ルネサンスを代表する巨匠のひとり、ラファエロの作品『一角獣と貴婦人』。このモデルではないか?とされたジュリア・ファルネーゼと彼女を描いた作品、兄である教皇パウルス3世について。
『一角獣と貴婦人』( Dama con Liocorno ) 1505年頃 ラファエロ・サンツィオ ボルケーゼ美術館蔵
この作品のモデルは「ジュリア・ファルネーゼ」ではないかと言われていますが、他にもジュリアの娘ラウラ、ドーニ夫人マッダレーナ、伯爵夫人カテリーナ・ゴンザーガ ・ディ・モンテヴェッキオの名が挙がっています。
引用元:『一角獣と貴婦人』
小さい頃に『一角獣と貴婦人』を見て、「この動物(一角獣)って何処で見られるんだろ。動物園にはいなかったな」と思いました。この絵を見るたび思い出します。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』をヒントに、ラファエロは『一角獣と貴婦人』を制作しました。
本作は聖女カタリナを描いたものとされていましたが、20世紀になって作品を修復した際、女性が一角獣を抱いていることがわかりました。
《ラ・ジョコンダ》からの着想
ラファエッロの絵画のなかでも、もっとも帰属問題について議論されてきた作品。1760年からボルケーゼ家のコレクションにあったが、その頃はアレクサンドリアの聖カタリナを主題とする、ペルジーノによる作品だとされていた。ようやく20世紀になって、ラファエッロへの帰属が提案された。1935年の修復で一角獣が姿をあらわし(処女性の象徴)、この女性が殉教聖女ではなく、結婚前の女性を描いたことが明らかになった。おそらく、見合い写真的な目的で描かれたのではなかろうか。
池上英洋(著). 2009-12-20. 『もっと知りたい ラファエッロ 生涯と作品. p.35.
「聖カタリナ」とされていた修復前の絵画では、上着や、聖カタリナを表わすアトリビュートである車輪や棕櫚が描き込まれていました。
修復によりラファエロが描いた一角獣が姿を現しましたが、その前に描き込まれていたのは「子犬」。
犬は「忠実」で繫殖力も強く「子孫繁栄」といったことから「家庭生活」を象徴しますが、処女(純潔)を好む一角獣に描き直したということは、やっぱり結婚前、お見合い肖像画のようなものなのですかね。
ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)を模写?後になって記憶で?描いています。
このポーズはその後描かれた肖像画にも使われました。
引用元:『モナ・リザ』
ルーヴル美術館:Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dit La Joconde ou Monna Lisa
引用元:『若い女性のスケッチ』
ルーヴル美術館:Femme en buste, de trois quarts vers la gauche, les bras croisés
ラファエロのスケッチの女性も魅力的ですよね。背景には『モナ・リザ』には無い柱が描かれています。
下は、お腹の大きな女性を描いた絵。モデルは不明です。
体の向き、手の位置は違いますが、『一角獣と貴婦人』のモデルが着ている衣装とよく似た装いですね。
引用元:『妊婦の肖像』
Sanzio Raffaello, Ritratto femminile Linked Open Data
引用元:『マッダレーナ・ドーニ』
Portraits of Agnolo and Maddalena Doni (front); the Flood and Deucalion and Pyrrha (back)
『一角獣と貴婦人』のモデル説がある、アーニョロ・ドーニの妻マッダレーナ。
体の向き、手の位置など、『モナ・リザ』に似ていますねえ。
つい豪華な宝石に目が行ってしまいますが(胸元の真珠がデカい!)、マッダレーナの夫アーニョロは宝石コレクターとしても有名だったそうです。
マッダレーナは、
名家ストロッツィ家の娘。1504年1月、わずか15歳の時にドーニ家に嫁いできた。ということは、ここに描かれているモデルは貫禄さえ漂わせているものの、まだ十代の女性に過ぎない。
池上英洋(著). 2009-12-20. 『もっと知りたい ラファエッロ 生涯と作品』. p.38.
あ、貫禄ありますよね。もっと年上かと思ってしまいました。
ジュリア、マッダレーナ…一角獣を抱く女性はいったい誰なのでしょう。
ここからは「おそらくジュリア・ファルネーゼ」とされている絵を見て行きます。
絵画の中のジュリア・ファルネーゼ
引用元:『一角獣と貴婦人』
伝説上の動物である一角獣(ユニコーン)は、汚れなき処女、純潔を好むと言われています。
熱い眼差しを注ぐ一角獣に対し、視線をこちらに向け、隣の一角獣を指し示しているのはジュリア・ファルネーゼ( Giulia Farnese, 1474年-1524年3月23日)ではないかとされている女性です。
【 Finestre sull’Arte THE BEST OF ITALIAN ART 】 によるとこの絵は1535年頃から1540年頃に描かれたということですが、モデルと思われるジュリア・ファルネーゼは1524年に亡くなっています。
Also preserved in the collections of Castel Sant’Angelo is a painting by Luca Longhi (Ravenna, 1507 – 1580) depicting a Young Woman with Unicorn, made between 1535 and 1540. A maiden immersed in an idyllic landscape is seated next to a unicorn: the latter looks at her intently, while the girl points at it, turning her gaze toward the viewer. It is thought that the maiden depicted is actually Giulia Farnese, sister of Pope Paul III, who is portrayed here to emphasize her belonging to the Farnese family, as the virgin with the unicorn, besides being an emblem of purity, was a symbol of the same family for two generations already. The painting is also a post mortem celebration of Giulia Farnese, desired by the family members who commissioned it from the artist; in fact, Longhi executed the work after the young woman’s death in 1524. The composition is derived from a drawing by Leonardo da Vinci (Anchiano, 1452 – Amboise, 1519) kept at theAshmolean Museum in Oxford.
The unicorn in Renaissance art, from the Este family to Raphael and beyond
https://www.finestresullarte.info/en/works-and-artists/the-unicorn-in-renaissance-art-from-the-este-family-to-raphael-and-beyond
(Google翻訳:サンタンジェロ城のコレクションには、 1535 年から 1540 年にかけて描かれた、ユニコーンを持つ若い女性を描いたルカ ロンギ(ラヴェンナ、1507 ~ 1580 年)の絵画も保存されています。牧歌的な風景に浸る乙女がユニコーンの隣に座っています。後者は彼女を熱心に見つめ、少女はそれを指差し、視線を視聴者に向けます。描かれている乙女は実際には教皇パウルス3世の妹であるジュリア・ファルネーゼであると考えられているが、ここで描かれているのは彼女がファルネーゼ家に属していることを強調するためであり、ユニコーンを持つ聖母は純潔の象徴であるだけでなく、聖母マリアの象徴でもあったからである。すでに二世代に渡って同じ家族です。この絵はジュリア・ファルネーゼの死後の祝賀でもあり、画家に依頼した遺族の希望であった。実際、ロンギは 1524 年に若い女性が亡くなった後にこの作品を制作しました。この構図は、オックスフォードのアシュモレアン美術館に保管されているレオナルド ダ ヴィンチ(アンキアーノ、1452 年 – アンボワーズ、1519 年)の素描に由来しています。)
引用文中にあるように、家族がジュリアの死後の祝福のため、画家ロンギに制作を依頼したようです。
聖母マリアにも見える清楚なイメージのジュリアと、純潔を象徴する一角獣。
オルシーニ家の男性と結婚していて、教皇という権力者の愛人もいる女性が、一角獣に愛される処女?と何かの皮肉かと思ってしまいそうですが、一角獣はファルネーゼ家のシンボルでもありました。
カラッチに師事したドメニキーノも、風景の中にいる乙女と一角獣の姿を描いています。
引用元:『一角獣と貴婦人』
ドメニキーノの一角獣も女性に懐いており、完全に飼い馴らされているようですね。
絵の乙女は金髪。
ジュリア・ファルネーゼも長い金髪だったそうです。
Also immersed in an idealized landscape is the Maiden with the Unicorn that Domenichino (Domenico Zampieri; Bologna, 1581 – Naples, 1641) frescoed between 1604 and 1605 on the entrance door of the Galleria di Palazzo Farnese in Rome, under the guidance of Annibale Carracci (Bologna, 1560 – Rome, 1609). Here the maiden is sitting under a tree and tenderly embracing a unicorn that rests its front legs on her knees and its snout on her breast. A scene of intimate taming. The maiden’s gaze is not directed at the viewer in this case; it is a gaze absorbed in emptiness, and the viewer witnesses the sweet scene.
The unicorn in Renaissance art, from the Este family to Raphael and beyond
https://www.finestresullarte.info/en/works-and-artists/the-unicorn-in-renaissance-art-from-the-este-family-to-raphael-and-beyond
(Google翻訳:また、理想的な風景の中に浸っているのは、ドメニキーノ(ドメニコ・ザンピエリ、1581 年ボローニャ – 1641 年ナポリ)が、アンニーバレ・カラッチの指導のもと、ローマのファルネーゼ宮殿ガッレリアの入り口ドアに 1604 年から 1605 年にかけてフレスコ画を描いた、一角獣を持つ乙女です。(ボローニャ、1560年 – ローマ、1609年)。ここでは乙女が木の下に座り、前足を膝の上に置き、鼻を胸に置いているユニコーンを優しく抱きしめています。親密な調教のシーン。この場合、乙女の視線は鑑賞者に向けられていません。それは虚無に浸る視線であり、見る者は甘美な情景を目撃することになる。)
制作年代は Wikipedia では1602年、【 Finestre sull’Arte THE BEST OF ITALIAN ART 】では「1604年から1605年」となっています。
ファルネーゼ家の紋章
参考にさせていただいているのは、上が第2代オッターヴィオ・ファルネーゼ時代、1547年ー1586年のものと、
引用元:ファルネーゼ家の紋章 Parair CC-BY-SA-4.0
下はオッターヴィオの息子で、第3代パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ時代、1585年-1592年のものとのことです。
引用元:ファルネーゼ家の紋章 Parair CC-BY-SA-4.0
この下は、ブルゴーニュのフィリップ善良公が、イングランドのガーター騎士団に倣って創った金羊毛騎士団の金羊毛勲章です。羊が吊るされています。
引用元:金羊毛勲章(頸飾)
その他の絵画
聖母の顔のモデルがジュリア・ファルネーゼではないかとのこと。
左はジュリアの愛人であるアレクサンデル6世。
引用元:聖母子の前のアレクサンデル6世
引用元:『キリストの変容』
ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)による注文、ラファエロの傑作『キリストの変容』。
絵の前景で跪いている女性がジュリア・ファルネーゼです。
ジュリアの愛人 教皇アレクサンデル6世
美貌で有名だったジュリアは、1475年にカニーノで生を受けました。
9歳で父を亡くし、15歳でオルシーノ・オルシーニと結婚しています。
このオルシーノの母親は教皇アレクサンデル6世(ロドリゴ・ボルジア)と関係が深く、アレクサンデル6世の娘ルクレツィアの世話などもしていたようです。
引用元:アレクサンデル6世
人からは「悪魔が教皇に化けている」とまで言われたアレクサンデル6世(ロドリゴ・ボルジア)。
スペイン出身のアレクサンデル6世は、神に仕える身でありながら複数の愛人を持ち、ヴァノッツァ・カタネイとの間にはチェーザレ、ルクレツィアなど四人の庶子がいました。
しかし精力的で魅力的な人物ではあったらしく、
同時代の描写によれば、彼は常に微笑を絶やさず、上機嫌で、陽気なところさえあり、「不愉快なことを愉快にやる」のが好きだった。読書家で、弁舌が立ち、機知に富み、「会話で光るよう骨を折り」、「さまざまな仕事の処理がすばらしく上手」で、熱意を自負心やスペイン風の誇りと結合させ、女性の愛情をかきたてる驚くべき才能を持っていた。「女たちは、鉄が磁石に引きつけられるよりずっと強く、彼に惹かれてしまう」のだった。この事実から、彼が自分の欲望を女たちに強く感じさせたことがわかる。別の観察者は蛇足ながら、彼は「金銭的な問題にかけては端から端まで知りつくしていた」と述べている。
バーバラ・W・タックマン(著). 大社淑子(訳). 1988-3-10. 『愚行の世界史 トロイアからヴェトナムまで』. 朝日新聞社. pp.83-84.
なんかすごいですね。強烈なオーラの持ち主だったことが想像できます。
ジュリアはそのアレクサンデル6世と愛人関係になりました。
世間体をごまかすためか、愛人を寝とられる快びのためかはわからないが、ボルジアは彼女たちが夫を持つのを好んでいた。ヴァノッツァが彼の愛人だった間に、二度も続けて結婚の世話をしているし、彼女の後を継いだ美しいジュリア・ファルネーゼにも、一度結婚の世話をしている。金髪を足元まで垂らしたジュリアは、十九歳でオルシーニ家の男とボルジアの宮殿で結婚し、ほとんど同時に枢機卿の愛人になった。ルネサンスも爛熟期になると、放縦な私生活を送っても全然醜聞にはならなかったが、推定年齢五十九歳の老人と四十歳若い娘との関係は、イタリア人の感情を傷つけた。おそらく、彼らはそれを非芸術的だと考えたのだろう。みだらな冗談の種にされて、この事件はボルジアの評判を汚すのに役立った。
バーバラ・W・タックマン(著). 大社淑子(訳). 1988-3-10. 『愚行の世界史 トロイアからヴェトナムまで』. 朝日新聞社. p.84.
(ジュリアが結婚式を挙げたのは15歳、1490年のようですので、引用文の「19歳」というのは「?」です)
ジュリアとアレクサンデル6世の娘ルクレツィアとは親友同士とも言える仲で、宮殿でしばらく同居していました。
ルクレツィアは父と兄チェーザレの意向で離婚、二番目の夫との死別を経て、エステ家のアルフォンソ1世との結婚でフェラーラに嫁いで行きます。
1492年11月30日、ジュリアは女児を出産。子どもはラウラと名付けられました。
ラウラの父親は誰だったのか。
ジュリアはアレクサンデル6世であると言ったとされますが、アレクサンデル6世は否定しています。
ラウラ・オルシーニは長じて二コラ・フランチョッティ・デラ・ローヴェレ( Nicola Franciotti Della Rovere )と結婚し、オルシーニ家の財産を相続しました。
ジュリアはその後再婚しますが、命が尽きる前にローマに戻ります。
そして1524年3月23日、兄アレッサンドロ・ファルネーゼ(後の教皇パウルス3世)の屋敷で息を引き取りました。
兄 アレッサンドロ・ファルネーゼ(教皇パウルス3世、1468年2月29日 – 1549年11月10日)
引用元:教皇パウルス3世
1534年9月25日、時の教皇クレメンス7世が死去します。
その後を継いで教皇となったのは、ジュリアの兄アレッサンドロ・ファルネーゼでした。
ピサ大学、ロレンツォ・ディ・メディチの宮廷で人文主義的な教育を受けたアレッサンドロは教皇庁に入り、頭角を現します。
1493年に枢機卿となりますが、この大抜擢の裏には、妹ジュリアがアレクサンデル6世の愛人になったことが大きいと言われ、陰口をたたかれました。
教皇となったパウルス3世は、ふたりの孫たちグイド・アスカニオ・スフォルツァ・ディ・サンタ・フィオーラ(当時16歳)とアレッサンドロ・ファルネーゼ(14歳)を枢機卿にするなど身内をひいきしましたが、同時に優秀な人材を枢機卿に任命しています。
パウルス3世は教科書的には、離婚問題が持ち上がっていたイングランドのヘンリー8世を破門、シュマルカルデン同盟と戦う神聖ローマ皇帝カール5世への肩入れ、トレント公会議の招集などが有名かと。
イグナチオ・デ・ロヨラ(1491年-1556年)が謁見し、修道会を認可した教皇でもあります。
あらたに教皇パウルス三世となったのは、地方貴族のアレッサンドロ・ファルネーゼである。妹のジュリアがアレクサンデル六世の愛人になったことから出世したといういわくつきだが、本人はいたって理知的な人文主義者だった。彼の一生もまた、皇帝との軋轢と宗教改革の波で大きく揺れることとなる。とりわけ、最初は新旧両派の再融合を目指し、結果的に分裂を決定的なものとしたトレント公会議を招集したことで知られる。
池上英洋(著).2013-7-30. 『神のごときミケランジェロ』. とんぼの本. 新潮社. p.94.
もうひとりの孫、枢機卿アレッサンドロの弟オッターヴィオのためには、神聖ローマ皇帝カール5世の娘マルゲリータとの縁談をまとめています。
引用元:オッターヴィオ・ファルネーゼ
しかし改革は進んだものの, 極端な身内びいきが依然としてローマ教会を支配していた。1534年, パウルス3世は14歳と16歳のふたりの孫を枢機卿に任命した。また, 自ら枢機卿会の全面改革を宣言していたにもかかわらず, 機会をとらえてはファルネーゼ家の人間を取り立てていった。そして1549年, パウルス3世は81歳でこの世を去った。
高橋正男(監修). P.G.マックスウェル・スチュアート(著).2006-1-10. 『ローマ教皇歴代誌』. 創元社. p.228.
後のレパントの海戦で名を馳せたアレッサンドロ・ファルネーゼは、このパウルス3世のひ孫にあたります。
軍事的才能に恵まれ、叔父であるスペイン王フェリペ2世の命を受けてネーデルラント総督に就任しました。
引用元:アレッサンドロ・ファルネーゼ
- 池上英洋(著). 2009-12-20. 『もっと知りたい ラファエッロ 生涯と作品』.
- バーバラ・W・タックマン(著). 大社淑子(訳). 1988-3-10. 『愚行の世界史 トロイアからヴェトナムまで』. 朝日新聞社.
- 高橋正男(監修). P.G.マックスウェル・スチュアート(著).2006-1-10. 『ローマ教皇歴代誌』. 創元社.
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