画家ヴァン・ダイクの名が付いたレースとヒゲ(ヴァンダイク・ブラウンの項に追記しました)

デヴォンシャー公爵夫人が被るつば広の帽子「ゲインズバラ・ハット」

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18世紀の画家トマス・ゲインズバラの『デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナの肖像』。公爵夫人が被っている大きな帽子の名の由来と、同じ頃流行したモスリン製ドレスを着た貴婦人たちの肖像画です。

『デヴォンシャー公爵夫人』 1785-1787年 トマス・ゲインズバラ チャッツワース・ハウス蔵
ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)( Portrait of Georgiana, Duchess of Devonshire ) 1785年-1787年 トマス・ゲインズバラ チャッツワース・ハウス蔵

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目次

『デヴォンシャー公爵夫人の肖像』( Portrait of Georgiana, Duchess of Devonshire ) 1785年-1787年 トマス・ゲインズバラ チャッツワース・ハウス蔵

『デヴォンシャー公爵夫人』 1785-1787年 トマス・ゲインズバラ チャッツワース・ハウス蔵
『デヴォンシャー公爵夫人』 1785-1787年 トマス・ゲインズバラ チャッツワース・ハウス蔵

引用元:『デヴォンシャー公爵夫人』

1757年6月7日、ジョージアナは初代スペンサー伯爵の長女としてオルソープで生まれました。

(現在のスペンサー伯爵は第9代目。故ダイアナ妃の弟に当たる方です。)

1774年6月6日、17歳の誕生日を迎える前日、第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュと結婚します。

この『デヴォンシャー公爵夫人の肖像』はジョージアナが30歳頃に描かれたものです。

結婚して13年が経ち、幾度かの流産を経て得た子どもは女児ふたり。未だ跡取りの男児をもうけることはできていませんでした。

絵の中のジョージアナは大きな帽子を被り、手にしているのは薔薇の花。透ける素材のショールを纏っています。

美貌を誇る公爵夫人ですが、この絵が強い印象を残すのは眉。

片方上げてこちらを見るその一瞬、いたずらっぽく?それとも高慢に?いや、茶目っ気たっぷり?まさか、見透かされてる?こちらのメンタル状態によって受け取り方は様々ですが、台詞は無くても、私たち鑑賞者に何か語りかけてくるような。

 端正な美貌に加え、知的で、おくせず自己主張し、政治にも関わり、時代のファッションリーダーとして、また社交界の花として君臨した彼女は、フランス風の(いい換えればマリー・アントワネット風の)ダチョウの羽付き帽をかぶり、これまたアントワネットと同じく薔薇を手に持っている(本作が完成したのはフランス革命の二年前)。

中野京子(著). 2018-7-13. 『美貌のひと』. PHP新書. p.74.

カリスマ性を備え、寛大で親切、ユーモアがあったというジョージアナ。

フランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットとも友人でした。

王妃が亡くなった2週間後、ジョージアナは母親に宛てた手紙の中で、マリー・アントワネットの裁判時のことについて書いています。

多くの男性たちがジョージアナに魅せられたといいますが、ひとりだけ、夫のデヴォンシャー公爵だけは彼女に関心を示そうとしませんでした。

公爵はジョージアナに、妻として男児を産むことのみを要求。

そして召使いに産ませた子供を連れてきて、ジョージアナに育てるよう命じます。

その頃ジョージアナはエリザベス・フォスターという離婚歴のある女性と知り合い、親しくなりました。

ジョージアナは自分の屋敷へエリザベスを招き住まわせますが、エリザベスがデヴォンシャー公爵と愛人関係となってしまいます。

ジョージアナが亡くなるまで、20年以上に渡り親友と夫の仲は続きます。

ジョージアナはチャールズ・グレイという若い貴族男性とも知り合います。

チャールズ・グレイはジョージアナが支持するホイッグ党の一員でした。

1790年、ついに長男ウィリアムを出産し、デヴォンシャー公爵家の跡継ぎを得たジョージアナ。

子作りの義務から解放された2年後、ジョージアナはフランスでチャールズ・グレイの子供を出産。

イライザと名付けられ、グレイ家に引き取られました。

グレイとの恋は諦めなくてはなりませんでしたが、後にイライザを訪ねることを許され、ジョージアナはイライザに愛情とプレゼントを贈ります。

成長し結婚したイライザは自分の娘に母ジョージアナの名を付けました。

1806年3月30日、ジョージアナは病気でこの世を去ります。

デヴォンシャー公爵は1809年にエリザベスと再婚しましたが、1811年に死去。

ふたりにはキャロライン(1785生)、オーガスタス(1788年生)というふたりの子供がいました。

チャールズ・グレイは1794年に結婚。夫人との間に16人の子供をもうけます。

1830年から1834年にかけて英国首相を務めました。

『ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)』( Georgiana, Duchess of Devonshire, 1783 ) 1783年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)( Georgiana, Duchess of Devonshire, 1783 ) 1783年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵
『ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)』 1783年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

引用元:ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)

ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの解説はこちらです。

美人は何を着ても美人という思いを強くする一枚。

特別大きなつば広の帽子やレース、飾り立てたドレスがなくても彼女は魅力的です。

でもチャッツワース・ハウス所蔵の肖像画に、より惹かれるのは何故?

やっぱり、眉のせい?

この作品でデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナは、古代風の薄ピンク色のドレスを身につけています。

衣装のドレープと透き通るショールがまた優雅ですね。

この時既に自分の内側にどのような感情を抱えていたとしても、この肖像画の微笑みを観る分には、何の不自由もない「社交界の華」のイメージです。

ジョシュア・レノルズによる肖像画

スペンサー伯爵夫人とジョージアナ・スペンサー ジョシュア・レノルズ オルソープ
母スペンサー伯爵夫人とジョージアナ・スペンサー ジョシュア・レノルズ オルソープ

引用元:スペンサー伯爵夫人とジョージアナ・スペンサー

デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ 1775年-1776年 ジョシュア・レノルズ ハンティントン・ライブラリー蔵
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ 1775年-1776年 ジョシュア・レノルズ ハンティントン・ライブラリー蔵

引用元:デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ

デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ 1780年-1781年 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ 1780年-1781年 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵

引用元:デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ

デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナと娘 1785年頃 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナと娘 1785年頃 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵

引用元:デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナと娘

下の女性はジョージアナの親友で、デヴォンシャー公爵の二番目の妻となったエリザベスです。

エリザベス・フォスター(1758年5月13日-1824年3月30日) 1787年 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵
エリザベス・フォスター(1758年5月13日-1824年3月30日) 1787年 ジョシュア・レノルズ チャッツワース・ハウス蔵

引用元:エリザベス・フォスター

エリザベスの男性の交友関係は広く、マリー・アントワネットの恋人とされるフェルゼン伯爵とも関係があったといわれています。

マリー・アントワネットの処刑後、フェルゼンはエリザベスに、マリー・アントワネットは「王妃として、女性としての模範」だったと語ったとのこと。

映画の原作

Kindle版(電子書籍)、Audible版、ハードカバーが出ています。

18世紀の貴族社会に興味ある方、英語の勉強にいかがでしょうか。

私の場合はハードカバーはインテリアに…。

Georgiana: Duchess of Devonshire

1876年、ゲインズバラの『デヴォンシャー公爵夫人』はオークションにかけられ、当時の史上最高価格で落札されました。

しかしその数日後、ある男によって盗み出されてしまいます。

16年後に容疑者アダム・ワースが別件で逮捕されましたが、ワースは『デヴォンシャー公爵夫人』の行方については口を割ることはありませんでした。

絵の中のデヴォンシャー公爵夫人に恋をしてしまったというワース。

やがて死期を悟ったワースは、25年という長い逃避行に終止符を打ちます。

絵は1901年に元の持ち主である画廊に戻りました。

もう少し詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。

ヴィジェ=ルブランの絵画の中のファッション

フランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットの画家、エリザベート・ヴィジェ=ルブラン(1755年4月16日-1842年3月30日)によるラ・シャトル伯爵夫人とポリニャック公爵夫人の肖像画です。

『麦わら帽子の自画像』 1782年以降 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵
『麦わら帽子の自画像』 1782年以降 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン夫人 『麦わら帽子の自画像』

『ラ・シャトル伯爵夫人(マリー・シャルロット・ルイーズ・ペレット・アグラエ・ポンタン、1762年-1848年)』( Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps, 1762–1848)  1789年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵

ラ・シャトル伯爵夫人(マリー・シャルロット・ルイーズ・ペレット・アグラエ・ポンタン、1762年-1848年)( Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps, 1762–1848)  1789年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン メトロポリタン美術館蔵
『ラ・シャトル伯爵夫人(マリー・シャルロット・ルイーズ・ペレット・アグラエ・ポンタン、1762年-1848年)』  1789年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン メトロポリタン美術館蔵

引用元:ラ・シャトル伯爵夫人(マリー・シャルロット・ルイーズ・ペレット・アグラエ・ポンタン、1762年-1848年)

メトロポリタン美術館による解説はこちらです。

本作は、ヴィジェ=ルブランがフランス革命により亡命した1789年に描かれました。

モデルのアグラエは、革命後に夫ラ・シャトル伯爵と離婚。

長年恋人関係にあった男性と結婚しますが、この絵は彼のために描かれたものと推測されているそうです。

彼女は当時の流行のドレスを纏っており、その繊細な生地には1783年頃にマリー=アントワネットが世に広めた繊細な小枝模様のモスリンが用いられている。大きく広がったスカートの上に細身の胴衣を着るスタイル(ここでは、同じモスリンで作られたフィシュと呼ばれる三角形のスカーフを胸元でクロスさせながら着用している)、特にリボンで縁取りされた大きなつばのある麦わら帽子と組み合わせた場合は、イギリス流の着こなしであった。このような帽子は当時、ジョシュア・レノルズやジョージ・ロムニーといったイギリスの画家たちの絵画に好んで描かれている。

『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』(2021-22). p.153.

柔らかな白いドレスが印象的ですね。

メトロポリタン美術館の解説によると、ヴィジェ=ルブランは、英国の画家ジョージ・ロムニーによるエマ・ハミルトンの肖像画に見られるような、「カジュアルで計算されたエレガンスに触発された革新的なポーズ」と組み合わせました。

1780年代の流行服

18世紀の英国ではインド綿の輸入が増え、モスリンも改良されます。

英国の画家レノルズやロムニーらのモデルが着ているモスリンのドレスは、英国がフランスにもたらした流行のファッションでした。

18世紀末、英国やフランスで白いモスリン製ドレスの人気が高まります。

 レノルズ、ロムニー、ローレンスらの絵画でおなじみの薄いモスリン製の白いドレスも、イングランドがもたらした八〇年代の流行服の一つだった。この点では、イギリスはフランスよりも早く古代ギリシャの魅力の虜になったというわけだった。イギリスは、マリー・アントワネットの影響が色濃いフランス宮廷からの拘束を受けない分、建築家や製図師たちの創作欲をかき立てたのと同じ創造の源を、服装にも自由に採り入れることができた。

ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. p.360.

モスリンの簡素で軽やかなドレスを見ていると、頭にはダチョウの羽根飾り、大きく横に広がったドレス、といろいろと飾り付けた1770年代の宮廷用ドレスが、非常にゴテゴテと重たそうに見えます。

マリー・アントワネットの肖像 1778年 ヴィジェ=ルブラン 美術史美術館蔵
『ルイ16世妃マリー・アントワネットの肖像』 1778年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 美術史美術館蔵

引用元:マリー・アントワネットの肖像

モロー(子)の原画に基づくエッチング 1777年 フランス国立図書館蔵
モロー(子)の原画に基づくエッチング 1777年 フランス国立図書館蔵

引用元:モロー(子)の原画に基づくエッチング

モロー・ル・ジューン(モロー(子))が描く貴族社会の恋愛場面。

大きく開いたデコルテ、首周りにはフリルの飾りが付いていますが、17世紀前半のメディチ・カラーと呼ばれる襟に比べると随分小さくなっておとなしめ。

先ほど挙げた引用文の中に、「古代ギリシャ」との言葉が出てきました。

18世紀前半、イタリアで古代ローマの遺跡が発掘され、古代文明への憧憬から古代調ファッションが見られるようになります。

改良したインディアン・モスリンが大いに尊重され、またその後イギリス、フランス両国において古典様式が復活すると、古典主義的な服装にふさわしい、薄く柔らかく体にまとわりつくような生地が求められたのだった。十八世紀の終りには、古代ギリシャ人が着用したヒマティオンの代わりに、女性たちは無類の高品質であるインド産ショールを嬉々として身に着けた。

ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. p.348.

ヒマティオン( Himation )とは、古代ギリシアにおいて男女ともに用いられた外衣のこと。古代ローマのトーガの原型。布を巻き付けて魅せるドレープ・ファッションですね。

1885年頃の書籍・マイヤー百科事典からヒマティオン(外衣)着装例
1885年頃の書籍・マイヤー百科事典からヒマティオン(外衣)着装例

引用元:1885年頃の書籍・マイヤー百科事典からヒマティオン(外衣)着装例

英国の画家、ロムニー、レノルズ、ローレンス

ジョージ・ロムニー( George Romney, 1734年12月26日-1802年11月15日)

下の絵はロムニーが描いた「エマ・ハミルトンの肖像」の一枚です。ヴィジェ=ルブランもエマの姿を複数描いています。

麦わら帽子のエマ・ハート(後のエマ・ハミルトン)( Emma Hart, later Lady Hamilton, in a Straw Hat )  1782年-1784年頃 ジョージ・ロムニー ハンティントン・ライブラリー美術館蔵
『麦わら帽子のエマ・ハート(後のエマ・ハミルトン)』( Emma Hart, later Lady Hamilton, in a Straw Hat )  1782年-1784年頃 ジョージ・ロムニー ハンティントン・ライブラリー美術館蔵

引用元:麦わら帽子のエマ・ハート(後のエマ・ハミルトン)

ジョシュア・レノルズ( Sir Joshua Reynolds, 1723年7月16日-1792年2月23日)

スキップウィズ夫人の肖像( Selina, Lady Skipwith )  1787年 ジョシュア・レノルズ フリックコレクション蔵
『スキップウィズ夫人の肖像』( Selina, Lady Skipwith )  1787年 ジョシュア・レノルズ フリックコレクション蔵

引用元:スキップウィズ夫人の肖像

フリックコレクションの解説はこちらです。

こちらは英国の初代アカデミー会長ジョシュア・レノルズによるスキップウィズ夫人の肖像です。

セリーナ・シャーリー (1752年-1832年)は、1785年にトーマス・ジョージ・スキップウィズ卿と結婚しました。

大きな帽子に胸元の造花、白いドレス。自然の中で、上品な印象の夫人はくつろいだ様子で描かれています。

レノルズは1792年2月に亡くなっていますが、フリックコレクションの解説によると「(モデルの)自然なポーズと設定、新鮮で自由な絵具使いは、(レノルズのライヴァルだった画家)ゲインズバラの作品に部分的に反応した、画家の後期のスタイルの典型」とあります。

トマス・ローレンス( Sir Thomas Lawrence, 1769年4月13日-1830年1月7日)

ハリエット・マリア・デイ嬢の肖像( Portrait of Miss Harriet Maria Day ) 1789年 トマス・ローレンス モントリオール美術館蔵
『ハリエット・マリア・デイ嬢の肖像』( Portrait of Miss Harriet Maria Day ) 1789年 トマス・ローレンス モントリオール美術館蔵

引用元:ハリエット・マリア・デイ嬢の肖像 CC-BY-SA-4.0

モントリオール美術館の解説はこちらです。

独学で絵を学んだというトマス・ローレンス。

本作を制作したのはローレンスが20歳の頃です。

1787年にロンドンに出てきたローレンスはジョシュア・レノルズに迎えられてロイヤル・アカデミーの生徒となり、1820年に会長に就任しました。

ハリエット・デイはベンジャミン・デイの娘として生まれ、1794年に結婚。

ダンテを翻訳した翻訳家の母親となり、1843年に死去したそうです。

自然の中の彼女の眼差し、表情が大変魅力的ですね。

『ポリニャック夫人の肖像』( Martine-Gabrielle-Yoland de Polastron, The duchesse de Polignac (1745-1793)) 1783年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ウォデスドン・マナー蔵

『ポリニャック夫人の肖像』 1783年 ヴィジェ=ルブラン ウォデスドン・マナー
『ポリニャック公爵夫人の肖像』 1783年 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ウォデスドン・マナー蔵

引用元:『ポリニャック公爵夫人の肖像』

ウォデスドン・マナーの解説はこちらです。

マリー・アントワネットの側近、ポリニャック公爵夫人。

流行を取り入れた、ローレンスのモデルのような白いモスリンのドレスを着ています。

ピンクの帯を締め、首には真珠のネックレス。

羽根飾りとスカーフが付いた大きな帽子にも目が行きますね。

ヴィジェ=ルブランの肖像画の中のポリニャック夫人は、「流行に沿ったシルエットではあるが宮廷衣裳とは対照的な、好感の持てる白い長袖のドレス」を着ています。(『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』)

ウォデスドン・マナーの解説によると、この肖像画は、「ルーベンスからの引用と現代的な感性を組み合わせて」います。

バロックの画家ルーベンスの名が出て来ましたが、ヴィジェ=ルブランは1781年に訪れたフランドル(現在のベルギー)やオランダで、ルーベンスやアンソニー・ファン・ダイクの作品を目にしました。

ルーベンスの『シュザンヌ・フールマンの肖像』に惹かれたヴィジェ=ルブランは、巨匠へのオマージュとして『麦わら帽子の自画像』を描きました。

シュザンヌ・フールマンはフェルト帽を被っていますが、ヴィジェ=ルブランは季節の花を飾った麦わら帽子を被っています。

マリー・アントワネットのシュミーズ・ドレス姿

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン自画像 1781年-1782年頃 キンベル美術館蔵
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン自画像 1781年-1782年頃 キンベル美術館蔵

引用元:ヴィジェ=ルブラン自画像

画家ヴィジェ=ルブラン自身もシュミーズ・ドレスを纏い、羽根飾りの付いた大きな帽子を被っています。

前述のヴィジェ=ルブランの絵画『ラ・シャトル伯爵夫人』の解説に、「1783年頃にマリー=アントワネットが世に広めた繊細な小枝模様のモスリン」という記述がありましたが、下の肖像画はその1783年のサロンに展示されたもの。

シュミーズ・ドレス姿のマリー・アントワネット 1783年のサロン エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴォルフスガルテン城
『シュミーズ・ドレス姿のマリー・アントワネット』 1783年のサロン エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン ヴォルフスガルテン城

引用元:シュミーズ・ドレス姿のマリー・アントワネット

フランス宮廷のファッションリーダー、マリー・アントワネットのシュミーズ(下着)・ドレス姿です。

この「王妃らしからぬ姿」の肖像画は、激しい非難、中傷の的となりますが、まもなく「王妃風シュミーズ」の名で流行しました。

 モスリンのドレスは形だけでなく、素材によってもシンプルさが強調されていた。モスリンは西インド諸島生まれのクレオールの貴婦人たちがフランスにもちこんだものだが、そのドレスはマリー・アントワネットが憧れる簡素な生活のロマンチックな情景にぴったりだった。王妃はこれがすっかり気に入って、尊敬する友人たち、たとえばイギリスのデヴォンシャー公爵夫人などにプレゼントしたほどだった。フランスのシルク業界は王妃が国内のシルク産業を振興する義務を怠ったといって非難した。しかし、再度いうが、マリー・アントワネットは流行に乗っていただけで、とくにファッションの刷新をしたわけではなかった。ヨーロッパ全体で衣装(とヘアスタイル)の簡素化が進んでおり、それはいわば一つの時代精神ツアイトガイストとなっていた。

アントニア・フレイザー(著). 野中邦子(訳). 2007-1-20. 『マリー・アントワネット 上』. 早川書房. pp.361-362.

デヴォンシャー公爵夫人との交流が、ここにも出てきます。

ファッション関連の書籍だと、モスリンのドレスは「イングランドからフランスにもたらされ、流行」とあり、その流行の始まりが何となく気になります。デヴォンシャー公爵夫人も当時のファッションリーダーでしたから、彼女がどのようなファッションを流行らせたかなども興味があります。また書籍等見つけましたら追記します。

「クレオール」とは、「西インド諸島、中南米などで生まれ育ったヨーロッパ人。特にスペイン人、フランス人をいう。クリオール。」。( Weblio 辞書:クレオール【Creole】

ゲインズバラ・ハットと肖像画の女性たち

18世紀末、羽毛で飾り、縁取りをした広いつばの帽子が流行しました。

この頃流行していた大きく豪華な髪型の上に被ることを念頭にデザインされています。

これは18世紀英国の画家トマス・ゲインズバラが肖像画の中で描いた帽子に触発されたと言われ、「 ゲインズバラ・ハット( Gainsborough hat )」と呼ばれます。

当時は「ゲインズバラ・シャポー( Gainsborough Chapeau )」としてよく知られていたそうです。

「ゲインズバラ・ハット」は他に、「ピクチャー・ハット( Picture hat )」(顔を縁取る広いつばを額、顔を絵に見立てるから?)とも言われます。

画家トマス・ゲインズバラ ( Thomas Gainsborough, 1727年5月14日-1788年8月2日)

トマス・ゲインズバラ自画像 1758年頃 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
トマス・ゲインズバラ (1727年5月14日-1788年8月2日) 1758年頃 ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

引用元:トマス・ゲインズバラ自画像

魅力的な肖像画だけでなく風景画にも秀でていたゲインズバラは両方のジャンルで成功を収め、ジョシュア・レノルズと共に18世紀英国の絵画界を牽引しました。

ライヴァルであったレノルズがイタリアに旅行し、ミケランジェロやラファエロのようなルネサンスの古典を学んだのに対し、ゲインズバラはイタリアには行かず、古典芸術やルネサンス芸術より17世紀のアンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の技法に惹かれていました。

鮮やかな色彩、巧みな筆遣いがゲインズバラの特徴です。

私の中では重厚でクールな感じがするレノルズに比べ、優雅でロココ美術の甘さ漂うゲインズバラ。

画家の名前も知らなかった頃から後者の方により惹かれたのですが、後でナットクしました。

1740年にロンドンに出てきたゲインズバラは、フランス人彫刻家ユベール=フランソワ・グラヴロ( Hubert-François Gravelot )のもとで学びます。

グラヴロは母国で画家ジャン・レストゥー2世、フランソワ・ブーシェの弟子をしていました。

その後渡英したグラヴロは、英国絵画の父、親密な集団肖像画「カンヴァセーション・ピース」で知られるウィリアム・ホガースたちとロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの前身となったとされる美術学校を運営していました。ゲインズバラもこの学校で学んでいます。

ゲインズバラはバロックの画家アンソニー・ヴァン・ダイクを手本とし、ロココの画家ブーシェ様やホガース先生につながっているという、正に私の好きな画家の系譜、というわけでした。

フランソワ・ブーシェ(1703年9月29日-1770年5月30日)の肖像 1741年 グスタフ・ルンドベリ ルーヴル美術館蔵
ポンパドゥール夫人のお気に入りの画家フランソワ・ブーシェ(1703年9月29日-1770年5月30日) 1741年 グスタフ・ルンドベリ ルーヴル美術館蔵

引用元:フランソワ・ブーシェの肖像

画家ホガースと愛犬パグ 1745年の自画像 テート・ブリテン蔵
英国人画家ウィリアム・ホガース(1697年11月10日-1764年10月26日)と愛犬パグ 1745年の自画像 テート・ブリテン蔵

引用元:ウィリアム・ホガース

アンソニー・ヴァン・ダイク自画像 1620年頃-1627年頃 アルテ・ピナコテーク蔵
アンソニー・ヴァン・ダイク自画像(1599年3月22日-1641年12月9日) 1620年頃-1627年頃 アルテ・ピナコテーク蔵

引用元:ヴァン・ダイク自画像

チャールズ1世のイングランド宮廷で首席宮廷画家を務めた、フランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク卿。

ゲインズバラ・ハットについて『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』では、ゲインズバラの『ハレット夫妻(朝の散歩)』が参照されています。

目を見張るようなこの帽子を頭上に安定させるには、髪形を大きく堅固なものにする必要があり、自前の髪がまた見直されるようになった。フランスでは、この時期のこざっぱりとした服装と調和するように、かぶり物もより帽子らしく、実際に用をなすクラウンと広いブリムを持つものになった。

ブランシュ・ペイン(著). 古賀敬子(訳). 2006-10-30. 『ファッションの歴史 西洋中世から19世紀まで』. 八坂書房. pp.363-364.

調和、大事です。

『ハレット夫妻(朝の散歩)』( Mr and Mrs William Hallett (‘The Morning Walk’) ) 1785年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー蔵

『ハレット夫妻(朝の散歩)』( Mr and Mrs William Hallett ('The Morning Walk') ) 1785年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー蔵
『ハレット夫妻(朝の散歩)』 1785年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:『ハレット夫妻(朝の散歩)』

ハレット夫妻はポメラニアンシープドッグを伴い、散策しているようです。

英国の王侯貴族によって好まれた、「自然の中でくつろぐ姿、でも格調高く優雅」という肖像画のスタイルですね。

カップルは結婚式の服を着ている可能性があるとのことですが、夫のウィリアムと奥様のエリザベスは50年近く幸せな結婚生活を送ったようです。Wikipedia Mr and Mrs William Hallett

当時21歳ほどだったエリザベスは、リボンとダチョウの羽根で飾られた大きな帽子を被っています。

黒いシルクの帯でウエストをマーク。

『ハレット夫妻(朝の散歩)』 1785年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー蔵
『ハレット夫妻(朝の散歩)』 トマス・ゲインズバラ

胸元、袖口にあしらわれた布地の柔らかな質感に惹かれてしまいます。

『キャサリン・タットン嬢』( Miss Catherine Tatton ) 1786年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

キャサリン・タットン嬢( Miss Catherine Tatton ) 1786年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵
『キャサリン・タットン嬢』 1786年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

引用元:キャサリン・タットン嬢

ナショナル・ギャラリー・オブ・アートによる解説はこちらです。

ナショナル・ギャラリー・オブ・アートによると、本作はモデルの家族のために、1786年5月に描かれました。

タットン嬢もやはり大きなヘアスタイルをしています。

そこに載せた大きな帽子、胸元に集められた布地の柔らかさ、ウエストの青いリボンが素敵。

何よりも、ちょっと上げた眉が印象的です。

よそ行きのすました顔ではなく、鑑賞者に向けたとても親密な表情が良いですよね。

『ソフィア・ヒバート(トマス・ヒバート夫人)』( Mrs Sophia Hibbert ) 1786年 トマス・ゲインズバラ ノイエ・ピナコテーク蔵

ソフィア・ヒバート(トマス・ヒバート夫人)( Mrs Sophia Hibbert ) 1786年 トマス・ゲインズバラ ノイエピナコテーク蔵
『ソフィア・ヒバート(トマス・ヒバート夫人)』 1786年 トマス・ゲインズバラ ノイエ・ピナコテーク蔵

引用元:ソフィア・ヒバート(トマス・ヒバート夫人)

ノイエ・ピナコテークの解説はこちらです。

ノイエ・ピナコテークの解説によると、モデルのソフィア・ボルデロ嬢(1760年-1827年)は、ロンドンの銀行家ジョン・ボルデロ (1712年-1789年) の娘でした。

ソフィアは、商人のトーマス・ヒバート(1744年-1819年)と1784年に結婚しました。

ゲインズバラは、結婚後すぐ夫婦の肖像画を描きましたが、夫妻は1796年には離婚。

別居後のふたりはお互いの肖像画を残していたそうです。

『ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 – 1835)』( Sophia Charlotte Digby, Lady Sheffield (1767 – 1835) ) 1785年-1786年 トマス・ゲインズバラ ウォデスドン・マナー蔵

ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 - 1835)( Sophia Charlotte Digby, Lady Sheffield (1767 - 1835) ) 1785年-1786年 トマス・ゲインズバラ ウォデスドン・マナー蔵
『ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 – 1835)』 1785年-1786年 トマス・ゲインズバラ ウォデスドン・マナー蔵

引用元:ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 – 1835)

ウォデスドン・マナーの解説はこちらです。

ソフィア・シャーロット嬢は、初代ディグビー伯爵(ヘンリー・ディグビー)の姪で、1784年にジョン・シェフィールド卿(1743年-1815年)と結婚しました。

ソフィアの結婚指輪が目立つ場所に着けられていることから、この肖像画は結婚祝いのために制作されたのではないかということです。

本作は1786年、ロンドンのゲインズバラのスタジオで公開されました。

ウォデスドン・マナーによると、ソフィア・シャーロット(レディ・シェフィールド)は「夕陽が差す秋の風景の中、彼女の右に顔を向けて」立っています。

ソフィアは淡い黄色のシルクのドレスを着ている、とあります。見ている端末によってはわかりづらいかも。

青いアンダー・スカートが美しいですね。

左手の薬指には指輪がはめられているのがわかります。

ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 - 1835) 1785年-1786年 トマス・ゲインズバラ ウォデスドン・マナー蔵
『ソフィア・シャーロット・ディグビー、レディ・シェフィールド (1767 – 1835)』  トマス・ゲインズバラ

何といっても目を引くのは、凝ったデザインの大きなつば広の帽子です。

ゆるめの髪も大きく、髪粉がかかっているようです。

ソフィアは青いサッシュを着て後ろでリボンで結び、胸元は大き目の同色のリボンで飾られています。

袖も真珠で飾られていて、豪華ですね。

ふっくらした袖をよく見ると、切れ目(スラッシュ)が入っていて、下に着ている青い布地が覗いています。

ソフィアはボディスの下に、「薄手のヴァンダイクの襟が付いたシュミーズ」( a chemise with a gauzy Vandyke collar )を着ている、と解説にありました。

ヴァンダイク・カラー( Vandyke collar )は、画家アンソニー・ヴァン・ダイクの名に由来する「襟」(カラー、collar )です。

『リッチモンド公爵夫人メアリ(といわれる肖像画)』( Supposed portrait of Mary Bruce, Duchess of Richmond ) 1786年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ アスコットハウス蔵(ナショナル・トラスト)

リッチモンド公爵夫人メアリ(といわれる肖像画)( Supposed portrait of Mary Bruce, Duchess of Richmond ) 1786年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ アスコットハウス蔵(ナショナル・トラスト)
『リッチモンド公爵夫人メアリ(といわれる肖像画)』 1786年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ アスコットハウス蔵(ナショナル・トラスト)

引用元:リッチモンド公爵夫人メアリ(といわれる肖像画)

ナショナル・トラストの解説はこちらです。

ナショナル・トラストによるとこの肖像画は、リッチモンド公爵夫人メアリ(メアリー・ブルース、1740年-1796年)の肖像といわれていますが、そうではなくハートレー夫人(エリザベス・ホワイト、Elizabeth White, Mrs Hartley, 1751年-1824年)のものであるかもしれません。

本作品は『グレート・アーティスト別冊 ロココの魅力』に掲載されています。

本書ではゲインズバラの傑作のひとつ『グレアム夫人の肖像』を挙げ、

10年前の「グレアム夫人の肖像」(59ページ)と似た設定だが、「グレアム夫人の肖像」が劇的な印象を与えるのに対し、こちらには静かな雰囲気が漂っている。また、グレアム夫人が若さの気負いを感じさせるとすれば、公爵夫人には中年の落ちつきがある。画風自体も変化し、さらに繊細さと柔らかさを増したタッチが、人物と風景をひとつに溶け合わせている。

中山公男(総監修). 『グレート・アーティスト別冊 ロココの魅力』. 同朋舎出版. p.74.

いわれてみれば、確かに人物の落ち着いた雰囲気が感じられます。

『ハウ伯爵夫人メアリー』( Mary, Countess of Howe ) 1764年頃 トマス・ゲインズバラ ケンウッド・ハウス蔵

ハウ伯爵夫人メアリー( Mary, Countess of Howe ) 1764年頃 トマス・ゲインズバラ ケンウッド・ハウス蔵
『ハウ伯爵夫人メアリー』 1764年頃 トマス・ゲインズバラ ケンウッド・ハウス蔵

引用元:ハウ伯爵夫人メアリー

1760年代の作品です。

ピンクの華やかなドレスですが、被っている麦わら帽子のせいか、どこか可愛らしい印象です。

ハウ伯爵夫人メアリー( Mary, Countess of Howe ) 1764年頃 トマス・ゲインズバラ ケンウッド・ハウス蔵
ハウ伯爵夫人メアリー トマス・ゲインズバラ

拡大してみると、非常に手の込んだ衣装だということがわかりますね。

下の引用は『図説 ヨーロッパ服飾史』に掲載された『ハウ伯爵夫人メアリー』の解説から。

戸外を背景に、麦わら帽子を被った姿の肖像画は、イギリスの田園趣味を思わせる。

徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社. p.22.

『グレアム夫人の肖像』( The Honourable Mrs Graham (1757 – 1792) ) 1777年 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵

『グレアム夫人』 1777年 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵
『グレアム夫人の肖像』 1777年 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵

引用元:『グレアム夫人』

スコットランド国立美術館の解説はこちらです。

ゲインズバラの最高傑作のひとつ、『グレアム夫人の肖像』です。

『グレアム夫人の肖像』( The Honourable Mrs Graham (1757 - 1792) ) 1777年 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵
『グレアム夫人の肖像』 トマス・ゲインズバラ

高く結い上げた髪はロココ期のものだと想像できますが、傍らの円柱にもたれかかるようなポーズや豪華な衣装、上に立ち上がった襟が、イングランドの首席宮廷画家アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画を思わせます。

スコットランド国立美術館の解説に、「円柱にもたれかかり、きらめくヴァン・ダイク・スタイルのドレス( Van Dyck-style dress )と、見事な鳥の羽根が付いた帽子を身にまとったグレアム夫人は、想像上の風景の中で表現されている」とあります。

She is presented in an imagined landscape setting, leaning against a column and wearing a shimmering Van Dyck-style dress and a magnificent feathered hat.

The Honourable Mrs Graham (1757 – 1792)

ヴァン・ダイク様式(ヴァン・ダイク・スタイル)、先に挙げたマリー・アントワネットやモロー(子)の女性のドレスとは違っていますよね。

例えば、チャールズ1世の王女メアリー・ヘンリエッタの、ヴァン・ダイクによる肖像画はこんな感じ。

メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート( Princess Mary, Daughter of Charles I ) 1637年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ボストン美術館蔵
『メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの肖像』 1637年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ボストン美術館蔵

引用元:メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート

滑らかな布地に、襟や袖を飾る素晴らしいレース。

ジュエリーの量は抑えられています。

背景の円柱の石の冷たい質感が、王女様のドレスを引き立てているよう。

ゲインズバラは、アトリエにヴァン・ダイクの時代の衣装を用意し、モデルにそれを着せていました。

ゲインズバラの有名な『青衣の少年(ブルー・ボーイ)』の少年も「昔の衣装」を着て描かれています。

『青衣の少年』 1770年頃 トマス・ゲインズバラ ハンティントン・ライブラリー蔵
『青衣の少年』 1770年頃 トマス・ゲインズバラ ハンティントン・ライブラリー蔵

引用元:『青衣の少年』

また、17世紀はレースの時代でした。

ヴァン・ダイクのレースを描く腕前はとりわけ高く評価されており、描かれたレースは非常に緻密、精密、超細かい。

『マリー=ルイーズ・デ・タシスの肖像』 1630年 アンソニー・ヴァン・ダイク リヒテンシュタイン絵画館
『マリー=ルイーズ・デ・タシスの肖像』 1630年 アンソニー・ヴァン・ダイク リヒテンシュタイン絵画館

引用元:『マリー=ルイーズ・デ・タシスの肖像』

『グレアム夫人』モデル、メアリー・カスカート( Mary Cathcart , 1757年-1792年)は外交官でもある第9代カスカート卿の娘として生まれました。

1774年にパースシャーの地主トーマス・グラハムと結婚。

この肖像画は1777年にロイヤル・アカデミーで展示され、高い評価を得ました。

結核を患っていた彼女は南欧の温暖な気候を求めましたが、35歳という若さで亡くなります。

スコットランド国立美術館によると、美術館の建物から決して離れないという条件で、グレアム家の親戚から遺贈されたとのことです。

『グレアム夫人の肖像』( The Hon. Mrs. Thomas Graham ) 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵
『グレアム夫人』( The Hon. Mrs. Thomas Graham ) 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵

引用元:『グレアム夫人の肖像』

ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの解説はこちらです。

ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの解説によると、本作は夫トーマス・グレアムのために描かれたそうです。美しいですね。

『グレアム夫人の肖像(習作)』 トマス・ゲインズバラに帰属
『グレアム夫人の肖像(習作)』 トマス・ゲインズバラに帰属

引用元:『グレアム夫人の肖像(習作)』

『ハミルトン・ニスベット夫人』( Mrs Hamilton Nisbet (1756 – 1834)) 1777年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵

ハミルトン・ニスベット夫人( Mrs Hamilton Nisbet (1756 - 1834)) 1777年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵
『ハミルトン・ニスベット夫人』 1777年-1787年頃 トマス・ゲインズバラ スコットランド国立美術館蔵

引用元:ハミルトン・ニスベット夫人

スコットランド国立美術館の解説はこちらです。

ロバート・マナー卿の娘メアリー(1756年-1834年)は、1777年にウィリアム・ハミルトン・ニスベットと結婚しました。本作はモデルのひ孫によって寄贈されたとのこと。

スコットランド国立美術館の解説によると、この作品はゲインズバラのロンドンにおける第2期 (1774年-1788年)、画家の成熟したスタイルの典型例ということです。

気品ある表情も良いし、開いたデコルテと薔薇色のドレスがロマンティックな雰囲気です。

『グレース・ダルリンプル・エリオット夫人 (1754?–1823年)』( Mrs. Grace Dalrymple Elliott (1754?–1823) ) 1778年 トマス・ゲインズバラ メトロポリタン美術館蔵

グレース・ダルリンプル・エリオット夫人 (1754?–1823年)( Mrs. Grace Dalrymple Elliott (1754?–1823) ) 1778年 トマス・ゲインズバラ メトロポリタン美術館蔵
『グレース・ダルリンプル・エリオット夫人 (1754?–1823年)』 1778年 トマス・ゲインズバラ メトロポリタン美術館蔵

引用元:グレース・ダルリンプル・エリオット夫人 (1754?–1823年)

メトロポリタン美術館の解説(日本語版)こちらです。

この肖像画を依頼した人物は、チョムリー卿(後の第一代チョムリー侯爵)だった可能性があります。エリオット氏はスコットランド人の医師で彼の親友でしたが、その離婚した妻がこの作品のモデルです。詰め物を入れておしろいをかけ、形よく盛り上げた髪が、夫人の高い背丈を一層大きく見せています。18世紀風の黄色のドレスを着ていますが、黄色は1世紀以上前にアンソニー・ヴァン・ダイクが好んだ色でした。この作品は1778年にロイヤル・アカデミーで展示されました。

メトロポリタン美術館の解説(日本語版)

髪、確かに高く盛り上げていますね。

ヘアスタイル以外に、黄色のオーバードレスと下の白いドレスの光沢に目が行きます。

つややかな黄色はヴァン・ダイクが描いた肖像画でも印象に残るものです。

チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート 1632年 アンソニー・ヴァン・ダイク ロイヤル・コレクション蔵
チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート 1632年 アンソニー・ヴァン・ダイク ロイヤル・コレクション蔵

引用元:チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス、チャールズ2世(左)、母に抱かれたメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート

『ティンベビー卿夫人エリザベスとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー』( Lady Elizabeth Thimbelby and her Sister, Viscountess Andover ) 1635年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ナショナル・ギャラリー蔵
『ティンベビー卿夫人エリザベスとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー』( Lady Elizabeth Thimbelby and her Sister, Viscountess Andover ) 1635年頃 アンソニー・ヴァン・ダイク ナショナル・ギャラリー蔵

引用元:『ティンベビー卿夫人エリザベスとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー』

レノルズやゲインズバラが手本としたアンソニー・ヴァン・ダイク。

ヴァン・ダイクが描く肖像画のモデルはくつろいだ雰囲気でいながらも上品で優雅、格調の高さが感じられます。

 ヴァン・ダイクが得意とし、その後のイギリスの肖像画の様式を決定付けたのが、この「ティンベビー卿夫人エリザベスとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー」のように、リラックスしたポーズを取りながらも、同時に高貴で優雅な雰囲気が漂う肖像画です。それは「控えめなエレガンス」を良しとするイギリスの王侯貴族に相応しい様式でした。古代ギリシャでは花嫁の衣服だったとされるサフラン色のドレスを着た新婚のエリザベスは、欲望の神キューピッドから薔薇を受け取っています。

木村泰司(著). 2020-3-18. 『カラー版 教養としてのロンドン・ナショナル・ギャラリー』. 宝島社新書. pp. 152-154.

「控えめなエレガンス」、良いですね。黄色のドレスの輝きが眩しいです。

『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』( Portrait of Anne, Countess of Chesterfield ) 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ゲッティ・センター蔵

『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』( Portrait of Anne, Countess of Chesterfield ) 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ゲッティ・センター
『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ゲッティ・センター蔵

引用元:『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』

ゲッティ・センターの解説はこちらです。

もの思いに耽るチェスターフィールド伯爵夫人、アン・シスルウェイト( Anne Thistlewaite )の肖像です。

暗く密集した木々を背景に浮かび上がる衣装の青と白。ゆったりとはおる、黄色がかったショール。

白い肌のうなじや胸元のライン、高くセットしたヘアスタイルが印象に残ります。

絵の右半分に描かれているのは夫の領地で、夫フィリップの肖像画も同時期に完成しています。

ゲッティ・センターの解説によると、この高さ219.7 cm、幅 156.2 cmの大きな肖像画は、ゲインズバラが手掛けた多くの英国貴族の肖像画の中でも際立ってゆるく、自由に描かれたもののひとつ。

ゲインズバラは、大きなブラシ・ストロークで素材や葉、背景の空を描き、臨場感を出しています。

また、木の幹を短くカーブした筆遣いで、衣装の青と白の布の質感を長い筆遣いで表現。

ショールは白と金色の絵の具で塗られ、きらめくような効果を生んでいます。

『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ゲッティ・センター
『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』 トマス・ゲインズバラ
『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』 1777年-1778年 トマス・ゲインズバラ ゲッティ・センター
『チェスターフィールド伯爵夫人アンの肖像』 トマス・ゲインズバラ

『詩人メアリー・ロビンソン』( Mary Robinson ) 1781年 トマス・ゲインズバラ ロイヤル・コレクション蔵

メアリー・ロビンソン( Mary Robinson ) 1781年 トマス・ゲインズバラ ロイヤル・コレクション蔵
『メアリー・ロビンソン』 1781年 トマス・ゲインズバラ ロイヤル・コレクション蔵

引用元:メアリー・ロビンソン

ロイヤル・コレクションによる解説はこちらです。

英国の詩人であり小説家メアリー・ロビンソン(1757年?11月27日-1800年12月26日)、旧姓はダービーです。

シェイクスピア劇の登場人物「パーディタ」役の女優、皇太子時代の国王ジョージ4世の元愛妾で知られています。

この油彩スケッチは、1797年、ゲインズバラの甥で助手だったゲインズバラ・デュポン( Gainsborough Dupont )のスタジオ・セールで、ジョージ4世のために購入されました。

メアリーとジョージ4世との愛人関係は長く続かず(1781年?)、この絵は1818年に第2代ハートフォード侯爵が入手。一時メアリーが所有していたこともあるようです。

『冬物語』のパーディタはシチリア王の娘ですが、ボヘミアで羊飼いの娘として育ちました。

ボヘミア王子と「身分違いの恋」に落ち、最後はパーディタがシチリア王女であることが明かされ、王子と結ばれます。

ゲインズバラは、忠実な犬に支えられ、彼女の王子のミニチュア肖像画を握りしめている物言いたげな田舎娘(パーディタ)のように彼女を描いています。

『メアリー・ロビンソン』 1781年 トマス・ゲインズバラ ロイヤル・コレクション蔵
『メアリー・ロビンソン』 トマス・ゲインズバラ

メアリーは母の勧めでトマス・ロビンソンと結婚し、ふたりの間には娘が生まれました。

トマスのつくった借金のためウェールズに逃れますが、彼は債務監獄へ。

その間メアリーはデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナと知り合い、ジョージアナから後援を受けることになりました。

1800年11月、42歳で貧困のうちに死去。

「パーディタ」トマス・ロビンソン夫人メアリー・ダービー( Mary Darby, Mrs Thomas Robinson 'Perdita' ) 1782年 ジョシュア・レノルズ ウォデスドン・マナー蔵
「パーディタ」トマス・ロビンソン夫人、メアリー・ダービー( Mary Darby, Mrs Thomas Robinson ‘Perdita’ ) 1782年 ジョシュア・レノルズ ウォデスドン・マナー蔵

引用元:「パーディタ」トマス・ロビンソン夫人、メアリー・ダービー

『メアリー・ロビンソン夫人』( Mrs Mary Robinson )  1780年-1781年頃 ジョージ・ロムニー ウォレス・コレクション蔵
『メアリー・ロビンソン夫人』( Mrs Mary Robinson )  1780年-1781年頃 ジョージ・ロムニー ウォレス・コレクション蔵

引用元:『メアリー・ロビンソン夫人』

同じモデルでも画家によって違いますよね。

でもやっぱり美人は美人。

1960年代のつば広の帽子

オードリー・ヘップバーン(映画『ティファニーで朝食を』)
オードリー・ヘップバーン(映画『ティファニーで朝食を』)

引用元:オードリー・ヘップバーン(映画『ティファニーで朝食を』)

つば広の帽子は19世紀末にも流行します。やっぱり流行は繰り返すんですね。

上の画像は1961年の映画の中で被られたもの。髪形は1700年代みたいに大きくないんだな、と。

主な参考文献
  • 中野京子(著). 2018-7-13. 『美貌のひと』. PHP新書.
  • 徳井淑子(著). 2015-10-30. 『図説 ヨーロッパ服飾史』. 河出書房新社.
  • NHK『迷宮美術館』制作チーム. 2008-7-30. 『迷宮美術館 アートエンターテインメント』. 河出書房新社.
  • 中山公男(総監修). 『グレート・アーティスト別冊 ロココの魅力』. 同朋舎出版.
  • 木村泰司(著). 2015-3-25. 『名画は嘘をつく』. ビジュアルだいわ文庫. 大和書房.
  • 木村泰司(著). 2020-3-18. 『カラー版 教養としてのロンドン・ナショナル・ギャラリー』. 宝島社新書.
  • アントニア・フレイザー(著). 野中邦子(訳). 2007-1-20. 『マリー・アントワネット 上』. 早川書房.
  • アントニア・フレイザー(著). 野中邦子(訳). 2007-1-20. 『マリー・アントワネット 下』. 早川書房.
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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ハンナさん、こんにちは。
    ジョージアナって、魅力的な女性で、多くの男性にもてたのに旦那さんには愛されなかったのですね。
    性格の不一致かもしれませんが、なんという運命のいたずら?!
    ところで、私は。帽子をかぶった女性大好きです。
    どっちかと言えば、つばが大きすぎない…ルブランの自画像のような…映画でいえば、さらに現代に近づきますが、例えばカサブランカのイングリッドバーグマンみたいな帽子が。(笑)
    帽子や、日傘をしている女性は、上品だと思います。
    でも…やはりオードリーがかぶると…何をかぶっても似合いますね!!

    • ぴーちゃん様

      流行は繰り返すんだなあと改めて思い、今回は1960年代のオードリー様に出ていただきました。
      なるほど、「カサブランカ」ですかあ。バーグマン、美しかったですもんね。美人は何を身に着けても似合うの法則です。

      ジョージアナも美しく、才気あふれる女性だったと思いますが、結婚相手が別の男性、彼女の崇拝者だったら、また違った人生があったのでしょうね。
      タラレバは無いと分かってはいても、つい思ってしまいます。
      他の肖像画の貴族女性たちも、実際にはどんな思いだったのかなと。

      あ、あと日傘ですね(笑)。わかりました。本探しておきます。

      今回もお付き合いくださって本当に有難うございました。

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