレクサンデル6世が娘の結婚相手に選んだのは、フェラーラ公エルコレ1世・デステの嫡男・アルフォンソでした。
引用元:フェラーラ公エルコレ1世・デステ
エステ家側は悪名高いボルジア家と縁を結ぶことを渋っていたようですが、アレクサンデル6世とケチで知られるエルコレ1世との間でルクレツィアの莫大な持参金の額が決定します。
1502年、ルクレツィアは名門エステ家のアルフォンソと三度目の結婚をしました。
アルフォンソ・デステ1世
貴公子アルフォンソは型破りな人間で、友人たちと賭けをして真っ裸で広場を歩いたり、2、3人の従者だけ連れて旅に出たり、旅に出ない時は工房に籠もったりしていました。
彼が興味を持っていたのは大砲でしたが、この武器が後にフェラーラの軍の誇りとなります。
アルフォンソには豊かな教養もあり、ヴァイオリンの腕前も相当なものだったようです。
ルクレツィアの兄チェーザレは彼に対する賞賛を惜しまず、マキアヴェッリ、神聖ローマ皇帝カール5世も同じでした。
引用元:ニッコロ・マキャヴェッリ
引用元:神聖ローマ皇帝カール5世
結婚式の前のことです。
アルフォンソの弟イッポリートとフェランテが、ローマまで花嫁ルクレツィアを迎えに来ました。
引用元:イッポーリト・デステ(枢機卿)
『神々の饗宴』には、イッポーリト・デステもマーキュリーの姿で描かれています。
マーキュリーの後ろには、作者であるベッリーニ本人が。
引用元:『神々の饗宴』(部分)
1502年1月。
二番目の夫との間に生まれた息子を残し、父と別れの挨拶を交わしたルクレツィアは、兄に付き添われてフェラーラに向かいます。
チェーザレが引き返し、フェラーラ入りを目前にした宿泊地でルクレツィアが床に就こうとしていると、突然新郎となるアルフォンソが馬に乗ってやってきました。
驚くフェランテらに「まぁ、花嫁のところに案内しろ」と言い、ルクレツィアと顔を合わせます。
アルフォンソはルクレツィアに、「これからのことは自分に従うように」と伝え、彼女もそれを了承しました。
ボルジア家の没落
1503年、父アレクサンデル6世が急死します。
1507年にはチェーザレも戦死し、ボルジア家は勢いを失い没落します
舅エルコレや世間の冷たい目が彼女に向けられ、フランス国王のルイ12世からも「アルフォンソ公にルクレツィア・ボルジアはふさわしくない」などと言われますが、アルフォンソは彼女を離縁しようとはしませんでした。
引用元:ルイ12世
結婚後もルクレツィアはアルフォンソに対して貞淑であったわけではなく、ピエトロ・ベンボや、義姉であるイザベラ・デステの夫とも肉体関係がありました。
学者であり詩人でもあるベンボはルクレツィアを称える作品を書いています。
嫡男エルコレの教育係でもありましたが、ベンボとルクレツィアは「不倫」の関係でもありました。
身内の死という悲しみの中、親身になってくれるピエトロ・ベンボとの恋が人々の口にのぼり始めた時、アルフォンソはベンボに会ったと言われています。
その数日後、ベンボはフェラーラを発ちました。
引用元:ピエトロ・ベンボ
『神々の饗宴』左から二番目、ロバの飼い主のシレヌス(シーレーノス)が、ピエトロ・ベンボです。
引用元:『神々の饗宴』
ルクレツィアの最期
20年近いアルフォンソとの結婚生活で、彼との間に多くの子供を授かります。
ルクレツィアはアルフォンソの留守には国政を見、慈善事業にも熱心でした。
次第にルクレツィアは信心深いフェラーラ公妃として尊敬を集めて行きます。
そして1519年、女児を出産した際産褥で命を落とします。
アルフォンソは苦しむ彼女に付き添っていたそうです。
死の間際、彼女は法王庁とエステ家の不和を憂い、法王に手紙を書きました。
「…後に残していかねばならない私の夫と子供たちに、神の御加護とともに、猊下の心広いご慈愛をお与え下さいますように…」
映画やオペラで妖艶な毒婦の役割を与えられ、偉大な父兄との近親相姦も疑われたルクレツィア。
実際、父と兄の野心の道具として、翻弄された人生であったのかもしれません。なにか歴史を変える偉業を成し遂げたわけでもありません。
しかし、彼女の血脈はアルフォンソとの間に生まれたエルコレ2世を通し、現代まで生き続けています。
ベッリーニとティツィアーノの傑作『神々の饗宴』が、彼女が辿り着く「最後の地」フェラーラへ繋がっているのだと思うと、とても感慨深いものがあります。
引用元:フェラーラ、モデナ及びレッジョ公エルコレ2世・デステ
ルクレツィア・ボルジアの肖像
『若い女性の肖像』 1518年頃 ドッソ・ドッシ ヴィクトリア国立美術館蔵
引用元:『若い女性の肖像』
2008年、オーストリア、メルボルンのヴィクトリア国立美術館が、この絵がドッソ・ドッシによるルクレツィアの肖像画であると発表しました。
この絵の女性も引っ込み気味の顎ですね。やはりルクレツィアなのでしょうか。
お綺麗ですね(^^)。
- 高階秀嗣(著).2018-3-25.『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土 下』.中公文庫.
- 逸見喜一郎(著).2013-3-10.『ギリシャ神話は名画でわかる なぜ神々は好色になったのか』.NHK出版新書403.
- 『ドレスデン国立美術館 - 世界の鏡 2005年』
- 塩野 七生(著).2012.『ルネサンスの女たち』.新潮文庫.
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