フランス王妃マリー・アントワネットのお気に入りの画家、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン。ウフィツィ美術館に収蔵されている、あの美しい自画像をどうぞ。

画家 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン( Élisabeth Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日 – 1842年3月30日)

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
ウフィツィ美術館Self-portrait
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ( Élisabeth Louise Vigée )はパリで生まれました。
( Marie Louise Élisabeth Vigée Lebrun、Élisabeth Vigée Le Brun、Élisabeth Le Brun、Élisabeth Lebrun、Louise Élisabeth Vigée Le Brun、Madame Le Brun(ルブラン夫人)など、表記はいろいろ?ですが、この記事では「ヴィジェ」「ヴィジェ=ルブラン」としています)
ヴィジェ=ルブランに影響を与えた画家たち、家族・友人たち
画家だった父親ジャン・ヴィジェのもとには、同業の画家フランシス・ドワイアンらがよく訪れていました。
ガブリエル=フランソワ・ドワイアン( Gabriel-François Doyen, 1726年5月20日 – 1806年3月13日)

ドワイアンはドワイヤンとも表記されます。
ドワイアンは、宮廷画家シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの工房で働いていたことがあります。
カルル・ヴァン・ロー(シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー)( Carle van Loo )
ドワイアンも登場
クロード・ジョセフ・ヴェルネ( Claude Joseph Vernet, 1714年8月14日 – 1789年12月3日)

引用元:クロード・ジョセフ・ヴェルネ Sammyday (2010-10-23)
ルーヴル美術館Joseph Vernet (1714-1789), peintre
クロード・ジョセフ・ヴェルネは、ヴィジェ=ルブランに重要な助言を与えました。
ヴェルネの肖像画はルーヴル美術館に
ジャン=バティスト・グルーズ( Jean-Baptiste Greuze, 1725年8月21日 – 1805年3月4日)

ルーヴル美術館Portrait de l’artiste.
ヴィジェ=ルブランが画法の上で大きな影響を受けた、ジャン=バティスト・グルーズ。
この当時、グルーズの風俗画は非常に人気がありましたが、本人は歴史画家として大成することを望んでいました。
エティエンヌ・ルイ・ジャン=バティスト・ヴィジェ( Louis-Jean-Baptiste-Étienne Vigée, 1758年 – 1820年)

引用元:『芸術家の弟』
セントルイス美術館The Artist’s Brother
モデルはヴィジェ=ルブランの弟で、後に有名な作家となった エティエンヌ・ルイ・ジャン=バティスト・ヴィジェ(当時15歳)。
ヴィジェ=ルブランが18歳のときの作品です。
母 ジャンヌ( ル・セーヴル夫人 Madame Jacques François Le Sèvre )

引用元:画家の母
メトロポリタン美術館Madame Jacques François Le Sèvre, the Artist’s Mother
「お前はきっと画家になるよ!」と言ってくれた父を亡くし、悲しむヴィジェを、訪ねてきたドワイアンが絵を再開するよう励まします。
ヴィジェは画家 ガブリエル・ブリアール( Gabriel Briard, 1725年 – 1777年)に会いに行き、ブリアールのアトリエに通います。
ガブリエル・ブリアール( Gabriel Briard, 1725年 – 1777年11月18日)

引用元:Vênus e Cupido
ガブリエル・ブリアールは、ガブリエル=フランソワ・ドワイアンと同じ師(シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー)に学びました。
ブリアールのアトリエには ロザリー・ボケ( Anne-Rosalie Boquet )も通っていました。
ロザリーの母は細密画の肖像絵師をしており、ヴィジェを娘のロザリーと一緒に自宅で監督し、絵を描かせてくれました。
ロザリー・フィユール( Rosalie Filleul, 1752年 – 1794年7月24日)

引用元:ロザリー・フィユール
肖像画や風景画を得意とした画家ロザリー・ボケ(ロザリー・フィユール)。
しかしその作品の多くが、革命時に失われたそうです。
1777年、ルイ16世の従者ルイ・フィユール・ド・ベヌ( Louis Filleul de Besne )と結婚。
後にロザリーは王家の家具を「盗んだ」罪で、友人マルグリット・エミリー・シャルグラン(画家ヴェルネの娘)とともにギロチンで処刑されました。
シャルトル公爵夫人(ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン=パンティエーヴル, Louise Marie Adélaïde de Bourbon-Penthièvre, 1753年3月13日 – 1821年6月23日)
愛する父の死後、母ジャンヌが宝石商のル・セーブルと再婚。 一家はサントノーレ街に引っ越します。
住いの反対側には、パレ・ロワイヤル。
ヴィジェ=ルブランは シャルトル公爵夫人ルイーズ・マリー・アデライードと知り合い、肖像画を依頼されました。
下は1789年の肖像画です。

引用元:ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン=パンティエーヴル
ヴェルサイユ宮殿Louise-Marie-Adélaïde de Bourbon-Penthièvre, duchesse d’Orléans , MV 3912
ヴェルサイユ宮殿Louise-Marie-Adélaïde de Bourbon-Penthièvre, duchesse d’Orléans , MV 4525
飲み物を手に、集う家族の絵
美貌と若さと才能に恵まれたヴィジェ。
肖像画の注文が次々にヴィジェのもとに舞い込みます。
ジャン=バティスト=ピエール・ルブラン( Jean-Baptiste-Pierre Le Brun, 1748年 – 1813年)
ヴィジェの一家はクレリー街に引っ越します。
そこで出会ったのが、画家兼画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブラン( Jean-Baptiste-Pierre Le Brun, 1748年 – 1813年)でした。
ルブランはヴィジェに親切に接し、彼女はルブランの画廊で絵画の名品を模写することができました。
派手な女性関係、ギャンブル好きのルブランには特に愛情も無く、画家として稼ぎもあったため結婚の必要性も無かったといいますが、義父のいる家庭から逃れたいと望んでいたヴィジェは、ルブランの求婚を承諾。
1776年にルブランと結婚し、以降「ヴィジェ=ルブラン」となります。

ルブランの親戚に、ルイ14世時代の高名な画家シャルル・ル・ブラン( Charles Le Brun )がいます。
ジャン=バティスト=ピエール・ルブラン自身は非常に優れた「目利き」の美術商で、ルーヴル美術館にも縁が深い人物です。
1778年、マリー・アントワネットの肖像
オーストリアから嫁いできたマリー・アントワネットは、ヴィジェ=ルブランと同じ年に生まれています。
マリー・アントワネットの肌の美しさ、サテンのドレスの輝きに惹きつけられるこの肖像画は、ウィーンの母マリア・テレジアに贈られました。

引用元:マリー・アントワネットの肖像
美術史美術館Erzherzogin Marie Antoinette (1755-1793), Königin von Frankreich
戸外でのマリー・アントワネットのスケッチも残っています。

引用元:マリー・アントワネット
メトロポリタン美術館蔵Marie Antoinette in a Park
1780年、娘 ジュリー誕生
画家 26歳頃の自画像。輝くばかりの美しさです。

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
キンベル美術館Self-Portrait, c. 1781
ヴィジェ=ルブランは 1780年に女児を出産しています。
子供はジャンヌ・ジュリー・ルイーズと名付けられました。 可愛い。

引用元:『芸術家の娘、ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ・ルブラン、当時2歳』
スウェーデン国立美術館Jeanne Julie Louise Lebrun, konstnärens dotter vid 2 års ålder
16歳の少女像

引用元:16歳の少女像
クリスティーズオークションPortrait de jeune fille
「自画像」説もありますが、クリスティーズの解説によればちよっと違うようです。
この少女の作風と服装から、このパステル画は1780年代後半の作と推定されます。これは、パステル画の裏面に刻まれた銘文が示唆するように、これが自画像である可能性を排除するものです。これは16歳の少女の肖像画である可能性が高く、その自由な筆致は、ズエルモント・コレクション(辞書、前掲書)所蔵の「少女の肖像画(自画像?)」を彷彿とさせます。(Google翻訳)
クリスティーズオークションPortrait de jeune fille
1781年「デュ・バリー夫人の肖像」
国王ルイ15世の愛妾 デュ・バリー夫人マリ=ジャンヌ・ベキュー( Madame Du Barry (née Marie-Jeanne, 1743年8月19日 – 1793年12月8日)の肖像。
1793年、革命のなかギロチンで処刑されました。

引用元:デュ・バリー夫人
フィラデルフィア美術館Portrait of Madame Du Barry
1782年「ポリニャック夫人の肖像」
ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン( Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini, 1749年9月8日 – 1793年12月9日)は、マリー・アントワネットの寵臣です。

引用元:『ポリニャック公爵夫人の肖像』
ヴェルサイユ宮殿Yolande-Martine-Gabrielle de Polastron, duchesse de Polignac
ポリニャック公爵夫人はマリー・アントワネットに取り入り、一族を要職に就け、莫大な富と権力を手にしました。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 1782年の自画像と『ポリニャック公爵夫人の肖像』
1782年「ランバル公妃の肖像」
マリー・アントワネットと親しく交流した、ランバル公妃マリー・ルイーズ( Marie Thérèse Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe, 1749年9月8日 – 1792年9月3日)。
先に出てきたシャルトル公爵夫人ルイーズ・マリー・アデライードは、夫の妹です。

引用元:ランバル公妃マリー・ルイーズ
ヴェルサイユ宮殿Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, princesse de Lamballe
最後まで親友だったマリー・アントワネットに友情を捧げたランバル公妃。
亡命先から戻り、マリー・アントワネットを支えますが、革命のなか「9月虐殺」で惨殺されます。
「一杯のチョコレート」を楽しむパンティエーヴル公の家族と「9月虐殺」
王立アカデミー
夫と旅行に出掛けたフランドルで、ヴィジェ=ルブランは多くの名画を鑑賞する機会に恵まれます。
ルーベンスの『シュザンヌ・フールマンの肖像』( Portrait of Susanna Lunden(?) (‘Le Chapeau de Paille’) )を観たヴィジェ=ルブランは、オマージュとして『麦わら帽子の自画像』を制作。
作品はサロンで高く評価されました。
この高評価と王室の後押しで、1783年5月、ヴィジェ=ルブランは女性画家ギアールとともに王立アカデミー会員に推挙されます。

引用元:『麦わら帽子の自画像』

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
ナショナル・ギャラリーSelf Portrait in a Straw Hat
アデライド・ラビーユ=ギアール( Adélaïde Labille-Guiard, 1749年4月11日 – 1803年4月24日)
ヴィジェ=ルブランと同じくパリ生まれの アデライド・ラビーユ=ギアール( Adélaïde Labille-Guiard, 1749年4月11日 – 1803年4月24日)は優れた肖像画家でした。

アデライド・ラビーユは 20歳の時に ニコラ・ギアールと結婚し、その後離婚。 1799年に師匠のフランソワ・アンドレ・ヴァンサン( François-André Vincent )と再婚しました。
アデライド・ラビーユ=ギアールは後進の女性画家の育成にも熱心で、女性芸術家の地位向上に努めました。
下は、フランスの彫刻家 オーギュスタン(オーガスティンとも表記)・パジュー( Augustin Pajou, 1730年 – 1809年)による、ヴィジェ=ルブランの胸像です。

引用元:ヴィジェ=ルブラン胸像 Thomon CC-BY-SA-4.0
ルーヴル美術館Madame Vigée Le Brun (1755-1842), peintre , RF 2909
オーギュスタン・パジューの肖像画はアデライド・ラビーユ=ギアールが描いています
『豊穣を連れた平和』 1780年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ルーヴル美術館蔵
1783年、王立絵画彫刻アカデミーに寓意画『豊穣を連れた平和』を寄贈しています。

引用元:『豊穣を連れた平和』 Europeana
ルーヴル美術館La Paix ramenant l’Abondance
1783年「ガリア風ドレスのマリー・アントワネット」
ヴィジェ=ルブランは、歴史的寓意画『豊穣を連れた平和』をアカデミーに寄贈します。
同じ年に、ゆったりしたガリア風ドレス(シュミーズ)姿の王妃マリー・アントワネットを描いた作品を発表。

しかしこのシュミーズ姿の肖像画は「威厳に欠ける」と批判され、下の、正装姿の肖像画に差し替えられます。

シュミーズ・ドレス姿のマリー・アントワネットも掲載
ヴィジェ=ルブラン自画像、マリー・アントワネットの肖像画の話も読むことができます
1786年~1789年「ジュリーとの自画像」

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
ルーヴル美術館Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819)
1786年の自画像はルーヴル美術館シュリー翼で鑑賞できます
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『自画像』(1786年)他

引用元:『鏡を見るジュリー』
メトロポリタン美術館にも、可愛らしいジュリーの肖像画があります。
王妃のイメージ回復を狙った「フランス王妃マリー・アントワネットとその子供たち」
1785年の「首飾り事件」で、地に落ちた王妃のイメージを回復するため、描かれた作品。
「国母」のイメージを演出しています。

引用元:マリー・アントワネット
画面の中で王太子が空の揺りかごを指さし、娘を失った王妃の表情も虚ろだ。反王妃キャンペーンに対抗する「国母」の肖像として、人々の同情を買うはずだったが、ヴィジェ=ルブランの代表作として認められはしても、アントワネットの人気回復には何の役にも立たなかった。官展での展示自体、乱入者に傷つけられるのではと不安視されたほどである。
中野京子(著). 2016-9-10. 『美術品でたどるマリー・アントワネットの生涯』. NHK出版協会. p.126.
娘を抱きしめるヴィジェ=ルブラン

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
ルーヴル美術館蔵Madame Vigée-Le Brun et sa fille, Jeanne-Lucie-Louise, dite Julie (1780-1819)
Flahaut de la Billarderie, Charles Claude, comte d’Angiviller, dit aussi Comte d’Angiviller, Propriétaire
本作は、博物館構想を抱くダンジヴィエ伯爵の依頼で制作されました。
この数か月後、ヴィジェ=ルブランはジュリーをつれ、イタリアに亡命することになります。
親しかった画家ユベール・ロベール、ヴィジェ=ルブランの実弟エティエンヌ、夫ルブランに見送られ、ヴィジェ=ルブランは 革命の嵐から逃れるため、パリを脱出しました。

引用元:ユベール・ロベール
ルーヴル美術館Hubert Robert (1733-1808), peintre
ヴィジェ=ルブランによる自画像、肖像画
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『自画像』(1786年)他
王妃マリー・アントワネットの力添えもあり、若くしてアカデミーの会員となったヴィジェ=ルブラン。
ギャンブル狂、派手な女性関係の夫以外は万事うまく行っていたのだと思われます。
しかし、1789年、ヴィジェ=ルブランの人生において大きな転機となる、フランス革命が起きます。
アンシャン・レジームの王侯貴族、富裕層は民衆から見れば憎むべき搾取階級、いわれなき特権階級であり、王妃としてマリー・アントワネットが不人気だったこともあり、彼女のお気に入りの画家であることは、ここでは完全に裏目に出た。1789年7月14日のパリ市民によるバスティーユ牢獄襲撃事件からの日々はヴィジェ=ルブランにとって針の筵であった。革命派のいわゆるサン・キュロット(貴族やブルジョワがはくキュロット(半ズボン)を持たない階層)が彼女の家にまで押し寄せ、危害こそ加えなかったものの、拳を振り回して威嚇することもあった。
1789年10月5日、国王夫妻がヴェルサイユ宮殿で拘束され、連れ出されるとの報に接したその日、ヴィジェ=ルブランは意を決し、娘ジュリーを伴ってフランスを脱出したが、その際、個人所有の馬車は目立つので危険との友人の忠告を受けて、乗り合い馬車を使っている。
千足伸行(著). 『画家たちのパートナー その愛と葛藤』. 2021-4-15. 論創社. pp.27-28.
10月6日の深夜、ヴィジェ=ルブランは、9才のジュリとその家庭教師の3人で馬車に乗り、イタリアに向けて出発します。。
画家ヴィジェ=ルブランの人気は高く、各地で歓迎されます。
1790年の自画像 ウフィツィ美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
革命を逃がれたヴィジェ=ルブランは、ローマへ向かう途中、フィレンツェに立ち寄ります。
1789年11月、ウフィツィ美術館を訪れたヴィジェ=ルブラン。
そこで同時代の女性画家アンゲリカ・カウフマン( Angelika Kauffmann, 1741年 – 1807年)の自画像に心を奪われたといいます。

引用元:自画像
ミューズ(芸術の女神)としてのアンゲリカ・カウフマン。
(ドイツ語表記では Angelika ですが、イタリア語では Angelica )
下は、もう少し若いカウフマン。どちらも古代風衣装を着けています。

引用元:自画像
ナショナル・ポートレート・ギャラリーAngelica Kauffmann
ウフィツィ美術館側の要請に応じ、ヴィジェ=ルブランは絵筆とパレットを手にした自画像を制作します。
その筆の先に在るのは、敬愛してやまない王妃マリー・アントワネットでした。

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
Once in Rome she worked hard and in one month and half the work was finished: “I have portrayed myself with palette in hand, before a canvas on which I am drawing the queen in white chalk.” The painter had conceived the painting as a double portrait in homage to her queen, Marie Antoinette, thus demonstrating her loyalty to the ancien régime, which had protected and valued her. Facing the viewer Elisabeth sports the amiable, engaging smile that had characterised her previous self-portraits. The elegant black silk robe she wears, a reference to the officialdom of her rank, is brightened by the saturated red of the sash that cinches her waist. On her brown curls she wears a white cloth turban reminiscent of the headdresses used by Rembrandt in numerous self-portraits. The result is a fresh and lively image, which enhances the gentle beauty of the woman, also declaring her talent as an artist. The painting received an enthusiastic reception. In Rome Elisabeth received the praise of the Academy of San Luca and in Florence, where the self-portrait arrived on 26 August 1791, the Grand Duke of Tuscany Ferdinand III judged it as such a masterpiece that he did not want to submit it to the judgement of the professors of the Royal Academy of Fine Arts, as he was used to do.
ウフィツィ美術館Self-portrait
(Google翻訳:ローマに到着すると彼女は精力的に制作し、1ヶ月半で作品を完成させた。「私はキャンバスの前に立ち、その前に白いチョークで王妃を描き、パレットを手に自分自身を描きました。」画家はこの絵を、王妃マリー・アントワネットに敬意を表した二重肖像画として構想し、彼女を保護して高く評価してくれた旧体制への忠誠心を示した。鑑賞者に向き合うエリザベートは、これまでの自画像を特徴づけていた愛想よく魅力的な笑みを浮かべている。彼女が着ている上品な黒い絹のローブは、彼女の身分の官職を表しており、腰を締めるサッシュの鮮やかな赤によって明るくなっている。茶色の巻き毛には、レンブラントが数多くの自画像で使用した頭飾りを思わせる白い布のターバンを巻いている。その結果、女性の柔らかな美しさを引き立てる新鮮で生き生きとしたイメージが生まれ、同時に彼女の芸術家としての才能も宣言している。この絵は熱狂的な反響を得た。ローマでは『エリザベート』はサン・ルーカ・アカデミーで賞賛され、1791年8月26日に自画像が到着したフィレンツェでは、トスカーナ大公フェルディナンド3世がこれを傑作と評価し、通常通り王立美術アカデミーの教授陣に審査にかけることを望まなかった。)

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
本作は、キャンバス上に油彩で描かれている。光と影の間のスムーズなグラデーションを生み出すために、アナグマの毛の絵筆が用いられている。ヴィジェ=ルブランは、レースやリネンの部分にはたっぷりと絵具を含んだ筆致を用い、より大きな三次元性を生むために絵具を厚塗りしている。限定された色彩が用いられ、画面中の光に照らされた部分を強調している[4]。
Wikipediaマリー・アントワネットを描いている自画像
王党派のヴィジェ=ルブランによる、マリー・アントワネットへのオマージュ。
「画家の優雅な⾐装、黒いシルクのガウンは偶然選ばれたものではなく、その公式的な外観は鑑賞者に画家の地位を想起させる。アカデミー会員として、王室の画家であった彼⼥は、フランス国王の専属画家だった。」(Vigée Le Brun, p.142. Google翻訳)
カウフマンの自画像に並び、それを超えるには、自分だったらどうするか。
私の勝手な想像ですが、自分の天性の美貌、フランス国王の画家であることを、この際惜しみなく押し出すのじゃないかなと思うのです。
少女のような柔らかな微笑みに、この時代の35歳くらいの女性って、こんなに若く見えたのかな?などと思ってしまいます。ほうれい線、消してませんか、と。意地悪ですみません。
「彼⼥の美しい容姿は、⾊付きの釉薬で表現された繊細な光と影のグラデーションと、アナグマの⽑の筆を巧みに⽤いることで柔らかく表現されている。
ガウンと⼤きなリネンとレースのラフも同様に巧みに描かれているが、ここでは技法に変化が⾒られ、厚みのある部分はよりしっかりとした筆致で描かれている。限られた⾊彩の範囲は、後ろで結ばれ、スカートの上に垂れ下がる⾦⾊の縞模様のサッシュの鮮やかな緋⾊によって際⽴っている。」(Vigée Le Brun, p.142. Google翻訳)
「ラフ」とは首周りのひだ飾り。柔らかな表情の演出にひと役買っていますよね。
巻いているターバンについて、
「彼⼥は⾃然な巻き⽑の茶⾊の髪の上に、モスリンのスカーフを即席で作ったターバンを巻いている。それはレンブラントが数々の⾃画像で着⽤しているターバンを彷彿とさせる。」(Vigée Le Brun, p.142. Google翻訳)
ともあります。

引用元:『二つの円のある自画像』
ヴィジェ=ルブランが少女時代に模写し研究した巨匠たちのひとり、レンブラントです。
深い内省、その皺(しわ)からも感じる哲学。
同じようなターバンを巻いていても、その深さはまったく違います。年代も状況も全然違いますしね。
ヴィジェ=ルブランは、この巨匠に自分をなぞらえたのでしょうか。私には「ターバンのリボンが超おっしゃれー」としか見えなかったのですが。

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
ケンウッド・ハウス

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やっぱり紙の本で手元に置きたい
ウフィツィ美術館

カウフマンとの共通点
ローマで顔を合わせたふたりの画家、ヴィジェ=ルブランとカウフマンには共通点がありました。
ふたりとも名声を獲得し、仕事に恵まれた一方で、結婚生活には恵まれませんでした。
カウフマンは40歳のとき、イタリアの装飾画家ツッキと再婚しています。
ヴィジェ=ルブラン、カウフマン、ラビーユ=ギアールと、才能ある女性画家たち、このなかの誰かに自分の肖像画を描いて貰えるとしたら、誰にお願いしたいですか。
技術的には、カウフマンと ラビーユ=ギアールの方が ヴィジェ=ルブランより上では、と思いますが、カウフマンの描く女性は若干男性っぽい。ラビーユ=ギアールは写実的過ぎて(?)容赦ない気がする…。
私なら断然ヴィジェ=ルブランですねえ。
この時代の女性画家は男性画家に比べ、ヌードデッサンなど学びの機会において「不利」でした。
ルブランの女性像は若干首が長いんじゃないかなとか、肩から腕のラインでアレ?みたいな気がしますが、それを補ってあまりある「モデルの長所を最大限に引き出すヴィジェ=ルブランの才能」に、私は賭けますよ、ええ。
ルブランの描く女性たちに「不美人はいない」といいますしね。
皆感じがよく、賢く、感受性豊かで、善い人そう。そんな私に描いて貰えそうではないですか。
一八世紀のフランスの肖像画の特色のひとつで、歴史家はこれを、それ以前の時代の「権威ある」肖像画と対比させて、「心を写す」肖像画だといっている。これは、ジャン・ジャック・ルソーだとか、ディドロだとかの強い影響のもと一般的になった感受性の解放の絵画におけるあらわれの一つであるが、ルブラン夫人がそれをどこまで自覚していたかはわからない。
若桑みどり(著). 『女性画家列伝』. 1991-4-12. 第4刷発行. 岩波新書. p.26.
私のようなド庶民とは異なり、ヴィジェ=ルブランの顧客たちは王侯貴族、富裕層。
気分を害されたら大変なので、その辺やっぱり「補正」「プチ整形」は入っていたのでは。
バロック時代の肖像画家イヤサント・リゴーによると、女性は「きれいに描き過ぎると、それが自分かどうかわからないと言い、その通りに描くと怒りだす」。したがってヴィジェ=ルブランの数ある肖像がどこまでモデルを「その通りに」描いているかについては懐疑的にならざるを得ない。モデルに媚びる必要のない自画像でも、絵としてはよく描けているが、絵の中の画家はどう見ても若すぎる。サバを読んでいると言われるものもある。
千足伸行(著). 『画家たちのパートナー その愛と葛藤』. 2021-4-15. 論創社. p.31.
「サバを読んでいると言われるもの」として挙げられているのが、今回の記事の自画像。
あ、やっぱり読んでたのかな、サバ。
まあ、でも、著者が仰るように、「証明写真」じゃないですしね。
ちょっとくらい、ほうれい線を消してもいいよね、と。
ちなみに、イヤサント・リゴーは、あの太陽王ルイ14世の肖像画を描いた画家です。
1800年の自画像 エルミタージュ美術館
1795年、ヴィジェ=ルブランとジュリーは、ロシアのサンクト・ペテルブルクに向かいます。
この地でもヴィジェ=ルブランはおおいに歓迎され、女帝エカテリーナ2世とも親交を結びました。

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像
エルミタージュ美術館Автопортрет / Self-Portrait
彼女にとって自画像を描くことは、肖像画の技法を学ぶ機会であると同時に、自分がどのように見られたいかを世間に示したいという願望の表れでもあった。イーゼルの前に立ち、筆を手に持った画家は、制作の手を止めて鑑賞者を見つめている。彼女は成功し、社交界で愛され、裕福である。この肖像画では、画家は優雅で魅力的な女性のイメージを創り出すために培ってきたあらゆる芸術技法を駆使している。彼女は衣装を慎重に選び、流行の装いに青、赤、白と金色を巧みに組み合わせている。薄手のスカーフで縁取られた彼女の顔は、若々しく愛らしい。
エルミタージュ美術館Автопортрет / Self-Portrait
1802年、ヴィジェ=ルブランは亡命先のロシアから、懐かしいパリに帰還します。
母の反対を押し切ってニグリという青年と結婚したジュリーは、その2年後に帰国。
しかし仲違いした母娘の仲は、元に戻らないままでした。

引用元:Julie as Flora, Roman Goddess Of Flowers
1813年に元夫ジャン=バティスト=ピエール・ルブランが死去。
ジュリーも梅毒で1819年に亡くなります。
ヴィジェ=ルブランの弟エティエンヌも1820年に死去。
家族に先立たれたヴィジェ=ルブランの晩年は、孤独なものだったといいます。
もし、革命が起こらなかったら、彼女の人生はどのようなものになっていたのでしょう。
王妃付きの肖像画家として、どのような作品を残したのでしょうか。
クラーク美術研究所収蔵の自画像(1800年頃)
https://www.clarkart.edu/ArtPiece/Detail/Self-Portrait-in-Studio-Costume
- 千足伸行(著). 『画家たちのパートナー その愛と葛藤』. 2021-4-15. 論創社.
- 中野京子(著). 『美術品でたどるマリー・アントワネットの生涯』. 2016-9-10. NHK出版協会.
- 若桑みどり(著). 『女性画家列伝』. 1991-4-12. 第4刷発行. 岩波新書.
- 木村泰司(著). 『知識ゼロからの肖像画入門』. 2015-7-10. 幻冬舎.
- Vigée Le Brun Baillio, Joseph, Katharine Baetjer, and Paul Lang with contributions by Ekaterina Deryabina, Gwenola Firmin, Stéphane Guégan, Anabelle Kienle Poňka, Xavier Salmon, Anna Sulimova 2016
- 美術手帖. 1976.5. vol.28 no.407 may













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